勇往邁進! 上野原の戦い②
◇◇
――景虎様!! それはなりませぬ!!
重苦しい空気を一変させるには十分な程の突きぬけた声が、部屋を震わせたその瞬間から少しだけ時を戻す。
………
……
「いやぁ、これほどに長い道を歩くと、腰にくるのう! 」
小太りの宇佐美定勝はそう漏らすと、腰を抑えながら大きく伸びをした。
すると小島弥太郎が彼の突きだされた大きな腹をポンと叩いた。
「かように腹を出しているから足腰にくるんだぞ! ちょっとは摂生したらどうだ!? 」
「あはは! お主のような若造に言われるとはのう! おっ、辰丸! 早くこっちへ来い! 」
定勝は二人の背後で立ち止まっている辰丸に対して手招きをした。
「しかし……私などがかような場所に……」
顔をうつむきながらなおも戸惑っている辰丸。
そんな彼を見ていらつきを覚えた弥太郎は、彼の腕を強引に取って歩き出した。
「今さら何言ってやがんだい! ここまで来たらもう後に引ける訳ないだろ!」
「そ、それはそうなのですが……」
すると今度は定勝が穏やかな笑顔を浮かべながら、辰丸と弥太郎の背中をぐいっと押し始めた。
「たまには弥太郎も良い事を言うのう! その通りだ! さあ、早く行くぞ!! 」
「やいっ! たまには、ってなんだよ!! 」
「あははっ! 男なら細かいことなど気にするものではない! ……あっ、そうかお主は女の格好をしておったからのう! 」
「う、うるせいやいっ! あれはおいらが望んでやったんじゃないやいっ! 辰丸に言われたからだろ! 」
「そうか? 意外とその気だったではないか? あははっ! 」
今が乱世であることを忘れさせるような定勝と弥太郎の賑やかなやり取り。
緊張に凝り固まっていた辰丸の心がほぐれると、思わず「くすりっ」と笑みがこぼれた。
そんな辰丸の横顔をちらりと見た定勝は、どこかほっとしたように肩の力を抜いた。
そして……
「よしっ! 若造ども! おっさんの俺と駆け足で勝負だ!! 目標は飯山城!! それっ!! 」
と、どこまでも高い青空に向かって号令をかけるなり、定勝は一気に駆け出していった。
「ちょっ……! 待てよ、おっさん!! 今のはずるいぞ!! 」
弥太郎は辰丸の腕から離れると、定勝の大きな背中を追って駆け出していく。
そして、二人の背中を見た辰丸もまた駆け出していた。
――後先なんて考えるな! 己の信念を貫く為に走り出せ!!
定勝の背中はそのように辰丸に語りかけていたのだ。
彼は前を向いた。
その視界には、飯山城の大きな門がすぐそこまで迫っていたのであった――
………
……
「宇佐美定勝、小島弥太郎の両名! 父上、宇佐美駿河守定満殿の命に従い、辰丸なる者を連れて参った!
早速、父上にお目通り願いたい!! 」
定勝は本丸の入り口の前までやってくると、大きな声でそこに詰める小姓へ話しかけた。
なお定勝は一介の足軽大将に過ぎず、重臣たちが詰めている本丸への自由な立ち入りは禁じられている。
よってこのように入り口で重臣である父の定満への面会を求めたのだ。
すると小姓は毅然とした態度で答えた。
「今、ご家老たちは評定の最中である。用があるならしばしここで待たれよ」
小姓の素っ気ない態度が気に食わなかったのか、弥太郎が彼にぐいっと顔を近づけて抗議した。
「やいっ! おいらたちは駿河殿に『戻り次第すぐに報告するように!』と言いつけられているんだい! こんなところであぐらをかいている暇なんてないんだいっ! 」
まるで人を殺しかねない弥太郎の気迫に、小姓は困ったように眉をしかめる。
すると……
――ゴチンッ!
と、乾いた音が辺りに響いた。
それは定勝の拳骨が弥太郎の頭に豪快に落とされた音だったのである。
「いってぇ! おいっ! おっさん! なにしやがるんだい!! 」
小姓に詰め寄っていた弥太郎が、頭を抑えながら涙目で定勝に口を尖らす。
定勝は弥太郎のことなど見向きもせず、小姓に対して優しい口調で言った。
「これはいきなりの無礼、あいすまなかった。
ただこちらも急ぎの用と命じられている以上、ここで手をこまねいている訳にはいかんのだ。
そこでどうだろう?
評定の最中ということであれば、部屋の外で待たせてはもらえないだろうか? 」
そして定勝は小姓の側までやってくると、彼の懐になにやらそっと入れた。
「……お主の上役の者にもよろしくお伝え願いたい」
小姓は黙ったまま頭を下げるとどこかへ消えていった。
その様子に弥太郎が定勝に小声で話しかけた。
「おいっ! 今のうちに入れるんじゃねえか!? 」
「よいから少し待て。かの者はすぐに戻ってくる」
「なんだよ……一体何なんだよ……」
すると本当に小姓はすぐに戻ってくると「部屋まで案内いたします」と、定勝たちに頭を下げたのだった。
「うむ、よろしく頼む」
「何がどうなってるんだよ!? 」
「お主も大人になれば分かるというものだ」
「やいっ! おいらを子供扱いするんじゃねえやい! 」
しかし定勝はそれ以上弥太郎の問いには答えることはなかった。
そして辰丸は二人の背後を静かについていったのだった。
………
……
評定の間の前までやって来た三人は、音も立てずに襖の側で座った。
辰丸はその間もずっと心臓の音が鳴りっぱなしだった。
そもそも彼は城の中に入ったこともないし、多くの武士や馬を見たこともない。
見るもの聞くものが新鮮で、まさしく別世界であった。
しかし彼の胸を高鳴らせていたのは、そういった新しい景色だけではない。
それは、これからの『未来』に想いを馳せること。
これから始まるのだ。
己の信念を貫く戦いが……
辰丸は頭が熱を帯びて、まるで空中にふわふわと浮いているような気分でいた。
ーー川中島のみんなが平穏に暮らせる世を作るんだ!
そんな若い使命感に駆られていたのだった。
しかし……
それは部屋の中から聞こえてきた冷たい一言。
その一言が辰丸の火照った体を凍えさせたのである。
ーーわが軍は春日山へ帰還することとする。
「えっ……」
思わず短く言葉が口から漏れた。
時が止まったような感覚に陥った。
頭の中が掻き回される。
ーーなぜ? なぜ? なぜ?
浮かんでくる文字は『なぜ』の二文字だけ。
しかしそんな彼の混乱など、部屋の中にいる者たちが気付くはずもない。
中からは次々と声が聞こえてきた。
そして最後に少しだけ湿り気のある一言……
ーーこの件はもう退くと決めたのだ。
辰丸はどうしていいか分からなかった。
しかしはっきりしていることがある。
それはもしここで長尾景虎が春日山へと帰っていったなら……
辰丸の信念は破れるということーー
略奪と殺戮が繰り返される未来が待っているということーー
それだけは嫌だ!!
絶対にさせない!!
もう誰も泣かせたくない!!
ーー川中島の民は絶対に守るんだ!!
辰丸はチラリと定勝を見た。
すると彼は……
ニヤリと笑ったのである。
「やっちまいな、辰丸! 」
次の瞬間だったーー
「景虎様! それはなりませぬ!! 」
と、辰丸が城中の空気を震撼させる程の大声で叫んだのはーー