坂東決戦……血洗島の戦い②
◇◇
――戦いの舞台は血洗島となりましょう。御屋形様におかれましては仙元山に布陣くだされ。
宇佐美定龍が『影縫』を松山城に寄越した際の謙信への伝言。その続きは次の通りであった。
――敵は憲政公を攻める構えを見せるでしょう。しかし、決して御屋形様自ら動いてはなりませぬ。焦った敵が仙元山に登ってきたところで、上からたたくのです。
はたして定龍の助言通りの展開となった。
敵が利根川に向けて進軍を開始した際には、柿崎景家らに「憲政公を見殺しにして、義の将と言えますか!」と何度もつめよられたが、謙信は頑として動かなかった。
今度こそ、定龍の言葉を信じる――
その一心だったのである。
そうしてついにその時はやってきた。
「申し上げます!! 北条綱成と康成の軍勢が仙元山に接近!! 間もなくふもとまでやってきます!!」
佐竹、里見の援軍が到着する前に謙信をたたきつぶす、と氏康から前もって告げられていたのだろう。
本来ならば氏康の軍勢が小山川を渡り始めた頃に謙信の軍とぶつかる手はずだったはずだ。
しかしいくら待てども上杉軍は動かない。それにしびれを切らして突撃してきたに違いない。
本陣で椅子に腰かけていた謙信は、隣に控えている千坂景親にたずねた。
「氏康がここにくるまでは……?」
「四半刻(約30分)はかかりましょう」
景親の答えに、謙信は目をつむる。
浮かんできたのは定龍の微笑と、彼の書状だった。
――氏康殿が合流する前に山を登ってきた軍勢を殲滅してくだされ。
「ずいぶんと簡単に言ってくれるではないか……。定龍よ」
謙信の口元がわずかに緩む。そして目を固く閉じたまま、右手をさっと伸ばした。
景親がその手に名刀、小豆長光を持たせる。
――ガシッ!
刀を力強く握りしめたとたんに、かっと目を見開いた。
「四半刻あればじゅうぶんよ」
本陣を出て栗毛にまたがる。
謙信の視線の先には、猛獣のごとき瞳を輝かせた越後兵たち。
みな沼田の悲涙を知り、松山城で耐え忍んだのだ。
北条の肉を食らう時を、今か今かと待ちわびていた。
謙信はそんな彼らにギロリと一瞥くれると、雷のごとき一喝をこだました。
「天に掲げよ! 懸かり乱れの龍旗を!」
「おおおおおっ!!」
――ババッ!!
山を揺らす兵たちの咆哮と共に一斉に「龍」の一字が書かれた旗が掲げられる。
謙信は馬の腹を蹴り、兵たちの中を躍動した。
「時はきた!! 北条を蹴散らせ! 義は我にあり!! 天運は上杉の味方なり!! 我に続けえええ!!」
「うおおおおおおっ!!」
――ドドドドドドッ!!
越後の猛者たちが一斉に地面を蹴り、一体の龍となって山をくだっていく。
北条綱成と康成の親子にも、その気迫がびりびりと伝わっていた。
綱成が全身に闘志をみなぎらせて叫んだ。
「勝つぞ! 勝つぞ! 勝つぞおおおお!!」
――おおおおっ!!
彼に続けと北条兵たちが槍を突き出し、山を登っていった。
だがここにきて兵たちに見られたのは『疲れ』だった……。
連日の戦続き。特に綱成と康成の軍は堅く守る松山城を息つく暇もなく攻め続けていたのだ。
もはや気を抜けばへたれ込んでしまってもおかしくないほどに、皆疲弊しており、気力だけで持たせてきた。
だがそんな彼らに山の坂道は重くのしかかった。
出足が鈍く、河越城を飛び出した時のような勢いが見られない。
それでも陣頭に立って指揮をする康成の気迫に引っ張られるようにして、山を進んでいった。
だが……。
「われこそは毘沙門天の化身!! 上杉謙信なり!! 覚悟!!」
法衣に包まれた軍神の姿を目にした瞬間に、北条兵たちの足が完全に止まった。
それを見た康成が兵たちを鼓舞しようとひらりと前に出る。
「われは『黄旗八幡』が子、北条康成なり!! わが槍のさびとなれ!! 謙信!!」
だが常人である康成が、戦神と化した謙信を止められるはずもなかった。
謙信は馬の手綱をゆるめることなく康成の脇を通り過ぎると、すれ違いざまに小豆長光を一閃に払った。
――スンッ!!
透き通った刃の弧が描かれるとともに、乾いた音が響く。
一瞬だけ時が止まったかのような静寂に包まれ、康成は大きく目を見開いたまま、虚空を見つめていた。
そして……。
――ズデンッ!!
大きな音とともに馬から落ちると、首筋から大量の血を流し始めた。
「康成様!!」
一斉に兵たちが康成のもとに集まりだす。
そこに飛び込んできたのは柿崎景家と甘粕景持の率いる軍勢だった。
「つっこめえええええ!!」
「御屋形様に遅れるなあああ!!」
「うおおおおおっ!!」
腹を空かせた虎のように北条兵たちに襲いかかると、槍と刀でめったうちにしていく。
「ぐああああ!!」
「負けるな!! ここで踏ん張るのだ!!」
どうにか態勢を立て直そうとする北条の指揮官たち。
だが北条の中でも無双と畏れられた『黄旗』も飢えた龍の飛翔を止められるすべなど持ち合わせていない。
――ズシャッ!
――ズガッ!
槍が頭蓋をかち割る鈍い音が山の中腹のあちこちで響く頃には、ずるずると北条軍が後退しはじめた。
そこに黒い馬とともに姿を現したのは『黄旗八幡』北条綱成であった。
「こおおぉぉぉぉ!! かああああっつ!!」
衝撃波のような雄叫びが木々を揺らす。
弾かれるように彼を乗せた青毛の馬は山をくだるかのように疾駆していった。
またたく間に謙信の栗毛との距離が縮まっていく。
だが謙信は表情一つ変えることなく、馬上で刀を構えた。
「きたか……。ならばこの小豆長光のさびとなれ」
綱成が手にした槍を大きく後ろへ引く。
そして……。
「うりゃあああああっ!」
――ブウウンッ!!
まるで石つぶてのように軽々と槍を投げた。
謙信はぎりっと刀を持つ手に力を込めると、横に払う。
「むううんっ!!」
――カアアアアン!!
槍の矛先と刀がぶつかり合う高い音が辺りに響く。
綱成の渾身の投てきさえも、いとも簡単に弾き飛ばした謙信は、そのまま綱成の馬に自分の馬をぶつけた。
――ドンッ!!
二頭の馬の汗がしぶきとなって飛ぶ。
「ヒィン!!」
謙信の栗毛が歯をむき出しにしていななき、綱成の青毛は目を真っ赤に充血させて鼻息を荒くする。
「せいっ!!」
両馬が互いに態勢を崩さないと分かるやいなや、綱成が抜刀とともに刃を謙信の首元に飛ばす。
「むんっ!」
――カン!
謙信は再び相手の攻めを防いだ。
その時、謙信は確かに気付いていた。
鬼神のごとき綱成が、極限の疲労に襲われていることを……。
「ならば、倒れよ!」
謙信は右の拳で綱成の胸元を突いた。
――ドゴンッ!
鈍い音がした瞬間に、綱成が馬から落ちていく。
謙信は栗毛から飛び跳ねると、綱成の青毛を踏み台として綱成の頭上へ踊り出た。
「うがあああ!!」
綱成は気力を振り絞って首をぐるんと回す。
その直後、
――ガッ!!
小豆長光が綱成の頭があった地面に突き刺さった。
刀をそのままに謙信はすぐさま足で綱成の腹を踏む。
綱成の表情がわずかに歪んだが、眉間にしわを寄せると、その足を両手でつかんだ。
「ぐおおおおお!!」
ありったけの力をこめて、謙信の足を持ち上げる。
謙信は目を丸くしたが、慌てずに彼のそばからひらりと離れた。
ようやく自由となった綱成はゆらりと立ち上がるが、ぜえぜえと肩で息をしてすぐに動けそうにない。
一方の謙信は腰に差した短刀をすらりと抜くと、相手に休ませる間も与えずに右足を踏み込んだ。
疾風の剣が綱成の足に吸い込まれていく。
首を狙ってくると考えていた綱成の反応がわずかに遅れた。
「ちっ!」
――ザンッ……!
剣先が綱成の太ももをかすめた。だが綱成の態勢は崩れない。
それどころか今度は彼の方から足を踏み込んできた。
「うがあああっ!」
――ドシャッ!
荒々しい拳が謙信のひたいをうつ。
綱成の拳がつぶれ、謙信のひたいからは二筋の真っ赤な血が流れてきた。
しかし謙信もまた怯まなかった。
――ドンッ!
そのまま体を密着させ、ひたい同士をぶつけあう。
互い荒い呼吸が顔に当たる。
「勝つ、勝つ、勝つ……!」
ぶつぶつとつぶやく綱成に対し、謙信はただ鬼のような形相で睨みつけるだけ。
がっつりと組み合う二人。
……と、その次の瞬間だった――
――ズンッ……。
不気味な音が密着した二人の体のどちらからかこだました。
二人の動きが止まる……。
周囲で様子をうかがっていた上杉、北条の両兵も、何が起きたのかと固唾を飲んで行方を見守っていた。
そして……。
「ぐふっ……」
大量の吐血とともに、崩れ落ちたのは……。
北条綱成だった――
彼の右脇には深々と謙信の短刀が突き刺さっている。
謙信は返り血で白い布を赤く染めながら、綱成が地面に伏せるのを見つめていた。
そしてうつ伏せになった綱成が動けなくなったところで、
――ガッ!
謙信は兜を蹴飛ばした。綱成の太い首筋を明らかになる。
謙信は地面に刺さっていた小豆長光を引きぬいた。
「さらばだ。好敵手よ」
綱成の首に小豆長光が突き立てられたその瞬間……。
「うわああああああっ!」
上杉勢から大喊声が巻き起こった。
二人の大将を討たれ、北条軍は大混乱に陥った。
その隙を百戦錬磨の軍団が見過ごすわけがない。
「突き進めええええ!!」
「うおおおおおお!!」
柿崎景家の銅鑼声が突撃再開の合図となって、無双の龍が北条兵たちを容赦なく飲み込んでいったのだった。
久々に小説を書きながら背筋が震えました。
遅筆の私の作品を読んでいただき、ありがとうございます。
倍返しパートはまだまだ続きます。
実乃たちの無念を存分に晴らしましょう!