坂東決戦……血洗島の戦い①
◇◇
風もなく、突き刺さる日光をさえぎる木々すらない。
早朝だというのに、立っているだけでじんわりと汗ばむ暑さの中、甲冑に身を包んだ宇佐美定龍は涼しい顔で目の前に広がる大地を見つめ続けていた。
――ドドッドドッ!
慌ただしい足音と共に土煙が舞う。
視界が再び開ける頃には、北条を示す三つ鱗の旗が大地を埋め尽くした。
しかし、定龍は眉の一つも動かさなかった。
「やはり焦っていますね」
定龍が今にも襲いかかってきそうな北条軍の兵たちに向かって不敵な笑みを浮かべていると、弥太郎が顔を真っ赤にして口を尖らせた。
「やいっ! 辰丸! もたもたしていると敵がこっちへ攻めかかってくるぞ!!」
利根川の中州に布陣した兵数は大将、上杉憲政の二千と、宇佐美定龍と小島弥太郎がそれぞれ五百ずつの合計三千だ。
血洗島と呼ばれる関東平野の北端を埋め尽くしている北条軍は、もはや無数とも言えるほどの大軍勢に膨れ上がっている。
弥太郎の語気が荒くなるも自然と言えよう。
「では弥太郎殿。川の向こう側へ進軍いただけますでしょうか?」
「はあ!? た、辰丸はおいらに『死ね』って言うのかい!? たった五百だけであの大軍のすぐそばまで行けってのは、非道すぎるってもんだ!」
「ふふ、ならば私も兵を進めましょう」
「ちょっと待てって! 策もなしにおいらと辰丸だけで敵陣に突っ込んだって無駄死にするだけだ!」
さながら大波の荒れ狂う大海に、小舟で出るようなものだと、弥太郎は考えたのだろう。
しかし定龍は小さく首を横に振ると、川が浅い部分を馬に乗って渡り始めた。
彼の兵たちもそれに続くと、弥太郎も慌ててついてくる。
「もうどうなっても知らねえからな!!」
ばしゃばしゃと大きな水しぶきをあげながら川を渡る弥太郎を背中に感じながら、定龍は小さな声でつぶやいたのだった。
「ふふ、ここからが本当の勝負です」
………
……
木瓜城を北に進んだところに身馴川(後の小山川)という名の細い川が流れている。
川は戦場の『壁』として存在感を増す。
背にすれば敵から背後をつかれる心配もなく、前にして戦えば敵が渡り切るまでに一方的に攻撃を加えられる。川ははるか古代より戦場の要の一つとして扱われてきた。
そして今回の戦。北条氏康が『要』としているのは、北に広がる雄大な利根川でも、南で暴れる荒川でもなく、この変哲もない小山川だと誰が気付こうか。
上田朝直を先頭に、松田憲秀、伊勢貞運を先鋒隊として渡らせ、自身も北条幻庵と共に渡河。
さらに後方には大道寺政繁と遠山綱景が続いている。
北条軍四万のうち、二万七千の兵が小山川を越えて血洗島へと入ったのを知れば、誰もが利根川に陣を張る上杉憲政が氏康の狙いだと思い込むだろう。
事実、東西からの上杉の援軍は血洗島を囲むように布陣していた。
すなわち『決戦は小山川の北、血洗島』ということだ。
しかし……。
「今さら憲政の首などいらぬ。欲しいのは松山城と謙信の首よ」
氏康は隣で馬を進める幻庵にそう漏らした。
幻庵は口をへの字に曲げて言った。
「つまり二万以上の大軍そのものが『囮』という訳じゃな。だが、南からは佐竹と里見も近付いてきているというではないか。危うすぎるのではないか?」
幻庵が懸念しているのは氏康の立てた作戦だ。
氏康の目標である上杉謙信は小山川の南にある仙元山という小さな山に、ようやく到着した。家臣らの兵を合わせればおよそ七千。
一方で、北条軍は仙元山と小山川の中間にある木瓜城の前に、武蔵七党である本庄親子の五千を配置した。
そして北条軍のしんがりとして北条綱成と康成の親子合わせて八千が小山川の手前を進んでいる。
つまり『小山川の南』には一万三千の兵がいるということだ。
小山川の北側で戦闘が始まったとなれば、義理がたい謙信は上杉憲政を助けんとして、山を下りて突撃してくるに違いない。
その裏をかこうと氏康は目論んでいた。
すなわち謙信が本庄親子に向かって進軍したのを見計らって、綱成と康成が反転。
川の南にいる一万三千の軍勢で謙信の七千を迎撃する。
さすがの軍神と言えども、六千の兵力差があっては身動きが取れなくなるはず。
そこを遠山、大道寺そして氏康自身が小山川を渡って謙信に襲いかかる。
まるで大雨後の濁流に飲み込まれる一葉のごとく、謙信がたちまち敗走することになるのは火を見るより明らかだ。
これが氏康が立てた作戦であった。
「佐竹、里見の援軍が到着する前に決着すれば何の問題もない」
氏康が答えると、幻庵は大きなため息をついた。
「はぁ……。援軍は午後にはきますぞ」
今は朝。援軍到着までは二刻(およそ四時間)。
顔を曇らせる幻庵に対し、氏康はあくまで余裕の表情を崩さなかった。
「じゅうぶんだ」
「……新九郎殿。焦りすぎではないか?」
幻庵の瞳はさながら鏡のようだった。そこにははっきりと氏康の焦りが映し出されている。
佐竹、里見の援軍が迫っていること。
さらに将軍、足利義輝からの和睦状が迫っていることへの焦りは否めない。
ただ、それ以上に『宇佐美定龍』というこれまで名前すら聞いたこともない若者に踊らされていることへの焦りが彼の心を覆いつつあったのだ。
だがそれを『大将』も『軍師』も認める訳にはいかない。
「焦ったら負けだ……。よく分かっているつもりだ。だからここまで謙信を引きつけたのではないか。道中、全軍で反転して謙信を襲えば、奴はあっさりと引いて松山城にこもってしまうだろうからな」
そう口にするより他なかった。
幻庵は、しばらく無言で氏康を見つめた。
言葉に出さずとも氏康には彼の言わんとしていることが痛いほど伝わってくる。
――いらぬ意地など捨てて、先を見るのじゃ。新九郎。
と。
ふと氏康の方から視線をそらした。
その後は二人とも無言になって、ゆっくりと馬を進めていく。
すると先に目的地に到着していた松田憲秀の手勢が簡易な本陣を設置して、彼らを出迎えた。
「御苦労」
氏康は馬を下りた後、短く声をかけて幕の内へと入る。
どかりと椅子に腰かけたところで、彼は諸将を集めた。
そして彼らに対して、作戦を告げたのだった。
「敵は仙元山の謙信ただ一人。政繁と綱景の二人は俺の合図と共に謙信の元へ突っ込め」
「はっ!」
「御意」
大道寺政繁と遠山綱景の二人が返事をする。
「憲秀、貞運、朝直は北方の上杉軍をけん制し、動きを封じよ。相手から仕掛けてくるまでは、絶対に手を出すな。よいな」
「はっ!」
「孫九郎(北条綱成のこと)は、謙信が山を下ってきたのを見てから、康成とともに突撃を開始せよ。決して自分から山の方へ行ってはならんぞ!」
「……はっ!」
最後に氏康は幻庵を見た。
幻庵は穏やかな顔つきで氏康と視線を合わせる。
氏康は大きく息をはくと、声を低くして彼に命じたのだった。
「西の敵……。斎藤、長野を叩いてくれ。それが戦いの合図となろう」
「御意」
氏康は視線を元に戻すと、全員を等しく見回しながら力強く締めくくったのだった。
「これが上杉との大勝負よ! 北条の強さ、存分に見せつけてやれ!!」
――おおっ!!
ぐんっと諸将の熱が上昇した。
さらに、彼らが戻った先で兵たちにその熱が伝わっていくと、四万の北条軍の士気は最高潮に達した。
そしてついにその時はきた――
――うわああああああっ!!
西の方から喊声が上がったのである。
それは幻庵の軍勢が敵に襲いかかった瞬間だった。
氏康は高鳴る動悸を抑えながら、さらに時を待った。
綱成と謙信がぶつかり合った瞬間こそ、彼が動く時だ。
あとは伝令である風魔の忍を待つばかり。
手にはじんわりと熱い汗がにじみ、唇は乾いてきた。
「この感覚……。河越夜戦以来だ」
河越夜戦とは、河越城を攻めてきた上杉憲政を相手に夜襲をかけて勝利を収めた一戦のことだ。
あの夜襲があったからこそ氏康は今の地位と領土を確固たるものにできたと言っても過言ではない。
そして今、あの時と同じ緊張が彼の全身を駆け巡っていた。
つまり勝利に向けた心地良い緊張感だったのである。
「俺は勝つ。北条を勝利に導くのは俺だ」
そうつぶやいた頃には、幻庵隊が斎藤、長野の連合軍を圧倒しているとの報せが飛び込んできた。
さらに……。
――東の成田、太田の軍勢が後退し、それを伊勢隊が追いかけております!
――北の上杉、佐野、宇都宮軍に動きなし! 松田隊と上田隊が完全に動きを封じ込めております!
威勢の良い報せが続々と届いてくる。
だが、いずれも氏康が本心から望んでいるものではない。
彼が待ち望んでいる報せはただ一つ。
いてもたってもいられなくなった謙信が山を下りること……。
「まだか……? まだなのか……!?」
ふと空に目を向ける。
日の高さからして、佐竹と里見の援軍到着まで、あと一刻ほどか。
真夏の戦場の気温は、昼が近付くにつれてぐんぐん上がっていく。
しかし氏康の体温は下がっていき、てのひらの汗は冷たくなっていた。
「おかしい……。なぜ動かぬのだ……」
……と、その時だった。
ふっと脳裏に一人の青年の顔がよぎったのである。
その美麗な顔立ちがくっきりと浮かび上がってきた瞬間に、かっと目を見開いた。
「宇佐美定龍! まさか……!」
そう大声を上げた時、風魔の伝令が音もなくやってきた。
「北条綱成様、康成様、両名が仙元山へ突撃開始」
「しまった!! これが罠だったのか!!」
氏康は転がるように幕の外に出ると、つないであった馬にまたがった。
そして風のように駆けながら、号令を出したのだった。
「進め!! 目標は仙元山!! 急ぐのだ!!」
と――