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捲土重来……悲涙と逆襲⑧

◇◇


 宇佐美定龍の策により、上杉謙信と北条氏康の激闘は、東国中を巻き込む大戦へと発展していった。

 しかし、巻き込まれたのは東国だけではない。

 

 その証が武田信玄の甲斐帰還であろう。

 そして信玄が甲斐に着くなり、姿を現したのは一人の青年であった。

 信玄は城の謁見の間に入ると、深々と頭を下げていたその青年に声をかけた。

 

 

「頭を上げなされ」



 とても穏やかな口調。

 約定を違えて戦場から撤退し、野山を超える長旅を終えてきたのだ。

 普段の彼なら不機嫌な声をあげてもおかしくない。

 それどころか約束もなく訪れた客と会うことすらしないだろう。

 

 しかし信玄が姿を現したのは、たった一度だけ顔を合わせたことのある彼に特別な何かを覚えていたからだ。

 対峙した瞬間に、疲れは飛び、心がやすまった。

 さらに言えば、ふつふつと闘志がわいてくるのだから不思議なものである。

 青年は静かに面を上げた。

 

 

「おひさしぶりでございます。信玄公」



 まるで鈴の音のような透き通った声だ。

 信玄は青年の顔を見つめた。

 

 小さく丸みを帯びた唇。

 少しだけ垂れさがった細い目に、長いまつげ。

 透き通るほどに白くてみずみずしい肌。

 

 言うなれば『天女てんにょ』と表現するに相応しい神々しさが感じられる。

 信玄は何も発さずに、しばらく彼の姿と声の余韻に浸った。

 

 静かに時が流れる……。

 

 静寂を破ったのは、信玄の方だった。

 

 

「して何用かな?」



 青年は小さな笑みを浮かべると、そっと一通の書状を差し出した。

 信玄はそれを手に取る。

 送り主は「宇佐美定龍」。

 内容は「関東管領、上杉憲政が北条討伐に立ち上がった。ついては、謙信公に味方して欲しい」というものだった。

 どくんと心臓が脈打つ。しかし平静を保って問いかけた。

 

 

「ふむ……。これがいかがした?」



 青年は小さく頭を下げた。

 

 

「では、失礼いたします」



 何も用件を言わずに立ち去ろうとする青年に対し、信玄は言葉をかけた。

 

 

「待て! お主はこれからどうするつもりなのだ?」



 部屋を出ていこうとしていた青年はぴたりと足を止める。

 そしてちらりと振り返ると、何も答えずただ小さく微笑んだ。

 彼の瞳を目にした瞬間……。



――ゾクリッ!



 信玄の背筋に悪寒が走った。

 まるでつららのように尖った冷たい視線が、信玄の顔を引きつらせたのだ。

 だが青年は彼の様子に気を払うことなく、もう一度頭を下げて、その場を後にしていった。


 一人部屋に残された信玄。

 ぼそりと青年の名を口にした。

 

 

「末恐ろしい男よ……織田信長……」



 そう……。

 先の摩訶不思議な青年こそ、英傑、織田信長。

 この時はまだ桶狭間の戦いで今川義元を討ち果たしたことで天下に名を轟かせたばかりの新星だ。

 だか信玄は既に彼の中に眠る「覇王」の息吹を確かに感じていたのだった。



「どっと疲れが出たのう」



 信玄はそうつぶやくと、億劫そうに立ち上がった。

 だが見計らったように、山本勘助と武田信繁の二人が部屋に滑り込んできた。

 信玄が露骨に嫌そうな顔を向ける。しばらくは「甲州山こうしゅうざん」と名付けたかわやに籠ろう、と考えていたのを邪魔されたからだ。

 しかし勘助は彼の顔色など素知らぬふりをして、問いかけた。

 

 

「して殿。いかがなさるおつもりで? なんなら城を出る前に仕留めますかな?」



 信玄は「ふぅ」と息をつくと、静かに首を横に振った。

 

 

「あほうめ。かようなことをしてみろ。わしの名は『天下のひきょう者』ととどろくことになるぞ」


「かかか! かの者こそ、我らが盟友の今川義元公の首を卑劣な手でかっきったではありませんか!」


「控えよ、勘助。あれは卑怯でもなんでもあるまい。正々堂々と戦場で勝ったまでのこと。それよりも、これでかの『上杉の使い』の言葉はまことであることが分かったわい」



 勘助と信繁が目を見合わせる。

 今度は信繁の方が、低い声で問いかけた。

 

 

「宇佐美定龍……ですかな?」



 信玄はゆっくりと首を縦に振った。

 すると勘助が流れるような口調で信玄の胸の内を代弁したのだった。

 

 

「謙信公と氏康公の喧嘩ならまだしも関東管領が絡んでくるとなると話は別。つまり織田は殿が謙信の横腹をつこうものなら、殿の背後をつくと、そういうことですな」


「うむ。謙信の『関東将軍』よりも、憲政の『関東管領』の方が未だに重いということだ」


「しかし、殿。織田の尾張と甲斐とでは、国境を接しておりませぬ。殿の背中をつきようがございませんぞ」


「三河……ということですか」



 勘助の言葉に反応した信繁に、信玄はぎろりと鋭い視線を向けた。

 勘助はごくりと唾を飲み込むと、こわごわと続けたのだった。

 

 

「まさか……。三河の松平が今川を離反し、織田と手を結ぶ。そしてわれらの隙をつけ狙うと……」



 三河の松平氏は、今川氏に従属している。

 だが信長は既に松平家の若き当主、松平元康をすでに調略していると、信玄は読んでいたのだ。

 

 

「わしは動かん。西に備える。勘助よ。北条殿へそう申し伝えよ」


 

 そう告げたところで、信玄は部屋を後にしたのだった。

 

◇◇


――北条孫次郎殿が討ち死! 上杉勢が再び沼田城を奪還!!



 その報せは松山城に籠る上杉勢を鼓舞し、城を攻める北条勢を消沈させた。

 そんな中、城から少し北に離れた場所に本陣を張った北条氏康は、すぐさま城攻めにあたっている北条綱成に一度引くように指示を飛ばしたのだった。

 

 

「くそっ! もう少しで門を突破できたのだ!! なぜここで引かねばならぬ!!」



 本陣に到着するなり顔を真っ赤にして吠えた綱成。彼の全身からは夏にも関わらず、湯気がたちこめている。

 先に本陣で待機していた北条幻庵らが彼を扇子で仰ぎながら、落ち着くように促した。

 だが多くの仲間を犠牲にしながらも、猛攻を加え続けてきた綱成に、今回の中断を納得せよと言う方が酷だったのかもしれない。

 彼は本陣の幕に向かってもう一度咆哮した。

 

 

「新九郎殿はどこなのだ!? かようなところで大軍を遊ばせておくなど、何の意味があろうか!? 早く城攻めの下知をもう一度!!」



 騒ぎたてる綱成の一方で、氏康は一人で幕の内側にこもっていた。

 そして『軍師』の顔で考え込んでいたのだった。

 

 

「俺よりもさらに戦場を広く使いおったか……。若造め、なかなかやりおる」



 上杉謙信を孤立させるために、結城、二本松、古河公方、そして武田までをも動かして包囲網を作った氏康。

 だが伊達、蘆名、佐竹、里見、織田と、包囲網の外側の大名たちが動いたことで、見事に破られ、形成が逆転してしまったのだ。

 まさに乾坤一擲の策。それを打った人物は、きっと『宇佐美定龍』という若者に違いない。

 氏康は言い得ぬ敗北感に、ぎりっと歯ぎしりした。

 

 

「こうなると義輝公が動く時も近いか……」



 将軍、足利義輝にも上杉からの書状が届けられているはずだ。

 経済面と軍事面の両面において強いつながりのある上杉家に対し「有利」な和睦を命じてくるに違いない。

 それを無視すれば、北条は全国の大名たちの目の敵にされかねないのだ。

 


「短期決戦か……」



 義輝からの和睦状が届く前に決着をつけるという道しか残されていない。

 しかし目の前の松山城はまるで貝のように固い。

 ならば謙信をおびき出すより他あるまい。

 

 

「南下して河越城へ撤退すると見せかけ、わざと背後襲わせたらどうか」



 『軍師』氏康がつぶやく。

 もし相手が動いてこなければ松山城以北を失ったまま戦は終結することになる。

 それでも態勢を整えてからもう一度松山城奪還に乗り出せば、次はきっと信玄も動いてくれるはずだ。

 だが『大将』の彼がそれを許さなかった。


 

「武蔵に謙信を残すなど許せるはずもなかろう」



 『大将』氏康がそう返した。

 となると北上し、沼田から進軍を開始した上杉憲政の軍勢を迎撃する道だけしか残されていない。

 上杉憲政の援軍が北条軍と対峙したとなれば、謙信は松山城を出てこざるを得ない。

 

 

「すべては若造の手の内というわけか……。面白い。あやつの策に踊らされてみようか」



 それは強がりにすぎないことは、じゅうぶんに分かっているつもりだ。

 だがこのまま小田原に引き上げては、定龍という得体の知れない若者に屈したことを意味する。

 それだけは『軍師』も『大将』もなく、『北条氏康』として許さなかった。

 もっと言えば、例え前後を挟まれようとも、兵力の上では味方の方が上だ。

 

 

「まだまだ勝負はこれからだぜ。若造よ」



 氏康は腹を決めると、ゆっくりと本陣の幕を上げた。

 開かれた視界に広がる無数の兵たち。そして目の前には綱成をはじめとした各軍の大将たちがずらりとひざまずいている。

 

 氏康は大きく息を吸い込むと、大声で命じたのだった。

 

 

「敵を坂東太郎で迎え撃つ! 皆の者!! 進めええええ!!」


――おおおおおっ!



 坂東太郎とは後世の利根川を指す。荒川を背後に陣を敷き、利根川から渡ってきた上杉憲政の軍勢を迎え撃つ。

 それが彼の取った作戦であった。



「目標は木瓜城ぼけじょう!」



 松山城からはおよそ二日間の道のりで、利根川を目の前にした深谷城……通称、木瓜城ぼけじょうに向かって北条勢は進軍を開始した。

 

 

 永禄四年(一五六一年)七月一日――

 

 北条軍、四万が関東平原の最北端に着陣した。

 

 

「おおかたの予想通りだな」



 氏康がそうつぶやいたのは、上杉憲政の軍勢が利根川の中州に陣を敷いていたからだ。

 大軍で無理に攻めようものなら、川の向こう側に退散し、動きの鈍ったところを鉄砲玉、弓矢、石を容赦なく浴びせてくるだろう。

 もたもたしているうちに謙信の本軍に背後をつかれようものなら、目も当てられない惨状となるのは目に見えている。

 

 

雁行がんこうを敷け」



 氏康は大将たちにそう命じた。

 雁行がんこうとは陣形のうちの一つで、軍勢を縦に何層にも分けた陣のことを指す。

 総大将は中ほどに位置するため、前後からの挟撃に強みを発する。

 横からの攻撃にも、前後に展開した軍団が回り込めば挟撃できるのが特徴だ。

 広い戦場かつ大軍に向いた陣形と言えよう。

 

 陣形を組んでいるうちに、背後の荒川の向こう側には上杉謙信の本隊が姿を現した。

 さらに北から佐野、宇都宮、南からは佐竹と里見、西からは城を武田信玄に奪われた斎藤勢と長野勢の残党による連合軍、そして東からは太田と成田の軍勢も集結し始めている。

 

 

「決戦……か。俺らしくもねえが、仕方ない」



 氏康はぺろりと舌なめずりをすると、ひらりと馬にまたがった。


 こうして北条氏康と上杉謙信による一大決戦の舞台は整ったのだった――

 



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