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捲土重来……悲涙と逆襲⑦

◇◇


 永禄四年(一五六一年)六月二〇日――

 

 ついに御館を出立した上杉憲政。そのすぐ隣には、宇佐美定龍の姿があった。

 一行はゆったりとした速さで謙信尾根(清水峠)を通過していく。

 その様子は、ようやく沼田城を攻略し終えたばかりの北条氏康の耳にも入ってきた。

 彼は城主の間に入ると、伝令からの報せに耳を傾けていた。

 

 

「憲政か……。終わった男が今更出てきたところで、何も変わるまい」



 軍師の顔をした氏康が、冷たく独り言を漏らす。

 だが、次の報せにはさすがの彼も頬を引きつらせた。

 

 

「申し上げます!! 武田信玄殿が岩櫃に少数の兵を残し、全軍を率いて甲斐にお戻りになられたとのことです!!」


「なんだと!?」



 信玄は松山城の猛攻に耐えきれなくなって出てきた上杉軍を横から叩く役割を担っていたはずだ。

 それを放棄してまで甲斐に戻らねばならぬ理由はどこにあろうか。

 

 氏康は頭をひねらせた。

 上杉憲政の出陣と、武田信玄の撤退。

 この二つの間に何らかの関係があるのではないか、と。

 

 

「思いつかぬ……。単なる偶然か……」



 そこで頭を切り替えた。

 次に自分が何をすべきか、ということだ。

 

 南下してくる上杉憲政の軍勢がいかほどかは分からない。

 一方で、たった今攻略したばかりの沼田城の損傷は激しく、とてもじゃないが城に籠もって守るわけにはいかない。

 

 

「迎撃か……」



 しかしそこで懸念されるのが、相手が清水峠という天然の要害に立てこもって動いてこなかった時のことだ。

 氏康が率いる三万の軍勢を保つための兵糧は莫大なものとなる。

 兵の腰兵糧だけでは三日が限度。

 

 

「敵をおびき出すより他あるまい」



 となれば向かう先はただ一つ。

 すなわち松山城である。

 

 

「孫次郎をここへ!!」


「はっ!」



 部屋の外で待機していた小姓へ声をかけると、すぐに一人の青年が姿を現した。

 彼の名は北条孫次郎。かの『地黄八幡』北条綱成の息子である。

 氏康は彼を近くに寄らせると、小さな声で命じた。

 

 

「お主に沼田の守備は任せる。三千の兵も置いていこう。南下してくる上杉憲政が攻めかかってきたら、迎撃せよ」


「かしこまりました!」



 実直な孫次郎から、気持ちの良い返事がかえってくる。

 だが彼は父綱成と同じく『剛』の者だ。

 氏康はもう一つだけ言いつけた。

 

 

「くれぐれも沼田を攻めかかってこない限りは動くな。よいな」


「はっ!」



 氏康は孫次郎の瞳をじっと見つめた。

 透き通ったけがれのない瞳だ。

 氏康はぽんと彼の肩を叩いた後、立ち上がった。

 そして外にいる小姓へ声をかけたのだった。

 

 

「これより俺は松山城へ向かう!! みなに出立の支度をしろと伝えよ!!」


「はっ!」



 こうして北条氏康は松山城へ向かって進軍を開始した。

 つまり上杉謙信を城ごと屠ってしまおうという魂胆だったのだ。

 

 しかし、ここが彼にとっての岐路になろうとは、誰が想像できようか。

 すなわち彼は自らの決断で足を踏み入れてしまったのだ。

 

 天才軍師の作った罠に――

 

 

………

……


 北条氏康が去り、沼田城に残ったのは三千の兵と北条孫次郎である、という報せは清水峠に待機していた宇佐美定龍の耳にも入ってきた。

 

 

「これでお膳立てはできました」


「なら、いつ攻めかかるんだよ!? ここらは藪蚊やぶかが多くてかなわねえ!」



 パチンと腕を叩きながら口を尖らせたのは小島弥太郎だった。

 定龍はニコリと微笑むと、柔らかな口調で答えた。

 

 

「もうすぐですよ」


「もうすぐだぁ!? こうしている間にも松山城で御屋形様は苦戦しているのに! それに実乃のおっさんの仇をここで晴らすんだろ!?」



 それまで仏のような定龍の顔が、みるみるうちにこわばっていく。

 その様子に弥太郎は肝を冷やした。

 そして定龍は低い声で告げたのだった。

 

 

「焦りは禁物。獲物が目の前にいるからこそ、『時』を待ち、確実に仕留めるのです」



 そうして三日が経過した。

 定龍の待っていた『時』がついにやってきたのだった――

 

 

 奥州の雄、伊達晴宗が動いたのだ。

 上杉家と伊達家には、経済面で強い協力関係にある。それは越後布の取引きを通じて宇佐美定龍が築いたものだ。


――謙信公の危機でございます。晴宗公にお助け願いたい。


 上杉に倒れられると、共倒れになりかねない。そんな懸念から、伊達は動かざるを得なかったのである。

 伊達に呼応するように蘆名、相馬の軍勢が進軍を開始。

 北条に加担している下総の結城と陸奥の二本松への攻撃が始まった。

 言うまでもなく、上野の宇都宮を攻めていた結城、そして佐野を攻めていた二本松はそれぞれ国元へ帰っていった。

 

 それだけではない。

 佐竹、里見といった関東の大名たちもまた動き出した。

 彼らは『関東管領』である上杉憲政の出陣によって奮起したのだ。

 下総の千葉、古河公方に兵を向けた。

 当然、彼らも撤退を余儀なくされる。

 

 こうして北条氏康が敷いた『上杉包囲網』は完全に消失し、逆に『北条包囲網』へと姿を変えたのだった。

 

 

「氏康殿が戦場を広く使ったなら、私はさらに広く使ったまでのことです」



 定龍は報告にきた中西弥蔵にそう漏らすと、静かに立ち上がった。

 そして一通の書状を彼に持たせたのである。

 

 

「沼田への降伏勧告です。北条孫次郎。彼の首を差し出せば、余計な戦いをせずして決着となりましょう」


「……のみますでしょうか?」



 弥蔵が無表情のまま問いかける。

 定龍は目を細めて答えた。

 

 

「のまねば戦になる。それだけです」


「御意……」


 

 弥蔵が煙のように消える。

 定龍はゆっくりと前に進むと、木陰の間から沼田城を臨んだ。

 

 

「おまたせいたしました。本庄殿。ついに貴殿の無念を晴らす時がきたのです」



 翌日のことだった。

 北条孫次郎率いる三千の兵が清水峠に向けて進軍を開始したのは……。

 

 

「攻めよ! 攻めよ! 攻めよ!!」


――おおっ!!


 遮二無二に突っ込んでくる北条軍。

 しかし清水峠をいくら進もうとも上杉軍の姿は見えなかった。

 

 進むにつれて森は深さを増し、尾根は狭くなっていく。

 さらに兵の足は疲れで鈍っていった。

 

 ……と、その時だった。

 

――ゴゴゴゴ!


 という大きな地響きのような音がこだましてきたのだ。

 きょろきょろと周囲を見回す孫次郎。

 しかし次の瞬間に、彼の顔は青くなった。

 

 

「石だ!! 上から石が落ちてくるぞ!!」



 なんと右手にある崖の上から大量の石が転がり落ちてきたのだ。

 もし落石に耐えられなければ、多くの兵が左の崖下へと落ちていってしまう。

 

 

「耐えろぉぉぉぉ!!」



 彼はそう叫ぶと自らも腰を低くして、衝撃に備えた。

 しかし……。

 

――ズガアアアアン!!


 すさまじい衝撃音とともに、孫次郎は崖下へと吹き飛ばされていってしまった。

 

 

「ぐあああああ!!」



 総大将の叫び声が峠に響き渡ったことで、北条軍は大混乱に陥った。

 そこに容赦なく浴びせられたのは、雨のような鉄砲であった。

 

 

「うてえええい!!」


――ドドドドドッ!!



 宇佐美定龍の号令とともに百の鉄砲が火を吹く。

 狭い尾根で起こった大混乱は、もはや止めようがなくなっていった。

 そこを切り裂いていったのは、一陣の無双であった――

 

 

「うらああああ!! おいらの名は鬼小島弥太郎!! 命が惜しくねえ奴からかかってきやがれ!!」



 ただでさえ人が一人通れるかどうかの狭い道なのだ。

 そこに大きな槍を振り回した無双の士が現れればたまったものではない。

 

 

「ひいいい!」

「逃げろぉぉ!」

「早く後ろに下がれ!! 鬼が来る!!」



 北条軍はたちまち散開し、ほうぼうの体で逃げていった。

 容赦なく追い立てる上杉軍。

 そうしてあっという間に沼田城まで追い詰めると、そのまま神速のごとく城を奪い返したのだった。

 

 

「勝どきはまだだ!! 一休みしたら、すぐにここを発つ!!」



 定龍は兵たちの気が緩まぬようにそう声を張り上げると、次の目標を口にしたのだった。

 

 

「向かうは松山城!! 御屋形様を助けるのだ!!」


――おおおっ!!



 宇佐美定龍による逆襲はまだ始まったばかりであった――

 

 


 


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