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捲土重来……悲涙と逆襲⑥

◇◇



 この日も越後の空は分厚い雲に覆われていた。

 上杉光徹うえすぎこうてつは久方ぶりに外へ出たというのに気分は全くさえなかった。

 なぜなら彼の目の前で一人の青年がひざまずいていたからだ。

 

 

「今日は家中の奥方たちとの茶会と聞いておる。なぜ血なまぐさい男がおるのじゃ?」



 青年が顔を上げる。

 そして泥に汚れたままの顔を光徹に向けたのだった。

 

 

「火急の件ゆえ、無礼を承知でまいりました。光徹様。どうかこの宇佐美定龍の願いを聞いてくだされ」



………

……


 光徹はこの宇佐美定龍という男が苦手だ。

 真っ直ぐな性格ばかりが揃う上杉家中において、彼だけは異質の光を放っている。

 その光は、光徹の全てを奪い尽くした怪物、北条氏康の持っている一面に良く似ていた。

 

 初めて顔を合わせた時こそ、幼くして死んだ自分の息子にその姿を重ねたが、今では天敵と重ねてしまうのだから、自分でも不思議に思う。

 

 否、不思議なのは宇佐美定龍という男の方なのだ。

 だから定龍のことを避けてきた。

 無数の書状も全て突き返したし、謙信の頼みであっても、定龍からの進言と分かれば、聞く耳を持たなかったのだ。

 

 場所を変え、御館の謁見の間で二人きりとなった光徹と定龍。

 それまでの血なまぐささは露と消え、綺麗に拭われた顔は澄み切った清流を思わせるものだ。

 たかだか泥を落としただけで、ここまで人の印象は変わってしまうものなのだろうか。

 

 

「光徹様。どうか御身を今一度、正義の甲冑に包み、当家の窮地をお救いいただきますよう、お願い申し上げまする」



 凛とした声が部屋に響く。

 なんと率直な物言いだろうかと、ここでも光徹は驚かされる。

 

 越後に入り、謙信の庇護を受けるようになった光徹は、まるで腫れ物のように周囲に扱われてきた。

 誰も本音など話そうとしないし、ましてや何か要求をつきつけてこられたことなど一度もない。

 風の噂で耳に入るのは「哀れな御方」と同情する声ばかり。

 それでも光徹は全く気にしなかった。

 むしろ「それがよい」とまで思っていたのだ。

 

 そんな彼の小さな願望すらも、あっさりと目の前の青年は土足で踏みにじっていった。

 だが、それが決して冗談でないのは、青年のぎらぎらと光る瞳と、仄かに桜色に染まった頬を見れば一目瞭然である。

 

 光徹は答えた。

 


「その件はもう謙信殿に伝えてある。われはもう世に出るつもりはない」


「さようでございますか……」



 食い下がってくるとばかり思っていたが、あっさりと引いてきた。

 それでも向けてくる眼光は「逃がさぬ」と言わんばかりに、光徹にからみついてくる。

 

 果たして本心はどちらなのか。

 

 しかし、いずれにしても御館を一歩たりとも出るつもりはない。

 

 

「われは城も家族も、すべてを戦で失ってしまったのじゃ。もうこれ以上、われが世に出る意味などなかろう」


「世に出られる意味、でございますか……」


「話はそれだけ、というのであれば、これにて失礼いたす。お主の奥方らから、今日は美味しい茶を頂けることになっているというのでな」



 光徹は一方的に話を終わらせると、大股で部屋を立ち去ろうとした。

 それでも頭を下げたまま、ぴくりとも動かぬ定龍。

 

 不思議を通り越し、不気味さすら漂わせる彼の様子に、光徹の顔はますます歪んだ。

 

 乱世は地獄。

 宇佐美定龍という男は地獄の門番。

 ならば早くこの鬼から離れねばならぬ。

 

 その一心だけが光徹の脳裏を支配し、足を前へと運ばせる。

 だが、襖に手がかかるその時……。

 

――スッ……。


 なんと声をかけていないにも関わらず、襖が勝手に開けられたのである。

 

 

「なんじゃ!? 突然」



 目を丸くする光徹。

 足元には宇佐美定龍の手の者たちと思われる甲冑姿の男がひざまずいている。

 だが端に控えていることからも、光徹の行方を阻もうとする気はないようだ。

 

 

「驚かすでない。無礼者め」



 ようやく地獄の入口から離れられる安堵感からか、普段は感じない忌々しさが口をついて出てきた。

 そんな当たり前の苛立ちすらも、彼にとっては数年ぶりのこと。

 まだ幼かった我が子、龍若丸を失ったあの日以来のことだ……。

 

 ふと我が子の屈託のない笑顔が脳裏をよぎる。

 

 愛する者が先立つ苦しみは、一生ぬぐえぬものと覚悟している。

 だからこそ、彼は現実から逃げ、浮世に生きているのだ。

 

 こんな父を情けないと笑ってくれるか、我が息子よ。

 

 鴨居をくぐれば、茶と菓子が待っている。

 威厳や誇りなど、もはや我が子とともに亡くしたのだ。

 だからこれで万事よしとするのだ……。

 

 そうあらためて思い、一歩足を踏み出そうとした。

 

 その瞬間であった――

 

 

「お久しぶりでございます。光徹様」



 涼やかな声と共に姿を見せたのは、死んだと聞かされていた光徹の妻だったのだ。

 

 

「お、お主……。なぜ……」


「謙信公の御命令に従って、林泉寺にて身を潜めておりました」


「謙信殿の命令だと……?」



 驚きを隠せぬ光徹に、今度は背後から透き通った声がこだます。

 

 

「身の危険がおよばぬように、光徹様には奥方様の所在を明らかにしなかったのです」


「なぜだ!? 家督を謙信殿に譲った以上、もはや隠す必要などなかろう! なぜわれに黙っておったのじゃ!」



 部屋の中に戻り、定龍に詰め寄る光徹。

 だが定龍は表情一つ変えず、それ以上何も言葉を発さない。

 

 ……と、その時だった。

 

 

――おぎゃああっ!



 赤子の泣く声が廊下から響いてきたのだ。

 光徹は視線を背後に戻す。

 

 すると目に飛び込んできたのは……。

 

 

 妻が愛おしそうに赤子を抱く姿だった……。

 

 

「その子はいったい……」


「光徹様のお子でございます」



 妻の一言が光徹の心臓を貫いていく。

 

 

「まさか……。そんなこと……。あり得ぬ!」



 光徹は一歩、二歩と後ずさった。

 素早く彼の背後に回った定龍が彼の背中を支えたところで、赤子を抱えた彼の妻が部屋の中へと入ってきたのだった。

 

 

「奥方様は身重でございました。ここで光徹様にお子ができると知れれば、再び北条の牙が光徹様とご家族におよぶとも限りません。そこで御屋形様は北条との争いに決着がつくまでは、奥方様とお子の存在を隠すよう命じたのでございます」



 定龍の流れるような説明も、近付いてくる母子のことで全く頭に入ってこない。

 そうしてついに光徹の手が届くところまで彼女らがやってきた。

 

 

「さあ、抱いてくださいませ。光徹様」


「抱く……。われがか?」


「はい。この子も御父上の腕に抱かれたいと願っておりますゆえ」



 半ば押し込まれるように、光徹の腕の中に小さな命が収まる。

 その無垢な鼓動が、光徹の心に小さな小さな光を灯していく。

 

 冷え切ったはずの血に、仄かな温もりが伝わる。

 

 生きているんだ、という当たり前の実感が、自然と涙腺を刺激していった。

 一筋の涙が伝う。

 苦労の溝が幾重にもついた頬が濡れた時、定龍が再び口を開いた。

 

 

「荒土より生まれし小さな芽を守るのは、光徹様。父としての務めでございましょう」


「父の務め……」


「当家はかつてなき暴風雨にさらされております。うつつのことは我関せずを貫けば、小さな芽は再び流れ、越後は血の涙に濡れることでしょう」



 光徹の唇が震える。血がたぎり、封じられた使命感が固く閉ざした門を激しく叩いていた。

 それを外からこじ開けんと、若き龍は容赦なく光徹の心に襲いかかったのだった。

 

 

「一時の苦行を越え、無限の喜びを勝ち得るか。まやかしの快楽におぼれ、屈辱の泥にまみれた名を残すか。もはや二つに一つしかございませぬ!! 光徹様! 立つは必定! 戦うは使命でございましょう!!」



 なんと無礼な物言いであろうか。

 だが死人しびとの心臓を再び動かさんとする魂の言葉は、確かに光徹の瞳に光をともしていったのだ。

 

 光徹はもう一度、我が子の顔をじっくりと見つめる。

 

 小さな目は確かに父をとらえ、薄い唇は声なき声を発しているように光徹には思えてならなかった。

 

――父上の御心のままに。


 心のまま……。

 

 光徹の心とは何か。

 

 ゆっくりと我が子を妻のもとへと戻す。

 

 考えるまでもない。

 

 

「子を守るは父の務めなり」



 そうつぶやいた瞬間だった。

 

――バッ!!


 と、激流のような勢いで立ちあがった定龍が外に控えている小姓たちに向けて叫んだのだった。

 

 

「早馬を飛ばせ!!」


「はっ!!」


「関東管領、上杉憲政様の御出馬である!! 周辺の大名全てに報せよ!! 正義は我にあり、と!!」




 光徹……いや、上杉憲政は宇佐美定龍に向き合った。

 そして低い声でこう命じたのだった。

 

 

「謙信殿を救いに行くぞ。ついてまいれ」



 関東管領、上杉憲政。

 いざ、出馬。

 

 これにて上杉軍の大逆襲が始まる――

 




なお史実において、上杉憲政公の三男が、この年に誕生しております。

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