捲土重来……悲涙と逆襲⑤
◇◇
ちょうど宇佐美定龍が沼田を発った頃。
一人の忍びが、誰にも知られずに春日山の宇佐美屋敷へと入った。
台所から聞こえてくる、とんとんと包丁がまな板を叩く音。
鍋から上がるのどかな白い煙が、窓から外へと消えていく。
腹の虫を刺激する味噌の匂いが、屋敷全体を穏やかに包んでいた。
誰もが幸福を感じる風景。
しかしその忍びにとっては、憤り以外を感じることができなかった。
――定龍様は命を賭して戦っておられるのに……。
昼夜を問わず野山を駆け抜けたため、服も履物もぼろぼろだ。
とてもじゃないが、うら若き美少女とは思えない。
彼女は『影縫』の一人、雪音。
主である宇佐美定龍の密命をおびて、一人で屋敷まで戻ってきた。
しかし血で血を洗う関東平野が『うつつ』とするならば、ここは『夢』としか思えない。
仲間だけでなく主の定龍の安否ですら不明の現状において、この温もりと笑顔に溢れた『夢』は、彼女にとって忌むべき対象であるのは、彼女自身でもいかんともしがたいものがあったのだった。
「あら? そこに立っているのは……」
ふと背後から柔らかな女性の声が耳をついた。
しまった、と油断しきっていた自分を責めつつ、雪音は身構えながら背後を振りかえった。
目に飛び込んできたのは、春のような優しい笑顔だった。
「ふふ、やはり雪音さんではありませんか。まあ! またずいぶんと汚れてしまって。着替えを準備しますから、ついてらっしゃい」
それは定龍の妻、勝姫であった。
警戒を崩さない雪音に対して、勝姫は無防備に背をむける。
――今なら……。
無意識のうちに腰の帯に仕込ませてある得物に手が伸びる。
しかし……。
「そうだ! もうすぐ夕げの支度ができるの! 雪音さんも食べていきなさい」
と、振り返った勝姫の無邪気な笑顔を見た途端に手の動きはぴたりと止まり、すとんと肩の力が抜けていった。
――なぜなの……? 私はこの人が憎いのに……。
父、加藤 段三の仇は、上杉家当主である謙信公であることは周知の事実だ。しかし、その謙信の前に父を引きあわせたのは、彼の家臣のうちのいずれかであることは伏せられている。
雪音は父を亡くした時より、その『誰か』を追い続けてきた。
未だに『誰か』は分からない。だが、常に謙信公の脇に座り、公私に渡って支え続けていた宇佐美定満は、最も有力な候補の一人であることは間違いないのだ。
父殺害の首謀者かもしれない男の孫である勝姫。
しかし雪音が彼女を憎む理由はそれだけではない。
いや、むしろもう一つの理由の方が、今は大きな幅をきかせていると言っても過言ではない。
それは……。
雪音は決して許されぬ恋心を、小さな胸の中で抱いていたからだ。
あの人が勝姫に見せる顔は、決して自分には向けられないもの。
それが悔しい。それが悲しい。だから憎い。
――己を殺せ。忍びとして生きると決めたからには、あらゆる煩悩を滅せよ。
いまや彼女の師である中西弥蔵から、何度も言われてきたことだ。
「……なんて情けないの。私は……」
捨てねばならぬ煩悩を捨てきれず、憎むべき相手に心を許してしまう。
雪音はそんな自分が情けなくて仕方なかった。
だがそんな彼女でも、自分に課せられた任務だけは忘れなかった。
彼女は素早く勝姫の前に出てくると、一通の書状を差し出した。
「これは……。定龍様からですね」
無言でうなずく雪音。しかし直後、勝姫の行動に彼女は目を丸くした。
なんと夫からの書状を懐にしまうと、とっとと前を行き始めたではないか。
「あの……」
「ん? いかがした?」
雪音が思わず呼び止めると、勝姫はきょとんとした顔で彼女を見つめる。
「いや……。定龍様からの書状……」
「ふふ。どうして今すぐに開かないのか、って聞きたいのかしら?」
再びコクリとうなずく雪音。
そんな彼女に対して、勝姫は驚くほど穏やかな口調で告げたのだった。
「あの御方が戦場から宛てた書状となれば、きっと私に『仕事』があってのことでしょう。でも今の私が優先すべき『仕事』はこの屋敷を守ること。すなわち、この屋敷で暮らす人々が、みな笑顔で過ごせるようにすることです」
「笑顔……」
「ええ、その通りですよ、雪音さん。だから今はあなたの体を綺麗にし、新しい着物を着せる。そして、美味しいものをたらふく食べてもらい、ゆっくりと休んでいただく。それが私がすべき『仕事』なのです。そうすればあなたも笑顔になるでしょう?」
そう告げると、勝姫は廊下を歩きはじめた。
有無を言わせぬその態度に、雪音は黙ってついていくより他ない。
しかし彼女の胸の内は、言い得ぬ敗北感ではちきれそうであった。
勝姫は定龍のことを信じきっているのだ。
だから心穏やかに帰りを待つことができるし、他人に優しくなれるに違いない。
鼻の奥がつんと痛み、油断をすれば涙が瞳から溢れそうになる。
だから気付いた時には、彼女は屋敷の外に出ていた。
越後の空は雨雲一つない。
落ちかけた夕陽に照らされ、橙色に染まっていた。
彼女がその空を見上げたところで、くぅと小さく腹が鳴る。
「お腹空いたな……」
屋敷の窓から出てくる白い湯気に目をやる。
その瞳の奥では、何を欲しているのか。
彼女自身も答えを知らないまま、静かにその場を去っていったのだった――




