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捲土重来……悲涙と逆襲③

◇◇


 さて、再び話を萬松寺に戻す。

 宇佐美定龍と武田信玄、そして部屋の片隅には山本勘助。

 三人は形式的な挨拶を交わしたものの、その後は誰も何も口に出そうとはしなかった。

 

 特に定龍は、「先に口を開けば、焦りをさとられる」と踏んでいたのだ。

 極限の緊張の中、張り詰めた静寂は続いていった。

 

 ふと、外から水が地面を叩く音が聞こえてくる。

 すると。

 

 

「雨……か」



 長い沈黙を破ったのは武田信玄であった。

 宇佐美定龍は、少しだけ大きく鼻から息を入れると、腹に力を込める。

 だが、彼がなにか言い出す前に、再び先手を取ったのは信玄の方だったのである。

 

「謙信らしくないのう。命乞いに人を寄越すとは」


 もし上杉家生粋の者が聞いたなら、この一言で逆上し、席を立つであろう。

 だが、定龍は口元を緩めて軽く受け流した。

 

「命を惜しまぬ者など、この世に誰一人としておりますまい」


「ほう。謙信は毘沙門天の化身と聞いておったが、所詮は人の子であったか」


「ふふ、信玄公はお戯れがお好きなようでございます。我が主は、どこにでもいる『人』でございます」


 信玄の細くした目が、かすかに見開かれる。

 謙信の手のものと聞けば、熱狂的な信者か、いつでも裏切りを考える薄情者か、その両者のいずれかだと信玄は確信している。

 そのため、彼は幾度となく薄情者をたぶらかし、上杉家を内から切り崩してきた。

 

 そして今日、ここにきた上杉家の重臣なる男も、彼は『薄情者』だと察して相対していた。

 すなわち主君の命乞いをする名目で、武田家に媚を売りに来たと考えていたのだ。

 

――宇佐美定龍……。お気をつけなされ。尋常の者ではございますまい。


 事前に山本勘助からはそう聞かされていたが、その言葉よりも、自分の直感を信じてやまなかったのである。

 

 だが、いざ言葉を交わしてみるとどうであろう。

 少なくとも『薄情者』とは思えぬ、芯の通った鋭い声だ。

 その一方で『信者』とも似つかぬのは、先の挑発的な発言にも、まったく乗ってこなかったことからも明らかというもの。

 

――はて……? この男、いったい何を考えているのやら。


 そこで信玄は、定龍にしゃべらせてみることにした。

 つまり会話の主導権を引き渡して様子を見ようと考えたのである。

 

「では、用向きをうかがうとするかね」


 しかし……。

 

 その一言こそが、宇佐美定龍が心待ちにしていたものであろうとは――

 

 信玄の舌の根が乾かぬうちに、定龍の顔つきがぐっと引き締まった

 

――目つきが変わったかね?


 信玄は思わずちらりと勘助の方を見やる。

 その視線を受けた勘助は、首を横に振った。

 

――だから言わんこっちゃない……。


 そう呆れられているように思えてならない。

 しかし後悔先に立たずだ。

 

 信玄は定龍に向き合い直すと、彼もまた定龍と同じように腹に力を込めて、彼の言葉を待ったのだった。

 

 そして、ついに定龍から言葉が出てきた。

 強くなった雨足にかき消されてしまいそうなほど細い声だ。

 だがその言葉は、確かに信玄の耳に入り、そして脳天を鐘のように打ち付けたのであった……。

 

 

「朝倉、浅井、伊達、蘆名、斎藤、織田、六角」


「なんのことかね?」



 返す刀でそう問いかけたのは、さしもの信玄であっても定龍が挙げた大名家に関連性を見いだせなかったからだ。

 訝しむ信玄の顔つきが固くなる一方で、定龍のそれは柔らかくなっていった。

 

「当家はご存知の通りに越後布えちごふを皆様にお分けいたしております」


「ふむ、たいそう儲けていると聞いておる。それがいかがした?」


 単に商売の自慢話を聞かされるわけではあるまい、そこまでは信玄にも大方予想はついたが、まるで雲をつかむような心持ちであるのは変わらない。しかしここで焦って前のめりになってしまっては、それこそ目の前の青年の思う壺ではないか。

 

 背筋を伸ばして、顎を引く。

 姿勢だけでも飲み込まれまいとするが、どうしても瞳だけは吸い込まれていった。

 

 まるで底の見えぬ黒い沼のようなその瞳に……。

 

 

「お納めしておりますのは、越後布だけではございません。皆様とより親密な関係を保とうと、こちらもお買い上げいただいているのです」



 そう言って信玄の前に差し出されたのは……。

 

借書しゃくしょ……。上杉の借書か……。なぜ……」


 信玄が疑問に思うのも無理はない。

 通常、借書は『買う側』が金銭の替わりとして差し出すものだ。言わば借金である。

 よって『売る側』が借金をするなど考えられない。

 

 山のごとく不動を信条としていたはずの信玄の心がぐらぐらと強風にあおられた巨木のように揺れ動いていた。

 

 一方の定龍はさながら凪の湖面。

 相も変わらず雨の音に負けるか否かの細い声で続けたのだった。

 

 

「当家の借書の値打ちは、当家にお寄せいただいている信頼の証。皆さま、急な用立てが必要となった際には、大いに活用されてらっしゃるとうかがっております」



 この言葉に音を立てたのは背後に控えている山本勘助であった。

 つつと膝を進めると、信玄のすぐ背後までやってくる。

 そしてかすれた小声で、そっと耳打ちをしたのであった。

 

 

「これはまずいことになりましたぞ」



 信玄が眉をひそめたのは、未だに定龍そして勘助の意図をつかみかねていたからだ。

 取り残されている孤独感をおぼえながらも、憤りではなく恐ろしさの方が先行している。

 その感覚を信玄はかつて一度だけ味わったことがあった。

 

――あの男に瓜二つだね。


 信玄が脳裏に浮かべた男とは、記録には残さぬという約定で、たった一度だけ顔を合わせた者。

 その男とは……。

 

 

――織田三郎信長……。この男、あやつと繋がるものがあるのう。



 会話の流れからそれたところで考えごとをしていると、定龍の声が再び鼓膜をかすかに震わせてきた。

 

「もし、上杉が危機となれば、借書は全て紙きれとなりましょう。そうなる前に手を打ってくる大名家も少なくはございますまい」


「つまり何が言いたい?」


 ついに信玄は姿勢ごと前のめりになった。

 もはや会談の勝ち負けよりも、『目の前の男への興味』の方が遥かに凌駕しはじめていたのだ。

 定龍の語気がわずかに強くなり、寺の空気に熱をともす。

 

「すなわち『実』は揃ったも同然。では『名』はなんとするか」


「ほう……」


 定龍はもう一通の書状を懐から差し出した。

 それはかつて、彼が送ったもので、謙信から突き返されたもの。

 つまり……。

 

光徹こうてつ殿……。まさかお主……」


 そう、それは上杉光徹宛ての書状。

 

「前の関東管領、上杉憲政公が御出馬となれば、皆さまにとって『名』となりましょう」


「つまり日ノ本各地の大名家を一斉に動かす『名実』が、上杉には揃っているということか……」


 信玄はついに大きく目を見開き、驚きをあらわにした。

 

 上杉謙信は『強い』。

 

 だがそれは目の前の敵に対する脅威でしかないのを、信玄は誰よりも知っていた。

 だから今回の『関東進出戦』は、戦場を広く活用することを得意とした北条氏康には、到底かなわないものと踏んでいたし、それゆえ氏康に味方したのだ。

 

 しかし、目の前の男はどうか……。

 

 関東の覇者と畏怖されている北条氏康よりも、さらに広い視野を持っているではないか。

 その広さは関東八州という規模ではない。もはや全国としても過言ではないほどなのだ。

 

「お主……。何者か?」


 そうつぶやいてしまったのも無理はない。


「ふふ、私は単なる『人』でございます。では、これより『皆さま』をお迎えする支度がございますので、私はここで失礼させていただきます」


 そう言って、最後の最後まで一寸の隙も見せずに定龍は寺を後にしていった。

 何も約束など交わしておらず、ただ一方的に事実だけを並べられただけで終わったこの会談に、果たしてどれほどの意味があったのだろうか。

 はた目から見れば、そういぶかしく思われても仕方ない。

 

 しかし信玄にとっては非常に意味のあるものであったのは、彼の気の抜けた顔を見れば明らかというものだ。

 濡れる土の上を走る足音を背に聞きながら、信玄は大きく息を吐いた。

 

 

「あの男は何者かね?」



 先ほどと全く同じ問いかけを、今度は脇までやってきた山本勘助にぶつける。

 すると勘助はこう答えたのだった。

 

「あの者は、単なる『人』でございます。ただしその魂は『龍』のごとし。ご油断をされると虎でさえも一飲みにされましょう。ご注意なされよ」


 信玄はゆっくりと勘助に顔を向ける。

 そして恐ろしく低い声で、命じたのだった。

 

「勘助。次戦場で相対したその時は、あの者を必ず討て。よいな」


 勘助は口角を少しだけ上げたが、言葉を返すことはなかった。

 しかし信玄はその様子を無礼とは思わなかったのである。

 

 なぜなら彼はじゅうぶんに理解していたからだ。

 

 山本勘助という男は、決して放言を口にせぬ。

 できぬことはできぬと、はっきり物申す男だ、ということを……。

 

 そして……。

 

 山本勘助と宇佐美定龍の最初で最後となる一戦は、想像を絶するものとなるのだが……。

 

 それはまだまだ先の話なのである――


 


 






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