勇往邁進! 上野原の戦い①
弘治3年(1557年)6月22日――
「和泉殿!! なりませぬ!! 」
飯山城の廊下に老臣、宇佐美定満のすがるような大声が響いてきた。
「止めるな、駿河!! もう堪忍ならぬ!! 今日という今日はお屋形様にうかがわねばならぬ!! 」
追いすがる定満を引きずるようにして大股で、景虎の部屋へと向かっているのは、『和泉』と呼ばれた大男だ。
彼の名は柿崎和泉守景家。
歳は四十四。
後に『上杉四天王』の一人にも数えられた景虎の側近のうちの一人だ。
数多の戦場で綺羅星の如き戦功を挙げてきた彼。
猛将であることを体で表すかのような筋骨隆々な肉体。
そして立派な髭が特徴的な熊のような男だ。
そんな柿崎景家が顔を真っ赤にして当主の長尾景虎の部屋へと迫っていく。
無論、景虎に問い質したいことがあるからだ。
それは……
ーーなぜこの四日間、一度も姿を見せないのか!?
ということであった。
実は景虎、飯山城に入ったその日以来、家臣たちの前に一切姿を現していない。
ーー今日も城に待機!
朝になるといつもその命令が千坂景親の口から伝えられて、それで終いなのである。
そんな日が三日も続けば誰でも理由を問い質したくなるものだろう。
それでも事情を知っている宇佐美定満や千坂景親の機転によって、どうにか事なきを得ていた訳だが、それが四日目ともなると抑えが効かなくなるのも当然のことである。
なかでも人一倍、猪突猛進な性格の柿崎景家は定満の制止を振り切って、景虎に直接会うと言って聞かないのであった。
いよいよ部屋の前までやってきた柿崎景家。
しかし彼の前に一人の若者が立ちはだかった。
それは景虎の側に仕える千坂景親であった。
「そこをどけ、対馬」
柿崎景家は千坂景親に顔を近づけながら凄んだ。
常人ならばこれだけで尻もちをついてしまう程の鬼気迫る睨み。
しかし千坂景親もたいしたものだ。
彼は一歩も怯むことなく静かに言い返した。
「お屋形様はお忙しいのです。お引き取りあれ」
「てめえ、誰に口を利いているか分かっておるのか? 」
「和泉殿こそ、お屋形様がお忙しいとおっしゃっておられるのに、一体どういう了見であろうか」
「なんだとぉ!? もういっぺん言ってみやがれ! 」
「ええ、何度でも申し上げましょう。お引き取りください」
まさに一触即発。
おでこ同士をぐりぐりとぶつけ合いながら、二人は睨み合いを続けている。
そんな二人の間に立っている宇佐美定満は、「とにかく一度離れなされ!」と、困り顔で二人をなだめるより他なかったのだった。
……と、その時だった。
ーーピシャリッ!!
襖が勢い良く開けられる鋭い音が突然廊下に響いてきたのだ。
側にいた三人は思わずぎょっとして開けられた襖の方へと視線を移した。
すると部屋から出てきたのは……
長尾景虎であったーー
「お、お屋形様!! 」
突然の景虎の登場に、慌てて跪く面々。
そんな彼らにギロリと一瞥をくれた景虎は、低い声で柿崎景家に命じた。
「和泉、皆を集めよ」
「はっ! しかし、お屋形様……」
そう言いかけた瞬間だった。
景虎は周囲が唖然とするような事を言い出したのであった。
「これより春日山へ帰還の準備を始める」
とーー
………
……
同日昼 飯山城評定の間ーー
ーーお屋形様がお入りになります!
部屋の外の小姓が透き通った声を上げると、飯山城に詰めている長尾家の重臣たちの間に緊張が走った。
彼らは一斉に頭を下げて景虎を迎える。
すると仏頂面の景虎は大股で部屋に入ってくるなり、上座にどかりと腰を下ろした。
その直後に一人の初老の男が膝を進めてきた。
彼は飯山城の城主であり、川中島の北部を治める高梨政頼だ。
「景虎殿、一つ話を聞いて欲しいのだが、よろしいだろうか? 」
そう切り出した政頼。
景虎が本拠地である越後の春日山に撤退しようとしていることは既にこの場にいる全員が知っている。
しかし政頼にしてみれば、それだけはなんとしても阻止せねばならない事であった。
なぜなら彼は、この合戦が始まる前は犀川以北と千曲川を挟んだ東側の大部分を治めていたのだが、この戦が始まる前に領土のほとんどを武田に奪われてしまったからだ。
特に本拠地である高梨氏館こと中野城を奪われたのは、国衆(領主のこと)として存続していくには致命的な痛手だった。
その為、天下無双の景虎の軍勢がいるうちに、せめて中野城だけは取り戻したいと切に願っており、その事を進言しようと膝を進めてきたのである。
しかし景虎は政頼の言葉を遮るように、一枚の書状を頭上に高々と掲げた。
「これは上様からの書状だ」
――ババッ!!
『上様』という言葉が出た瞬間に、政頼も含むその場の全員が慌てて平伏した。
それほどまでに『上様』と景虎が呼んだ人のことは敬わねばならぬ相手だったからである。
では『上様』とは誰の事なのか……
それは屋形号を持つ景虎が『上様』と敬称を持って呼ぶ相手は今は一人しかいない。
室町幕府第十三代将軍、足利義輝……
つまり景虎が高く掲げた書状とは、将軍からの書状だったのだ。
なお、この頃の長尾景虎は室町幕府に絶対的な忠誠を誓っていた。
すなわち将軍が右と言えば右を向き、左と言えば左を向くのは当たり前と考えていたのである。
それは彼のみならず、彼の家臣においても徹底されていたのであった。
景虎は淡々と続けた。
それは掲げられた書状の内容におよぶものであった。
「上様曰く、われに上洛を欲されておられる」
次の瞬間、政頼はさっと青ざめる。
なぜならそれは景虎が越後に撤退する切り札とも言える言い分だからだ。
と言うのも、足利義輝による景虎への上洛の要請は、昨日今日の話ではないはずなのだ。
この頃室町幕府の弱体化は著しく、将軍の威光などもはや皆無に等しい状況。
そんな中にあって将軍足利義輝は虎視眈眈と復権の時を狙っていた。
しかしそれを成し得るにはあまりにも資金面および軍事面が乏しかったのである。
そこで全国各地の大名たちに協力を要請する為に、彼らに上洛を求めていたのであった。
そのうちの一人が越後国の大名、長尾景虎であったということであり、彼だけが特別に招かれている訳ではないのだ。
つまり将軍の上洛要請は、景虎にとって都合の良い『川中島からの撤退の大義名分』だったのである。
しかし仮にそうだとしても『上様の意向』を無碍にするような反論など、国衆の一人に過ぎない高梨政頼が出来るはずもない。
彼は歯を食いしばりながら甥である景虎の顔を見つめるより他なかった。
そして景虎は、刺すような政頼の視線をものともせずに淡々と続けた。
「こたびの戦は我が叔父上の救援という『義』を果たす為の戦いであった。宿敵との決着がつかぬことは、はなはだ無念ではある。
しかし『義』は十分に果たしたと言えよう。
ついてはこれよりわが軍は春日山へ帰還することとする」
高らかと宣言した景虎。
長尾家の重臣たちは「御意!」と一斉に声を上げて頭を下げた。
ところが政頼だけはそう簡単に「かしこまりました」と言えなかった。
「せめて…… せめて中野城を取り戻した後ととはしてもらえんだろうか……? 」
消え入りそうな高梨政頼の声。
それを聞いて宇佐美定満は哀れと感じた。
景虎が春日山への帰還を決めたのは、決して川中島での覇権を得るのが難しくなったからではない。
近頃の不機嫌さも相まって、単に気乗りがしないだけのことだろう。
しかしこの気まぐれは、高梨政頼は北信濃において孤立させてしまうことに直接的に繋がる。
そうなれば高梨政頼に残される道はたった二つ。
裏切りか、滅亡か――
いずれにしても長尾家の川中島、もっと言えば信濃国に対する影響力はほとんどなくなってしまうのは火を見るより明らかなこと。
それは裏を返せば、豊かな収穫量を誇る川中島を武田の手に全て渡してしまうことになるのだ。
おのずと将来的な戦力差へと跳ね返ってくることだろう。
それだけはなんとしても避けなければならない。
すなわち「このまま越後に撤退する訳にはいかない」、というのが定満の考えであった。
しかしこのことをそのまま景虎に話せば、彼の機嫌をさらに損ねることは目に見えている。
どうにかして高梨政頼が懇願するように、中野城奪還へと景虎の気持ちを動かせないものか……
ところが定満には考える時間が残されていなかった。
なぜなら既に景虎は席を立とうとし始めているのだから……
定満は慌てて膝を進めた。
そして「えいっ! もうどうにでもなれ! 」と半ばやぶれかぶれに口を開き始めたのである。
「お屋形様! ここは一つ置き土産として武田に疾風怒濤のごとき当家の軍勢の強さを見せつけるというのはいかがでしょう? 」
「なぜだ? 」
「さすれば我らが越後に退いた後も、早々簡単に高梨殿の所領に手を出せなくなりましょう!
お屋形様! 高梨殿の『今』だけではなく『未来』を守って初めて義を果たしたと言えるのではなかろうか!? 」
定満の必死とも言える言葉に景虎は静かに定満の目を見る。
定満もまた景虎の目をじっと見つめた。
しばらくした後、景虎は立ったまま答えた。
それまでと同じく抑揚のない口調で……
「叔父上にはすまぬが、この件はもう退くと決めたのだ」
景虎の変わらぬ決断に、がくりと肩を落とす定満と政頼。
これで川中島における長尾家の未来は完全に閉ざされる……
一筋の光すら目の前から消えていく感覚を『絶望』と言うのなら、定満は今まさに『絶望』の淵に立っていた。
それは隣でうなだれている政頼も同じに違いあるまい。
もうだめなのか……
そう諦めかけたその時であった――
――景虎様!! それはなりませぬ!!
と、部屋の外から高らかと声が響いてきたのは……
蒸し暑い部屋の中にあって、爽やかな清涼感を与えるほどに透き通った少年の声。
定満はその声を耳にした瞬間、電撃が体中を駆け巡ったような衝撃を覚えた。
もちろん少年の声に聞き覚えなどない。
しかし聞き覚えがなくとも、その声の持ち主が誰であるか閃いたのだった。
「辰丸……」
そしてこの少年の声がきっかけとなり、川中島には大きな爪あとが残ることになる。
越後の軍神と臥龍の――
今日はあと一話アップできると思います。