剣闘士
中央大陸に燦然と輝く覇権国家である大ローレル帝国。
首都であるドミリクは自然とは無縁の都市で、歴代皇帝が作った、大規模な公衆浴場や
荘厳で巨大な神殿。石膏で多層化したアパートに、郊外から引いてきた水道を備えるローレル帝国の英知と国力が詰まった都市だ。
しかし、民衆は欲におぼれ、パンとサーカスさえ提供すれば政治は支持され、無ければ悪評の高まりと共に暗殺される。
混沌と、欲にまみれた秩序無い首都。
神がいるとしたら嘆き悲しむであろうこの地に、欲の集大成である『ホルスト』という名前の巨大な闘技場がある。
「うおぉぉぉ!」
「ぎゃあ!」
筋骨隆々の長身の剣闘士が、同じく筋骨隆々の棍棒を持った剣闘士に勝った。
「ブーーー!ブーーーー!」
何故か、観客から盛大なブーイングが巻き起こる。
棍棒の剣闘士は虫の息だ。
その死に体の剣闘士にジャッジメントはとどめを刺すように促す。
しかし、長身の剣闘士は無視をする。
ジャッジメントは「呆れた」というような仕草をして、虫の息の剣闘士にとどめを刺した。
「イエーーイ!ヒュー!ヒュー!」
「何でとどめを刺さないんだーーー!この馬鹿『マルス』め!」
怒号と称賛が入り交じった声を長身の剣闘士は無言で受ける。
そして、自ら地下牢に降りた
ここホルストは、2~3万人が入るため時には劇なども開かれるが、メインはもっぱら剣闘士同志や猛獣との一騎打ちの殺し合いとその賭博だ。
初めて見たときは、ここでは殺し合いすらパンとサーカスの一部なのだと驚き、そして嫌悪したものだが、自分が連れてこられた理由がこの狂気の遊びの駒となることだと知ったときは絶望のあまり舌を噛み切るところだった。
それからは、無我夢中だった。
体力と、腕に覚えはあったが、それは自衛のためであり狂気の宴を踊るためではない。
すまない、すまないと思いながら返り血を毎日浴び続けた俺は、いつしかホルストの絶対王者『マルス』と呼ばれるまでになっていた。
今では、勝つと「賭にならない!」とブーイングまで起こる始末だ。
「俺はどうすれば良いのか?」
奴隷ではあるが、絶対王者となった俺は、このドミリクの一般市民より裕福な食事ができている。
しかし、豪華な食事であればあるほど罪悪感が心を蝕む。
「今日も2人殺してしまった」
闘技場では猛獣や剣闘士との命を賭けた試合をしている。
相手も必死だ。手は抜けない。
しかし最近は、相手を殺さないようにワザと武器の切れ味を落としたり、気絶させたりする努力をしているが、観客のブーイングで結局はジャッジメントに殺されてしまう。
「ああ……神様。この哀れな男をお救い下さい」
最近は精神を病んでいる。
慈愛の神であるメルト神の彫刻を買ってもらい、地下牢で拝むのが日課になってしまった。
夜になる。
地下牢の廊下はいつも静かだ。
しかし、その日は様子が違った。
ヒタヒタと廊下から足音がした。
ここら辺の地下牢は俺の牢屋以外は空いていて音を出す人は居ないはずだ。
こんな事は初めてだ。
これが噂に聞く幽霊という奴か?
では、狙いは何だ?
俺以外思い当たらない。
今日殺した棍棒の剣闘士か…昨日殺した蛮族の原住民か。
少し寒気がして、身構える。
「こんにちはー!」
「うわぁ!!」
いきなりの挨拶に飛び上がって驚く。
そこには、花柄の不思議な服を着たひょろひょろのおっさんがいた。
「なにそんなに驚いてるの?」
「きっ!貴様!こんな地下牢に何のようだ!俺か?俺を殺しに来たのか!?」
「殺すわけ無いじゃん!あんたみたいな筋肉男に喧嘩なんかふっかけないよ。逆に殺されちゃうよ」
「では!何用だ!ここは見ての通り牢屋だ!一般市民が来る場所じゃない!」
「そうなの?道に迷っちゃったんだ……ねえ、あんたは飲める?」
おっさんは笑い、クイっとコップを飲む仕草をする。
「飲む?…酒か?まあ、飲めなくは無いが」
「あは!じゃあ、一緒に飲もうよ!つまみは無いけどさ、あんた強そうだから大丈夫でしょ?」
「しかし、鍵を開けないと入れないぞ?」
「そう?これかな?」
おっさんは鍵をもっていじくる。
すると・・・不思議なことにガチャリと鍵が開いた。
「なんだか知らないけど空いたよ!これで飲めるね!どっこいしょ!」
おっさんはズカズカと中に入りどこからか取り出したコップに酒を注ぐ。
そして、俺に差し出した。
「これは…何という酒だ?」
無色透明ながらも芳醇な甘い香りが漂う、うまそうな酒だった。
「秘蔵の大吟醸だよ!」
「ダイギンジョウ?ふむ…帝国外の酒か」
「そうそう。東の果てのおいしいお酒。まあ、これは神様特製だけど」
「神様?ああ、葡萄酒も酒の神のおかげで発酵して、できあがるからな…あれと同じのような物か」
「そうそう!こっちのは透明なの!」
「原料は?」
「お米だよ」
「米?」
「麦みたいな植物だよ」
「ほほぅ…珍しいな。少し頂いて良いか?」
「どうぞどうぞ」
俺は我慢できずに一口飲む。
キリリとした中にも甘い口当たりが広がり、口の中に芳醇な調和の取れた酒の香りが広がった。
「これは…うまい」
「でしょ!まあ、グッとやんなよ!グッとさ!」
俺は一気に酒を煽る。
「おおーー!よっ世界一ィ!まあ、もっと、どうぞ!」
おっさんは空になったコップに並々と酒を注いでくれた。
それからは、飲んでは話し、飲んで話しの繰り返しだった。
しかし、楽しい。
うまい酒に、平和的に話しができる。
それだけでも心が病んでいた俺にはかなりの救いになった。
『神の…救いか?』
目の前のおっさんが神の使いのような気がして、俺の口はかなり饒舌になっていた。
「そりゃ…大変だね。毎日人殺しばっかりじゃ心が病んでくるよ」
「奴隷として捕らえられた手前、遅かれ早かれこうなるとはわかっていたが……死にたくはない。しかし、だからといって殺し続けるのも…つらい」
「俺はまっぴらごめんだね」
「はは…俺もそうだ。しかし、抗おうにもどうすればよいかわからない。気付けば朝になり、また毎日の繰り返しだ」
「いっそのこと逃げちゃえば?」
「逃げる?…にげ…る?」
「そうそう。せっかく鍵も開いたんだし、もう十分じゃない?」
「そうか!…いや、しかし、何処に逃げるのだ?」
「何処でもいいじゃん!国なんてさいっぱいあるよ!マルスみたいな筋肉男だったら何処でも受け入れてくれるよ!」
「そうか…そうだな!逃げるか!!」
「そうしよう!そうしよう!善は急げだ!今から行こうよ!」
俺たちは牢を抜け出した。
『ホルスト』を出て、首都脱出を目指し走る。
市街の外れあたりでおっさんがヒィヒィ言って止まった。
「まっ…待っておくれよ~!」
「大丈夫か?…しかし、これでは首都を出る前に夜が明けてしまう」
「俺は別に追われてないからさ…マルスだけ逃げなよ!ココでお別れだ!」
「ああ…そうか、そうだな。すまない。私の勝手にずいぶん迷惑をかけた。うまい酒までご馳走にもなって」
「気にしちゃいけないよ!これも神様のお導きなんだよ。また、会えればマルスのおごりで飲もう!」
「そうか…そうだな!またどこかで!!」
「じゃーねー!お元気でーーーー!」
俺は急いで首都を脱出した。
日が昇る頃、俺は近郊の街道を走っていた。
『そう言えば、東の果てにダイギンジョウがあると言っていたな』
俺はあのおっさんの言葉を思い出し、進路を東に変えて走った。
数日かけてやっと帝国外から抜け出た。
そして更に数週間かけて東の果てを目指す。
何処までも長い道のりを走った。
そして、数年かけてついに東の果ての国、ジャペロニカに到達する。
そこには米はあった。
しかし、ダイギンジョウは無かった。
『あの酒は幻だったのか?』
俺は悩み、自分で作ることにした。
そして、それから30年の時が流れた。
俺は死ぬ間際になんとかダイギンジョウを完成させた。
「これでいつ、あのおっさんが来てもうまい酒をご馳走できる」
それがマルスの最後の言葉だった。
こうして、ジャペロニカにダイギンジョウという酒が広まった。
マルスが走った道はマルストロードと呼ばれ、東と西をつなぐ街道として栄えた。
その後ダイギンジョウはジャペロニカの重要な交易品としてマルストロードを渡って大ローレル帝国に輸出された。
ちなみに、おっさんは走りすぎて心臓発作を起こし、転移しました。




