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ルル、初仕事

 さすがに初めてのバイトの日は、集中して泳ぐことができなかった。プールを数回往復しただけで、いても立ってもいられずプールから上がってしまったのだ。無理もない話で、なんといってもあの『王子さま』と同じ職場で働けるのだ。彼は「カシワギ」というらしい。漢字が分からないので会ったら聞こうとルルは思う。彼はルルのことがわかるだろうか。プールから眺めていた女……というのはさすがにわからなくとも、ショップに訪れた客、くらいの認識は持ってくれているかもしれない。なんといっても、ルルはいろんな人から「かわいい」と誉められていたのだ。もしかしたら、一目惚れされているかもしれない。


 しかし期待とは裏腹に、彼は同じシフトではなかった。店には店長と、滝本というバイトがいるだけだった。

 滝本は金髪の若い男である。ひげをはやしていてお世辞にも清潔な見た目ではなかったが、CD屋であれば問題ないのかもしれない。

 ぼんやりと突っ立って観察をしたルルであったが、間もなく店長に怒鳴られることになる。


 ルルは、お世辞にも使える人間ではない。

 事細かなマニュアルを用意して、何度も何度も反復することで、ようやく覚えることができるのだ。

 CDショップの業務内容は、品出し、店舗整理、そしてレジ打ちである。ルルは飲食のバイトでレジ打ちを経験したことがあるが、すぐにクビになったのであまり身に付いていない(身に付かなかったからクビになったのだ)。

 すぐに間違え、時間がかかり、あげくに打ち直しになってしまう。店長の目はどんどん鋭くなっていき、それに萎縮したルルの手はいっそう遅くなる。出勤して一時間、途中で出勤してきたパートの田中に取り直してもらって這々の体で休憩室に入った。

 

 休憩室は、一昨日ルルが店長に面接された事務所のすぐとなりにあるこれまた汚い小部屋だった。小さい机に、椅子が二脚。しかしそのうち一脚には誰かの荷物が置いてあって、必然的にルルは扉に近い椅子に座った。

 机の上にはクッキーの缶が置いてあった。さっそく開けてみたが、中身は空だった。

 ふうとルルはため息をつく。いつもバイトを始める味わうこの無力感のことを、ルルは忘れきっていた。ただ王子さまに会えるのだと期待を膨らませていたのだ。しかし今日王子さまはいないし、ルルは怒られっぱなしだ。

 店内のBGMが休憩室の中にも流れている。この曲が誰のどんな曲なのかもルルは知らない。

 休憩室では何もすることがなくて退屈だった。しかし、仕事に戻りたくもなくてしばらくぼーっとする。実際何分休憩して良いのか、ルルは聞き損ねてしまっていた。


 しかしそろそろ戻らなくてはならないだろうか、ルルが立ち上がったのは五分ほど経ってからだった。仕事に戻ろうとすると、がちゃりと扉が開いて、男が入ってくる。

 滝本だ。入室するなり、彼は煙草を取り出し、火をつける。ルルは煙草が得意ではないのでほんの少し顔をしかめる。

 滝本はこちらをちらりと見て、

「お疲れえ」

 と言った。ついでににやりと笑む。

「おつかれさま……です」

 ルルはおずおずと頭を下げ、それからもう一度滝本を観察した。金髪は、頭の上の方では黒くなっている。かなり傷んでいるようだ。

「ああ、ここで吸うから、座ってて良いよ」

 そう言って、滝本は扉のすぐ側の棚を指差した。そこには灰皿が置いてある。ルルが滝本に椅子を譲るために立ったと思ったようだ。ルルは仕事に早く戻らなくてはと思ったのだが、座れと言われたので腰を下ろす。

 ルルが再び座るか座らないかのうちに、再び滝本は口を開く。

「なあ金子ちゃんは、俺のこと何歳に見える?」

「ルルで良いよ」

「ルルちゃん?」

 自分より年上かな、と思った。けれど、少し若く言っておいた方が、気を良くするかもしれない、と考えて、ルルは、

「ルルと同じくらい?」

 と答えた。

 滝本は笑い出した。

「そりゃねえよ、ルルちゃん。俺、23だぜ?」

「えっ」

 と言ったきりルルは絶句した。滝本はにやにやとしているが、そのひげ面は30前に見える。

「俺、結構若く見られがちなんだよな。全然想像と違ったろ」

「うん。年下だった……」

「別にタメ語で良いよ」

 滝本は言い、煙草を灰皿に押し付けて消した。そのタイミングでルルは仕事に戻った。


 レジをぼんやりと眺めながらも、「若く見られる」という言葉に首を傾げる。ルルは、彼のことを年上だと思ったのだが、23歳だという。そして、それよりも若く見られるという。

「どういう意味?」

 その会話のせいで、ルルはすっかりこれまで教わったことを忘れてしまって、店長に睨まれながら覚え直すことになったのだった。



 一週間経っても、ルルはまだ業務を全て覚えられない。初めてのシフトでは覚えが悪すぎて研修だけで終わってしまったルルだが、二回目からは客を相手にレジ打ちをしている。『習うより慣れろ』との教えだ。しかし現金決済のレジ打ちでさえ五回に一回は間違えるのに、「クレジットで」なんて言われた日にはもう無理だ。「ポイント使いたいんですけど」と言われてしまったら、もはや店の奥に引っ込んでいる店長をわざわざ連れ出してきてでも代わりに打ってもらった方が早いという始末。

 こんな調子で正社員になんてなれる気がしない。ついでに王子さまとも全然同じシフトになれない。バイト初日に、従業員全員分のシフトが印字されたものをもらっていたが、次の週の中盤までシフトはかすりもしていなかった。

 新しく覚えることが多くて疲れきり、日課の水泳もすぐに切り上げてしまう。

 久々にルル自身の失敗で怒られ続けて、ご褒美もなし。案外とルルは参ってしまっていた。



 ……というのに、こんなところで王子さまをストーキングしている。

 休日のルルは、視線の先にしっかりと男の姿を留めている。

 別に、家を突き止めてやろうとか、行動を逐一書き留めようとか、本当にストーカー紛いのことをしようと思っているわけではない。たまたま見かけたから、立ち止まって観察してしまっただけだ。


 駅のロータリーを背に、植え込みのレンガに座って、『王子さま』……柏木洋司はケータイを操作している。待ち合わせだろうか。彼の近くには同じように、人待ちであろう人が何人か腰掛けていた。ルルが立っているのは駅の構内、柱の側で、これまた近くには待ち合わせの人が立っていたためルルが立ち止まっていても不審に見られることはないだろう。

 こうして遠目からでも王子さまを見つけられるんだから、ルルは、自分は本当に彼が好きなのかもしれない、と考えた。ルルの視力は裸眼で2.5を越えているのでただ単に目に入っただけかもしれないが、その可能性を思いつくことはなかった。

 今日の服装は、エナメルの靴にアーガイルのセーターだった。おしゃれな格好で、なおかつそれが似合っている。気取っている感じがしなくて素敵。他の人が見ればそれを『冴えない』と形容したかもしれないが、ルルの辞書にそんな言葉は存在しない。しばしじっと彼の一挙手一投足を見つめた。


 そこでふと彼が顔を上げる。

 ルルは驚き、とっさに柱の陰に隠れた。ついでにケータイを取り出し、いかにも重要な連絡を取り合っているかのように操作した。

 ルルの胸はどきどきと鳴る。

 見つかっただろうか。

 別に、疚しいことはない。バイトの同僚を見つけて立ち止まっただけなのだ。

 誰にともなく言い訳をして、視線を戻すと彼はいない。

 否、彼が座っていた場所に向かって右の方に、男と一緒に歩き去っていくのが見えた。友人だろうか。

 なんだか、仲が良さそうに話しているようだ。

 いいなあ。

 柏木洋司がどんな人物か、ルルはまだまったく知らない。だから、もっと知りたいのに、ルルにはその機会がなかなか訪れない。


 しばらく見送っていたが、先ほど見つかりそうになったときのことがやはり気になり出す。じっと見ていることより、視線を感じてさっと身を隠すことの方が、失礼ではないかと思い立ったのだ。

 ルルは植え込みに近づき、確かめることにした。

 レンガに残ったはずの人肌の温度はあっという間に冷めてしまっていて、彼が座った正確な場所はわからなかった。大体このあたりだろうと見当をつけて座ると、ルルのいた場所は人の往来に隠れてほとんど見えない。

 良かった。

 ほっとして後ろ手をつけば、何か、滑らかなものに手が触れる。レンガや土ではない。

 それは皮でできている。ルルは持ち上げ、確認する。

「……定期入れだ」

 思わず呟いた。


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