ルル、運命の出会い
ルルの職場は、電車で一時間のところにある。主要な路線なので、日付が変わるくらいまでは終電の時間を気にしなくても良い。とはいえ、ルルは毎日夕方五時の定時きっかりに退社していたし、誰にもそれを咎められたことはなかった。
朝は五時半に起きる。大学時代は毎日八時九時に起きていたルルにとって、最初こそ辛かったものの、さすがに丸二年も同じ起床時間であれば身体が慣れた。
七時に家を出て駅へ行き、電車に揺られて出社する。経営者とは、入社式以来きちんと会話したこともない。オフィスはルルたちの部屋の奥にあるはずだったが、その扉が開かれることはなかった。
全てはマニュアル化されている。この商品についてこういうクレームが来たらこう対応する、相手がこう答えたら次はこう言う、と会話のフローチャートのようなものが完璧に作成、配布されていて、物覚えが悪いルルもすっかり覚えてしまっている。あとはひたすらに謝ればいい。なんて楽な仕事なのだろう。冷暖房完備。残業もない。強いて言うならば、ルルは周囲の人間ともっとおしゃべりをしたかったが、周囲の社員(ほぼ全員が女性だった)は皆パソコンの画面に向かっていて一言もしゃべらない。ほんの少し退屈なことを覗けば、完璧な職場と言えた。
一日、電話の向こうの相手の話を聞き、ひたすらに謝る時間が過ぎて、退社時間がやってくる。誰も残業などしない。チャイムが鳴るとさっさと皆席を立ち、各々の家に帰っていく。そのときにも、会話らしい会話はなかった。隣の席の人にだけ、ルルはあいさつをして帰るが、彼女らは軽い会釈を返すだけなのが常だった。
会社を出て、しかしルルはまっすぐ駅には向かわない。繁華街を通り抜け、住宅街の入り口にあるスポーツセンターに足を運ぶ。
本を読まない、音楽も聴かない、映画も見ない。ヨガもフットサルも、ボルダリングもウィンタースポーツもしない。おおよそ、おしゃれ以外の文化的な活動というものをしないルルであるが、ただひとつ日課がある。
泳ぐことだ。
ルルは小学生の頃、人魚姫に憧れて、スイミングスクールに行きたいとねだった。ルルのママはそれを受け入れ、小学二年生から中学三年生までルルをスイミングに通わせた。なぜそれが終わったかというと、私立の高校に行くにあたって、スイミングの月謝に払っていたお金すら学費に充てなくてはならなくなったからである。とはいえ、小学生の頃からルルの教育のための費用をやりくりし与えてきたルルのママと、それだけの稼ぎを持って帰ったルルのパパはやはり素晴らしい保護者であると言えるだろう。
さてとにかく、ルルはスイミングに通い、とろそうな見た目とは裏腹に、水中ではすいすいと泳ぎ回るようになった。その姿は、彼女が憧れた人魚姫のようだと評されても、納得できるくらい優雅な動きである。
別に、競技としての水泳の選手になりたいわけでもなく、その資質もおそらくない。あくまで、身体を動かすただの『行為』として、泳ぐことがルルは好きだ。スイミングスクールで、泳ぎの型を一通り習いはしたものの、教室をやめた高校生以降は自分の動きたいように、型をあまり気にせずに泳ぐことが多かった。
泳いでいる間は何も考えていない。大体ルルはいつも何も考えていないが、いつも以上に何も考えてはいない。全てを、身体の感覚に集中させているのである。
プールから上がり、シャワーを浴びてセンターを出れば、七時を回ったところである。それから帰宅し、ママが作った夕食を食べ、パパに肩たたきをしてあげてから風呂に入り、就寝する。
ルルの毎日は、彼女に言わせればそれなりに充実していた。
仕事が休みの日であっても、一日出かけるなどの用事がなければルルは欠かさず泳いでいる。他の何にも集中を乱されることなく、プールを何往復もする。
しかし、ある日、ルルはあるものを見て、集中を途切らせた。
スポーツセンターのプールは、二階に見学スペースがあることもあって、天井が高い。そしてその壁の一面が、床から天井までのガラス張りになっていて、外からも中からも向こう側の様子が容易に伺える。といっても、厚い薄緑のガラスなので、ショーウィンドウのようにくっきりとは見えないが。
ルルがいつも使っているレーンは、その窓側の、一番端のレーンであった。プールの中で立ち、横に顔を向ければ、すぐそこに外が見えるのである。
ルルはその日、ふと泳ぎを止め、立ち上がった。おそらく、何かの身体の違和感を感じたのだろう。手が壁に当たったとか、足の引きつりを感じたとか、その程度のことだ。すぐにそれは解消され、泳ぎは再開されるはずだった。
そこで窓の外を何気なく眺め、その人を見つけてしまったのだ。
細身の男。
濃い緑のシャツを着て、細身の足に合った綿パンを履いている。染めていないであろう少し長めの黒髪の下からは、知的な目が覗く。太い縁の眼鏡をかけていた。
彼は大きな革の鞄を抱えて、すたすたと歩いて行く。もちろん、こちらに気づきなどもしない。
「……王子さまだ」
ルルは思わず呟いた。
彼女は水の中。そして陸の上を颯爽と歩いて行く王子さま。まるで、人魚姫の物語の、あの場面のようだ。
彼自身に一目で惹かれたのも確かにあっただろう、けれどそれよりも、ルルはその状況にいっぺんで惚れ込んでしまった。恋に恋する……とは、少し違うものの、人魚姫の物語に、ルルは恋をしてしまっていたのだ。
人魚姫の物語に憧れていたルルだったから、『王子さま』という存在にも同様に強い憧れを抱いていた。いつか現れるはず、と常に心の片隅で探していたかもしれない。けれども寄ってくる男たちはお世辞にも王子さまには見えない。簡単に言い寄ってくるようなナンパな男ではだめなのだ。ルルは献身的に彼を愛したいのだから。
そしてようやく見つけた王子さまの発見を、しかしルルは誰にも言わなかった。
ルルの親友は忙しいことがわかっていたし、これまで彼氏ができるとすぐに報告していた両親にも話す気になれなかった。それはこの恋が、人魚姫になぞらえたものだったからだ。それは秘めたものでなくてはならなかったからだ。
ただルルは毎日プールに行き、一番窓に近いレーンを選ぶ。そしてときどき立ち止まっては、『王子さま』がいないか、屋外を眺めるのだった。
『王子さま』は月曜日、水曜日、それと土曜日にスポーツセンターの前を通りかかるらしい。毎日の観察の結果ルルはそのことを知った。その時間帯も、だいたい分かった。『王子さま』の服装はもちろん毎回変わるものの、その細身と繊細な眼鏡、そして大きな革の鞄で、彼をすぐに見つけることができた。
しかし、ルルはスポーツセンターの外に出て、彼を待ち伏せするつもりはなかった。人魚姫の物語に酔っているルルは、あくまでプールの中から、彼を見ていたかったのである。
『王子さま』は、どこかの買い物袋を提げていることがたびたびあった。青いビニール袋だ。書店かCDショップのものかと思われる、マチのついていない袋で、大きなものは入りそうにない。袋の中央にはマゼンタ色でマークが描かれていた。その店のロゴだろう。どうやら王子さまはその店の常連のようだ。王子さまはそこで何を買うのだろう、本を読んでいる姿も似合うし、ヘッドフォンも似合うと思う。ルルはプールの中に突っ立って彼を眺めながら、いろんな夢想を繰り広げたものだった。
岩場から、眺め続ける人魚みたいに。