ルル、これまで
金子 瑠々はばかである。
どのくらいばかかというと、名前を書けば受かると言われた公立高校に落ちるくらいのばかさだった。結局彼女は、お金さえ出せば通えると言われている私立高校に通うことになり、結果的にそれは彼女にとってよく働いたが、それは後述しよう。今は彼女がいかにばかであるかの話である。
そもそも出生からして素晴らしいと言えるものではない。なにしろ、ルルはママとパパが勢いでヤっちゃってデキちゃった子どもなのである。もちろん両親は彼女のことを愛してくれたし、ルルも愛している。ただ、人目も気にせずいちゃつくだとか、年頃の娘がふすま一枚隔てたところに寝ているのに夫婦で盛り上がっちゃうだとかいうのは如何ともしがたいものである。
そういうわけでいかにもバカップルな片割れの、若くてあまり教養のないルルのママと仲良くするのは、本当にそれを気にしない人か、同じような人種のママさんだったのである。当然、その息子や娘も聡いとは言えない……というより、単純にギャルママとその子どもであった。聡いということに価値を見出さない環境にあって、ルルが頭を働かさない子どもに育ったのは当然の摂理とも言える(その環境と、聡いということのみに価値を見出す環境と、どちらが彼らにとって幸せかというのはまた別問題とさせていただきたい)。
そしてルルは、ばかであることを常に許容されながら育った。ばかで良いのだ、可愛いからと言われ、それを信じ込んで矯正する努力を怠った。理解するための脳みその動かし方を知らず、応用力のない人がとりあえず取る「暗記」という方法すらもすぐに諦めた。成績は良いが頭は悪い、という人種は日本人には多く見受けられるが、ルルは成績が悪く頭も悪い人種であった。教育を受けなかったわけではない。ルルの両親は、毎日しっかりと彼女を小中学校へ送り出したし、公立高校に落ちても私立高校へ通わせ、さらには大学まで出した。それは中卒で働いていたルルのパパにとって、ひそかな誇りであったが、それだけの教育を受けたにもかかわらず、ルルはいまだに九九の七の段が怪しいという有様であった(尤も、パパはルルが学校へ行ったというだけで満足していたので、その成績にはあまり頓着していなかった)。
ルルは、しかし充分な愛情を受けて育っただけあって、ばかではあるが愛嬌があり可愛らしく育った。ギャルファッションに身をつつみ、立ち位置や友人関係もそれに関連した、可愛らしく社会に反抗したものだったが、必要以上に突っ張ることもなく、どんな人間にも愛想良く(空気が読めないとも言えるが)、それゆえひたすらにばかを露呈し、ばかゆえに可愛いと皆に愛されてきた。どんな苦労も知らなさそうな(実際知らなかった)笑顔は、他人から毒気を抜いたのだ。もちろん、彼女の格好やその態度に悪感情を持ち、たいした根拠もない噂話を広めたり物理的に攻撃を仕掛けてくることもあったが、ルルはその悪意に対しては概ね鈍感で、気がついたとしても友人に口だけで泣きついて終わりだった。そんな鈍感な彼女が他人を傷つけたことは多々あるだろうが、それはどんな人間にも言えることだ。大多数の人がその人生のうちに他人を傷つけたのと同じだけ、彼女もきっと他人を傷つけている、多分それだけだろう。
さて、お金を出せば通えるというルルの母校は、ルルが受験したその二年前から、あるクラスを新設していた。それは伝統だけはある学園のブランド力を高めるために作られたもので、地元の有名進学校に勝るとも劣らない学力を持つ高校生だけを集め『特進クラス』と名付けられた。要するに、バカ校に成り下がっていた現状から、一部だけでも成果を挙げられるようにしたかったのだ。特進クラスの生徒は授業料の減免や(無駄に高価な)制服の贈与など、複数の特典を得ることができた。とはいえ、それですぐに優秀な生徒が集まったわけではない。何しろ、授業料の減免と言ったってそもそも公立高校であればほぼ無償化していたし、制服程度が贈与されたって他のものでいくらでも金は飛んでいく。特待を受けられても公立の進学校に行った方が安く上がるし、そちらのほうが勉強面でもまだ信頼性があった。それに特進クラスに受かったところで、その高校に通う生徒の半分以上は、ルルのように名前を書けば受かる高校にも落ちたような生徒ばかりなのだ。そんな状況で、それでも特進クラスを目指して受験をしてくる生徒はその数は少なくとも確かにいた。そしてそんな人物は得てして、本人あるいは保護者のどちらか(あるいは両方)が、少なからず物好きあるいは変人だった。
ルルが高校に入ったあと、部活動により、特進クラスに通う生徒と知り合った。彼女はルルの容姿(これについても後述しよう)が気に入って、仲良くしようと申し出た。ルルも快くそれに応じ、二人は無二の親友になった。学力の差はかなりあったものの、二人の気はよく合い、校外でもよく遊んだ。それぞれ別の大学に行っても、メールなどのやりとりを絶やすことはなく、それは成人した現在まで続いている。
その友人は、ルルがばかなことをよく知っていた。それをもう直せないと思った友人は、現状を変えることはあっさりと諦めた。代わりに、ばかでも生きていけるような術を一緒に考えようとした。これは、ルルにとって非常に幸運なことである。ルルは友人の言のほとんどを(記憶できる限り)肝に銘じ、それを守り続けてきた。おかげで、多くの人に恨まれることなく、役立たずと見限られることもなく、平和な日常を歩んでこられたのである。
ルルは高校からエスカレーターで女子大学に通った。親友は県外の有名大学に進学したから、大学では高校のときのクラスメイトとともに過ごした。大学三年生になって、教員が就職活動をするように言った。ルルは素直に頷いたが、友人たちはまだ大丈夫だと遊んでいた。いつしかルルもそれに倣い、就職活動をするのをやめていた。というより、周囲に教わらなければ、どう就職活動をすれば良いのかわからなかったのである。
そして、遊んでいるように見えて一部の友人はしっかりと内定を決めていた。一部の友人は親や親戚の伝手で就職先が決まっていた。気がつけば、ルルと少数のクラスメイトだけが、何も決まっていない状況に陥っていた。大学四年の夏のことである。急に焦りを感じたルルは、親友に相談した。親友は東京の企業に内定をもらっていて、そのときには卒業論文にかかりきりになっていた。ルルの状況など知る由もなかったのである。
電話を受けた親友は、泣きべそをかくルルに、「とにかく受ければどこか通る」とアドバイスした。とはいえ、あまりにも自分と違う道を歩んできたルルを、どう手助けすれば良いか彼女にも分からなかった。彼女の常識で言えば、就職はこの時期には決まっているものだし、周りがどうであれ自分からそのために努力をするべきだった。しかしルルの就職は決まっていないし、周囲が遊んでいたから分からなかったのだと涙ながらに彼女に訴えるのだ。
とにかく、親友はルルにアドバイスをしたし、ルルは愚直にそれを実行した。「しかし労働条件の悪すぎるところは駄目だ、きっとすぐに潰れてしまうから(ルル自身か会社そのものが)」との言も反映し、ルルは一つの会社を射止めた。
それはコールセンターである。毎日朝から夕方まで、冷暖房のきいた部屋で椅子に座り、電話をするだけで良い。彼女の受かったのはクレーム部門だったから、自分から見ても魅力のないものを無理矢理セールスする必要もない。ただただ謝れば良い。給料だって悪くない。大学四年の秋、面接の直後に『来週から研修に』と言われたルルは自らの運と親友に感謝した。電話口で会社の概要を聞いた親友は、なぜだか手放しで喜びはしなかったが。
そうして卒業論文を提出し、ルルは無事に卒業した(ルルの成績で留年もせずにスムースに卒業できただけでも、十分に評価できることといえる)。
コールセンターはルルにとって素晴らしい職場だった。親友はしきりに心配していたが、怒られることの多かったルルにとって、クレームは何のダメージにもならなかった。自分が悪くて怒られるのならば凹むけれど、自分が悪くはない。お仕事で謝っているのだ。それに、電話口からでもわかるルルの頭の悪さは、それを一方的にこきおろすことによって客の溜飲を下げることにつながっているらしく、客がなんだかすっきりした口調で電話を切ることにルルは達成感と満足感を覚えていた。
アルバイトは三ヶ月も続かなかったルルが、気がつけば入社三年目を迎えようとしていた。