天気予報と彼。
天気予報と彼女。の裏側です。彼女サイドの話を書いてみました。なぜか彼女の語りが長くなってしまいましたが、少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
――……なんで来ちゃったんだろう。
空から落ちてくるたくさんの雫。その先に見える建物を見て少しだけ胃が痛くなった。別に来る必要なんてないのは分かってる。だって、学校に通う子供じゃないんだから、その辺のコンビニでも買うことだってできる。傘を届ける必要なんてない、そう、分かってるのに。分かってるのに、気付いたら彼のマンションに行って、玄関に置かれたままの紺色の傘を手にして、彼の職場に来てしまった。
勢いというか本能のままというか、来てしまったのはいいものの、建物を目の前にすると突然気持ちにストップがかかった。来るまでは考えもしなかったのに、なんて言おうかどうしようかとぐるぐると考えてしまう情けなさ。考えた末に至った最善の答えは、妹のふりをして受付の人に預けて帰ること。うん、それでいい、そうしよう、私は妹、私は嶋田榎子、と心の中で繰り返して、ビルの中にようやく足を踏み入れた。
――のだが。
「嶋田さんがここで待つようにと…」
「え」
「すぐ降りてくるとのことなので、もう少しお待ちください」
「……はい」
――なんでこうなった。こっそり帰るはずだったのに、なんで。受付嬢の方々の視線が辛くて、そわそわと落ち着かない。あたりを見回しても、スーツを着た社会人ばかりで、つい数ヵ月前まで高校生だった私は明らかに子供。絶対浮いてる。目の前にいる受付嬢の方々は美人で、いかにも大人な女性。彼に似合うのはこういう人なんだろうな、と痛いことを自分で考えてしまう。
姉しかいなかった私にとって、お兄ちゃんという存在は新鮮で、隣に住んでいた彼は特別だった。誠也という名前から、「誠にい誠にい」と私は呼んでいた。あの頃は本当にそういう意味で特別だった。でもそれはいつの間にか違う特別になっていった。彼の隣に立つ彼女たちを何回見ただろう。その度にどれだけ泣いただろう。彼女ができても、それまでと変わらず優しい彼。何度だって背伸びをしようとした。でもずっと心のどこかで諦めていて、妹ならずっと変わらない距離でいられる、なんてことも思っていた。
私が高校に入学するタイミングで彼は社会人になって、一人暮らしをするため隣の家から消えた。引っ越しの手伝いをしながら、心の中ではずっと泣いていた。『お隣さん』という大切な繋がり。それが消えてしまったら私たちは何の繋がりもない。その事実が悲しくて辛くて、でもそれを見せなかったのは意地だった。好きだからこその意地。高校に入学してようやく手にいれた携帯。連絡先を交換しようとしなかったのも馬鹿みたいな意地。
一人暮らしを始めた彼とは自然と距離もできて、会う回数はもちろん減った。小さい時は会うのが楽しみだったのに、大人になっていく彼の背中は胸に痛みを及ぼすだけで、会うのが怖かった。会う回数が減ったのは私自身が彼を遠ざけたから。高校生活の中で好きな人を探そうとした、告白されたことだってあった。でも、もうちょっとのところでいつも彼の顔が思い浮かんで、何も変わることはなかった。
そうやって高校生活もあっという間に過ぎていき、卒業が近づくにつれて何故か周りが恋愛ムードになっていて、このムードのせいだと自分に言い訳をして、告白することを決めた。今の情けない自分を捨てたい。卒業したら告白をして、しっかり振られて、いい気持ちで大学生になろうと決めた。そのはずだった、のに。
「榎子!」
突然名前を呼ばれたことでわずかに肩が跳ね、恐る恐る振り返れば、私の未来予想図をどこまでも描き変えていく人物がいて、思わず「…なんで来るかなあ」と心の声を漏らしてしまった。受付嬢の方々の「可愛らしい妹さんですね」という言葉に、自分でついた嘘にも関わらずツキリと胸が痛んだ。それを笑って誤魔化そうとしたのに、彼は、妹じゃないからと否定の言葉を落したものだから、自分でもどんな顔をしたらいいのか分からなくなった。怒られるかなあと思っていたら予想通り、腕を引っ張られて私のストップの声も聞かずに受付から少し離れたソファーに座らされた。
「さて、俺には妹がいたか?残念ながら馬鹿な弟たちしか記憶にないんだが?」
「え、や、だって……」
責めるような言葉に思わず傘を持った手に力が入る。何といえばいいかわからなくて言葉が続かない。険悪とまではいかないけれど、居心地の悪いこの空気。たぶんそれは私のせいなんだろうけど。
「嶋田榎子って名乗るぐらいなら、妻ですって言ってくれた方が俺は嬉しいんだけど?」
「な……っ!」
突然降ってきた爆弾発言に、心臓が大きく跳ねて反射的に顔が上がった。な、な、いまとんでもないこと言わなかったーーー!?ふっと笑う彼を見たら、ますます顔に熱が集まってきて、冷えろ冷えろとただそれを願って両手を頬に当てる。
「もう少しで終わるから、隣のカフェで何か飲みながら待ってろ、一緒に帰ろう」
「え、いい、ひとりで帰るっ」
さらに甘い言葉に慌てて立ち上ろうとすれば、肩に手をおかれ、ソファーに押し戻された。
「だめだ、すぐ暗くなるから」
「別にこれくらいバイトの時間に比べたら…」
「いいから、カフェで待ってろ、俺が心配なんだ」
「……心配性」
「榎子限定でな」
――……だからなんでまたそういうこというかな!?
唇が触れるくらいの近さで耳に流し込まれた言葉は優しくて甘すぎて、体全体に響く。立ち上がる力なんて、もうない。ありったけの力で睨みつけても、妙に甘ったるい目があるだけで、もう、頭がパンクしそう。
付き合うようになって初めて知った彼の本性。優しいのは知ってたけど、こんな甘さを隠し持ってたなんて知らなかった。
「なるべく急ぐから、絶対帰るなよ?いいな?」
顔を覗き込んでそう言われたら、今の私はただ頷くことしかできない。
「じゃあまた後で」
「うん……頑張ってね」
頭を撫でる手は優しくて、じんわりと温かくなる。彼の笑顔につられて強張っていた頬も緩んで手を振ってしまう。どこまでも私は単純で、どうしようもないくらいに彼は私の特別。今の彼にはまだまだ慣れないけど、昔の彼も今の彼もやっぱり特別には変わりはないから。
――天気予報なんてずっと見なくていいからね。
何となくで願ったそれが、彼と彼女の未来に関わっていくのは、まだ誰も知らない。
fin
ここまで読んでいただきありがとうございます。彼女の語りが長すぎて湿っぽくなってしまいましたが、どうだったでしょうか。感想お待ちしてます。「天彼」としてシリーズでも作ろうかなあとか思ったり思わなかったり。