Drop of the mermaid
青人魚のまじない、というものがある。
僕の友人から聞いたことを簡単に説明すると、海水に触れている状態で、人魚さん! 願い事を叶えてください! と言いながら、頭の中でその願い事を叫ぶと、髪が青い人魚が現れて、願い事が1週間後に必ず叶っちゃうってまじない。
非現実的。本当かどうかもわからない。そもそも友人の作り話なのかもしれない。
高校生になる前までの僕だったら、そんなおまじないなんて到底信じなかった。でも、高校一年生になった今は少し事情が違っていた。
5月になる頃には既に僕には好きな人ができていたんだ。名前はしずくと言って、藍色の艶やかな髪の毛を背中まで伸ばし、色白で、僕と同学年同一クラスの女の子だ。
しずくとは、入学当初から、席が隣で、よく僕と話をしていた。毎日話すようになり、話しているうちにお互いの趣味があっていたり、好きな歌手が同じだったり、と僕としずくの共通点が次々と見つかり、僕はしずくに夢中になっていった。
6月ぐらいに突然大雨が降ってきた日があって、帰宅途中だった僕としずくは大慌てで雨宿りする場所を探した。
「私の家がすぐ近くにあるんです。来ますか?」
その時、僕はしずくの家に行った。何しろ本当に大雨で服とか靴とかがびしょびしょだったからね。雨が、普段なら恥ずかしすぎて絶対に断る僕にしずくの家に行く勇気を与えてくれたんだ。しずくの家でしずくの母や父に自己紹介をした後、少し会話をしただけで、すぐに母や父とも打ち解けていった。
本当に楽しかった。毎日が楽しかった。
でも僕はしずくのことが好きでたまらないのに、告白することはできなかった。
僕は中学二年生の時に別の女の子に告白して、思いっきり断られて、なぜか次の日からその女の子が口を聞いてくれなくなっちゃったんだ。中学三年生の卒業式になっても一度も話すことはなく、その女の子とは今は何も連絡を取り合っていない。
そのせいで僕は恋愛恐怖症になったのかもしれない。しずくのことが好きで好きでたまらないのに、好きという気持ちだけはどうしても伝えることができないんだ。
その悩みを自らの内に秘めている時に、青人魚のまじないを知った。
僕はしずくに青人魚のまじないのことは伝えず、単に青い髪の人魚が確実に姿を見せる方法があるから試してみたいと海へ誘った。
しずくは僕の誘いに嬉しそうに乗ってくれた。人魚はこの世界には運が良ければ海に行くと出会えるけど、それでも滅多に出会うことができない。だから、しずくは人魚探しに乗ってくれたんだと思う。
僕としずくは七月二十日に人魚探しを決行した。天気予報はたしか曇だった。
「そういえば、なんで人魚探しなんです? それも、青い髪の」
徒歩15分程度で、海に到着してしずくが最初に聞いてきたのがそれだった。
「そ、それは……」
まずい。しずくが理由も聞かずすんなりと僕の誘いに乗ってくれたから、青人魚探しの理由を考えていなかった。
「それは?」
しずくが僕の顔を覗きこんでくる。透き通った目が僕の思いを見透かしそうで思わず目をそらした。
僕の心臓はバクバクし出した。
「それは、しずくの髪の色と同じ髪の色の人魚に会ってみたいと思ったからだよ! 僕、人魚好きだし!」
苦し紛れに出た言葉が、本当に苦しいものだった。うわ、何言ってるんだろう僕。
僕の唐突に発生した謎の勢いに圧倒されてか、しずくは「そ、そうなんですか」と返答し、困惑気味の表情を浮かべた。
「それじゃ、行こうか!」
僕の顔が赤くなっているのが僕自身でもわかっていた。だから僕はしずくの手を引っ張って前へ前へと進んでいった。
「あっはいっ!」
砂浜を駆け巡り、僕としずくは海水に足を入れる。夏なんだけれども、曇ってるし風は強いし、水は冷たい。
さっきのことで跳ね上がってしまった心拍数をなんとか抑えるために、一度だけ大きく息を吸って吐く。
それでもドキドキは止まらなかった。
「それじゃ、僕に続いて同じことを言ってね」
「わかりました」
このまじないは本当に本物なのかな。本物だったら、僕の願い事は一週間後に叶っちゃうんだ。
そんなことを考え出すと僕のドキドキは増す一方だから、考えるのをやめようと思ったんだけど、どうしても頭からそれが離れない。僕はドキドキを治すことは諦めた。
僕は目を閉じ深呼吸をして、それから目を閉じたまま大声で叫ぶ。
「人魚さん! 願い事を叶えてください!」
しずくに自分の気持ちを伝えられますように!
「人魚さん! 願い事を叶えてください!」
しずくも僕に習って、同じように叫んだ。
「……」
「……」
沈黙の時間がしばらく続いた。
沈黙の間、僕のドキドキは徐々にしずくへのドキドキから髪が青い人魚が現れるかどうかに対するドキドキへと変化していった。
髪が青い人魚は現れない。
「人魚さん出てこないですね……」
「うん……」
デマだったみたい、だね。やっぱりおまじないなんて、こんなものだよね。
僕のドキドキは完全に無くなった。さっきまで燃え盛っていた炎が一気に鎮火する感じ。
「デマか……戻ろう、しずく。お腹すいてきたし、お昼ごはんでも食べよう……」
しずくはコクリと頷く。
「はい」
僕は後ろ、つまり砂浜側へ振り返る。
そこには砂浜なんて。砂浜なんてなかった。
「え……?」
一面、海海海。
すでに足場なんてものは無くて、僕はいつの間にか肩まで沈んでいた。
僕は泳ぐのは得意な方だったため、溺れることは無く、なんとか水面上に顔をだすことを維持できた。
なんだこれ。なんで僕はこんなところに。
「きゃぁッ!」
しずくの悲鳴が聞こえた。しずくは不規則な動きで水上で暴れている。今にも溺れそうだった。
「し、しずくッ!」
しずくが危ない。
僕はしずくの手を強く握った。
「わ、わたっ、わたし泳げないんです!」
「しずくッ」
しずくは錯乱していた。
僕は迷わずしずくを自分の身に引っ張り寄せる。
助けを呼ばなきゃ。助けを呼ばなきゃ。助けを呼ばなきゃ。助けを呼ばなきゃ。助けを呼ばなきゃ。助けを呼ばなきゃ。
「誰か! 誰か助けて!」
僕の声は波の音に打ち消されていく。どんなに叫んでもどこにも届かない。口の中はしょっぱくなっていった。
気がつけばすぐそこまで大きな津波が押し寄せてきていた。
嘘、でしょ?
逃げ場なんてないし、もうどうしようもなかった。
僕は思いっきりしずくを抱きしめた。
それから必死に周囲を見渡す。
そしたら、僕達以外にも女性が海の上に浮かんでいるのが見えた。
髪は明るい青だった。
その女性は海の中に潜り込んでいく。
その時、尾びれが見えた。
僕はそこで何も見えなくなった。
カチッカチッカチッカチッ
「……ん」
時計の針が揺れる音が聞こえる。
目を開けると、見えたのは天井。
僕の横には時計が設置されていて、針は四時五十分を指していた。
自室だった。
どうやら僕はいつの間にか夢を見ていたらしい。
……でも、いつから僕は夢を見ていたのだろう。そもそも寝る直前の記憶が全くない。
そういえば、今日は何日?
僕はすぐさま起き上がって、机の上から充電中のスマホを手に取り、日にちを確認した。
七月二十一日。
僕の記憶があるのは七月二十日までだから、今日はその次の日だってことになる。
僕の記憶の中では、七月二十日にしずくと一緒に海に行って、青人魚のまじないをしたはずだ。
そしてその後に、あの謎の現象が起こった。
でも、僕がこうして自室のベッドで目が覚めたということは、あれは夢だったってことになる……んだよね。
じゃあ昨日は何をしたんだろう。
しずくはどうしていたのだろう。
僕はそのままスマホを操作し続けた。
しずく。しずくが心配なんだ。あれが。あの夢が実は夢ではなくて本当に起こっていた可能性はゼロじゃない。だから僕はしずくに連絡を取ろうと思っていた。
「……あれ?」
僕はスマホを操作し続ける。
「あれあれあれ?」
メールアドレス一覧を見たり、電話帳を見たり、LINEのフレンドを確認したり……。
「ない……?」
そう、しずくに関するものは何もかも消え去っていた。
いやいやいやいや。おかしいでしょそんなの。
スマホの裏、表、カバー、入っている写真、アプリ。いろいろ確認したけれど、どこからどう見ても僕のスマホだった。正真正銘僕のスマホだった。
僕は何も操作せず、ただただ呆然とスマホの画面を眺め続ける。
一体どういうことなんだ。何が起こっているんだ?
さっきまで海岸にいたと思ったら、いつの間にか海岸が見えないようなところまで移動していて、いつの間にか僕は寝ていることになっているんだ。あれが夢じゃないとするとね。
普通に考えたら、そんなのおかしい。ありえない。
ありえないことを体験しているということは……。
「あー」
もしかしたら僕は今も夢を見ているのかもしれない。今も実は夢の途中だってこと。
夢ならこんな超常現象が起こっても何もおかしくないよね。
僕は一気に冷静になった。
よし、夢だってことにして今はとりあえずもう寝よう。
僕はスマホを元の位置に戻し、寝床に戻る。
布団にくるまりながら、なるべくすぐに寝付けるように目をぎゅっと閉じて、何も考えないようにした。
僕はおよそ七時に再び起床した。布団から外に出て、ノロノロと着替えをする。
二度目の睡眠時間が微妙な時間だったためか、あまり目覚めのいい朝ではなかった。
これだから、二度寝はあまりしたくないんだよね。
そう思っていた僕の着替えをする手がピタリと止まった。
……いや、違う。二度寝じゃないはずだ。あれは夢だったんだと僕の中では完結している。
僕の推測を裏付けるためにさっさと着替えを終え、スマホに手を伸ばし、しずくに連絡を取ろうとした。
けれども、しずくに関するものはやっぱり何もかも無くなっているままだった。連絡をすることが出来ない。
「どういうことなの……」
なんで、しずくに関する情報が僕のスマホから何もかも消えているのか。
焦っている僕の脳裏に、海で溺れそうになっていたしずくが思い浮かぶ。
まさか。あれは夢なんでしょ?
僕の頭はこんがらがってきた。
「いや」
もしかしたら、僕のスマホに問題があるのかもしれない。
たまたま、僕のスマホが何らかの原因でしずくに関するデータだけスルリと壊れた。その可能性はゼロじゃない。
それならば、直接しずくの家に行けばいい。
僕は朝食をとってから直接しずくの家を訪ねることにした。
「ちょっとまって……」
僕は、インターホンを押すことを出来ないでいた。
嘘でしょ?
きょろきょろと周囲を見渡す。
インターホンが見当たらない。
というよりも。
しずくの家自体なかった。なかったことになっていた。
まるまる無くなっていて、ただの雑草で荒れている空き地になっていた。
場所を間違えちゃったのかと思って、念のためスマホの地図アプリで確認したよ。だけれど、現在地は完全にしずくの家だった。
僕の考えていた最悪の事態は、しずくの家が別の人の家にすり替わってしまっていることだ。
しかし現実は僕の予想をはるかに上回っていた。
僕はまだ夢を見ているのか?
夢ならさっさと覚めて欲しい。しずくのいない世界なんて嫌だ。嫌だ。嫌だ。
僕は震えている手で、スマホの画面を見る。
八時二〇分。
いつもなら学校へ向かっている途中の時間帯だ。
でも今の僕には学校に行く気力なんてものはなかった。まだ、しずくに関する情報の手がかりがある場所が存在する。
僕はいてもたってもいられず、走りだしていた。
「しずく……!」
向かう先は海岸。もちろん、あの時、僕としずくが『青人魚のまじない』をした場所だ。
砂浜の上を駆け抜けた。
そして、海水に浸る直前のところまで移動すると、僕は呼吸を乱しつつも、大声で叫んだ。
「しずく!」
いますぐにでもしずくに会いたい。
最初から青人魚のまじないなんてものに頼ろうと考えるべきじゃなかった。
昔の僕みたいに、そういうオカルト的な話を信じなければ、こんな事にはならなかった。
しずくに僕の気持ちを伝えることが今はできなくとも、きっといつか、伝えられるようになる日があったかもしれないじゃないか。
どうして僕はこんなおまじないを信じちゃうぐらいに弱いのだろう。
本当に僕は弱い。
「しずく! いるなら返事して! 返事してよッ!」
……過去の過ちを悔やんでも仕方ない。今はそんなことを考えるよりもしずくを探す事のほうが大事だ。
僕は大声でしずくの名前を叫ぶ。叫び尽くす。
名前を叫ぶ度にしずくがいないか探す。
もしかしたら、今までのことは全部ドッキリで、しずくが後ろからひょっこりと現れるかもしれない。
そしたら、今度は、今度こそ本当に僕の気持ちをはっきりと伝えよう。
だから、お願いだから、出てきてしずく。
しずくッ!
「……あのッ!」
その透き通った声に僕は即座に反応し、声がした方向、つまり海を見た。
「さっきから、しずくしずくうるさいです! 少しは静かにしてもらえませんか! 寝てたんですけど!」
「え……あ、え……?」
それは上半身のみを海面より上に出していた。
明るい青の髪。その髪は背中までまっすぐ綺麗に伸びていて。
生まれたままの姿、というわけではなく、胸部には大きな貝殻が二枚当てられていた。
「もう、起こさないでくださいね!」
「あ、はい……」
その青髪の少女らしきものは、再び海の中に潜っていく。
潜っていくときに、一瞬魚の尾びれが見えた。
「……え、人魚?」
今のは見間違えでなければ、間違いなく人魚だ。
そもそも海の中にいたのに、寝ていたって発言は人間がした発言だとはとても思えない。
……。
――『青人魚のまじない』。
僕の脳裏にははっきりとそれが過ぎった。
今なら青人魚のまじないが試せるかもしれない。
きっとしずくと青人魚のまじないを試したときは、青髪の人魚さんが寝ていたから効果がなく、むしろ逆効果になってしまったのかも!
「ちょ、ちょっとまって人魚さん!」
僕はさっきとは違って今度は、人魚さん人魚さんと連呼する。
少しシュールかもしれないけれど、海面に向かって連呼する。
着ている服が濡れることなんてお構いなしにずんずんと直進し、叫び続けた。
何度かそうして僕の肩にまで海水が浸り始めた時に、再び海面からさっきの人魚が現れた。
表情はかなり不機嫌そうだった。
「あー、もううるさいですね! 人魚さん人魚さんって、私に何か用なんですか!」
まだしずくをこの世に再び存在させることが出来るかもしれない。
その希望を持って、僕は人魚さんの目の前で目を閉じた。
「人魚さん! 僕の願いを」
叶えてください!
そう言おうとした。そう言いたかった。
「やめてください!」
ッパーン。
きれいな音が聞こえた。
一瞬何が起こったのか分からなかった。だって、おまじないを阻止された上に、やめてくださいって発言。
僕の右頬がじんじんする。その痛みで人魚さんに何をされたのか理解できた。
あーそうか、思いっきりビンタされたのか。
そのことを把握した僕は僕にビンタした人魚さんを睨んだ。
「なんでビンタするのさ! 僕は青人魚のまじないをしようとしただけなのに!」
「それが問題なんです! 青人魚のまじない、いえ、青人魚の呪いはもう絶対に、絶対にしないでください」
「いーや、絶対にするもんね! 僕には叶えたい願い事があるからね!」
絶対に僕のせいでいなくなってしまったしずくを取り戻したい。
僕は人魚さんの言うことを完全に無視してもう一度目を閉じた。
ッパーン。
「痛いよ!」
今度は左頬をビンタされた。
お願いだから一回でいいから……そう言おうとしたのに、僕は人魚さんを見て、言う気が無くなってしまった。
人魚さんは泣いていた。海水でまだ若干顔が濡れているのにもかかわらず、泣いているのが分かるぐらい大粒の雫を目から流していた。
「お願いっ……ですから……それだけはやらないでください……っ」
「な、なんでよ……僕は、僕のせいでいなくなってしまったしずくに会いたいだけなのに」
僕だって泣きたいよ。
人魚さんは大粒の涙を流しながら、僕の手をぎゅっと掴む。
「え?」
「……ちょっと来てください。寝ている訳にはいけなくなりました」
その発言を聞き終える頃には僕はおもいっきり引っ張られていた。
「がぼがぼぼぼおぼぼぼぁぼぼぼッッ」
僕は海の中に引っ張られた。
呼吸が出来ない。やばい。死ぬ。
抵抗しようにも、一方的に引っ張られるだけで何もすることが出来ない。
僕は意識を失った。
意識が朦朧としている。
僕は横になっているみたいで、僕の唇には柔らかい感触があった。それから、空気を送り込まれ、暫くしてから唇の柔らかい感触はなくなり、今度は僕の胸部が圧迫された。
「ゲホゲホッゲホ」
僕は肺からこみ上げてくる液状の何かをおもいっきり口から吐き出した。
「はぁっはぁっ」
「大丈夫ですか!?」
「なんとか……ゲホッ」
僕はゆっくりと目を開ける。
視界に入ったのは、僕を今にも泣き出しそうな顔で見ているさっきの人魚さんだった。
周囲は薄暗く、岩がゴロゴロしており、どこかの洞窟のようだった。波の音も近く、岩が湿っていることから、海の近くだってこともなんとなく分かった。
人魚さんは僕の顔に涙をぽたぽたと垂らす。少しだけ泣いていた。
「ご、ごめんなさい! 人間が海の中で呼吸できないことをすっかり忘れていました……」
僕はなんとかゴツゴツした岩に手を置きながら起き上がろうとする。
「だ、大丈夫……このぐらいゲホッ」
「無理はしないでください!」
人魚さんが強制的に僕を再び横にした。
「しばらく横になって私の話を聞いてください」
「わかった」
僕がそう返答すると、人魚さんは一呼吸おいて、涙を手でぬぐってから話し出す。
「青人魚のまじない……あれは、本来は青人魚ののろいと呼ばれていました」
青人魚ののろい?
「で、なんでそう呼ばれるようになったのかと言いますと、『まじない』を漢字で書くと『のろい』と同じ漢字になるんです。それで、誰かが青人魚のまじないと読み方を勘違いして、この『呪い』は一部で広がりました。しかも、『呪い』の内容も変えられて」
僕の友人も青人魚のまじないと言っていた。
つまり、僕の友人も間違った情報を他の人から受け取ったということだ。
「本来の青人魚の呪いは、自分の願い事が叶う代わりに、大きな代償を払わなければいけない、というものなんです。ですが、まじないと呼ばれるようになる頃には、大きな代償を払わなければいけないという部分が伝えられずに広がりました」
大きな代償。僕にとっての大きな代償は、しずくを失うこと。
だとしたらしずくのいないこの世界で、僕の願い事は6日後にどんな形で叶えられるのだろう。想像もつかない。
僕の心はもやもやしていた。
「ですから、本当に青人魚の呪いはやらないでください。それと、」
「ねえ」
「はい?」
「願い事って絶対に叶うの?」
「はい、絶対に叶います」
人魚さんは、はっきりとそう答えた。
でも、どうしてそれなら、僕の代償はしずくなんだ?
なんでしずくなの?
なんで!
自問自答は止まらない。
「……それだと、おかしいんだよね」
「おかしいって何がです?」
僕は起き上がる。人魚さんは一瞬止めようとしたけど、僕が大丈夫そうであるのを見てか、止めなかった。
「僕の願い事は、ある少女に本当の気持ちを伝えることだったんだ。でも、その願い事の代償としてある少女がいなくなっちゃった。ねえ、どうして?」
「そ、それは……」
人魚さんは悲しそうな目をする。薄暗い洞窟にマッチしそうなくらいに悲しそうな目だった。
僕の中で何かが爆発する。
「しずくがいなくなっちゃったら僕の気持ちを伝えることなんてできないよね? なんで、僕の願いを叶えてくれた誰かはそんな代償にしちゃったわけ?」
しずく以外に代償になるものはいくらでもあったはずだよ。
例えば、僕の記憶だとか寿命だとか。
……今の僕なら自分の家族だって代償にしちゃうかもしれない。
「それは……私にもわかりません」
人魚さんはまた泣きそうになっていた。
それを見て僕はハッとなる。
人魚さんは何も悪く無い。悪いのは、そんな呪いを試した僕じゃないか。人魚さんを攻めてどうする。どうなる。
どうにもならない。それに気づいた僕は、一気に心の爆発が収まる。
「ご、ごめん。悪いのは呪いを試した僕なのに、人魚さんを攻めちゃって本当にごめん。人魚さんは何も悪くないもんね……」
僕の怒りは一気に悲しみへと変わっていった。心の中で雨が降り出した。
今、僕の精神はかなり不安定な状態にある。だから、感情をコントロール出来ないで、人魚さんに当たっちゃう。
少し落ち着こうか僕。
「……」
「……」
お互い何も言わない。なんだか少し気まずくなってきた。
その状態が1分ぐらい続いた後、人魚さんがなにか思い切ったような表情で、僕のことを見て、「あの」と声をかけてきた。
「な、なに?」
「私にも責任はあると思うんです。だから、私がしずくさんを失ったことによってあなたの心に空いた穴を埋めてあげたいです」
「……?」
「ここには、後6日ぐらいしか居ることができないですが、私がその間、しずくさんの代わりになれたらいいなって思います」
「何を言ってるの?」
しずくの代わりになれるわけがない。へんな冗談はやめてよ。
しずく以外の誰かがしずくの代わりになることなんて出来ない。仮にしずくが双子だったとしても、もう一方の人が100%完全にしずくの代わりをすることは無理だ。だって、しずくはしずくで他人は他人なんだから。
人魚さんは前に乗り出しながら、
「毎日、この洞窟に来てください。私はいつでもここにいますので!」
「……」
僕には人魚さんの行動が理解できなかった。
そんな人魚さんは、笑顔になって僕の手を握った。無理して笑顔を作っているのが、まるわかりだったけど。
「そういえば、私はあなたのことをなんて呼べばいいですかっ? 私のことはなんて呼んでもらっても構いません」
僕はその質問に思わず反応してしまう。
「ぬーくん」
ぬーくん。しずくが僕のことをいつもそう呼んでいた。
「分かりました! では、これから6日間よろしくお願いしますね、ぬーくん」
「う、うん……」
なんでだろう。しずく以外の人にぬーくんと呼ばれることは初めてなのに、呼ばれて嫌な気分にはならなかった。それでもしずくの代わりになれるはずがないって気持ちは何一つ変わらないけどね。
人魚さんがいる洞窟は、海岸のすぐ近くにあった。今まで、何度もこの海岸に来ているのに気付かなかったなんて、なんか変な感じだね。
僕は濡れて重くなった服を着たまま、サクサクと砂浜を歩く。
……人魚さんが毎日洞窟に来てくださいって言っていて、成り行きで了承しちゃったけど、一体人魚さんは何をするつもりなんだろう。僕の心の穴を埋めるだなんて相当難しいと思うよ。なんだって、しずくとの今までの思い出全部失っちゃったからね。僕の心は穴が開いたというより、心を月に例えて心が三日月になっちゃったって言ったほうが的確だ。
もう、この世界にしずくはいないんだ。
僕は思わず手を強く強く握りしめた。
……この話はやめよう。また、悲しい気持ちが僕を支配してこようとしてくる。
その後の話をすると、僕は帰宅して親になんでそんなに濡れているのってすごく心配されたけど、僕は「帰りに海に寄っていたら転んじゃってしまって」って嘘を突き通した。
親は最初はいろいろ言ってたけど、僕が嘘を突き通し続けていたら言及してこなくなった。その後の話はそれだけ。
人魚さんと出会ってから二日目。
僕が人魚さんの元に行くと、人魚さんは本当に嬉しそうに笑いながら、迎えてくれた。その日は、イルカとのコミュニケーションの取り方とかほら貝の上手な鳴らし方とか本当に色々教えてくれた。
人魚さんと出会ってから三日目。
その日は人魚さんと一緒にたくさん泳いだ。あんまり海岸から離れているところにまでは行かなかったけどね。
人魚さんと出会ってから四日目。
この日は僕が人魚さんを楽しませてあげようと、音楽プレーヤーを持っていって、人魚さんにいろんな曲を聞かせてあげた。人魚さんは音楽の存在自体を知らないらしく、どの曲にも驚いたりしていて、表情を見ているのが楽しかった。
人魚さんと出会ってから五日目。
人魚さんと会えるのは明日までだって思うと少し悲しい。その日は、くじらの潮吹きイルミネーションを人魚さんと鑑賞した。人魚さんは帰り際にこう言った。
「明日は……最後の日なので絶対に来てくださいね!」
人魚さんと出会ってから六日が経った。
昨日、人魚さんは明日必ず来てって言った。
だから、僕は小雨が降っているにもかかわらず、いつもの洞窟に足を踏み入れた。
そこには、人魚さんがいつもみたいに湿った岩場に居座っていた。
「人魚さん、来たよ」
人魚さんは僕の声に気が付き、笑顔で迎えてくれる。さみしげな笑顔で。
「ぬーくん、こんにちは」
人魚さんと出会ってからは、だんだん毎日が楽しくなってきていた。完全にしずくの代わりには僕の中ではなっていなかったけど、それでもしずくと一緒にいる時のように楽しかった。
だからその分、会えなくなるのは悲しい。でも、人魚さんのお陰で、しずくを失ってしまったことのショックをある程度は和らげることが出来た。
そこは感謝している。
僕は人魚さんの元に歩み寄る。
「ぬーくん。一つ聞きたいことがあります」
人魚さんは神妙な表情をしていた。
人魚さんは一体何を聞いてくるのかな。
僕は想像してみる。この6日間はどうでしたか? とか、しずくさんの代わりになっていましたか? とか心の穴は埋まりましたか? とかかな。
「今でも、しずくさんへの気持ちは変わりませんか?」
その問いかけは僕の想像と全然違っていた。虚を突かれた気分。
「う、うん。変わらないよ」
「そうですか……では、」
人魚さんは一体何を言い出すつもりなんだろう。
僕には、人魚さんの思考が全く分からなかった。
「その、しずくさんの気持ちを教えて下さい」
その人魚さんの言葉は。
「そ、そりゃ、しずくのことは大好きだけど……あ」
その人魚さんの言葉はひとつの解を僕にもたらした。
バラバラのピースがどんどんひとつになっていく。パズルが完成していく。
なるほど、そういうことだったんだね。だから、そんな問いかけを。
でも、僕は問いかけに回答してしまった。
もう『気持ち』を伝えてしまったよ……。
鳥肌が立った。寒くもないのに手が震えだす。
人魚さんは悲しそうににっこりと微笑んだ。
途端に人魚さんの周囲が青白く輝きだした。雨が降っていていつにもまして薄暗い洞窟が明るく照らされる。
眩しくて、人魚さんの顔を直視することが難しくなった。それでも僕は人魚さんの顔を見た。見続けた。
「はい。これで、ぬーくんの願い事は叶っちゃいました」
僕の目から雫が滴り落ちる。止まらない。
「まってよ、しずく」
そう、人魚さんの正体はしずくだったんだ。
僕は、今までずっと僕の願い事の代償はしずくがこの世界からいなくなることだと思っていた。
それは間違いだってことに、今気がついた。
僕の願い事の代償は、しずくが青人魚自身になることだったんだ。
「嘘でしょ? まってよ!」
そして、人魚さん、いや、しずくが後6日間しか一緒にいられないってことはつまり、僕の願い事を叶えたら、そのままいなくなってしまうってこと。
「最後に伝えたいことがあります。ぬーくん」
しずくの体が徐々に周りの青と溶けこんできている。存在が消えかけている。
「わたしも、ぬーくんのことがだいすきです」
僕は必死にしずくが消えない方法を考えていた。
「ぬーくんの気持ちが聞けてよかったです」
どうすればいいんだろう。どうすれば。
「今までありがとう」
僕は記憶の迷路をがむしゃら走り回った。
今までのことを思い出す。必死に思い出す。
何か、ヒントがあるかもしれない。
「勝手に消えちゃうのは、少し身勝手だと思うけど、でもどうしようもないんです。ごめんなさい」
記憶の迷路のゴールが見えてくる。
ああ、そうか。これなら、しずくを救うことが出来るかもしれない。
青人魚の呪いをしずくが完全に消えてしまう前にやればいいんだ。
願うことはもちろん、『しずくをこの世界から消さない』こと。
「いろいろ言いたいことがあるけど、時間だから」
しずくはもうほとんど見えない。今にも消えてしまいそうだった。
僕は大きく空気を吸い込む。
この可能性に賭けるしかない。もう、これしかないッ!
僕は思いっきり目を閉じて、力強く叫んだ。あらゆるもの全てに、僕の声が届くぐらいのつもりで。
「人魚さん! 願い事を叶えてくだ――」
――さい。
最後まで言うことが出来なかった。
「んぐぅっ!?」
気がついた時には、消えかかっているしずくの顔が目の前にある。
僕はしずくにやさしく口を塞がれていた。
しずくを突き放そうと思っても体が言うことを聞いてくれなかった。
全身から力が抜け落ちる。
やがて、しずくはゆっくりと僕から唇を離し、最後にニッコリと笑う。
「強く生きてくださいね、それじゃあ……ばいばい」
しずくを取り巻く青白い光はどんどんその強さを増していき、しずくを包み込んでいった。
そして、青白い光は薄暗かったはずの洞窟の中で一気に拡散する。
そこにはもう誰も、何も無かった。
僕はゴツゴツした岩場にへたり込んだ。
涙は相変わらず止まらない。
後悔しても後悔しても後悔しきれない。こんなことになってしまったのは全部僕のせいだ。
唇にまだ残る柔らかい感触は、僕を苦しめる。
洞窟の外はいつの間にか雨が止んだらしく、日光が僕を激しく照らす。
でも、僕の中では雨はずっと降ったままだった。
了