その2
依頼者の純子が帰った後、木俣さんがハイライトを口に咥えたまま
「良かったじゃん! あんな綺麗なネエチャンと夜間にバス旅行だ、何てさ!」
「何が良かったじゃん、ですって? 護衛ですよ、護衛! 何か起こりそうだから、護衛するんでしょが! んもう、四六時中見張っとくなんて絶対神経が磨り減りますって」
だが木俣さん、そんな、顔を紅潮させている相手に
「これで何か起こったらさ、西村京太郎っぽくね?」
「な、何を言ってるんですか! 何か起こったら、残りの十五万円はパアになりますよ!」
「おっと、そらそうだ」
「はあー」
溜息をつくしかない、おにぎり君だった。
三日後の八日の日。普段より律儀な田部君、ネクタイも緩めようともせず、今日もやはり七時きっかりに、バス乗り場に姿を現していた。事務所を出てくる際に主の口から発せられた一言が、今なお耳にこびりついている。
「豚にも衣装だね!」
(馬子にも、だろが)
そして、その三十分後、時刻どおりに純子が手を振りながら駆け足でやってきた。
温暖化とはいえ、さすがに十月も夜となれば肌寒い。彼女はベージュのハーフコートを身にまとい、手袋までしている。
「遅れてすみません」
「あ、いえ。僕の方が早く着きすぎちゃって」
果てしなく優しい見上げたおにぎりだったが、相手が周りをキョロキョロうかがっているのに気づき
「誰かお探しですか?」
「え? あ、いえ。何人くらいの人が乗るのかなあ、って……でね、時間に追われていたんで、これごと持ってきちゃいました」
そう言いながら、純子がバッグから取り出したものは
「グ、グレープフルーツ?」
「ええ。どうしても食べたかったんで」
と言って、舌をペロッと出している相手。これに思わず田部君
「カ、カワイイ!」
「え?」
「あ、いえ……それ持ってきても、皮を剥く物がないなあって」
「それならご心配なく」
そして、またもやバッグの中より
「ジャ、ジャーン!」
「く、果物ナイフですって!」
「ええ。剥く時間すらなかったんですよ」
そう笑って、すぐにナイフで剥こうとする相手だったが、これが危なっかしいことこの上ない。
そこは地平線の向こうまで気の良いおにぎり君、相手からグレープフルーツと果物ナイフを取り上げ
「僕が剥いて差し上げますよ」
「あ、有難うございます!」
良いムードの中を二人で半分ずつ分け合って食べた後、ずっと相手の顔を見ている田部助手。そこに
「私がいくつか考えてるんでしょう?」
図星だった。アニメのヒロインたちの年齢はすぐに判断できるのだが、何せこの男、生身の女性にはからっきしなのだ。
「え? そ、そんな」
「いいんですよ……来月に、二十四になります。所謂、年女ですね」
『年女』とは、似合わない言葉を出してきた相手。これに、誰も聞いちゃいないのだが
「僕は二十八です」
「そうですか」
この時、一台のバスが広場にやってきた。
「あ、あれですね!」
「寂しいんですね、案外。僕はてっきり、何台ものバスが待機してるかと」
「ああ、春頃まではそうでしたよ。ほら、例の事故より規制が厳しくなって、経費がかかりすぎるとかで各ツアー会社が撤退したんです」
「なるほど」
「何でも長距離路線バスとツアーバスの二つがあったものが、路線バスに一本化にされたとかで、こんな発着所を持っていないと営業できなくなったそうです」
「つまり旅行代理店たちが営業できなくなった、って訳ですね?」
これに純子が頷いた時
「仙台行きのバスにご乗車の皆様、お集まり下さい!」
乗車口の右に貼ってある座席表に、各客の名前が記されている。それを凝視している純子さん。
「どうかなさいました?」
返事がない。
「もしもし? 早乙女さん?」
ここでようやく彼女は
「え? あ、いえ。結構、満員なんだなあって」
バス内は、無論男女の隣り合わせはない。従って、おにぎり君と純子さんは離れ離れ、彼氏が後方で彼女が前方の席だ。
「これは良かった」
口元を緩めた田部君、彼女の姿――頭のてっぺんだけだったが――が、見えるからである。怪しい者が近づけば、すぐにわかる……今は。と言うのも、賤ヶ岳サービスエリアで休憩を取った後は、車内が消灯になるからである。そう先程、運転手より説明があった。そして、彼にとってもう一つ良かった点は、通路側の席だったからである。これがもし窓際だったら、小心者のこの男、三時間毎のトイレ休憩のたびに通路側の客を起こす羽目になる。これが申し訳ないのだ。ならば跨げばいい? この短足では、それも至難の業。
ケータイにうつつを抜かしていた田部君、ふと窓の方に目をやったが
「あ、そうか。カーテンは閉めとかなきゃいけないんだ」
高速道路の標識が見えないとわかり、彼氏はケータイのナビアプリで現時点を調べだした。
「へえ! すでに北陸自動車道に入ってたんだ」
便利な時代になったものだ。
すでにバスは、米原ジャンクションで名神高速道路に別れを告げていた。