④⑤⑥
〔4〕
「小説家、その人……誰?」
付き人が一人増えた事を疑問に思ったのか、月乃が真っとうな質問を投げてきた。
「いや――ただ愛好者だよ。愛好者。もう少し、彼らの過去を知りたくて、彼女に色々訊ねていたんだ。彼女、怨霊座について中々詳しくてね」
虚言ばかりを並べている私の顔は酒酔いでもしたかのように赤くなっていた――と思う。
私達は怨霊座の大阪公演が行われた心斎橋から地下鉄で一駅離れた難波に訪れていた。まだ顕仁との待ち合わせ時間までに随分と時間がある為に、着物美人を誘ったのである。
「なんか、顔赤くない? 熱でもあるの?」
「熱なんかあるわけないよ」
そう言って、私は大きくガッツポーズをした。私なりの元気を月乃にアピールした心算だ。しかし、彼女はあからさまに不思議そうな眼付になり、じっと私の猿顔を見つめてくるのである。私は――不器用なのだ。これ以上、月乃に居て貰っては、迷惑だと感じた私は、何とか彼女に帰って貰う方法は無いかと思考錯誤していた。
「そう? でも、やっぱり何か怪しい……」
「そう言えば、月乃。明日の朝から大学のゼミがあるとか無いとか言っていなかったか?」
私は話題を切り替えようと必死だった。
月乃は、はっとしたように腕時計に視線を落とした。
「あっ、そうだった」
「もう八時を回ってるから、帰った方がいい。なっ」
諭すように言うと、月乃は疑う様な目付を浮かべながら、更に冷たい視線を送って来た。勘の効く女である。月乃は溜息を一つ吐き、私の心境を読み取ったのか、呆れた様に「なるほどね」と呟き、その場から帰って行ったのである。地下鉄駅に向かっていく月乃の後姿に手を振ると、着物美人は、「いいんですか?」と、問うたので、私は不器用な微笑を浮かべ「いいんですよ」と溌剌と言って見せた。
私達は場所を移し、駅前の商店街にある喫茶店に入った。
店の窓際の席に対面するように腰を下した私は、注文を尋ねに来た店員に、アイスコーヒーを二つ注文し、グラスに並々と継がれた冷水を啜った。ここまで来るとやはり彼女の服装は異質な様で喫茶店の客達の目を惹いていたのだが、着物が似合っている日本的な美人なので、誰も文句は言うまい。店にいる男性客は彼女にちらちらの視線をやっていた。
「――そう言えば、まだ名前を訊いていなかった」
私は俯き加減の彼女に言った。
「藤原彰子と言います」
「御影吉秋」
簡単な自己紹介が終わった頃、店員が珈琲をテーブルの上に置いた。
「小説家って、貴方のあだ名かしら?」
彰子は、先ほど月乃が言った事を思い出したのだろう。アイツは私の名前を職業で呼ぶのだ。全く知らない赤の他人の前でも、月乃はそのスタンスを決して変えようとはしない。よって月乃と私が一緒にいるという行為は、赤の他人の前で、瞬時に自らの職業を明かすという事なのだ。だが、今回は何故か赦せる様な気がした。
「職業ですよ」
「若いのに小説を書くなんて珍しいですね」
彰子は微笑んだ。彼女の眩しい表情に私は目が眩んだ。どうしようもない羞恥心が心をさいなんでいく。情けない。こんな美人を目の前にしているのに、私はこんなに情けない服装をしている。 なんだか、消えてしまいたい様な心境になった。
彰子は珈琲を上品に啜った。
白いカップに艶やかな朱唇が触れる度、私の鼓動は早くなる。そんな盛りのついた子供の様な想いを掻き消そうとすれば、する程、消えたくなった。
「売れていますか?」
短絡的な質問である。
「いえ、全然。まだ駆け出しなもので」
また――消えたくなった。
その時である。
私は、彼女の左手薬指に煌く銀色の指輪に気がついたのだ。白いカップを握った左手で光光と輝くそれは、正しく婚約指輪だった。
「あの――もしかして結婚してるんですか?」
無数の寄生虫達が心臓を食い破るかの如く、胸が痛かったが、避けては通れない質問である。
「え?」
彰子は、あっと声を洩らした後、自分の左手薬指に嵌った指輪を見て、どこか愁いに満ちた一目で、それを見据えた。そして、言葉を続ける。
「――鎖の様なものです」
意味が分からない。
「鎖?」
「彼が、私に浮気しないように嵌めて欲しいって。これを付けてれば男は寄ってこないから、一年ほど前に彼が贈り物してくれた指輪なんです。何時、結婚するかはまだ分からないけど、兎に角、余程の心配症なのか、私がこれを付けていないと、彼、すごく、機嫌が悪くなるの」
彰子が嵌めている銀の指輪の表面には、小さな英文字が刻印されているが、何と綴られているかは分からない。
「そうなんですか――彼からの贈り物……」
言葉が続ける事が出来ず、私は俯いてしまった。
――跡型もなく消えたくなった。
心の中に咲いた美しい桜がひらひらと散った。
そこに残ったのは果てしない空虚である。
「吉秋さんは、どうして小説家になろうと思ったんです?」
話題が切り替わった。
私にとっては好機な質問である。このまま、彰子の恋人の話になれば、私は平静を保っている自信が無い。本当に自分が恨めしい。
「友達が少なかったからですよ――」
「え? 友達?」
「苛められっ子だったんです。近所の子供達によく悪戯されて、上辺だけでは仲好くしてくる癖にいざって時は平気で裏切ってくる。一時は凄く悩んでいたけれど、それが人の本質なんだって、なんとなく分かる様になってきて、どうしても友人を作る気になれなかった。――独りの時間が増えたから、よく図書室に籠る様になって、それで本が好きになった。きっかけって他愛もない事なんですよ」
「そう……」
「暗い奴だって思いますよね」
言って、私は失笑した。
「そんな事ありません。人には誰にだって影がある」
「影?」
「そう。光と影。心はいつだって、その二つの要素で出来ているの。凄く苦しい時でも、笑わなきゃいけない時だってあるでしょ。特にこの社会は、自分だけに優しくしてくれるなんて事、決してないから、時には立ち上がれないくらいに苦しくなる事がある。絶望する事だっていっぱいある。自ら死を選んでしまう人も大勢いるけれども、人は生きなくてはいけないの。その為にはどんなに辛くても笑わなきゃいけないの」
「笑顔が光、苦しみが影と言いたいのですね」
そう問いかけると、彰子は口元に弧を描いた。
いい女である。
何故か心に光が差した気がした。
「さぁ、そろそろ帰らなきゃ」
私は、腕時計に視線を落とす。そろそろ顕仁との待ち合わせ時間が迫っていた。
「そうですね」
せめて連絡先でも訊きたいと言うのが素直な感想だが、私は今一つ、踏み出せずに、渋々、この出逢いを棒に振る事になる。喫茶店の前で、彼女と別れた私は、重い足取りで顕仁との待ち合わせの場所、地下鉄難波駅の南出口に向かうのであった。
――また、お逢い出来たらいいですね。
彰子はそう言っていた。怨霊座の演奏――いや、「乱」か。その乱に、また訪れたならば、私はまた彼女と再会出来るのかもしれない。
私は、怨霊座の愛好者になった。
◆◆
小さな部屋の中には巨大なテレビが一つ置かれていて、天井にはスピーカーが設えられている。照明は薄暗く、テレビの中では、延延と新曲紹介や、名前も知らない歌手の宣伝などが流れていた。駅で顕仁と再会した私はそのまま、近くのカラオケボックスに訪れたのである。
それにしても化粧をとったにも関わらず顕仁は相変わらず中性的な顔立ちをしていて、長く艶やかな黒髪が、揺れる度、幾度となく女性と錯覚してしまった。
それでも彼は男である。
舞台上にいた顕仁は着物を着ていたが、今は細みなシャツに、彼の長い脚の影が瞬時に分かるようなズボンを履いていて、割と動きやすい身形をしていた。
個室に入っても、私達は歌を歌う事はなかった。
顕仁は――テレビを消した。
久し振りの再会だというのに、彼にはどこか暗い雰囲気が漂っていて、友人でもあるというのに、私は彼に話しかけることを躊躇してしまったほどだ。
顕仁は煙草に火を点けた。
「久し振りに呼び出して悪かったな」
「構わないよ。暇だったし。――でも君が七年もの間、あの変てこなバンドをやっているなんて知らなかったよ」
顕仁は、細長い吻の隙間から歯を覗かせた。笑うと頬に笑窪ができる。あぁ、昔のままだ。
「お前だって、そうじゃないか。まさか本当に小説家になるなんて思いもしなかったけどな。昔、読んだお前の書いた話、つまらなかったし。くだらないにも程があった」
言う時は言う男である。
「頑張っただけさ」
「そうだな――俺達は頑張っただけだ」
「――でも、どうして、突然僕を演奏に誘ったりなんかしたんだ。あんまり長く連絡取って無かったものだから、君の顔なんて忘れそうになっていたよ。――今はもう、ほとんどの記憶が戻ってるけど、思い出すのに時間が掛った」
私は友にだけ見せる笑顔を浮かべた。人見知りの激しい私であるが、打ちとけた友人にだけは、素の自分に戻れるのである。
顕仁は煙をふーっと吐いた後、何かを考えているかのように、その女性的な二重の眼で一点をじっと見ていた。
「――何かあったのか?」 私は問いかけた。
「この前、昔、読んだお前の小説の事を思い出したんだよ」
意外である。散々、侮辱してきた私の小説の事を思い出すなど、彼にとっては奇跡に近いのだ。高校時代の顕仁は教室の中で、私の小説を読んだ後、一言――つまらないとだけ吐き捨てるように言って、それっきりだった。感想の一言も述べた事もない。そんな彼が、こんな事を言い出すのだから、訳が分からなかった。――何かあった様な気がした。
「僕の書いた……小説?」
「あぁ――。覚えてないか? お前の書いたつまらない私小説の中に、一つだけ恋愛系の物語があっただろう――お前の両親の美冬さんと修也さんの事が書かれた話だ」
あぁ――確かに昔、仲むづまじい比翼連理な夫婦をモデルにした小説を書いたことがある。しかし、内容は全く覚えていなかった。
「七年も前だから、流石に内容までは覚えてない」
「作者の癖に覚えていないのか? 呆れた奴だ。――けど良かった。お前は、昔と何も変わっちゃいないみたいだ。良かったよ」
顕仁は安堵の表情である。彼が言うとおり、昔から私は記憶力に乏しかった。自分で書いた小説の内容だって、一週間もすれば忘れてしまうし、現在手に付けている小説の事以外は「駄作」だと過去の作品を罵るぐらいなのだから、過去の作品に対してどうしても愛着を持つ事が出来ず忘れてしまう事が多々あるのである。
「その小説がどうかしたのか?」
「いや――どうかした訳じゃない。――ただ、自分が夫婦の在り方についてとか、愛とか、家族とか、そんな事を考える様になった事がきっかけからか、俺はお前の小説を思い出したんだ。俺には仲の良い家族や、愛の冷めない夫婦ってものを見たことが無いから、それで……」
顕仁は片親だった。しかし、唯一の肉親である母親も、彼の高校時代に首を吊った。私は彼の抱える絶望を知っている。彼は普通の家族というものを知らないのである。
「それで、僕の親の事を思い出したってわけか…・・」
「そういうことさ――」
「なら、君は今、新しい家族を作ろうとしているわけだな。それで悩んでいる。もしかして結婚する気か?」
友人はまた煙草の煙を吐いて、そして、灰皿に煙草を置いた。いつの間にか甘い匂いが部屋の中に充満している。彼の吸っていた煙草はココナッツの香りが楽しめるらしい。
「そうだ。流石に勘が効くな」
「それぐらい、君の話を聞いていれば誰でも分かるさ」
「そうだな――」
「相手は年下か? 年上か?」
「二つ上だ」
私は友人の門出を嬉しく思ったが、祝いの日が近い彼はどこか虚ろな形相である。
彼は不安なのだろうか。過去の自分――望まれぬ子だった自分が真っ当な家族を築けるのか。
「例え君が悦子さんと不倫相手との間に出来た子供だろうとも、君は君じゃないか。もっと自信を持つべきだ。何を恐れる事がある? 僕は君の幸せを願っているよ」
「そう言うことだけはよく覚えているんだな」
悦子、白川、どこかに消えた光一郎の事である。
「忘れてはいけないことだけはきちんと脳味噌の片隅に閉まってあるつもりだ。人間の記憶容量には限界があるからね」
「――手間が省けて良かった。なら――今からお前に話す事も、大かた理解出来ると思う。何せ七年の空白を埋めるのには会話が必要だからな。遠まわしな話から持ちかけたのは、その為だ」
「君との空白の部分なら、怨霊座の演奏を見て十分、埋まったよ」
顕仁は嬉しいのか、照れくさいのかも分らない複雑な笑みを浮かべた。
「七年前――俺は、さっきお前も観た視覚系バンド「怨霊座」を創った。コンセプトは怨念だ。あの時の俺――いや、今もそうか。俺は怨念の中で生き続けている様な気がする。悦子が死んで、祖父母に預けられた俺は、高校を卒業すると共に京都に越して一人暮らしをしながら、音楽活動に生き続けてきた。そして、俺は自らに、大魔王の名を借りて、「崇徳」と付けたんだ」
「君の演奏を見て、なんとなくそう思ったよ」
顕仁は小さく顎を引く。
「俺だけじゃない。将門や、道真だって、心の奥底に深い闇を抱えている。将門は高校時代に両親を交通事故で亡くしているし、道真は孤児だ。中学校時代に阪神大震災で、家族が全員死んだ。それから彼女は神戸から唯一の身よりであった父方の祖父母と暮らすようになったらしいが、一年後に二人とも癌で死んだ。身寄りを全て失った彼女は、仕方なく児童福祉施設で暮らし、そこから高校に通うことになる。俺は怨霊座で活動する条件の一つに、『深い怨念の中で生きている人間』を提示している。だから、怨霊座に集った面々は選ばれし人間だと俺は感じる――だけど……」
「だけど? 何だ?」
「俺は――恋に溺れたんだ」
「それが、その結婚を考える程の相手の存在だと言うことか?」
顕仁は苦渋の表情で、また煙草に火を付けた。
「何か頼むか?」
私は、個室の壁に備え付けられた室内電話で、カシスオレンジを二つ注文した。
「彼女との出逢いは三年前だった。俺は、深夜のコンビニで働いていたんだよ。そしたら、彼女が新人として現れて、一緒に働く様になった。彼女の心の中を知るにつれて、俺は彼女に惹かれた――それである日、俺は自分の演奏に彼女を誘ったんだ。――すると彼女を俺の演奏を気にいってくれて、度々俺の演奏に足を運んでくれる様になった」
「成程。その子は君の愛好者でもあるわけだ」
「俺はいけないことしているのかと考える様になってね、何せ俺は元々、両親に望まれて生まれてきたわけじゃないし、二人の父親は俺を捨てて、逃げちまうし、悦子だって最終的には俺に迷惑して自殺して……俺は不幸の中で生まれてきた。――だから自分だけ幸せになろうなんて考えは許されないのかもしれないって」
「考え過ぎではないのか。顕仁、君は幸せを選んでもいいと思う。いや、君は幸せになりたいんだよ。だから、僕の昔書いた小説を思い出したんだろ――確かに僕の親は息子の僕の目から見ても理想の夫婦だ。恥ずかしいぐらいにね」
私は赤面した。
仲むづましい夫婦といっても、父、修也が美冬に心底惚れているだけなのだが、昔から修也の美冬へのご機嫌取りは、秀一なのである。修也は銀行員で、精を出して稼いだ金も全額、美冬に渡して、彼女からの小遣い制で、娯楽を楽しむ始末なのだから、男としては呆れてしまう。
馬鹿だ。――けど、何故か羨ましいと思う。私もその様な感想を抱く一人である。
「幸福と程遠い生活を送っていたから、分からなくなってね。――正直、恐いんだよ」
顕仁は悄然としている。
個室の扉が開いて、若い男性店員が威勢の良い声を発しながらカシスオレンジを運んできた。
「幸福と程遠い人間なんて、この世に誰ひとりいない。誰だって幸せになる権利があると思う。君は――知らないだけなんだよ」
「知らないだけか・・・…」
顕仁は不器用な笑いをした。そして言葉を続ける。
「これじゃあ、怨霊座を創った目的がぱぁーになっちまうな」
自分自身を嘲笑っている様な物言いである。
「どういう意味だ?」
「基基、消えた二人の父親を探す目的で、バンドを創ったんだが、これじゃあ、まるで恋人探しバンドだ。――つくづく笑っちまう……」
「消えた父親を探す……?」
「そうだ。怨霊座が創る幻想世界――その演出の至るところで俺の過去に関しての出来事が表現されている。二人の父親。死んだ母。悦子の遺書を読んだ事だってあった。この一風風変わりな演出の真のメッセージに気がつけば、白川と光一郎はきっと演奏に来るだろうと、企んでいた。それこそ怨霊座の知名度が上がるにつれて、そのメッセージは、広く世間に流布されていく。俺は舞台の上で、ずっと客席に来るあいつ等を探し続けていた」
「二人の父親の顔を知っているのか?」
「知っているさ。悦子の遺品から、写真が見つかったからな。どちらの男も楽しそうに映ってやがったよ。つくづく憎いと思った。悦子を、俺を見捨てた癖に……」
かける言葉が見つからない。
「――二人の父親を見つけてどうするつもりだったんだ? 君にとっては過去の事だろう……」
「勿論――」
彼は一瞬、口籠った。
――殺してやる心算だったよ。
私は絶句した。
顕仁は自分の言った言葉の意味を理解していないのか、平然としながらカシスオレンジを啜っている。七年という月日が、彼を殺人者に仕立てようとしていたのか。
ここで友人は、また言葉を続ける。
「――けど、今はもうそんな事、考えちゃいない。人を好きになったからだ」
私は溜息を一つ吐いた。
「そうか。その方がいい。その方が君らしいよ。良く考えてみる事だ。君には守るべき女性がいる。君が犯罪者になれば、その人を泣かせる事になるぞ」
「分かっているさ。俺はあいつ等とは違うからな」
あいつ等とは、白川と光一郎の事である。
「結婚したいのなら、結婚すればいい。僕はそう思うが」
「今一つ、気がかりの事があって、思うように前に進めないのさ」
「気がかり? 何だ?」
「彼女の事が分からないんだ」
友人は曇った形相である。
「彼女の事を全部が全部分かる方がおかしいって。多少、謎めいている面がある方が惹かれるとは思うが……」
「そういう意味じゃない。私生活の事さ」
「私生活だと?」
「あの女性の生活が分からないと言っているだけだ。俺は彼女がどこに住んでいるか分からないんだ。三年も付き合ったんだぞ。少しぐらい家に上げてくれてもいいとは思わないか。俺と出かける時は、いつも、俺の部屋か外で逢う暗黙のルールすら出来あがっていている。以前、彼女がどこに住んでいるのか訊ねた事があってね、彼女はマンションに住んでいるとだけ答えて正確な住所等は教えてくれなかった。不思議だとは思わないか?」
「――確かに変だな」
「俺は彼女が何かを隠していると睨んでいるんだが、それが何かは分からない」
「まさかとは思うが――別の男と同棲しているなんて事はないだろうな?」
「それは無い。そう言う話も彼女にした事があるが、彼女は兎に角、否定する一方だった。『万が一にもそれは有り得ない。私は貴方以外の男性とこの先付き合っていく心算もないから安心して欲しい』なんて言うものだから、俺も、彼女を信用して、そこで話は終わった。彼女のあの眼は嘘を吐いている眼じゃなかった。俺には分かるんだ」
「なら、信じればいいじゃないか」
「そうだよな……信じるしか無いよな……」
顕仁はまた酒を啜った。そして言葉を続ける。
「――なれるのかな。美冬さんや、修也さん達みたいに……」
正直――成れると思った。
何故なら、顕仁はその相手に強烈に恋しているからだ。
私は含み笑いを浮かべて、旧友の幸せを祈っていた。顕仁は酒を啜り、しばらく無言であった。
私は話題を切り替える事にした。この問題は彼自身が解決すべき問題であり、私の様な恋人すらいない人間が関与していい問題とは思えなかったからだ。
いや――恋ならしているか。
「お前とまた会えて良かったよ。なんかもやもやとした気が晴れた様な気がする。また――来てくれるか? 演奏に」
「気が向いたらな」
嘘だった。本当は必ず足を運ぶ気である。何故なら私は久し振りに恋をしているのだから。勿論それは怨霊座を観に行くというよりも、彰子に逢う為の様なものではあるが。
友人の見せる笑窪が眩しかった。
そして、退室する時、友人は私にまた、チケットをくれたのである。それは二か月後に行われる京都での演奏チケットであった。
正し、一枚ではなくニ枚である。
「余計なお節介だったか?」
「いや、お節介では無いが」
「じゃあ、受け取ればいいだろう」
「僕には演奏に一緒にいく人なんていない……あっ」
佐伯月乃がいるではないか。今日の演奏も、私は顕仁からチケットを貰ったから無料で見ることが出来たが、彼女はわざわざ自費を切ってくれた。
「何だ。やっぱり、いるんじゃないか」
「そういうわけじゃない」
「まぁ、遠慮するなよ。いらなかったら、それはそれでいいじゃないか」
私は友人の強引な押しに負けて、渋々チケットを貰うことにした。
だが、これは私にとって好機なのかもしれない。何故なら――
――私は恋をしているからだ。
藤原彰子は、怨霊座の愛好者である。ならば、このチケットもきっと喜んで受け取ってくれるだろう。私は友人に感謝することにした。
〔5〕
二か月後である。
私は緊張していた。京都――ライヴハウス「ノース」の前で、演奏が始まる二時間も前から藤原彰子の到着を、首を長くして待っていたのである。――自分でも馬鹿だとは思う。
相変わらず会場の前は、愛好者達の群れで騒々しい。職員達の誘導で愛好者達は続々と会場に入っていく。
午後五時半を回った頃、漸く待ち人が到着した。私は、会場の入口付近には、水色に桜の花弁が描かれている着物を纏った美人が、凛として立ち尽くしている。
私は――感極まった。
「お久し振りですね」
「え?」
「小説家です」
「あ――吉秋さん」
彰子はクスクスと微笑んだ。思いだしてくれたのである。私が早々に以前、顕人に貰ったチケットを手渡すと、彼女は、不思議そうな面持ちになった。
「どうして? 二枚も持っているんです?」
「友人からタダでもらったので、貴方にあげようと思って」
「都合が悪くなったのかしら? でも残念ね……実はもうチケットは買ってあるんです」
そう言って、彰子は、手に下げた鞄からチケットを取り出した。
「――そうですか。残念ですね」
私は――消えたくなった。
痴態である。
「お気持ちだけで十分ですよ。でも、本当にまたお逢いできるとは思ってませんでした。怨霊座は好き嫌いがはっきり分かれるバンドですから、たった一度、演奏を来ただけで彼らを毛嫌いしてしまう人は多いの。だから――なんだか嬉しいです」
偶然などではない。私は、彼女に逢う為にここに来たのだ。
「――別に怨霊座の愛好者になった心算はありません。……ただ、応援したいだけです」
「え? それって愛好者って事じゃないんですか?」
彼女は訝しむような物言いである。
「あ――いや、まぁ、そうですよね。あっ、あの、まだ演奏が始まるまで時間があるので、良かったら、少し静かな場所で話でもしませんか?」
私は慌てたような口調だった。
「ノース」は地下一階にあるライヴハウスで、その上部にはバーがある。
ダーツやビリヤードなどの遊技も楽しめる為に、偶然、バーに遊びに来た若者達が、そのまま
下の階に足を踏み込み、知らないバンドの演奏を聴きにくる事もある。
ここは、愛好者を増やす格好の場所でもあるようだ。
遊技施設に遊びに来た客を愛好者にする――それが顕仁の企みであるらしい。
彼は遥か高みに上り詰めるためにどこまでも用意周到なのである。
そして、その遊戯施設、バー、ライヴハウスの三つが連結した施設、ノースから徒歩五分ほど歩いた位置には、公園がある。
何という名称かも知らない公園ではあったが、アスレチックや子供が好みそうな遊具がある為、市民公園なのだろう。公園の真ん中には花々に囲まれた噴水がある。辺りは少しずつ暗がりに包まれていき、夜空にはうっすらと金色の満月が浮かんでいた。
私は彰子を公園に誘った。
私達は、公園の片隅にある木製のベンチの上に腰を下ろした。正面には池が見える。日も沈んでいる為に周辺にいる人の数も少なく、やけに静かだった。池の前では一組の子連れの夫婦が居て、その夫婦は少年が池の中を泳いでいる鯉に餌をやっている情景を微笑ましげに見守っていた。
「彼らは――どこを目指しているのでしょうか」
話題を見つけられない私は、やはり怨霊座の話題を借りる他無かった。
「さぁ――どこまで行く心算なのでしょうね。でもきっとこのまま知名度を上げていって、関西だけじゃ物足りなくなったら、多分、東京に行ってしまうのかも」
「東京ですか。確かにメジャーを目指しているなら、こんなちっぽけなライヴハウスなんかでライヴをやるより東京に行った方がいい。視覚系バンドだったら尚更ですよ……確か、何て言うライヴハウスだったかな? 様々な視覚系バンドの登竜門的な会場があったような気がするけど……思い出せない」
私は苛立った様に頭髪を搔き毟った。
「目黒鹿鳴館の事ですか?」
彰子はあっさりと、私の悩みを解決してくれた。
「そうです! そう。鹿鳴館。――確か、大抵の視覚系バンドは、鹿鳴館を拠点として活動を行って、そしてその限られた一部のバンドだけがメジャーな世界に飛びたっていく。GLAY、LUNA SEA――それにMALICE MIZERとか、今や誰もが知る有名なロックバンドも鹿鳴館で数々の伝説を残したんだ」
「詳しいんですね」
彰子は気品に満ちた笑みを漏らした。だが、私の音楽に関する知識は、彰子のそれとは次元が違うのだろう。
「知っているのはそれだけですよ。――後は何も知りません」
「ロック、メタル――ジャンルに囚われず、自分の表現した世界で観客達の心を動かしたい。そんな熱い気持ちを持った猛者達が鹿鳴館に集まると言われています。時代を作りたいとか歴史を変えたいとか、そんなのはエゴに過ぎないと思うけども、実際、そんな強い意志を持った人間達がこの世界――視覚系バンドをここまでメジャーにしてきました。きっと崇徳も彼らと同じ様な気持ちでいるんだと思います」
「貴方は本当に彼らの愛好者なんですね」
「えぇ。大好きです。本当は、怨霊座の全ての『乱』に参戦したいけれども、中中思うようにはいかないの。仕事も忙しいし、朝も夜も働かなくてはいけないから、乱の日程と、私の休みが合わなければそれまで」
彰子はどこか虚ろである。
「朝も夜も――ですか。大変ですね。でも、貴方はまだ若い。どうしてそこまでして働かなければいけないんです?」
「働くのが好きだからですかね・・・…」
彰子は、内向的な私などより、遥かに優れた人種なのだと悟った。自分の好きなこと、好きな世界観を文章に綴ってばかりいる自己中心的な私より、彼女は余程、出来た人だと思った。
「そうですか。偉いですね……」
「なんて――奇麗事言ってみたりしましたけど、本当は違うんです」
彰子は軽く肩を竦めて舌を出した。愛らしい表情に私はつい頬を赤くしてしまった。
「違う? 何がです?」
「朝早くから、本職の服屋で務めて、それが終わったらコンビニのアルバイト。こんな生活がもう何年も続いているの。どう考えたって、働くのが好きだって理由だけで、こんな生活を続けるのは無理って思いませんか?」
「はぁ……」
意味が分からなかった。
「愛するものを守る為に――私は働くの」
また綺麗事ではないかと内心思った。
彼女の横顔は、憂いに満ちていて、哀しそうである。
――子供がいるの。
そう言ったのだ。彰子は。
頭が――白く染まった。
「子供?」
彰子は目の前にいる親子をさきほどからずっと見つめている。彼女は小さく顎を引いたのであった。私は、戸惑っている。一年振りに咲いた桜が、突如襲いかかった嵐で、一瞬にして散った様な心境であった。私の恋は叶わない――そう思った。
私は、以前、彼女から聞いた話を思い返してした。何かが変ではないか。
「確かこの前、恋人がいるって……」
また彼女は哀しそうに頷く。
「人間性を疑うでしょ? 私、最低な女なんですよ――子供がいる癖に恋人にはそれを告げずに、指輪まで貰う始末なのだから、本当に救いようもない愚かな女なんです」
「知らないんですか・・・…貴女の彼氏は」
「えぇ。知りません。彼は私と美優が住んでいるマンションも知りませんし、デートをする時はいつも外で逢う事になっているから。美優が保育園に行っている間に、彼と……」
美優とは彰子の娘の名である。
「どうして黙っているんです?」
「何度か言おうとした事がある。だけど――言えなかったの。だって、彼の過去を知ってしまったから……」
「彼の過去? 貴方に子供がいるのと彼の過去に、一体どんな関係があるんです? それに、一体いくつの時に出来た子供なんだ……結婚してたんですか?」
――いつの間にか私の好奇心は、止まらなくなっていた。恋は実らないのかもしれない。それでも私は彰子を知りたかった。
「結婚はしていません。だけど、一八歳の頃に――」
彰子は口籠った。陰鬱な形相でただ一点を見つめているばかりである。私は訊いてはならぬことを訊ねてしまったのかもしれない。出逢って間もない私などに彼女が哀しい過去を語る筋合いなどないというのに。
彼女は私の方を横目で見た。
「小説にしようなんて思わないで下さいね。つまらない過去ですから」
そう言ったのだ。彰子は。
まるで、過去の過ちを嘲笑っているかのように、哀しく――哀しく、嗤っていた。
――強姦されたの。
胸元が刃物で切り裂かれた。――錯覚である。
私は言葉が見つからず、ただ、彼女の虚ろな横顔を見据えるばかりである。私は自身の好奇心を呪った。
「強姦ですって……」
「また馬鹿だと、思いましたか?」
「いえ……」
「――どうして貴方に、こんな話をしてしまうんでしょうね。でも――たまにはこうやって、人に過去を打ち明けないと苦しくて死んじゃいそうになるんです。良く言うじゃないですか。一人で抱え込むのはよくないって。それです。恋人にこんな話を打ち明ける事も出来ないで、子供の為に必死に、文句も言わず働いて――本当に苦しくて、昔はよく一人で泣いていました」
「何故……父親も分からない子供を産もうと思ったんです? それだけ辛いなら堕ろす事だって出来た筈だ」
「――家が貧しかったからです」
「……え?」
「高校生の頃、父親の会社が倒産して、莫大な借金を背負う羽目になった。けど、父はその借金を返すという現実から目を背けて、自殺したの。投身自殺だった――マンションの屋上から飛び降りて……残された母は私を連れて実家に帰ったのだけれど、母親の家は貧しかったから、おまけに父の遺した借金もあるでしょう。あの頃、学生だった私は自暴自棄になっていて、ある日、そう――あれは秋の夜だった。男友達に深夜の公園に呼び出されて、そして……知らない人たちに……。出来てるって気付いてはいたけれど、母親に切り出す勇気がなかなか出なくて。そうこう考えている内に子供を堕ろせる時期を過ぎてしまった。そしてとうとう私は、母親に相談して美優を産む事にしたの。私は必死で働く覚悟をした。母親は私を止めようとはしなかったわ。美優は決して望まれた環境で産まれて来た子供ではないの。――だけどね、美優が生まれて一年も過ぎた頃には、私の考えも変わっていた。やっぱり産んで良かったと思った。美優の天使の様な寝顔が可愛くて、仕事で疲れて帰ってきた時も美優の寝顔を見るだけで癒された。だから――私は後悔なんかしていません」
「後悔していないなら尚更、彼に話してあげるほうがいいと思う」
もう、私は自分自身が分からない。私は誰の味方なのか。何も――分からない。
「そうですよね。分かっているんです。分かっているのだけど……」
「彼の過去が影響していると言いましたよね」
「えぇ。私に子供がいるなんて事、彼が知ったら、彼はきっと壊れてしまうんです」
「壊れる?」
「彼は、ずっと闇の中で彷徨ってきました。私が彼に美優の存在を言えない理由も、全ては彼の過去のせい。彼には二人父親がいます。一人は偽りの父。もう一人は真実の父。そして母親。彼は母親との不倫相手の間で生まれた。それを知った偽りの父親は、彼を捨てて、どこかに消えたの。そして真実の父親も、面倒を拒んで彼と母親を捨て、その挙句に母親までもが、彼を捨てて自殺した。――彼は一人ぼっちになったの」
――ちょっと待て。
何だ。何かが頭に引っ掛かった。
「二人の父親?」
「そう……よく考えてください。もし、彼が恋人である私に子がいるなんて知ってしまったら――想像するだけでも恐いの。彼の心を破壊してしまうようで、とても恐ろしい」
「きっと彼は絶望すると思います……だって、その事実を知って、もし貴方を振ってしまったら、自分を捨てた偽りの父親と同じになってしまう。他人の子供を愛せないという理由で彼の父親が消えたなら尚更だ。そして、今や彼自身もその父親と同じ行動に出てしまう可能性もある。だとすれば彼は自己嫌悪に陥ると思います。例え彼が貴方の子供の存在を受け入れる事が出来たとしても、彼はきっと、いつまでも消えた父親の影と戦いながら生き続けることになります。もし彼が自分を捨てた父親を怨んでいるなら、余計に……」
「――だから話せないんです」
彰子は黙ってしまった。
――また、違和感を覚える。
何だ?
二人の父親? 自殺した母親?
あぁ――私は哀しい結論に至った。
「貴女の彼は、一体どんな人なんですか?」
彼女は静かである。腕時計の針はすでに午後六時を回っていた。もうノースに戻らなくてはならぬ頃合いだった。
遠くから噴水の水音だけが聴こえる。
「実は、吉秋さんも、知っている人なんですよ」
「――これから、僕達が観に行く人――ですか」
私は愚か者だ。先日、天上院顕人とカラオケに行った日に、彼から聞いた話に出てきた、結婚を考えるほどに愛している恋人とは、藤原彰子の事だったのである。
なんという事だ。
私は友人の恋人に惚れただけではなく、友人ですら知らぬ彼女の過去を知ってしまったわけだ。私は――運命を忌わしく思った。
「――崇徳なのでしょう?」
私は暗い声音で問うた。
私を勘の鋭い人種だと思ったのか彰子は不思議そうにしている。ここまで彼女の話を聞いて、彼女の恋人が顕仁だと見抜けなければ、私はただの阿呆だ。私は顕仁の友人なのだから。だが、彰子は私が彼の友人などであるということを知らない。だから、こんな過去を私に打ち明けたのだろう。時には辛い過去を打ち明けないと壊れてしまうから。
「勘が効いいのですね……どうして分かったんです?」
私は一瞬、真実を隠そうと思った。
だが、その考えは刹那的に消えた。
「崇徳は――僕の高校時代の友人なんですよ」 言った。
私は、自分が魅力的でないのを知っている。だから、友人の地位と名を借りて、彰子に近づこうとしたのだ。ただの卑怯者である。ライオンが食い残した草食動物の死骸を喰い漁る醜いハイエナの様な心境になった。
藤原彰子は絶句した。
〔6〕
「彼には黙っていて下さい。私は彼の事を愛しているの。愛しているからこそ彼に美優の事を内緒にし続けてきた。だから――お願い」
ノースでの演奏が終焉し、私と彰子は再び公園の中に訪れた。私の携帯電話には友人からのメールが届いていた。内容は淡白なもので、「感想を聞かせてくれ」 の一言だけである。今日は特に彼と会う予定もなく、私はこのまま帰る心算ではあったが、先ほど彰子の話を聞いて、その予定は大幅に狂う事になり、またこうやって彼女と話をしようと思い立ったのである。
崇徳は、この後、将門や道真、職員達の飲み会に参加するのだと、彰子は言っていた。
夜も大分耽ってきた頃合いである。
「愛しているなら、尚更、顕仁に言ってやるべきだと思います。言っておきますけど、彼は本気だ。以前、彼と久し振りに再会した時、彼は貴方への想いを赤裸々に語っていました。あれは、嘘を言っている眼じゃなかった。顕仁――言っていましたよ」
私はすっかり気が病んでしまっていた。
失恋を味わっただけでなく、余計なトラブルに巻き込まれたような心境である。
「なんて言っていましたの?」
「――自分は望まれて生まれてきた子供じゃなかった。自分は周りの大人達から愛されずに生まれてきた。そんな怨霊渦巻く世界で生まれてきた自分が、貴方と出逢って、幸せになることが許されるのだろうか? って真剣に悩んでいたんです」
「――それで、吉秋さんはなんて答えたの?」
「勿論、幸せになるべきだと言いました」
「そうですか」
「彼は今までたくさんの不幸を味わってきた。彼が怨霊の化身、崇徳院などと自らに命名したのも、彼の過去が要因なんですよ」
「――もっといい女はたくさんいるというのに、どうしてあの人は、私なんかを好きになってしまったのかしら……」
藤原彰子は何もない地面を見つめながら呟いた。
「顕仁は貴女との結婚も考えています。怨霊座も、関西のインディーズの中では有名バンドに育ってきたから、貴女との共同生活を本気で叶えようと必死なんですよ。顕仁は消えた二人の父親を探す為に怨霊座を創ったけど、もう今となっては貴女との未来しか見ていないのかもしれない。彼は漸く、過去の怨念から解き放たれようとしているんです。少なくとも僕には分かる」
「私との未来……」
「どの道、このまま貴女が秘密を隠し通せる筈はないんです。結婚すれば、二人は共同生活することになる。ならば美優ちゃんの存在を隠せるわけがない。彼、言ってました。貴女の私生活が今だに見えないって……顕仁をこれ以上傷つけるのは辞めて欲しい。――友達だから」
「私にどうしろって言うんですか。――分かっています。だけど、言えないの。黙ってても、話しても、どの道、顕仁さんを傷つけてしまう事には変わりないから、行動できずにいる私の気持ちなんて、誰にも分りっこないの」
彰子は哀切な眼で訴えた。
胸が張り裂けそうになる。
「僕にも分りません。ただ、貴女が正しい事をしているとは思えない」
「――話しても話さなくても、彼を傷つけるぐらいなら、私は彼の前から――」
彰子は一瞬口ごもった。
――消えるしかない。
彰子は、手の平で顔を覆い、泣きだしそうな声音でそう言った。何を言っているのだ?
消える?
私は――
私は――
狂しくなってしまった。
まるで、心の中の天使と悪魔が激しい戦いを繰り広げているかのようだ。
彰子が泣いている。
美しい女が、艶やかな着物を纏い、小さく肩を震わせて――
泣いている。
やめろ。――やめろ。――そんな顔をするな。
「別れると言うのですか?」
彰子は私の問いに答えなかった。
黒い空に浮かぶ満月の光のせいで、彰子の涙が光って見えた。
私は、躰を小刻みに震えさせ、両腕をゆっくりと彼女の背中に回していく。
しかし、私が彼女を抱きしめることは、
なかった。
藤原彰子が、消息を絶ったのは、その翌日の事である。
私は、彼女と出逢った事を激しく後悔した。
◆◆
天上院顕仁から連絡が来たのは、九月二日の朝であった。部屋のベッドの上で眠っていた私の枕元で携帯電話が、幾度となく小喧しい着信音を立てたのである。
私は、意識を朦朧とさせがら、携帯電話の画面に目をやった。
(彼女と連絡がとれない)
私の意識は、その短い文章を読んで初めて醒めた。藤原彰子が消えたのを知った瞬間であった。何故、彼女が忽然と顕仁の前から姿を消したのか? 私には心当たりがある。
――私のせいだ。
顕仁は、彰子の住むマンションがどこにあるのかを知らない。要するに彼女と連絡が取れない以上、顕仁に彼女を探す術はないわけだ。
私が彰子に余計な話をしたばかりに、彼女は――
私は、訳が分からなくなった。
彰子は、友人を想う私の気持ちを配慮して消えたに違いない。今まで自分の犯してきた罪を、どれほど、顕仁に酷い仕打ちをしてきたのかを、彼女は理解したのだ。
理解したからこそ、彼女は、顕仁との離別を決断したのだろう。
――彼には黙っていて欲しい。
彰子はそう言っていた。
だが、この余りにも残酷な運命の悪戯を私の心の内だけに留めていられるほど、私は強くはない。
私は、顕仁への返事を打ち返せずにいた。ただ、布団の上で仰向けになったまま、虚空を見据えているだけである。顕仁はきっと彰子を心配しているに違いない。どこかで事故でもあったのかもしれない。誰かに襲われたのかもしれない。――そんな妄想の中で友人はもがき苦しんでいるに違いないのだ。
(心辺りはないのか?)
散々悩んだ癖に、私が思いついた文章は、この程度のものであった。
小説家が聞いて呆れる。
(ない。昨日の朝、少し電話で話して、それっきりだ)
(何か言っていなかったのか? 恋人に君に黙って消える予兆の様な出来事は無かったのか? 喧嘩でもしたのか?)
(喧嘩なんかしていないさ。ただ――少しだけ、彼女の生活を探るような会話をしたと思う)
(どういう意味だ?)
(お前と話をして、俺は漸く腹を括る事が出来たんだ。勿論、彼女を疑うつもりはなかったけど、どうしても彼女の住んでいる場所が気がかりになってね。それで、訊ねたんだ。いい加減に、住んでいる場所を教えて欲しいって。どの道、このまま付き合っていくなら、いつかはばれることじゃないか。って、訊いた)
(そうか。何か僕に出来る事はないか?)
(今のところはない。とりあえず、また彼女に電話してみる。一体どうなってるんだよ……)
私は――愚か者だ。
友人の恋路を邪魔する、愚か者だ。
顕仁が私と再会し、私が彼に「君は幸せになっていい」ということを示唆したが故、彼は彰子の秘められた私生活にいよいよ詰め寄ったのである。
一方、私が惚れた藤原彰子は、顕仁の本気の想い、そして過去を、友人である私の口から聞いていた。
彰子はこれ以上、顕仁を傷つけたくなかったのかもしれない。だから――消えたのだ。
黙っていて何が解決するのだろう。
見て見ぬふりをして何が楽しいのだろう。
私は誰だ?
私は彼の何だ?
携帯を握っている手が震えていた。部屋のパソコンの前で一日中座って、小説ばかり書いている私の腕や手は、日に焼けていない為に恐ろしいほどに白い。
――天上院顕仁は、私の数少ない友人だ。
だから、
(顕仁、話がある。今日の夕方、難波の南口でまっているから)
私は、そんな下手くそなメールを、顕仁に送ったのだ。
◆◆ 九月三日 難波南改札口
駅前の歩道には大勢の会社員や学生が行きかっていて、ホストの様な風貌の若者達や、水商売に身を染めた様な厚化粧の女達が、駅の隅っこの方で携帯電話をいじっている。
こんなに人で混雑しているのだから、顕仁の姿を見つけるのは困難だった。
「――話って何だよ?」
彼を見つけたのは、私が難波駅に到着してから二〇分後である。顕仁は、舞台上の彼とは打って変わって、ユニクロの上下というわりと地味な服装だった。
私は彼に、「場所を変えよう」と言って、そのまま、駅前のカラオケボックスの中へと足を運んだ。
そのカラオケボックスは以前、彼と訪れた所である。
私は、巨大なテレビの下にある、何とかダムとか書かれたカラオケ機材の音量をいじって、室内を無音にした。
「大事な話だ」
「――まさかとは思うが、彰子の事について何か知っているとでも言うのか?」
私が神妙な顔で、コクリと頷くと、顕仁は、
「何故だ。お前は彰子の事など何も知らない筈だろ。何がどうなっている?」
と、訊ねた。
ただ事でないっと言った目付だった。
私は、彼女と出逢った経緯を彼に伝えた後、いよいよ、彰子の身の上話について話したのである。
「彰子に――子供……」
「名前は、美優というらしい。昔、強姦された時に出来た子供だ。――ごめん、顕仁。彼女からは黙っていてと頼まれたけど、君のことを思うと、どうしても無理だった。本当に、すまない」
私は、彼に向って深く頭を下げた。
顕仁は、煙草に火も点けず、ただ、何もないテーブルを見据えている。私が、何度か顕仁の名前を呼んでも、彼は返事もしない。
友人が――
どのような心境に見舞われているのか、そんなもの私にも分らないのである。故に部屋は、ぞっとするほどの静けさに包まれていた。
顕仁! 顕仁! 顕仁!
何度も声を放った。
だが、友人は今にも倒れそうなほどに顔を蒼くして、虚ろな形相である。死期を感じ取る老人の様な面は、美しい彼の顔に、余りにも不似合いであった。
崇徳!
怨霊の名を叫んだ瞬間、漸く彼は我に返った様だった。
「――嘘だ。三年も彰子は、そんな大事な事を俺に黙っていたというのか? だから、彼女は、俺に根城を秘密にしていたというのか……」
「顕仁、これは嘘なんかじゃない。現実だ。だけど、彼女には、子供がいることを君に伝えられなかった、それ相応の理由があった」
「理由だと? ふざけるな。 そんなものあるはずがない。彼女は俺を馬鹿にしていたんだ。子供がいる癖に、俺の愛好者だと自称し、貴女だけとしか付き合うつもりはないなどと甘い言葉で俺を酔わせておいて、今更、どんな理由がいると言うんだ? ふざけるなよ。――子供だと……」
私は、余りにも彰子の気持ちを察しない友人に、動揺してしまった。
「君は――他人の子供を愛せるのか?」
私は、核心に触れたのだ。
友人の顔が、凍り付く。
「なんだ――と?」
「他人の子供を愛せなかった……だから、君の父親、光一郎さんは姿を眩ませたんだろ。君は、その話を藤原彰子にしたんじゃないのか? 彼女が消えたのは、他の誰のせいでもない」
――君のせいかもしれない。
「俺のせい……」
「彼女は君を本当に愛していた。いつかは、君に美優ちゃんの事も話すつもりでいた。――けど、君の過去を知って、彼女は言えなかったんだ。君が、父親を憎んでいる事を知ってしまったから。そして憎しみを抱く理由も知ってしまった――光一郎さんのことだ」
「俺が、彰子の子供を愛せないなら、俺は光一郎と何も変わらないと言う事か……」
顕仁は、陰鬱な声音で呟いた。
「――そういう事になるな……」
友人は、体を震えさせ、苦渋の表情を浮かべている。
「違う……違う……俺は、俺は、あいつとは違う。あいつとは違うんだ……」
「どちらにしようとも、彼女はもう君の前に姿を現す事は――」
私は言葉を切った。
顕仁はテーブルを握りこぶしで思い切り叩き、また――震えた。
ふざけるな!
叫ぶ。
「顕仁――君は知らなかっただけなんだよ」
崇徳院は――小さな声で啼いていた。
他人の子供を愛せるのか?
その質問は、彼の心を、ズタズタに引き裂いたのである。
夏が終わり、秋を迎えた頃、私の友人は――壊れた。
さきほどまで、啜り泣いていた顕仁は、突然、不気味な声で嗤い始めたのである。低く、怨みに満ちた余りにも不気味な声で――嗤っている。
「吾ふかき罪におこなわれ愁欝浅からず。すみやかに功力をもって、かの科を救わんとおもう莫大の所業を、しかしながら三悪逆になげこみ、その力をもって、日本国の大魔縁となり皇を取って民となし、民を皇となさんと」
友人は突然、意味の分からない古語を呟いた。呪文の様にも聴こえる。
「――やはり、永遠に怨念の中から抜け出すことなんて出来ないんだ。俺は――崇徳院の生まれ変わりなんだ。だから――この輪廻を断ち切る事が出来なかった。俺が藤原彰子と出逢ったのは、運命だったんだ……俺は、憎しみの中で生きるしか無いんだ……」
ぞっとするほど低い声で呟いた友人は、自らの運命を嘆き悲しんだ後、
また嗤った。
壊れている。
思った。
「君は――誰だ?」
私は自我を喪失した友人にそう訊ねていた。額には夥しい量の冷汗が滲んでいる。
「俺は、日本最大の大魔王――崇徳だ。俺は、怨霊座の音楽で、日本を壊してやる」
崇徳は――完全に理性を失っている。
「俺が皇になるのだ」
「顕仁!」
「黙れ! 黙れ、黙れ。 幸は俺を見捨てた。 神は俺を地獄に突き落としたのだ。――ならば、俺は地獄で神になる!」
「馬鹿な。地獄に神など存在してはいけない。地獄を支配するのは鬼だ!」
「鬼にでも何でもなってやるさ!」
「君は、間違っている。君は人間だ! 愚かな考えはやめた方がいい」
「黙れ。お前に何が分かる? お前に――お前に……俺は、お前の両親に憧れていたんだ。自らの心の闇に怯えながらも、微かな希望の光に向って突き進んでいた。なのに、その光も消えた」
大魔王は、恐ろしいほどに素早い手つきで、リモコンを手にする。一瞬の内に、選曲を済ませた彼は、テレビの下にある機材の音量のダイヤルを回した。
刹那、凄まじい爆音が部屋に鳴り響く。
交響的メタルを彷彿させる伴奏である。聴いたことのある曲だ。これは――怨霊座の曲。「大阪、夏の乱」で耳にした曲。
大魔王は、私の目の前で熱唱していた。
何が彼をこのような行動に走らせたかは分からない。
私は昭和生まれの人間で、庶民なのだから、第七十五代天皇の崇徳院がどの様な人物かは分からない。今となっては天皇は象徴であって、政治に関与してはいないし、彼らの生活がどのようなものなのかも今いち分からない。ましてや皇族同士での争いもないのだから昔に比べれば遥かに平和だと思う。
だけど――そんな平和な世の中でも、苦しんでいる人間は後を絶たないのだ。
今の彼の様に。
私には、狂った様に歌っている長髪の友人の姿が、まるで本当の崇徳院の様に見えた。
啼きながら歌っている友人が。
私にはそんな哀しい彼を見ている事しか出来なかった。