美食家の奇妙な生活
「よろしくお願いします」
玄関の扉を開けるや否や、少年は人懐っこく笑って言った。
「ああ、君が……」
差し出された右手を握るのに少し戸惑ったのは、後悔の念があったから。
やはりまだ同居人を迎える気分にはなれなかった。つい最近、大事な人を亡くしたばかりで、もうしばらくこの家の静けさに身を置いていたいと思う。悲しみに浸る期間があまりにも短すぎる。
しかし一度自分で決めた事なのだ。今更拒むことはできない。うつむきがちに渋々中へ入れる仕草をすると、彼は「ありがとう」と兎のように無邪気に跳ねて、室内へ飛び込んできた。
舌に残る涙のしょっぱい味を消すため、こっそり洗面所へと向かう。ここ数カ月味わってきたものを、今からリセットしなければならない。
戻ってみると彼はソファに深々と腰掛け、早速くつろいでいた。呆れたことに、紅茶まで淹れている。溜め息とともに近付いていくと、私の分のティーカップまで用意されているのに気付き、つい頬の筋肉が緩んでしまった。
「よく場所が判ったな」
「うん。何だか異次元の森に迷い込んだみたいで難しかったけど、ちゃんと教わったから大丈夫だったよ」
お茶の話をしていたのだが、彼はどうやら家のことと勘違いしたようだった。
「そうか」とつぶやきながら、無意識にソーサーを手にとって胸の前まで持ちあげると、一瞬甘ったるい香りが鼻を刺激し、普段入れない砂糖が大量に入っているんだろうと思ったら飲む気が失せた。そのままテーブルへ返すと、その気まずさを咳払いで誤魔化す。
「でもさあ、写真で見るより綺麗だよね。お菓子の家にしたらもっとすごいけどさ」
「――グレーテル」
「あっ、僕のこと?」
独り言に嬉々と反応を示す様子がおかしくて、思わずふっと笑ってしまった。
「グレーテル、早速だが君の部屋を案内しよう。疲れたろうから、そのまましばらく休むといい」
ホールの脇にある螺旋階段で二階までいくと、一番奥の扉を開けた。中へ彼を入れると、目を輝かせてベッドへダイブしていった。
私はそれを横目で見ながら、静かに扉を閉めた。
翌朝、私が目覚めると、すでにグレーテルがキッチンに立っていて、朝食の準備をしてくれていた。
「おはよう。すぐ持ってくから、先に座っててよ」
私はあくびをしながら頷き、身支度を済ませて腰掛ける。
まもなくして、私のためにフレンチトーストとサラダとコーヒーが運ばれた。まずはコーヒーを口に含めると、相変わらず甘い。ふわふわのトーストの上にも、ハチミツと生クリームが容赦なくのっかっている。仕方なくサラダだけ完食して、口を開く。
「すまないが、今日はちょっと出掛ける用があるんだ。どうせ来客なんて来やしないだろうが、留守番をお願いしてもいいかな」
「もちろんだよ。僕に任せて」
「ありがとう。午後には戻るよ」
そのまま玄関へ直行し、車に乗り込む。
本当は、前から予定があったわけではない。不意に今日が例の日だと思い出して、毎月二回開かれるあの会に久しぶりに出席しようと考えついたのだ。甘い食事から逃げる口実にちょうどいい、というのと、前から気になっていた情報を得るため、という目的で家に同居人を残して出発した。
開始時間の三十分を過ぎて会場に入ったが、まだ人の気配はなかった。しかし別に不思議ではない。もともとこの会の趣旨に合う美食家は決して多くはなく、参加も自由なので、タイミングによって数人と乾杯できる時と、誰も来ない時という満足度の差が生まれる。万が一終了まで誰とも話せなかった場合も、我々が支払った会費で成り立っているので、用意される高級料理は一人で全て食べても誰にも文句は言われない。遠くても、ここへ来て食事するのが一番だ。
メインディッシュの半分を胃の中に消して、キャビアを舌で転がしている頃、音を立ててドアが開いた。入ってきたのは、エメラルドグリーンのドレスに身を包んだ、三十代後半くらいの女性だった。
「あら、珍しい人と会った」
「どうも。初めまして、ですかね」
「こんにちは。一応、常連でございますのよ。貴方のお姿も、以前目にしたのを覚えてますわ」
「失礼。当時はお互い挨拶程度で終わったのでしょうね。今回はゆっくりお話を伺えますかな」
「ええ、楽しみですわ」
彼女は大袈裟に手を重ねてにこっと微笑むと、ワインの注がれたグラスを持ち上げた。そこに自分のグラスを軽くぶつける。チンという音が静かな空間に響いた。
「いきなりなんですが、ちょっと知りたいことがありまして」私は遠慮がちに俯いて続ける。「味わうことなく期限が過ぎてしまったら、一体どうなるのか……」
その疑問に、彼女はいささかがっかりしたような素振りを見せた。変なことを言ったか心配になって首を傾げると、彼女は「ごめんなさいね」と詫びて告白した。
「実は、それについて貴方から詳しい体験談が聴けるんじゃないかって、密かに期待してましたの」
「えっ、どうして私が?」
「だって、毎回その話題を出すのに、誰にもその経験がないっておっしゃるんですもの。きっと腐らせてしまった人は、皆この会に出られない事情ができてしまうのかもって噂してましたの。例えば……同盟から一時的に外されるとか」
「なるほど。それでずっとご無沙汰だった私を疑っていたわけですか。それなら、ここではっきり誤解だと申し上げておきますよ。私の意思で行かなかっただけですから」
その答えに、残念そうに唇を突き出す。そして人差し指を顎に置き、「うーん」と唸った。
「それでしたら、もう一つの説――完全に同盟を切られるというのが有力です。全員の顔を把握するのは不可能ですから、きっとそういう人がいても気付かないんですわ」
「それか、そんな野蛮なことを犯す者は一人もいない、という可能性もある」
「でも、ここだけの話、もう一人そうじゃないかって思っている方がいるんですの」
「つまり、ある日を境に来なくなった人が、私の他にもいると」
「ええ。とっても紳士的なお爺様で、前はよく来てらしたのに……」
二人で想像を巡らせているうちに、もう一人参加者が増えた。長い髭が特徴の、老人だった。
私はこっそり隣を見ると、彼女は黙って首を振っていた。
新たに加わった老人にもその話をふってみると、意外にあっさりとした回答が返ってきた。
「わしもそんなことは知らん。興味もない。だが、あいつなら亡くなったぞ。寿命だろう」
私たちは今度は思い切り顔を見合わせて、瞬きを繰り返した。
「……販売者に直接訊いてみるか」
「とっくにあります。訊きましたわ。けれど、曖昧にされてしまうんです」
「まあそんなことより、せっかくこうして会ったんだぞ。もっと盛り上がる話をしようじゃないか」
「そうですよね、すいません。……ああ、そうだ」私は一応彼女に目で合図してから話題を変える。「この前試したのがすごく衝撃的な味だったんで、ご紹介しようかな」
「おお、そうそう。そういう高尚な話をしにきたんじゃよ」
結局、ずっとこの日は老人のペースに流されて終わった。
「おかえりなさい」
あれから会が開かれる日は毎回参加した。その度にグレーテルは、毎回玄関まで走ってきて笑顔で迎えてくれた。彼が家に来てから、今日で三度目の帰宅シーン。最初のうちは好きな食事にありつけない十数日間が苦痛だったが、最近ではすっかりその味に慣れてきていた。
そして、日を増すごとに柔和な顔つきが定着していき、私は完全に親の気持ちになっていた。初めて、自分の子が欲しいと願った。息子や娘ができたら、一緒にやりたいことや買ってあげたいものが、数えきれないほどある。気付くと、甘い空想に浸り、その夢をグレーテルで叶える生活が続いていた。
そんなある日――突然、別れを惜しむこともなくグレーテルが姿を消した。
私は電話を掛けずにはいられない。憔悴して、受話器を落としかけたり、番号を間違えたりしながら、ようやくコール音がぷつと途絶えてつながった。すぐに「私だ」と叫ぶと、間髪いれずに機械のような妙に落ち着いた声が耳に届く。
「いつも格別のご贔屓、誠にありがとうございます。この度お届け致しました製品はいかがでございましょう」
「存分に味わったところだよ。素晴らしい」
「お口に合いましたなら嬉しい限りでございます」
「ところでね、その『製品』と呼ぶのに抵抗があるのだが……。いいかい、実際私は、おたくのところから妻と子を注文したようなものなのだよ」
「申し訳ございません、お気持ち察せずに。しかしこちら側と致しますと、ありがたきお言葉。非常に貴重なせっ、いえ、人材でございましたので。特にしょっぱい方の――」
「シンデレラかね」
「……そのようにお呼びになってらしたのですね。ええ、そうでございます。それにしても、お客様のように愛着を持たれる方は少ないですよ」
「いけないのか」
「いえ、とんでもないことでございます。その方が、さらに美味しく召し上がって頂けるかと」
「うむ。それで、早速なんだが、次のを頼みたい」
「はい。只今、辛いのと冷たいのをご用意できますが、どちらをご賞味なさいますか?」
「そうだな……じゃあ、冷たいのにしよう」
「かしこまりました。それでは数日後参らせますので、お待ち下さいませ」
三日後、家の呼び鈴が鳴った。
にこやかな表情で扉を開くと、清楚な貴婦人が立っていた。優雅なお辞儀の後、例のごとく右手を差し出して言う。
「製造日-年-月-日、賞味期限-年-月-日。くれぐれもあたしを腐らせないよう――」
お読み頂き、ありがとうございました。
ジャンルは一応ホラーですが、怖くはなかったと思います…。
少し解説を。
最後、冒頭の台詞につながります。気に入らない味があって腐らせてしまうまで注文を繰り返すのでしょう。
同居人を腐らせるとどうなるのか?
販売者の正体とは?
…皆さまのご想像にお任せします。