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3・決行日 (3-2)


 まだ夜も明けきらない早朝、ドアをノックする音とともに、先生のやさしい声が聞こえてきた。


「皆さん、起きてください…そろそろ準備の時間です。キッチンに集合して下さい…」

 重いまぶたをこすりながら、私達がぞろぞろとキッチンに入ると、アンから今日の儀式の流れと段取りの説明を受けた。

 私達の先ずする事は、身体を清めなければならない事だった。身体の清め方は、宗派により様々だが、簡略的なもので良いのではないかと言う、アレイナの意見に先生も同意した。

 簡略的な方法と言えども、禊ぎには真水しか使う事ができない。刺す様な水の冷たさは、止めどない震えと筋肉の硬直を引き起こした。この数ヶ月の訓練の中で、最も修行らしい儀式となった。

 禊ぎを終えた私達は、身体の震えが治まるまで、充分に身体を温め、その後ラマと呼ばれる簡素な服に着替え、昨日ビデオ撮影をした部屋に入った。部屋ではハルコムとイワノフが先生の指示で、祭壇の準備をしていた。

 先生が私達に気が付くと「それでは皆さんにも、儀式の準備をしていただきます。準備の中には儀式を受ける者の手で、執り行なわなければならない物もありますので、私の指示に従ってください。」と言った。

 私達は先生の指示に従いながら、一つ一つ準備をこなし、二時間ほどで全ての準備を終りにする事が出来た。式場の準備は終わったが、儀式の準備は続いていた。儀式で使用する服や、儀式後の食事の準備である、皆忙しそうにしていたが、私達は得にする事がない。私達が暇を持て余し始めた頃、玄関のチャイムの音が聞こえ、アンが一目散に玄関へ応対に出た。

 「ラヒム!リエンコ卿がお見えになりました!」アンの声は家中に響き渡り、それを合図に全員が玄関へと小走りに移動していった。

 玄関には何処にでもいる、ごく普通の地味な身なりをした、少々うらぶれた感じのする老人が立っていた。まず先生が老人に近付き跪くと、老人が頭に手を置いた。それに続いてアンもセルゲイも全員が跪き、老人に敬意を表する。私も見よう見真似に敬意を表してみた。

 そのリエンコ卿と呼ばれた老人は、先生の師であり、非常に位の高い指導者であると共に、高名な法学者で、ロシスキ・シリアムでは、穏健派の代表とも言われる人物であった。

 リエンコ卿は先生と「今日は寒い」だの「歩いて来たのだが、思ったより遠かった」だの、ごくごく普通の会話をした後、キッチンへと移動し、お茶をもらえないかと先生に頼んでいた。

 そんなリエンコ卿の普通さを、呆気にとられながら見ていた私に、アンが「そろそろ礼服に着替えてらっしゃい」と促した。私達はリエンコ卿に、挨拶をしてその場を去り、礼服を着るために奥の部屋へとむかった。

 儀式で着る服は、全身黒ずくめで、ベズロアでは死装束とされている服であり、見た目は昨日のビデオ撮影の時に着た、戦闘服にとてもよく似た服であった。

 礼服を着た私達は、儀式が執り行われる部屋へと通され、ロウソクの光が照らす祭壇の前で、座りながら待たされていた。

 十数分程たった頃だろうか、司祭服に着替えたリエンコ卿と修道着に着替えた先生が、ロウソクを手にして部屋へと入って来た。司祭服を着たリエンコ卿は、先程とは違い指導者としての威厳と、法学者としての知性を合わせ持つ、なんとも神々しい出で立ちであった。

 ゆっくりとしたテンポでリエンコ卿が祭壇に近付き、祭壇の前でひざまずくと、神を称える言葉を唱え始め、後ろに控えていた先生が、祭壇の周りにあったロウソクに火を灯し始めた。

 ロウソク全てに火を灯した先生は、リエンコ卿のやや後方にひざまずき、リエンコ卿の聖典の朗読に加わった。聖典の朗読がすすむにつれ、リエンコ卿と先生の声が重なり合い、今まで聞いた事の無い美しい和音をかなでると、私は頭のてっぺんから意識がぬけて行く様な不思議な感覚に陥り、時間や状況の把握が困難な状態になってしまった。

 一体どのくらい朗読が続いたのだろうか?永遠とも思える朗読が終わると、リエンコ卿が祭壇から離れ、私達一人一人の頭に手をかざし、祈りを捧げ始めた。その祈りは異国の言葉で唱えられていた。私には内容を理解する事は出来なかったが、祈りを唱えるリエンコ卿の表情からは、私達の魂に救いを与えて下さっている様に感じられた。

 私達への祈りが終わると、先生が小さな器に入った水をみんなに配り、みんながこの器に口を付けて儀式は終了ととなった。

 リエンコ卿に続き先生が退室し、数分後にアンがやって来て私達に退室を促した。厳格な雰囲気が一気に解けた瞬間だった。部屋を出た私達は、平服に着替えいわゆる最後の宴が催されるキッチンへと向かった。

 キッチンのテーブルには、それなりに豪華な食事が並べられ、リエンコ卿を囲むようにして全員の席が用意されていた。本来ならばここでリエンコ卿の法話を聞く事になっているのだが、リエンコ卿は法話などは一切せずに、ワインの話や近くのレストランの話だの、とても今の状況にはそぐわない話を続けていた。

 アンやアレイナの困り果てた表情に気が引けたのか、先生が法話をしていただける様にやんわりと促すと、リエンコ卿は「法話などつまらん、だいたいラヒムは堅苦しくい、昔からそうだった。」と言って、今度は先生の幼少の頃の話を始めた。先生は非常に困った様子であったが、ついに諦めたのか私達に食事を始める様に促した。

 皆の食事も進み、場の不陰気もすっかりやわらいで来た時、不意にリエンコ卿が「エミルよ、おまえは、おまえがしようとしている事が、本当に正しい事だと信じておるのか?」と私に問いかけてきた。私は突然の問いに戸惑い、場の雰囲気も見る見るうちに緊張の度合いを増していった。

 「その様な問いかけを、この者達にすることはおやめください!」先生が振り絞るような声で言うと、リエンコ卿はゆっくりとした口調で話し始めた。

 「その様子では、おまえの中にもまだ迷いがあるのだろう…今回の事を聞いて、わしも少し驚いた…あの時、リユンに流された事を止められなかった自分が情けなかった…今こうして、おまえに会い、おまえに迷いがあるのを知って少し安心したわい…おまえはわしに付いていた時から変わらんな、融通がきかん子じゃ…」

 私はこの時、先生の今に至るまでの話を思い返していた。その心とは裏腹に今こうしてここに居なければならない先生の生き方に同情していた。

 私が目に涙を浮かべていると、リエンコ卿が「エミルよ、おまえは優しい子じゃな」と声をかけて下さった。しばらくは全員が無言のまま食事を進めていたが、リエンコ卿の世間話をきっかけに、宴は元の和やかな雰囲気へと戻っていった。

 その後、宴は二時間ほどでおひらきとなり、リエンコ卿が帰り仕度をする中、ついにアンが出発する旨を切り出した。

「せっかくだから、リエンコ卿を自宅まで送ってから会場にむかいます」アンが言うと先生は「そうして下さい、お願いします」と言った。

 先生とアンは最終的な連絡方法などを確認し、アレイナはアパートを出る仕度を始め、ニコラと私は仕度が出来たリエンコ卿に今日のお礼を言った。リエンコ卿は私達に「つらく苦しい時代に生きることを、恨まないで欲しい」と言って下さった。そしてアンとアレイナの仕度も終わり、3人が出発する時が来た。

 先生はアレイナに言葉をかけ、アレイナはにこやかにお礼を言っている様だった。アレイナはセルゲイ、ストイカ、イワノフ、ハルコムと続けて握手を交わし、泣きじゃくって言葉にならないニコラに言葉をかけ、その後ニコラを強く抱きしめていた。そして後ろの方でもじもじとしていた私に、アレイナが駆け寄って来て「さようなら、エミル…」と言って私を抱きしめてくれた。私は精一杯の笑顔でアレイナを見上げた。私は言葉を交わしたかったのだが、喉がつまり言葉が出てこない、そんな私にアレイナは『いいのよ…』と子供をあやす様に髪をなで、よりいっそう強く私を抱きしめてくれた。

 出発の最後、3人はにこやかに手を振りながらアパートを後にしていった。3人のいなくなった廊下には扉の閉まる音だけが静かに響く…

 

 その後も泣きじゃくるニコラと、時には一緒に涙を流しながら、私は彼女をずっと抱きしめていた。ニコラはしばらくすると泣き寝入りしてしまい、私はアレイナがしてくれた様にニコラの髪を優しくなでていた。一時間程過ぎた頃だろうか、アパートを誰かが出て行く気配がした。

 私はニコラの頭をそっと下ろして、寝床の部屋を出てみると、ハルコムとイワノフが部屋を引き払う準備をしていた。私が先生達は何処へ出かけたのかと尋ねると「先生達は会場までの移動ルートを確認しに行くついでに、今夜の夕食を買い出しに行きました」とハルコムが答えた。つづいてハルコムは「先生に夕食までは休ませる様に言われていますので、エミルさん達は休んでいて下さい」と言った。

 私は何となく手伝いたい気分だったので「身体を動かした方が、気がまぎれるわ」と言って片付けを手伝わせてもらった。食器や寝具などの日用品は、そのまま置いて行くそうなので、私は儀式で使った物や私達が着た礼服などを箱に詰める役目となった。やはり2人でやるよりも3人でやった方が作業が早く進んだらしく、私達は時間を持て余してしまった。

 キッチンのテーブルに着いて、お茶を飲み始めた私達はとくに共通の話題も無いので、淡々とした沈黙の時間をすごしていると、突然イワノフが「そう言えば、アンさんに言われていた事があったんだ」と言って、何やらゴソゴソと探し物を始めた。

 しばらくしてテーブルに戻ったイワノフが「化粧道具をエミルさんに渡す様に言われていたんだ」と言って小さなポーチを手渡してくれた。それは私の目の周りにある消えないアザを気にかけたアンが、私の為に置いていってくれた物だった。

 だがここで私達は、一つの大きな問題に突き当たる事になった。それは私を含めここに居る誰もが、この化粧品の使い方を知らないと言う事だった。

 私がこのポーチをじっと眺めていると「練習してみましょう」と明るい口調でハルコムが言い出した。私もその意見に賛成して、恐る恐るポーチの中を開けてみると、何やら得体の知れないものがゴチャゴチャと入っていた。

 私はとりあえず解る物から手を付けてみる事にした。おそらく口紅と思われる物を、唇に付けてみるがどうにもうまくいかなかった。私が悪戦苦闘している姿を、2人は恐ろしいほどに凝視している。私がその事に気付きオロオロとし始めると、たまらずイワノフとハルコムが手を出す事態となった。

 ああでもない、こうでもないとしているうちに、2人が私の顔で遊んでいることに、私は気が付いた。最終的に出来上がった顔は、化粧とは程遠い子供の落書きの様な物だった。私達は私の顔を見て、幼い子供の様に大笑いをしてはしゃいだ。

 私達のはしゃぎ声で目を覚ましたのだろうか?目を真っ赤にして起きて来たニコラが、私の顔を見て大きなため息をついて「私がしてあげるから顔を洗ってらっしゃい」と私に言うと、テーブルの上に広がっている化粧道具を、ひとつひとつ手に取り何かを確認する様な素振りをしていた。私は洗面台へとむかい顔を洗ってテーブルに着くと、ニコラが慣れた手つきで化粧道具を操り、瞬く間に目の周りにあったアザを綺麗に隠していった。

 「明日も私が化粧をしてあげるわ…」ニコラは化粧の出来栄えに満足そうであった。

 ハルコムとイワノフはその変貌振りに、ただただ驚いた様子で「すごい、すごい」と連呼していた。先生達が出先から帰ってきたのは、それからしばらくしてからの事だった。先生は私の顔を見て「化粧をしたのですか、見違えてしまいますね」と言うと、セルゲイが「テレビに出てくるモデルさんみたいだぞ」と私をからかった。

 私は急に恥ずかしくなり、洗面台へと向かった。顔を洗い終えキッチンへと戻ると、先生達は移動経路に付いて何やら議論をしていた。「私達は夕食まで休んでいて良いそうよ」とニコラが私に教えてくれ、私達は寝床の部屋へ戻り、とくに何もすることがないので二人で他愛も無い話を始めた。

 会話の中で、自分達の故郷の話が出た。私は多くを話さなかったが、ニコラは故郷の話と共に自分の子供に付いて話しを始めた。「私の赤ちゃんは、とても可愛いのよ…今度の春で2歳になるわ」…自分の子供の事を名前で呼べないのは、それ相応の事情があるのではないかと、私はこの時感じた。

 「私がバカでなく、もっとしっかりしていれば良かったのだけれども…あの子に会うことが出来るなら、今すぐにでも会いたい…そしてあの子に謝りたい…」寂しい目をしながらニコラが言った。

 私は何の慰めにもならないのを承知で「ニコラは精一杯やったと思うわ…あなたが悪い訳ではないと思う」と言うと、ニコラは優しい笑みを浮かべて「そうかしら?そうではないけど…でも…ありがとうエミル…」と言ってくれた。

 その後、夕食の時間となり、私達は最後の夕食を全員で頂く事になった。夕食は昨日までのアンが中心となって作った手料理とは異なり、インスタント食品中心の料理下手が作る料理であった。

 味が濃いだけの料理で、口が肥えた人は決して口にしない料理であるが、私はその味の濃さが病みつきとなり、久方ぶりに胃が張り裂けそうになるまで食べてしまった。食事を取り終えた後は、明日の作戦のミーティングである。私は時折襲ってくる吐き気を飲み込むことに集中していた。

 作戦のミーティングは、今までのおさらい程度で時間もかからなかったのだが、ミーティングの後に始まった雑談が、思いのほか長かった。内容は自分達の故郷の自慢話と噂話である。皆、自分達の国に対する思いは強く、時に話は熱を帯びていたが、私は吐き気の次に襲いかかって来た眠気と戦う事に必死になっていた。

 「そろそろまずくないか?時間」セルゲイが我に返るようにつぶやいた。今こうして此処に居る私達は、故郷の四方山話をするために集まったわけではない。私達が、どんなにお気楽に振舞おうとも明日と言う現実からは逃れようがない、なにげないセルゲイのつぶやきは、そう静かに教えてくれていた。

 皆は、夢から覚めるように食器を片付け、明日の準備を済ませて、各々の部屋へと消えていった。私とニコラも部屋へと戻り、寝床に着いた。ニコラはすんなりと眠りにつけた様だったが、私は先程の眠気が嘘の様に目が冴えていた。寝たり起きたりを繰り返し、やがてそれさえも解らなくなって、ただ寝付けないと言う意識だけとなった。


 私がおいて行かれたと思い、飛び起きたのは午前11時をすぎた頃だった。私はベットから転げ落ちる様に飛び出し、覆いすがるようにして部屋のドアを開けて、壁にぶつかりながらキッチンへとむかった。

 「すみません!寝過ごしました!!」私がキッチンに居た人達に、とりあえず謝ると「焦らなくてもいいですよ…ニコラによると昨日はあまり寝付けなかったようですね、作戦の準備は始まっていますが、ニコラとエミルの準備はまだ先なので、もう少しゆっくりしていて良いですよ」と先生が言ってくれた。

 私はまだ少々寝惚けていたので、顔を洗おうと洗面台へとむかった。洗面台にはニコラが居て、ニコラは化粧をしているところだった。

 「ごめんなさい、もう少し掛かりそうなの、悪いけどシャワーを使ってくれる?」

 「うん…」私は顔だけを洗うつもりだったが、仕方がないので、身体も洗うことにした。私が身体を洗い終えると、そこにはすっかり化粧を済ませたニコラが居て、私にも化粧をするので、早く服を着てキッチンへ来るようにと言われた。私は身体の水気を取り、髪を乾かし、歯を磨きながら、鏡に映る自分の顔を何気無く見つめてみた。

 頬はこけ、目の周りにはアザがあり、鼻が曲がってしまっている。自分の顔がまるで道化の様に思えた。

 あの頃とはまるで違う自分を実感して、私の目からは自然と涙がこぼれた。

 なかなか出てこない私を心配したのか、ニコラがシャワールームに戻って来て「大丈夫?」と声をかけて来た。私は「大丈夫よ」と答えて、顔を拭くふりをして涙をぬぐった。

 「セルゲイ達がキッチンのテーブルを使うそうなので、ここで化粧をしましょう。何か爆弾に問題があったらしいわ」と軽い調子でニコラが教えてくれた。爆弾に問題があっては困るのだが、ニコラはその事を気に留める様子はなく、とにかく私の化粧に取り掛かりたい様子でいっぱいだった。

 ニコラの化粧は、昨日よりも何倍もの時間を使って行われ、化粧の出来栄えは昨日よりもずっと自然に見える感じに仕上がっていた。ニコラが「どう?こっちの方がエミルには良く似合うと思うけど」と言うので、私が「私もこっちの方が好き」と素直に答えると、ニコラはとても嬉しそうに微笑んでいた。

 私の身だしなみも終わり、二人でキッチンへと行って見ると、セルゲイとイワノフが爆弾に付ける小さな部品をいじくっていた。私もさすがに心配そうにしていると、先生が「少し電圧に問題があるようですが、大丈夫ですよ」と言ってくれた。私は何事も話しをしてくれる、そんな先生の態度にいつも安心させられていた。

 私達が作業を見守る中、十数分ほどでセルゲイとイワノフは問題を解決した。皆の緊張も一気に緩み、キッチンにはホッとした雰囲気が漂い始め、セルゲイとイワノフには笑顔も見せていた。先生の携帯電話が鳴り響いたのはその直後だった。

 先生の顔がみるみる険しくなって行く、鋭い目付きで非常に丁寧な受け答えをしている様子に恐ろしさすら感じた。数分間のごく短い電話を終ると、先生がキッチンに私達全員を呼び寄せ、私達に最終的な命令を下した。

 「たった今、アンからの電話で、会場内の仕掛け爆弾を、予定通り設置した事が報告されました…また会場及び会場ゲート付近の設備や警備状況なども当初の予定通りに執り行われているとの事です…これら現状を踏まえ作戦準備は最終段階に入ります…各員装備の装着を準備し、エミルニコラの装備を完了させ、扇動指令部を午後三時に出発…扇動指令部解散は出発をもって速やかに行う事…攻撃開始時刻は予定通り午後六時に決行…以上をもって本作戦の攻撃命令とする…各自準備の中で異常があった場合は、どんな些細な事でも報告する事…」

 先生はそう言うと、組織の幹部へ電話をする為、奥の部屋へと消えていった。セルゲイとイワノフは、機械のチェックを始め、ハルコムは撤収の準備、ストイカは誰かと連絡を取っている様だった。

 私達二人は、得にする事が無い、せめて皆の邪魔にならない様に、部屋の隅で皆が忙しそうに動き回るのを眺めていた。しばらくすると先生が戻ってきて、「服を着替える前に軽く食事を取って下さい」とお願いされた。あまり食べ過ぎるのも良くないとの事なので、昨日の残り物であるパンを一つづ食べた。

 パンを食べ終え、お茶を飲んでいると、ストイカがやって来て「装備の取り付けには、まだ時間があるのだが、衣類の片付けを済ませたいので、早々に着替えてくれないか」と言って、今日着用する服を渡された。

 服の中には、例のオムツも入っていたので、私達は小用をすませ、一昨日の行動演習と同じように服を着替え、メイクと髪形を整えてキッチンへと戻り、先ほど飲み干せなかったお茶に手を伸ばしていた。

 「一緒によろしいですか?」お茶を手にした先生がやって来て、テーブルに着くと私達が不安にならない様にだろうか?ずっと他愛の無い話をしてくれていた。先生と話をしている途中、緊張の為かニコラが、まだ行けるトイレに何度か行っていた。そんなニコラの様子を心配して、先生は私達に薬を手渡し「この薬は、向精神薬の一種で極度の緊張を和らげる薬です。二錠ほど飲めば、気分が楽になるはずです。副作用として、頭痛や吐き気をもよおしますので、あまりお勧め出来ませんが…」と先生が注意を促す中、ニコラは迷わず薬を服用していた。

 私はまだ大丈夫だと思い、薬は先生に持っていてもらう事にした。それから小一時間ほどたった頃、ストイカが先生に「そろそろ時間です。いかがでしょうか?」と尋ねに来た。

 先生は「良いでしょう」と答え、私達には「それではこれより爆弾を装着します、よろしいですか?」と確認をした。私達は声を合わせて「はい」と答えると、ストイカが「それではこちらにお願いします」と言って、先生と私達を昨日儀式が、執り行われた部屋へと案内した。

 部屋の中にはセルゲイとイワノフが居て、異常なほど張り詰めた空気を醸し出していた。その雰囲気はすぐに私にも伝わり、私の身体を強張らせ、私の頭を真っ白にさせた。

 そんな私にセルゲイが近づき「大丈夫か?」と聞きに来た。私は声も出せずにうなずくと、セルゲイは「起爆スイッチを通す為の穴を、胸元に開けるがいいね?」と確認をとってから、私のシャツをつまみ5㎝ほどの切れ目を胸元に入れ、同じ様にしてニコラのシャツにも切れ目を入れ終えると、セルゲイに先生が近づき、何か耳打ちをして、「それでは、まずニコラのベルトを装着します」と先生が装着する順番を伝えた。

 ニコラは覚悟を決めたのか、それとも薬が効いていたのかは解らないが、とても落ち着いた様子であった。セルゲイとイワノフは、まるでお姫様に御召物を着せるように、慎重にニコラの腹部にガードルを取り付け、起爆用の電源をセットし、予備の無線起爆装置の電源を確認した後、食品用のラップフィルムの様な物で胸の下から腰の辺りまでグルグル巻きにして、さらにビニール粘着テープでしっかりと定着させていた。最後にだらんとぶら下がった起爆スイッチを、シャツに開けた穴から手元にとおし、上着とコートを羽織って爆弾の装着は無事に完了した。

 少々息苦しそうなニコラの様子をまじまじと見つめていると、ニコラは“なんて事ないわ”と言った感じで私に目で合図をしてくれた。私は合図を返す余裕もないまま、爆弾を装着する番となった。

 極度の緊張の中、私はテーブルに広げられたガードルの前に立った。セルゲイにシャツを胸まで捲り上げる様に指示を受けたのだが、手が震えて思うようにシャツを捲り上げる事ができない、背中に汗がどっと吹き出る、その事が妙にリアルな恐怖に感じられた。

 「エミル、落ち着いてゆっくりと息をするんだ」セルゲイが少し強い口調で私に指示した。私は私が随分と速いペースで呼吸をしていたことに気が付き、言われたとおりにゆっくりと深呼吸をすると、数分で手の震えも治まり、肩に入っていた無駄な力もスッと抜けていくのを感じた。

 落ち着きを取り戻した私は、シャツを捲り上げその後の指示にも、ちゃんと「はい」と答える事が出来る様になった。セルゲイとイワノフも一度目のニコラの時よりも慣れた様子である、私の装着はニコラの時よりも十数分早く無事完了した。

 私とニコラの装着を待っていたのだろうか?部屋の扉を開けセルゲイが何か合図を送ると、部屋にハルコムとストイカが入って来た。部屋に集まった皆は先生の方を注視している、先生は重い腰を上げる様に椅子から立ち上がると、私達に対峙し話を始めた。

 「二人の装備が完了しました。まもなく起爆装置の電源を入れます。通電の確認がとれ次第すみやかに扇動指令部を出発します」「ストイカとイワノフは車の準備をお願いします。ハルコムは撤収準備を、セルゲイは私と共に通電の確認をお願いします…」

 「…最後に…最後にこの数日間の不眠不休の労力、ご苦労様でした。今日と言う日が、明日のベズロアの希望となる事を信じていますし、我々は他の誰よりも、そう信じぬかねばなりません。我々一人一人が抱える重責は、ベズロアの希望の重みそのものです。今はただその重みを胸に、今日のその時をむかえましょう…」

 「それでは以上です。何か質問はありますか?」

 だれも質問をすることは無かったが、先生の最後の言葉は、私に不思議な安らぎを与えてくれていた…先生の声がどことなく、ここに来る前の声に戻っているように感じられたからだ…

 私がそんな事に想いを致している間にも、準備は着々と進んで行く。ストイカとイワノフは車を準備する為に外へ、ハルコムはダンボールに何かを詰めている。セルゲイは電流を測るための機械をチェックしていた。

 「予備起爆装置の電波、確認できました。携帯電話からの強制起爆が可能な状態です。電流計も準備が出来ました。いつでもOKです」セルゲイの声が部屋に響いた。私達に近付いて来た先生が、電源を入れても良いかと訊ね、私達は声を合わせて「はい」と答えた。

 「それでは、まずエミルからいきましょう。練習通り、カチッと音がするまでスイッチを握ってください。確認しますが、一度握った手を開くとロックが解除され、もう一度握ると起爆です。手は握ったままでお願いします」

 私は「わかりました」と答え、スイッチがカチッと音がするまで、起爆スイッチを強く握った。先生は私の手が不意に開かないように、私の手をスカーフで巻き「大丈夫ですか?手は開きませんか?きつくはありませんか?」と確認をとった。

 私が「大丈夫です」と答えると、つづいてセルゲイが近づき「通電を確認するので袖を捲り、ケーブルを見せてくれ」と言った。

 私は言われた通り袖を捲り、腕を差し出すと、セルゲイが電流計を使って通電を確認していた。「OKです。通電できています」セルゲイの声が再び部屋に響いた。

 同じ手順で、ニコラのスイッチも握られ、通電が確認されると、私とニコラはすぐに車に乗るように指示された。

 私達はどことなくぎこちない歩き方で、ストイカの後を付いて行き、アパートのドアにたどり着くと、セルゲイとハルコムが見送りに来てくれた。

 二人とも今生の別れと言った雰囲気は微塵も見せずに、私達が、まるで夜には帰って来る様に見送った。

 「それじゃあな……」

 私達にプレッシャーを与えない為か、それとも本当に平気なのか解らないセルゲイの様子、それに比べハルコムは、ドアが閉まる瞬間まで何かを言いたそうにしていた…

 

 「申し訳ないのですが、階段を使って下まで降りてください」…人目に付く事を気にしているのだろうか?ストイカの指示にしたがい、更にぎこちない動きで、階段をゆっくりと一段一段確認しながら下りて行った。

 徐々にではあるが、私もニコラも下の階に進むにつれ、自然な動きが出来るようになり、階段を下り終える頃にはストイカの速い歩調にも着いて行ける様になっていた。

 自然な動きを保ちながら、建物の外へと出ると、外の景色は穏やかで、午後の柔らかな日差しが、私の心を少しだけ軽くしてくれた。

 「車はここから、二分ほどの所に停車してありますので、ついて来て下さい」

 事務的なストイカの様子に、少々冷たさを感じながら、私達は車が停車している所まで、無事たどり着けることが出来た。

 停車してあった車には、イワノフが乗っており、この町に来た時とは別のワゴン車であった。ストイカが助手席へと座り、私達は後部座席へと座った。ストイカとイワノフが何やら話し、イワノフが車を降りてアパートの方へと小走りで走って行くと、ストイカが振り向き「このままもうしばらくお待ち下さい」と事務的な台詞を吐いた。

 するとニコラの表情と目の輝きが見る見るうちに変わって行くのが分かった。ニコラはこの時を待っていたのであろう。満面の笑みで身を乗り出して「ストイカはアンのこと好きなの?」と質問した。

 ストイカは、今まで保ってきた冷静さをかなぐり捨て、慌てふためきながら、何故そんな事を言うのか?とニコラに質問を返した。

 ニコラは確信に満ちた表情で「アンと話をしている時の、あなたの様子を見て」とすぐさま答えた。ストイカの顔が真っ赤になっている事は、後部座席からもはっきりと解った。

 「なんで好きと言わないの?」と叱り付ける様にニコラが言うと、もじもじしながらストイカは「彼女とは…アン信徒とは階級が違います…それに彼女の方が年上ですから…」と言った。

 「あんたバカ!?そんな事どうでも良い事じゃない!!ねぇエミルもそう思うでしょ!!」とニコラに同意を求められたのだが、私は話の展開について行けず、ニコラの迫力に「うん」と返事をするのがやっとであった。

 その後もニコラとストイカのやり取りは、先生とイワノフが来るまでつづき、あまりのニコラの熱の入れように、私はニコラが飲んでいた薬が、効き過ぎているのではないかと心配していた。

 ワゴン車の中は、気まずくじっとりとした何とも言えない空気に支配されていた。後部座席に乗り込んだ先生も、この雰囲気にすぐに気が付き「何かあったのですか?」と私達に質問したのだが、すべてを覆い隠す勢いで「何でもありません。大丈夫です」とストイカが答えた。

 先生もそれ以上は、深追いしようとはしなかったが、そんなストイカの態度を見て、ニコラは憮然とした態度でバックミラーごしにストイカをにらみ付けていた。

 

 「それでは、出発しましょう。法定速度に気をつけて、安全運転でお願いします」先生がイワノフに指示すると、車はゆっくりと走り始めた。

 車はまず地下鉄の駅へとむかう。15分程の道のりであったが、車の中ではニコラの明るさが際立っていた。

 「あれがオスタン宮殿よ!」とか「あれは、テレビ塔だわ!」などまるで観光に来ているように町並みを説明していた。

 今の私達には似つかわしくないニコラの様子に、先生はとても心配そうにしていたが、とくにその事をニコラに言うような事は無かった。

 車の移動は、渋滞に引っかかる事も無く、予定通りの時間で地下鉄の駅まで到着した。ここでニコラ達とはお別れである。先生はニコラに「いつもあなたには、神と私達がついています。あなたに会えたことを誇りに思います」と言うと、ニコラは「私も先生と出会えた事を誇りに思っています。私は先生に救っていただきました。本当に心から感謝しています」と言った。

 …ほんとうにそうであった。私達は本当に先生に救ってもらったのだ…今こうして人間として生きていられるのは先生のお陰であった…

 先生は最後に、ニコラの事をお願いしますとストイカとイワノフに頼んで車を降りた。私はみんなに「今までありがとう!みんなと過ごした日々が今までで一番楽しかった…ほんとにありがとう」と言うと、ニコラが「エミル、私もありがとう。私もあなたに会えて良かった。今日のあなたはとても美しいわ」と言ってくれた。

 「ありがとう ニコラ」私はそう言って、みんなと握手を交わし車を降りた。先生が車のドアを閉めると、車はまもなく発車し、後ろの窓からはニコラが笑顔で手を振る姿が、車が見えなくなるまで見えていた。

 

 立ちすくむ私に先生が「エミル それでは行きましょう。地下鉄に乗るのは初めてですか?」と聞いてきた。私が初めてですと答えると 「地方の駅と違うのは、自動改札機がある事ぐらいです。何も心配はありませんよ」と先生が言ってくれた。

 私達は駅の入口から階段で、駅のコンコースへと下りた。改札口付近にある券売機で、先生が行き先までの切符を買って、私に手渡し、そこの改札から中に入りますと教えてくれた。

 私は、先生や他の人々がやるのと同じ様にして自動改札機を通り、これを難なくこなす事が出来た。

 「では、上り方面のホームへむかいます」と先生が言って、奈落の底につながる様な、とても長いエスカレーターに乗った。

 「この駅は、核シェルターとしての役割を果たす為に、とても地下深くに線路を通したのです」いつまでもつづく長いエスカレーターに、不安を感じていた私に、先生がそう言って不安を和らげてくれた。しばらくすると私達は、妙に広々とした空間に降り立った。上り方面ホームへは更に階段を下り、人一人がすれ違える程度の通路を抜けて、やっとホームへとたどり着いた。電車が来るまでは、5分ほどの時間がある。

 「電車はけっこう揺れますので、座る事が出来ない時は、しっかりと左手でつり革につかまっていて下さい」

 「あと、もしも誰かに話しかけられても、エミルは黙っていて下さい。私が外国人のふりをしてやり過ごしますので、よろしくお願いします」

 先生が私にそう指示をすると、轟音と共に列車がホームにすべり込んで来た。一斉に開いたドアに吸い込まれた私達は、車両の後方、全体が良く見渡せる席へと座る事が出来た。

 電車の車内は、ロスク中央駅に近付くにつれ、徐々に混み始め、ロスク中央駅を出発する時には、ほぼ満員の状態になっていた。

 私はこの間、ずっとうつむき、左手で右手のスカーフを隠す様にかさねたままでいた。ロスク中央駅からは、オリムタージュ美術館駅や国立王宮博物館駅など、連邦首都ロスクの一大観光名所が続いた。

 私が、ふと顔を見上げてみると、電車の中には、肌の色が違う人や、紙の色が違う人々が、大勢乗車していた。世界中の人々が、この町へ観光に来ている事を知り、この町の大きさをあらためて実感していた。

 中央駅から四つ目の駅、ヴェチー修道院前駅に着いた時、乗客の3分の1ぐらいが降りていった。先生が「この修道院は、この国で最も歴史のある修道院で、世界遺産にも認定されているのですよ」と言っていた。

 私は世界遺産と言うものが、どういうものなのか知らなかったので、先生に世界遺産というものを教えてもらっている内に、目的地である国立スタジアム駅へと到着した。

 「それでは、降りましょう」と先生が言って、他の乗客と共に電車を降りた。下車した乗客のほとんどが、まだ若い人々で、みんなロックフェスに行く人々なのだと言う事が想像できた。

 先生と私は、階段を上り、改札口を出て、また長いエスカレーターに乗って地上へとむかった。遥か地上からは、外からの光が、まるで人々を導く聖なる光のように降り注いでいた。

 地上に出てみると、駅出入り口付近は、大勢の人々でごった返しており、人々の大半は駅で待ち合わせをしている人々の様だった。

 私と先生は人々をかき分けながら、目的地である西側ゲートへと向かった。先生は時折後ろを歩く私を気遣いながら歩いてくれた。先生とはぐれない事だけを考えていた私に、ここにいる誰かを殺してしまうかもしれないと言う考えがよぎった。私は恐ろしくなり、人々の顔を見る事が出来なくなった。ただひたすら先生の足元を見て歩いた。

 「あれが西側ゲートになります」先生の声で頭を上げると、私達の150mほど手前に西側ゲートが在り、ゲートの手前でたむろする人々と、次々とゲートに吸い込まれていく人々が見えた。

 

 「時間が来るまではそこのベンチで座っていて下さい」「時間を確認する為の時計塔はあそこにあります…」

 私達の立っている場所の左手には、事前のミーティングどおり、誰かの銅像を中心として、ベンチが備え付けられた小さな広場があった。


「いいですかエミル、アレイナの爆発音がしたら、直ちにゲート付近に移動して下さい…もう一度確認しますが、起爆スイッチは一度放した後にロックが解除され、もう一度握る事で起爆します…よろしいですね…」

 先生の問いかけに、私は元気良くハイと答えた。私の精一杯の明るさは、直ぐに先生に見破られ、私が攻撃に行く直前まで、ここで一緒に時間を過しますか、と先生に提案されてしまった。

 私としては、先生の側を離れるのは、不安ではあるが、爆発後の混乱を考えると、一刻も早くこの場所から離れてもらうのが得策であった。私は事前の計画通りに、ここを離れてもらう様に先生にお願いをした。


 「…わかりました…ではスカーフを取ります。しっかりと手を握っていて下さい…」先生はそう言って、私の右手のスカーフをゆっくりと取り始めた。

 私の右手は小さく震えている。そんな私の様子を見てだろうか?先生は一人の人間としての、弱い部分を私に見せはじめた。


 「すまない…エミル…」

 

 「エミル…あなたを助ける事も出来ず、こんな生き方しか選ばせる事が出来ませんでした…」


 「エミル…あなたがもし恐ろしかったり、つらかったりするのなら、あなたはこのまま保安局に向かってもらってもかまいません」


 「保安局の捜査に協力すれば死刑になることは無いし、恩赦があれば釈放される事も充分ありえます。もしその事で、私達が逮捕される事があっても、けっしてあなたを恨んだりするような事はありません」


 「もしあなたが、クルコエへの送金を気にかけているのなら、どんな事になっても、私が責任を持って金は送り届けます」


 「…だからエミル、あなたはもう苦しまなくていいのですよ…あなたは充分苦しみました。あなたはもうこれ以上こんな茶番に付き合う必要はありません。自分の思うがまま、自由に生きてかまわないのですよ…」

 そう話してくれた先生の言葉には、自分がしている事への迷いが、痛々しいほどに滲み出ていた。

 

 私はスカーフが取られた右手を、左手で押さえながら「ありがとうございます…先生。…でも私出来るとこまでやってみます」と答えると、先生は何も言わずにうつむいたままであった。


 「ひとつだけ…ひとつだけ先生にお願いがあります」私が声を振り絞る様に言うと、先生が「なんですか?」と言って顔を上げてくれた。


 「…私の魂が…わたしの魂が、まよう事なくスタルニスの所へ…私の、わたしのすごく好きだった人の所へ行ける様に、祈っていただけますか?」


 私が言うと先生は「わかりました…私の命がつづくかぎり祈りつづけます」と言ってくれた。


 私は最後に「ありがとう」ともう一度言うと、先生は私をやさしく抱き寄せ「本当にすまない」と言って、その場を後にしていった。


 私は先生の後姿を見ていた。先生は一度だけ、何か大事な物をおいて行くかの様に、振り向いたのだが、やがてその姿を雑踏の中へと消して行った。

 先生が消えた辺りを見つめていた私は、スタルニスの事を思い出すのが、随分と久しぶりである事に気が付いた。


 今までスタルニスの事を忘れたわけではなかったが、私は、あの日を境にして、あの出来事の痛みも、スタルニスへの思いも一緒にして、私の深い所へと追いやっていたのだ。


 私が追いやっていたスタルニスへの思いは、先ほどの先生へのお願いによって、徐々に私を満たし始め、私の身体をスタルニスでいっぱいにして行った。

 私は止めどなく溢れ始めたスタルニスへの思いを抑えながら、決行の時を待つ為に広場のベンチへと向かった。

 ベンチに座りしばらくすると、すぐ左隣のベンチに一組の若いカップルが腰を掛けて来た。年のころは、私と変わらないほどの子供である。隣りのベンチまでは2mほどで、当然ではあるが、二人の会話も耳に入ってくる。二人のそれは、実に他愛もない会話で、話しには内容と言った物はまるで無く、数分の後にはどうでも良くなっている事を、二人は実に生き生きと楽しげに話していた。


 …それは私とスタルニスがそうであった様に、あまりにも稚拙で、あまりにも楽観的なすがたであった。

 あまりにも幼稚…私達は幼稚でバカだった…幼稚でバカだったが、私達はそれでも良かった。

 おさなくおろかでも、二人でいられるならば、現実を知ることも、苦しみを感じる事も否定して、生きて行けたのかもしれない…

 私がそう感じると、目の前にいる二人や、行きかう人々がとてもいとおしいものに思えて来た。


 我々の作戦に正義は無い…先生の言葉は正しかった。こんなにも素晴らしいものを人から奪う事に微塵の正義も有りはしない…わたしはバカだ…本当にバカだ…先生の話を真剣に聞く事が出来なかった…

 わたしは自分の不幸や悲しみを身にまとって、何も考え様とはしなかった…


 どうしよう…わたしはどうしたらいいの…


 ベズロアが受けた傷、民族が受けた苦しみ、私が受けた屈辱と痛み…それらを一緒くたにして、今、目の前にいる人々に償わせなければならないの?


 彼らは私達と同じ様に生きて来た人々、日々の糧を得て、想い合い、生活をいとなんで来た人々…神の名を騙り、罰を与える人々ではない。

 そんな事を私がして良いはずが無いし、そんな事をして良い人間がこの世に存在するはずも無い…


 …わかっている…わかっているけど、じゃあ、私はどうすればいいの?


 

 先生が言ってくれた様に保安局に逃げ込むの?


 私によくしてくれた皆や、世話をしてくれたハンナや先生を危険にさらす事が出来るの?


 全ての事から逃げ出して、私が生き延びる日々があるの?


 生き延びられたとして、その後は?


 その後、私はクルコエの男達がした事を、忘れる事が出来るの?


 スタルニスは…スタルニスはどうなるの?


 私には、スタルニスと一緒だった時の様に、笑える時が来るの?


 わたしは私自身をゆるす事が出来るの?



 どうしよう…



 どうすればいいの? わたしはいったい…








 “ドォォォーン!!!”


 それはアレイナの音だった。その号音は、私の思考を停止させ、現実の時間へと引き戻す合図となった。私の近くにいる人々は、この音をロックフェスの余興ぐらいにしか思っていなかったはずだ。私の隣りにいた二人もさして気にしていない様子で、顔には笑みを浮かべている。しかしそれが、余興などではない事を、彼らは直ぐに気付き始めた。遠くから次第に大きくなる悲鳴や怒号がこの場所まで押し寄せ、ゲート付近では人々の流れが止まり、係員の動きが慌しくなっている。

 若いカップルの男性は立ち上がり、ゲート付近の方を見つめている。女性からは、笑みが消えとても不安そうにすがり付いていた…



 “はやくゲートにむかわなきゃ、はやくいかなきゃ”


 徐々に大きく震えだした右手を、必死に左手で押さえる…


 “はやくにげて!!はやくにげて!!みんなはやくにげて!”


 心の中で必死に、必死に叫びつづけた…


 “ダメだ!”


 そう思った瞬間、私の目は誰もいない場所をさがし、同時に私の足はそこにむけて走り始めていた…



 “あそこなら…あそこなら、きっと誰もまきこむ事なく一人で”



 “あそこなら…あそこならきっと一人で死んでいける”



 “もうだれもまきこまないで…先生やハンナやみんな、スタルニスもだれもまきこまずに…”



 “先生…先生ごめんなさい…わたし、私ちゃんと出来なかった”



 ズォォーン!



 “ニコラの音だ!ニコラはいったんだ…ごめんなさいアレイナ…ごめんなさいニコラ…私にはやっぱり…”



 “ごめんなさい…わたしにはやっぱり出来なかった”



 “ごめんなさい…”



 “ごめんなさい”



 “ごめんね…”



 “ごめんね…ごめんねスタルニス…あなたとはちゃんとさよならも言えなかった…わたしが見た最後のあなたは泣いていたね…ごめんなさいスタルニス…”



 “…でもこれが終われば…これが終われば大叔父にお金が入ってきっと…お金が入って、きっとあなたを許してくれるわ…”



 “スタルニス…ゆるしてね…ごめんね…”



 “ごめんね…”



 “ごめんなさい…”



 “ごめんなさい”




 “スタース…”






 カチッ…ピッッ…


 シュパッッ



 ドゥンン!












 2003年11月4日


 ロックフェス連続自爆テロ事件


 死者15名


 重軽傷者108名


 2003年11月4日、ロスク市内、国立スタジアム、ロックフェス会場にて、連続自爆テロ事件が発生。最初の爆発は会場内中央部で、開演10分前に爆発。死者11名、重軽傷者50名。最初の爆発から15分後、東側中央ゲートにて二度目の爆発。死者4名、重軽傷者58名。また二度目の爆発と同時刻に、西側中央ゲート付近でも爆発があるも、負傷者は無し。自爆テロ犯3名は即死、いずれも女性。





 エピローグ


 事件後、グルスタフとバーナエフの会談は実現されなかった。グルスタフは2005年3月に、バーナエフは2006年7月10日に死亡。2013年1月現在、ベズロア自治共和国は親ロシスキ政権によって統治されている…



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