2・学校 (2-2)
「まず、大変残念な事ですが、君の父上カフカ・サラム氏は私達の仲間一名と共にベズロアの国境付近で亡くなっています…」私は父が亡くなっている事は充分承知していたはずだったが、先生から出た言葉は重く、私の心を簡単に打ち砕いた。「どうして父は…」私は涙をこらえか細い声を出すのが精一杯であった。「君のお父さんは2000年11月ごろドミニスタンの建設現場で働いている時に我々の組織の者にスカウトを受けた様です…組織で働く事を決めたお父さんは、アジルドイバン共和国にある訓練キャンプで基本的な訓練を二ヶ月ほど受けた後、ロシスキ連邦の首都ロスク市で諜報活動に従事していました。これは君のお父さんがルスキ系の容姿をしていた事が理由となったようです。」「君のお父さんを知る当時の上官の話では、お父さんは実に実直で信頼の置ける人物でいつも君や母親の事を気にかけていたようです。ロスクでの活動が半年ほど過ぎた頃、君からの電話で母親が倒れた事を知ったお父さんは、なんとかしてベズロアへ戻る方法を探していたようです。お父さんの上官はロスクに留まる様に説得していたのですが、お父さんの意志は非常に固く上官もついには折れてしまいました。上官は安全のため同伴者を一名付ける事を条件にロスクを送り出したそうです。」「スタボリポスのトルハ空港に降り立ったお父さん達は、陸路で国境の町カフロドヌイへと辿り着き、この町で国境を越えるための案内人を雇いました。この案内人はラータン・タリムと言う名前で運悪く国境警備隊の内通者でした。越境者と国境警備隊双方から金を取る悪人です。」「お父さん達はこの案内人に騙され待ち構えていた国境警備兵に射殺されました…地元警察に運び込まれたお父さん達の遺体は身ぐるみはがされていたそうです…」先生は非常に沈痛な面持ちで、私に数冊に綴じられた書類を手渡して「これがその時の国境警備隊の交戦記録と地元警察の事件報告書および検視報告書のコピーです…」
私はもう涙を堪えてはいられなかった。「私が電話したせいで…」心がはじける様に声が出た。「エミル、それは違います。悪いのは案内人や国境警備兵…そして自分達の仲間を守れなかった私達です…」永遠にも思えるくらいの沈黙の後、先生が大きなため息をして話しを続けた。「その後、連絡が途絶えたお父さん達を心配して、我々はお父さん達の足取りを調べました。結果は最悪の事態です…ロスクの諜報部にも危険が及ぶ恐れがあった為一時的にロスクの諜報部は解散しアジトも引き払いました。そしてこれと同時に我々は事件の犯人である案内人、ラータンを捜し出し血の復讐を果たし、地元警察に安置されていたお父さん達の遺体を引き取りました。今回の経緯と遺体を引き渡すために我々は君の集落に使者を出し、集落の族長に話をしましたが遺体の受け渡しは拒否されてしまいました。我々はせめて生まれ故郷の近くにと考え、ヌイノフスクの共同墓地に君のお父さんを埋葬しました…」「君は族長に何も聞かされていなかった様ですが、それはきっと族長が自分の商売に支障が出ると考えたからでしょう。クルコエの裏の仕事については我々も承知しています、クルコエやヌイノフスクがある地域は我々の組織と対立する組織の勢力圏です。対立する組織に身内の者が居た事は知られたくない事実でしょう、クルコエの族長は全てを覆い隠すために母親を施設に追いやり、遺体の引取りを拒み、君に全てを伝えないまま自分の手元に置いていたのだと思います。」「非常に残念です…今君がここに居る理由もこの事件に起因するところが大きいと思います…」「…本当に申し訳ありません…」
力無くうなだれる先生の背後にはキラキラとした夏の夕日が輝いていた…しばらく時間が過ぎても私は自分の心を落ち着かせる事が出来ずにいた。私の様子を心配した先生がすっかり暗くなってしまった教室にハンナを連れて来てくれた。私は当然の様にハンナに抱きつき、ハンナは何も言わずに私を慰めてくれていた。その後私は体調を崩し、数日間ベットから起き上がれない状態が続いた。看病はやはりハンナがつきっきりで行い、私の熱が下がるまで家に帰る事は無かった。私が寝込んでいる間に実行要員の最後の一人であるアレイナ・カリヤが合流した。先生と一緒にベットルームへと現われた彼女は、まず私の側に居たハンナに抱きつき「お久しぶりラヒムもあなたも元気そうで何よりだわ。」と言って二人は再会をよろこび町の様子やこの学校の様子などに付いてしばらく話をしていた。「騒がしくしてごめんなさいね。私はアレイナ・カリヤよ、よろしくね、私の事はアレイナと呼んでくれていいわ。」彼女は気さくに私に話しかけてくれ、病気が良くなるまでゆっくり休みなさいと言ってくれた。アレイナは私がイメージしていたよりもずっと小柄でずっと優しい感じのごく普通の中年女性であり、見た感じは典型的なベズロア人女性の顔立ちをしていたが、それ以外は得に人目を引くような要素は持ってはいなかった。私はそのまま眠りについたが華やかな話し声は夜遅くまで訓練場に響き渡っていた…次の日の朝、私のベットの前に現われたハンナは私の体温を測り「熱は下がったみたいね、身体の具合はどう?私、ラヒムと話し合ったんだけど一度ちゃんと、お医者様に診て頂いた方がいいんじゃないかと思うの…ザレーマ先生なら今日の午後ならいつでも診てもらえるらしいんだけど…」私は、身体の不調を感じていたが熱が引いているなら大丈夫だと思い病院に行くのを断り、今日の先生の講義からプログラムに復帰する事をハンナに伝えた。
「わかったわ…あまり無理をしないで、体調がおかしいときは早めに教えてちょうだい。私は今から皆に伝えてくるね。」そう言ってハンナはベットルームを後にして行った。私は午後の講義までの時間をシャワーを浴びたり、他の人達よりも何倍もの時間を使って食事をとったりして過ごした。「エミル、あまり無理をしないように講義の最中でも具合が悪い時は言って下さい。」先生は講義に入る前に私にそう言うと、いつものように教壇の上へと立った。先生の講義は相変わらず精彩を欠くものであった。淡々とした説明と一方的な授業内容、何も知らない私にとっては、それでも十分すぎる講義なのだが、アレイナにとっては耐え難いほど歯がゆいものだったに違いなかった。隣にいたアレイナの苛立ちが、彼女の方を見るまでもなく伝わってきた。凍てついた緊張感がただよっていた。張り詰めた長い講義の時間が終わりをむかえた時、アレイナは我慢も限界とばかりに先生に詰め寄ろうとしていた。先生は一瞬アレイナの視界からはずれ身をかわすようにして体育館から姿を消した。不意をつかれたアレイナは、しばらくその場に立ちすくんでいたが、深いため息の後、諦めの表情を浮かべ次第にいつものアレイナの雰囲気へと戻っていった…私は、この時のやり取りで先生がアレイナの苛立ちに気付いていながらも、今の講義の進め方を変えるつもりがない事に私は気付いた。そして部隊上層部が進めようとしている作戦のやり方と先生が行っている作戦のやり方に、かなりの違いがあることも自由時間で語られたアレイナの話によって明らかになってきた。
アレイナの話は、先生が語る話よりも宗教的で、より神秘的なものであった。彼女の考え方…つまり部隊上層部の考え方は、我々は神によって選ばれ、神の意思として作戦を実行し、神の御名においてロシスキに攻撃を加えるというものだった。自分達の命を神に捧げて初めて、神の美国に近づけるのだと、アレイナは強く語っていた。私はアレイナの話を聞き、先生の講義に欠けている何かを感じていた。少なくとも、この時の私はアレイナの熱い信仰心にふれ、大変興奮し、感動したのだった。私の命はべズロアの土地と人々の為に…わずか数時間の話で、私がそう思い込んでしまう程の力がアレイナの話しには存在していた。次の日、朝食から聖典の朗読、聖典の朗読から昼食、そして先生の講義の時間まで私とニコラは、より厳格なシアリム教徒の真似事をしていた。特にアレイナに強要されたわけでもないが、そうする事が当然なのではないかと感じていた。私とニコラの変わり様に、アレイナも少し満足気な様子がうかがえ、訓練場内は全ての歯車が回り始めた様な雰囲気をかもし出していた。そう、この日、先生の講義が始まるまでのほんのささやかな時間、私達はこの作戦が求めている、神の花嫁へと近付こうとしていたのであった…
先生は私達の雰囲気に気付いたのだろうか?いつもの様に教壇へと立った先生は、いつもとはどこか違う眼差しで私達の方に目を向けていた。講義が始まる前、私がいつもの様に聖典にある一節、神との契約のお祈りをしようとすると、先生が手で合図を送り「今日はお祈りは無しにしましょう、聖典も閉じて貰ってもかまいません。」と言って話を始めるタイミングを見計らっている様だった。一体何が始まるのか?少なくとも私とニコラには見当もつかなかった。ポカンとした表情を見せる二人の横でアレイナの顔が見る見る険しくなっているのが見えた。「何から話して良いか解りませんが、今日は皆さんに嘘偽りの無い本当の真実を伝えようと思います…」「ラヒム!!そんな事が!」アレイナは立ち上がり真っ赤な顔をして先生の話を止めさせようとしていた。「アレイナ聞いて下さい。アレイナ!」「ラヒムやめなさい!あなたは解っているの?あなたにそんな権限があると思っているの?」「私はこの子達に嘘をつきとおす事など出来ません!私の出来る事は…」「何を子供みたいな事を言ってるの?私達が教える事が真実よ!!あなたは間違いを犯そうとしているわ!あなたは組織の指示通りに…」「アレイナ聞いて下さい!」「いいえ聞かないわ!あなたはこの作戦の為にルモルフがどんな思いをしているか解っているの!?」
「この作戦の全指揮権は私にあります!アレイナあなたも今は私の指揮下です!私に全権を与えたのはルモルフ司令官で、その事実はあなたも良くご存知のはずだ…」永遠に果てしなく続くかと思われた二人の応酬は、先生のこの一言で終わりを迎えた。私は二人の迫力に圧倒され怯えて、机をカタカタと揺らしながら震えていた。 「すみませんアレイナ…私がこの子達に最低限しなくてはならない事は、やはり真実を伝える事だと思います…あなたが信じている真実とは違うかもしれませんが今日は少しだけ私の話を聞いて下さい…」先生は呼吸を整え大きく息を吐いて、アレイナが止めさせたかった話を始めた。「…ニコラ、エミル、先ほどは大声を出してしまい申し訳ありませんでした。これからする話は、あなた達にはとても理解に苦しむ話しかもしれません…しかしそれこそが今、我々が直面している状況なのだと思います…つらい現実を味わい、今こうして私やハンナが生き続けていられるのは、あなた達と同じようにルモルフの組織が存在したからです…今から二年前ほどになりますが、私は一人息子を事件によって失いました。息子が死ぬ事になった理由は、私が当時ある人権団体で中心的な役割を果たしていた事に原因があります。私の団体での仕事は団体代表者の補佐で政府担当者との交渉をする事が主な仕事でした。当然の事ですが政府と対立する事も度々で、何者かからの脅迫を受けた事も一度や二度ではありませんでした。政府が強権的な政策を出せば出すほど、政府と対立する私達への支持や期待は次第に高まり、いつしか私達の団体は政治的な影響力をも持つような団体へと成長していきました。そして政府の中枢が私達の力を認識した時、大統領にごく近い一派がある策略を画策します…それは団体の代表を政府中枢に取り込み、団体を実質的に解散させようと言う思惑でした。策略を実行するには邪魔者がいます、私と私を支持し、私をいずれは団体の代表にと考え行動してくれていた人達です。息子は私を表舞台から引きずりおろす為だけに誘拐され殺害されました。私は息子を取り戻すどころか、彼らの思うがままに操られてしまいました…ゲームは彼らの勝利でした…代表は政府に取り込まれ、何も知らない市民は、政府の態度の軟化ととらえ、それに希望を見出しました。私は団体を追放され、今こうして皆さんの前に立っています…彼らの策略は国家的陰謀のごく一部分でしかありませんが、私達夫婦はこの事件で何もかもを失ってしまいました。失望感と絶望感だけの毎日に希望を与えてくれたのはルモルフ司令官やアレイナ女史、そしてこの学校の生徒達でした。私がルモルフのキャンプにたどり着いた時、ルモルフは私に宗教家のままでいられる道を与えてくれました。彼は私に銃を握らせようとさえしなかったのです。ルモルフの様なゲリラが存在している事は、今のベズロアではまさに奇跡です。真に民族の将来を愁い、人々を苦難の日々から救い出そうとしています。ベズロアが進むべき正しい道があるとするならば、それはルモルフが追い求めている道だと私は心から信じています。」
「さきほどアレイナが言っていましたが、今回の作戦を実行するに当たってルモルフは大変な苦しみを味わったのだと思います。私自身もルモルフの口から自爆攻撃を計画していると聞いた時には、正直自分の耳を疑いました。人間の尊厳を侵すとして、絶対に許すことの出来ない行為だとルモルフ自身が、強く忌み嫌っていたからです。当然、私も作戦には反対です…ルモルフに直接会った時も作戦計画を直ちに中止すべきだと上申しました。彼は私の話を拒まず聞き、なぜ今回の作戦を計画するに至ったのかを私に話してくれました…長い話し合いになりましたが、ルモルフと私の溝は埋まりません…お互いに自爆攻撃は悪だと信じているにもかかわらずです。議論は何の答えも出せないまま中断しました…数日後、リユンへと戻った私に正式な作戦命令が下ります。本作戦の指揮を私に委ねると言うものでした。ルモルフの出した答えは機械的に命令を実行する者ではない人間に作戦を指揮させることでした。ルモルフは私に何かを託したのではないかと思っています。ルモルフが私に託したものが何なのか、私は今だ答えを出せないでいます。人として聖職者として、あなた達とどう向き合うべきなのか…今日と言う日がその始まりの日になれればと思っています…長い話になりますが今しばらく私の話を聞いてください。」
「少し疲れましたね…15分ほど休憩を取りましょう…」先生はそう言って教壇を離れ、長テーブルの上に置かれているお茶に手を出していた。アレイナは険しい顔つきのまま、ただ一点を見つめている様だった。私と言えば体の緊張が解けず自分の席にじっと身を隠すように座ったままだった。
「トイレに付き合ってくれない?」ひたすら気配を消そうと努力していた私にニコラが声を掛けてきた。私は助かったとばかりにニコラの誘いに応じてトイレへと向かった。ニコラはトイレに入るなり私にヒソヒソと話を始めた。「あの先生やるとは思っていたけどついに始めたわね。」私が何を言っているのか解らないと言う表情を見せると「先生はね、私達が気楽に先生なんて呼べる様な人じゃないのよ…ロシスキ・シアリムではかなり高位の聖職者でね主徒の位を持っているのよ…それもベズロア・ゲリラの司令官が持っているインチキ主徒ではなく、正真正銘の主徒よ…先生がロスク市で補佐をしていたと言う人はアジハド大法官…つまりロシスキ・シアリム教最高指導者なのよ…」「そんな絵に描いたような聖職者が素直に自爆攻撃を指揮するはずないじゃない、アレイナが参加するって聞いたときから何か起こるんじゃないかって私は思っていたわ…」「私達どうなるんだろう作戦が中止になったら私はどうやって生きていけばいいの?人買いに売られてしまうのは絶対にイヤ!そんな事になるんだったら死んだ方がマシよ!エミルだってそう思うでしょ?」私はニコラの話に小さくうなずく事しか出来なかった。あまりにもいろいろな事を聞きすぎて頭が破裂しそうになっていた。先生とハンナが息子さんを亡くしている事だけで私の心は張り裂けそうなのに、先生が味わった苦しみは耳を覆いたくなる様な話しばかりである。この学校にいる先生の姿を思い浮かべるだけで涙がこみ上げて来るのを感じていた。「そろそろ始めましょう。」先生の大きな声が訓練場に響き渡った。私達はあわてて手だけを洗い自分たちの席へと戻ると、先生は少しうつむきながらこれから話す内容を頭の中で整理している様だった…
「それでは始めます…まず先ほども少しふれましたがルモルフ司令官や我々の部隊が今最も危惧している事、それはロシスキ連邦政府とベズロアの親ロシスキ派によるベズロア正常化にあります。今年ベズロア自治共和国の新憲法が制定されました。まもなく親ロシスキ・ベズロア新政権が樹立します。ロシスキ連邦政府はベズロア紛争での勝利宣言をし、事実上の戦後処理に入りました。国内および国外ではある程度の安堵感が広がっていますが、ベズロアに平和が訪れる様な事は無いと約束されたに等しいものです。それはほとんどのベズロア・ゲリラが新政権を傀儡とみなし、新政権との武装闘争を宣言している事からも明らかで、今後、数十年は続くであろう血みどろの民族紛争へと発展していく可能性があります…ベズロア人が親ロシスキと反ロシスキに分かれて殺し合いをする、ロシスキ連邦政府は紛争を止める気など少しもありません。人間の命を金に買える方法をより自分達に有利にしただけです。
我々はこの一連の流れを“ベズロア化政策”と呼び近年、最も憂慮すべき問題だと考えています…この様な絶望的な政治状況においてもベズロア・ゲリラは統一した理想や目的を見出せずに、分裂と対立を繰り返しています。派閥、宗派、軍閥、氏族、山賊、マフィア、そして名前さえも無い武装集団…敵味方を問わずロシスキ連邦政府にとって都合の良い武装勢力が、生まれては消え、生まれては消えてて行きます。いったいこの状況のどこが戦争なのでしょうか?どこが紛争なのでしょうか?それともこの状態こそが新しい時代に求められている戦争の形なのでしょうか?テロ攻撃を行う原理主義者と対テロ戦争を行う政府によってベズロア独立紛争は大きく歪められてしまいました。第一次ベズロア紛争終結後我々は勝利に酔いしれ、まともな国家運営よりも利権争いと権力争いに奔走してしまいました。我々はあまりにも幼すぎたのです、シアリム原理主義に傾倒したジルミ・バーナエフの蜂起を止める事が出来ませんでした。グルスタフは求心力を回復するためにバーナエフよりの政治を行ってしまったのです。政治基盤が失われた国がどうなるのか、歴史を見れば答えがおのずと導き出せます。ロスク市郊外でおきたテロ事件を理由にロシスキ連邦政府は停戦合意を一方的に破棄し、再びベズロアに侵攻しました。ロシスキ軍は二度と同じ失敗を繰り返しません。徹底的な空爆と分断作戦で我々は地下闘争へと追い込まれました。一体的な組織の体を成さない多くの武装集団が生まれる切っ掛けとなったのです。小規模な集団はより大きな力を得るために他の集団と対立を深めて行きます、共通の敵がいるにもかかわらず我々は手を握り合う事さえ出来ていません。そんな我々を横目で見ながらロシスキ軍は我々に心を焼き尽くす様な憎しみを植え付けて行きます。
たいして意味の無い殺害と破壊、ロシスキ軍の十八番の強姦、略奪目的の掃討作戦、身代金目的の逮捕、監禁、拷問、まるで同じ時代に起こっている事とは到底信じられない無法の限りを尽くしています。ベズロアの若者は山へと向かうでしょう、それしか生き延びる方法がないからです。黙って殺されるくらいならゲリラでもテロリストにでもなるはずです。考えたくは無いのですがロシスキ側のねらいはそこにある様なきがします。戦争的な状況を作り上げ戦争とも戦争でないともとれる時間を長く継続していく、そのために必要な戦う相手であり、戦う相手を作り上げるために憎しみと言う力を最大限に利用しているのではないでしょうか?もしそうなのだとしたら我々の今後、数十年はまさに地獄と呼べる時代となり、数世紀に及ぶ憎しみを抱える事になります。誰も近寄りたがらない掃溜めの地へとベズロアは変わり果てようとしているのです。現に今、世界中の国々がベズロアから目を背けています。国連も欧州連合も合衆国も欧州人権委員会ですら何の力にもなってはくれません。それは現在、唯一の超大国である合衆国が国際テロ組織との戦いを宣言し、テロとの戦いを全世界的に展開していく中で、国連常任理事国であるロシスキ連邦との協力関係を得る材料として、ベズロア問題を原理主義者による分離闘争と言う、かなりロシスキ側に立った公式見解を示し、ロシスキ側の対応を支持する姿勢をとっている事や、近年、周辺諸国で拡大の一途をたどるエネルギー需要の受け皿としてロシスキ連邦のエネルギー資源が非常に注目されている為に、ロシスキ政府の対外的な発言力が高まっている事などが原因として挙げられます。国際社会からのプレッシャーは期待できません。世界中の国々はベズロア問題をロシスキ連邦の国内問題であり、ベズロア問題での圧力は内政干渉に当たると、どうしても思いたいようです。
ではロシスキ国内の世論はどの様にベズロア問題を捕らえているのでしょうか?すでに国内主要メディアは政府系企業に経営権を握られ、情報はコントロールされています。またベズロアに擁護的な政治家や活動家達も次々と籠絡され、さらにはシアリム教指導者の一部もとり込まれて分裂と対立を助長するシアリム法令を乱発させています。市民を狙ったテロが起こるたびにルスキ人の右傾化は進み、本当にロシスキ市民の多くがベズロア人を害虫の様にしか思わなくなってきています。実際にロシスキ管内に住むベズロア系住民に対する差別や排斥は常軌を逸したものがあります…心に巣くった悪意をひとかけらの良心に見透かされない様に、この国の人々はシニカルに振る舞う事を常としているのです…
このような情勢の中、我々は一体何をすべきなのでしょうか?…我々がすべきこと…わたし達がすべき事それは武器を捨て、憎しみを超えて争いを今すぐにでも終わらせる事です。独立やシアリム原理主義国家建設などと言う夢物語に踊らされず、しっかりと現実を見つめ、大地に根をはりベズロアの土地と共に生きて行く事なのです。戦争状態の混沌とした中で、弱き人々から奪い続けるだけの闇経済を打破し、かつてのベズロア人のように誇り高く気高い自由の民としての生業を取り戻さなければならないのです。我々に与えられた本当の試練はこの戦争を終わりにする事が出来るか否かにあります。そこには胸躍るような達成感も、涙があふれるような高揚感もありません。屈辱と苦悩さらには新たな試練が待っているかもしれません。たとえそれが絶対避けられない運命だったとしても、それでも我々はこの戦争を今すぐにでも終わりにしなくてはならないのです。
…それでは現実的にベズロア紛争を終結させる為には、いったいどの様な方法が考えられるでしょうか?停戦合意へと続く道程の中で私達がまず初めに行わなければならない事とは、やはりこの混沌とした秩序無きベズロア・ゲリラの現状を指揮命令系統が機能する一体的な組織体系へと再構築しなければなりません。今、仮にグルスタフ最高司令官が停戦の呼びかけをしても、ロシスキ側はおろかグルスタフ派と言われている野戦司令官でさえその呼びかけに従う事は無いでしょう。身内の野戦司令官でさえ従わないのですから、他のベズロア武装組織の司令官が従う事は100%無いと言えます。これはグルスタフ最高司令官に今のこるモノがあるとしたら第一次ベズロア紛争の英雄、元ベズロア自治共和国第二代大統領と言ったような過去の栄光であり、より象徴的なベズロア・ゲリラのリーダーとしての立ち位置でしかありません。グルスタフが再び実質的な最高司令官となるにはどうしてもバーナエフ派と言われる野戦司令官達との超党派的な協力が絶対条件としてあります。バーナエフ派も一時期の様な結束力は失われていると噂されていますが、それでも彼らがベズロアに与える軍事的影響力は現在でもはかり知れないものがあります…
ベズロア・ゲリラの中でそれほどまでに力を持ったバーナエフとはいったい何者なのでしょうか?バーナエフ派とは主にグイーバブ宗派を信奉するグループで、グイーバブ宗派とはシアリム教スフム派の下位宗派で復古主義、純化主義を説いたグイーバブが創始者とされる、シアリム原理主義の宗派とされています。神への絶対的な帰依や禁欲的修行、そしてシアリム原理主義国家の樹立を最大の目標としています。そしてこのグイーバブ宗派を掲げ急進的な武装闘争を行い第一次ベズロア紛争当時一躍、軍事的リーダーに登り詰めた人物こそがジルミ・バーナエフであり、第一次ベズロア紛争終結のきっかけとなった事件を起こしたのも彼でした。紛争終結後は彼も政府に加わりナンバー2の地位である首相に任命されましたが、カリスマ的な軍人は良き政治家にはなれず分裂と対立の中、彼は大シアリム国家建設と言う暴挙を実現させるために、イルクーシやドミニスタンに兵を派兵したり、ロシスキ管内でのテロ事件などを引き起こしました。先にも述べましたがこの様な事件の結果、ロシスキ側の停戦合意破棄に正当な理由を与え第二次ベズロア紛争勃発の切っ掛けとなってしまいました。我々には到底理解に苦しむ行動ですが、彼らには彼らなりの正義と理念があるのでしょう、どんなに無知で愚かな者たちだったとしても我々には彼らを罰する権利はありません。なぜなら本当の罪は彼らに力を与えてしまった我々にこそあるからです。その意味ではグルスタフやルモルフや私でさえも大罪を償うべき罪人なのだと思います…話がずれてしまいました、話を元にもどしましょう…
彼らバーナエフ派と呼ばれている部隊に共通する、ある特徴的な戦略があります。それは国際テロネットワークとの共闘で資金供与、武器の調達、義勇兵の派遣、戦闘要員の訓練などありとあらゆる面で密接な協力関係を築いています。現在、世界各地の民族紛争に多大な影響を与えていると言われている、この国際テロネットワークとは、1989年アルガニスタン戦争終結後より急進的なシアリム主義を唱えるオサマ・ラディルが新たな活動の場を求めてアルガニスタンを離れ、スーラン共和国に活動の拠点を置いた事に始まるとされ、反合衆国的な思想を持つ政府要人や資本家を取り込み、シアリム原理主義を掲げる過激派集団国際的な連携を形成し、テロ組織同士の協力体制を作り上げて行きました。シアリム過激派達の特徴や敵対する対象は様々ですが、シアリム原理主義国家建設と言う大儀を掲げる集団がほとんどである事や、シアリム教を国教とする多くの国々に政治的、ときには軍事的に介入して来るが合衆国への潜在的な反感を持っている事などが連帯を加速させている要因となっています。90年代の冷戦終結の裏で様々な民族問題が表面化し、様々な過激派集団が活動の場を得た事は確かで、資金面や物資面でのネットワークが確立されたのも、また必然だったと言えるのかもしれません。
そしてこの様な過激派達の暗躍が世界をたった一日で変えてしまう事件を起こしました。皆さんもご存知のとうり2001年9月11日の合衆国同時多発テロです。この日を境に我々を含む多くの武装集団が、何の根拠も無くテロ組織と言う烙印を押され、殉滅を目的とする対テロ作戦が正義の名の下で行われる様になりました。合衆国は報復としてラディル氏と関係が深いとされるアルガニスタン・タリル政権を崩壊させ、アルドには国連安保理決議の採択がないままアルドへの攻撃を開始しました。テロとの戦いの前線は広がり続けています。我々の生きるベズロアの地も国際テロ組織とバーナエフ派の人々によって、この巨大な戦線の一部となりました。“テロとの戦い”と言う呪文でホロコーストが国際的に黙認される地区となったのです。戦争を続けたい者にとっては安住の地でしょう、怒りや憎しみ、死と暴力、女と金、武器と麻薬、敵と大義、全てがととのうベズロアの地を彼らやロシスキ政府は手放す事をするでしょうか?答えは簡単です。配役や脚本が変更になったとしても、彼らは決して手放す事はありません。今こうしてあなた達に話しているこの時間でさえ事態は悪化の一途をたどっているのです。今この時にでも、この争いを止めなければ決して取り返しのつかない状況になる可能性があります。
もう我々の部隊に残された選択肢はそう多くはありません。このままたいして重要でない戦闘を続けながら、政治的な妥協点が現れるまでベズロア人民の生き血を吸い続けるのか、戦争を終結させる為に信念を捨て去り、あらゆる屈辱と自分を壊してしまうほどの罪と共に生きて行くのかのどちらかです。結局は我々の問題なのです。本当の敵はロシスキ軍でも国際テロネットワークでもバーナエフ派でもありません。心情では和平を望みつつも、場当たり的な戦闘をを続け、自分達が成すべき事から目を背けている我々の中にこそ本当の敵がいるのです。自らはまった深い穴から我々は這い上がり、本当の戦いを始めなければなりません。我々が成すべき本当の戦いとはたった一つです。グルスタフ派とバーナエフ派の合流を成功させ、ベズロア・ゲリラを一体的で統制が機能する軍隊へと再構築し、ロシスキ政府との停戦合意にこぎつける事です。
この思いを実現させるため、今から10ヵ月ほど前からルモルフ司令官は内密にグルスタフ元大統領と会談を重ねていました。初めは非現実的だとして難色を示していたグルスタフもルモルフの熱意におされ、ついにはバーナエフ派との交渉を始める事を許しました。そしてグルスタフはルモルフに合流交渉の一切を任せ、自身の影響力の残る部隊への説得を始めたのです。これは退路を断って交渉の行方に全てを賭けた事になります。合流交渉の失敗はグルスタフの指導者としての死を意味するばかりではなく、自身の命を守る事も困難となる事が予想されました。グルスタフやルモルフには難しい決断でしたが、答えを先延ばしにする余裕はベズロアの民衆には残されていません。この戦争を終わらせると言う最も複雑で非常に危険な仕事に二人の司令官は足を踏み入れました。グルスタフもルモルフも相対する人物は違いますが、あらゆる人脈あらゆる資金ルートを使い交渉に全力を注ぎました。グルスタフはある程度の条件は付くものの、グルスタフ派の数人の司令官から内諾を得る事ができました。しかしルモルフの方は、バーナエフからの反応が一切ありません。直接使者を出しましたが、使者がルモルフの元へと戻ってくる事はありませんでした。気は逸るものの時間だけが過ぎて行きました。ルモルフはバーナエフの資金源となっている人物を探し出し、その資金提供者に交渉のテーブルに付くよう序言をしてもらうように考えました。ルモルフはアジルドイバン共和国の有力な資金提供者を割り出し、アジルドイバンへ直接、出向きました。これはかなり手荒なやり方でしたが、資金提供者はルモルフの願いを聞き入れ、序言をする事を約束してくれました。それから約一週間後バーナエフ本人からルモルフに連絡が入りました。バーナエフが言った事は交渉の内容は理解したと言う事と、本気で合流を考えているならば我々と共闘し、我々が計画中の自爆攻撃をルモルフの部隊で実行すれば、グルスタフとの直接交渉の席に着くと言うものでした…
バーナエフは人間を操る方法を知る男です。ルモルフの忌み嫌う自爆攻撃を実行させ彼の信念を打ち砕き、自分の配下に取り込もうと考えたのか、もしくはグルスタフとの交渉を自分の優位に進めるためのバーナエフ流の戦略なのかもしれません。真意は不明ですが、とにかくルモルフは自分がスケープゴートとなるのが絶対条件の合流交渉を進めなければならなくなりました。彼はどんなに苦しんだ事でしょうか?どんなに怒りに心を焼き尽くされたでしょうか?私達には想像を超えたものがあったに違いありません。彼は一人で悩みぬき、そして決断しました。
作戦の実行を決意したルモルフの元には次々とバーナエフからの指示が伝えられました。作戦決行の予定日や自爆攻撃の候補地、自爆をする者が女性である事、自爆実行者の選抜方法や選抜基準、自爆攻撃に至るまでの教育やマインドコントロールの仕方までありとあらゆる細かな指示を受けました。我々はバーナエフから出される命令をただ盲目的にこなすだけの忠実な犬である事が求められていました。バーナエフから出される一つ一つの命令が我々が彼のスタイルに当てはまるかのテストだったのでしょう。吐き気がする程の嘘を並び立て、誇りや信念を投げ捨てて一握りの魂さえ無くしてしまうまで、彼の要求は果てしなく続く事になるでしょう。私がニコラやエミルに最初に話した作戦の概要もバーナエフ側からの指示どおりの説明で事実とはあまりに懸け離れている大嘘です。現実的にはこの自爆攻撃で紛争の局面が劇的に好転し、紛争が終結に向かう事はまずありえません。実際には短期的ではあるでしょうが戦局は悪化し報復としての空爆や、掃討作戦が行われる事になります。もちろん我々の素性がロシスキ側に知られる事になれば、家は焼き討ちされ、家族は懲罰の対象になります。そして何よりも、この自爆攻撃で犠牲となるのは、あなた方だけではなくロシスキの普通の市民も犠牲になるのだと言う事です。何の罪も落ち度も無い人々に罪を支払わせる権利がそもそもこの世に存在してよいのでしょうか?神の名と言葉を語り、罪の無い人々を殺した我々を神は殉教者として神の美国へと向かえる事があるのでしょうか?
…私は自分を神に仕える者だと思っています。今まで神の存在を疑った事は一度もありません。何時いかなる時も神と共に在りました。偉大なる神は我々人間にこう言われています。“汝、人と共に生き、人を愛し、人を助けよ、汝、人を騙さず、人から盗まず、人を傷付けず、人を殺すなかれ”私にはこの神の言葉が全ての答えなのだと思います。我々人間は過去何世紀にも渡って神の名のもとに戦争を行ってきました。しかし聖戦や正義の戦い、殉教者や聖戦士と言った言葉は神が言われた言葉ではありません。その時代その時代の権力者によって歪まされた教えなのです。信じるべき言葉は我々の言葉ではなく、神の言葉であると言う事を皆さんに知っていてもらいたいのです。現実を知ることはとてつもない恐怖であり、何かを信じる事は大変な勇気を必要とします。今こうして話をしている内容でさえ私の中の現実でしかありません。本当の真実や現実とは何なのか?到底見出せる問いかけではありませんが、どうか皆さんには何を信じるのかをもう一度考え直していただきたいのです。私達がこれからやろうとしている事は、それ自体にはさして意味を持たない無差別大量殺人です。民族の誇りになる事も神の美国へと導かれる事もありません。ルスキ人の怒りと憎しみをあおるだけの作戦です。私は皆さんをそんな卑劣な人間にはしたくはありません。ここに集まった私達は何らかの不幸を背負わされた人々です。背負わされた不幸を嘘によって歪ませ、何の罪も無い人に押し付ける様な事は断じてあってはならないのです。皆さんの答えが見付かるまで全ての訓練を中断します。ここを去るのも皆さんの自由です。もう一度、私に答えを聞かせてください。本来なら指揮権を持つ私が作戦を中止するべきですが、それはどうしても私には出来ませんでした。理由は自分の力の無さと、自分の心の弱さにあります。私の中ではルモルフへの忠誠と自分の正義が相対しているのです。あなた達に全てを任せると言う考えしか導き出せませんでした…すみません、許してください…」
そして数分間の沈黙のあと、先生は私達がどんな答えを出したとしても、私達が暮らして行ける様にする事を私達に約束して訓練場を後にして行った。先生の話を聞き終わったアレイナは怒りに顔を歪ませ、ものすごい勢いで机をなぎ倒し先生の後を追って行った。ニコラは何処から手に入れたのかタバコを取り出し震える手で机に座りながらタバコを吸い始めていた。私と言えば、先生の吐露には衝撃を受けたが、心の中ではどこか安堵していた。それは先生の話によって私が生粋の殉教者になる必要が無い事が解ったからだった。私にとっては、学校に来てからの殉教者としての教育が心の負担になっていた。だから私はその夜学校に来てから初めて晴々しい気分で眠りにつくことが出来たのだ。私にとって先生がくれた選択肢は無意味だった、先生の心の苦悩には本当に申し訳ないが、私がこうなる事はあの日よりもずっと以前、祖母が倒れ父が殺された時から決まっていた事なのだから…先生の意思には反するが私を学校に連れてきてくれた事、先生が作戦を中止に追い込まなかった事、そして殉教者としてのレベルを下げてくれた事に私はとても感謝している。この日は自分が、やはり救い難く、どうしようも無い女である事を思い知らされた一日でもあった…
次の日から訓練場は修羅場となった。正確には昨日の先生の話の後からずっとだが、アレイナが先生を捕まえて放さなかった。その日は一日中議論が続き、時には大声での言い争いになり、夕方にはすっかり二人の声はつぶれてしまっていた。私とニコラは二人に気を使いながら、コソコソと食事を取り、シャワーを浴びて隠れるようにベットの中に潜り込んだ。次の日もまた次の日も議論が続いていた。議論にはハンナや知らない男性も加わる事もあったが、二人の議論は少しも噛み合う事は無く、議論は我慢比べの様相となってきた。私もニコラも二日目ぐらいからはこの雰囲気にもすっかり慣れて、くだらない雑談を交わすようになっていたが、今後どうするかに付いてはニコラも私も話をきり出す事はなかった。そして議論が始まって丸四日が過ぎ五日目の朝を迎えた時、議論の間一度もベットルームに姿を現さなかったアレイナが、壁際に置かれた椅子の上に腰を下ろしていた。アレイナは目を覚ました私に「おはようエミル…しっかしあの石頭が!」と言うと、その声を聞いたニコラが、もぞもぞとベットから起き出して来た。「おはようニコラ…二人とも今ここに居ると言う事は、ここを去るって事は無いと言う事でいいのかしら?」
私達はアレイナの問い掛けにしばらく押し黙っていたが、この沈黙の時間が絶えがたかったのかニコラが深いため息を付いて話を始めた。「私は何処にも行かないわ!だって行く所など何処にも無いんだから!私はお金が必要なの!そのお金で自分の馬鹿げた行為を清算するの…だから逃げ出す事もないし、作戦から降りたりもしない!放り出されて売春婦になるのは絶対にイヤよ!」
「そぉ…まぁそんな事はしないけど、でも理由はどうあれ此処に残ってくれる事には感謝するわ…ありがとうニコラ…エミルは?エミルはどうして此処にとどまってくれるの?」
「…私もお金の為…」私はアレイナの質問に短く答えた。私の答えを聞いたアレイナは小さくため息をついて「そう…お金か…私はねこの作戦ではお金は貰わないの…正確に言うと私の分のお金で、この学校の赤字を補填するの…この学校はね、私とルモルフの夢だった…私とルモルフは第一次ベズロア紛争の時に出会ったの…当時、私は市役所の職員、彼は警官だった。二人ともグロスヌイへの最初の空爆で家族を亡くしたの…私の住んでいたフラットの目の前でASM-12が爆発してね、私の旦那と息子がバラバラになって死んだ。娘は二日ほど頑張ったけどダメだった…その後、何がどうなってかは憶えていないけど、グロスヌイで抗戦していたマオニケス司令官の部隊に拾われていたの…数日もしないうちに私は戦闘に参加する様になっていた。ルスキ兵を一人一人撃ち殺して行くうちに私は私を取り戻せる様になっていた…前線から前線へと移動する仲間の姿はまるで幽霊のよう…生きているのか死んでいるのかも解らないくらい皆疲れていた。だれもかれもが自分自身の事で精一杯の中、一人だけ私を気遣ってくれる人がいたわ…それがルモルフだった。家族を亡くした境遇も似ていたし、二人とも元公務員だった事もあって結構ウマが合ったのね、体を合わせて傷を慰めあう様になるまでそんなに時間は掛からなかった。
紛争が始まって半年が過ぎた頃、マオニケス司令官がチュリケス村での戦闘で死亡して部隊はルモルフとアーチェク少尉で指揮することになったのだけど、アーチェクはその後すぐに赤痢で死んでしまったの、部隊の大半はカンジスキー指揮官に編入されてしまってルモルフ部隊は少数部隊になってしまった。それでもルモルフはカオカチェク峠の戦闘やロジン抗戦で功績を挙げてね、第一次ベズロア紛争末期にはグルスタフ配下の部隊でも屈指の大部隊になっていた。私もルモルフの功績が誇らしかった、だって私は彼の功績に力をかしたって自信を持って言えるから…紛争終結の時には全身から涙が溢れたわ、大国ロシスキを打ち負かし、ルスキ人を追い払い、この国を救ったと心からそう思っていたわ。平和な時代がやって来たのだと信じていた、だから私達は部隊を解散させベズロア政府の要職も捨てて、紛争中二人で話し合った夢を実現させる事に決めたの…この学校が私達二人の夢…差別や貧困のせいで修学の機会を奪われた子供たちの将来の希望となり、この国に根強く残るシアリム教徒差別を根絶させる為にこの学校は生まれたの…
でも実際に学校を設立させる為にはやる事は、それはもう山の様にあった。嵐のような忙しい日々を過して、完璧とまではいかないまでも生徒達を何とか向かいいれるまで三年ほどかかった。1999年1月に学校が開校、ちょうどその頃ベズロアではバーナエフがドミニスタン自治共和国に侵入、シアリム原理主義国家樹立を宣言したの状況は一気に緊迫。ルモルフにもグルスタフから内々でベズロアに戻るように要請があった。この時は断ったけど半年後、第二次ベズロア紛争勃発後には戦線に復帰していた。私はこの学校に一年ほど残ったけど校長に無理を言って彼の後を追ったわ…
それから二年の間にベズロアの状況も、この学校を取り巻く状況も大きく変わってしまった…彼からこの作戦の話を聞いた時は、私も正直驚いたわ。同時に彼の苦悩と焦りの理由を知ったの、彼はバーナエフの要求を呑む度に深い闇の中に沈んでいった…中でも心を痛めていたのが実行者の選抜…バーナエフからの要求は心に傷を持ちコミニティーから外れた女性…このバーナエフの基準はある意味、理に適っているわ。そういう女性は扱いやすいし洗脳もしやすい、最後の瞬間にもためらう可能性が低い、自爆攻撃にはうってつけの人材。反吐が出そうな理屈だけどルモルフはそういう女性を探さなくてはならなかった。彼の心は折れかけていた、だから私は志願したの…
私だったら条件を満たしているし、彼の心の負担も一人分だけど軽く出来る。それに私は彼には負けてほしくなかったの、この苦しみを乗り越えて生きつづけてほしかった。私が志願すると彼に言った時、彼は私を止めようとはしなかった。ただすまないとだけ言ったの、私にはその一言で充分だった。」
「今、私が此処に居る理由はそんなものよ、私はただ愛する者の為に実行者になるの、神や民族の為ではない、あなた達には殉教者の真似事をさせてしまってすまなかったわ…ごめんなさい。ラヒムは明日か明後日にはあなた達の答えを聞きに来ると思うわ、人買いに売りとばすなんて事はしないから自由に決めてちょうだい。」「つかれたわ、私は少し寝るわね…」そう言ってアレイナは服も着替えずにベットの中へと潜り込み、この日の夕方まで起きて来る事は無かった。私もニコラも先生の返答に付いて話し合うような事はなかった。私もニコラも先生とアレイナの議論にかかわらず既に答えは出ているからだが、この日の先生の顔を見るのはしょうじき気が引けていた。私とニコラは重苦しい空気の中、顔を洗い着替えを済ませ朝食が運ばれてくるのを待っていた。いつもの時間よりも十五分ほど遅れて訓練場へと姿を現したハンナは、食事と共に見知らぬ青年を連れて来ていた。「エミル、ニコラ朝食の前に彼を紹介します。」…ハンナの話しでは、先生は連絡員との会合の為、二日ほど学校に来れなくなるらしく、その間私達の講義を担当する神学生を紹介しに来たとの事だった。見るからに真面目そうなその神学生の名は、ハルコム・トーラー。歳は18歳で、この神学校の最年長の一人であり、本作戦にも一部参加をするのだと言う。私達は朝食を一緒に食べ、いつもよりも長めにお茶を頂き、差し障りの無い会話を楽しんだ…会話の中に垣間見えるハルコムの情熱と希望は、私やニコラには少し的が外れている感じがした。そして昼ちかくに始まった彼の講義も、神を称える内容であり本作戦が持つ深い闇とは」あまりにも懸け離れたものであった。
一日目の講義が終わり聖典の朗読の時間になった時、ニコラがぼそりと「あの子この作戦でつぶれやしないだろうか?」と言っていた。確かに初日の授業を見るかぎり、彼の理想主義的な世界観は、彼自身の精神を打ち砕くには充分なものに思えたが、先生やハンナはその事も十分承知して作戦に参加させるのだろうから、私達がそんな事を気にしても仕方がないのではないかと思った。私はニコラに「大丈夫だと思うけど?」と返事をして、その話はそれで終わりとなった…
次の日の午後にはアレイナも復帰して、ハルコムの講義が執り行われた。ハルコムは伝説の女戦士アレイナが席に着いていたせいか、昨日とは違い緊張した様子で聖典の引用も朗読も何度も間違いを何度も間違いをおかしていた。さぞアレイナもご立腹かと思い、私はハラハラとしていたが、アレイナは若い神学生に対して腹を立てることも、辛辣な指摘をする事も無く殉教者としての立場を貫いている様だった。そしてこの日の夕食の時間にハンナがハルコムの評価をアレイナに求めた、アレイナは現実を見ようとしない聖職者が多い中で、彼は勇気を持って現実を見ようとしている将来、良き聖職者になれる青年だとかなり高い評価をしていた。それを聞いたハンナの顔から少し不安の影が抜けていく様に見えた。どうやら話しによると彼の作戦参加を決めたのは先生で、ハンナはその事をずっと心配していた様だった。アレイナとハンナのやり取りがハルコムに伝わったのかどうかは解らないが三日目の彼の講義は少し持ち直しミスも目立つほどは無くなっていた。講義も終盤に差し掛かりハルコムの講釈も熱を帯びてきた頃、訓練場の入口にたたずむ先生の姿を見つけた。出先から戻った先生はハルコムの講義を注意深く見守っていた。先生はハルコムの講義が終わると直ぐに姿を消してしまったが先生が戻って来た以上、作戦参加の是非を問われる事は間違いなかった。私達の答えは既に決まっていたが、それでも私の心は徐々に緊張の度合いを高めていった。実際に私達が答えを聞かれたのは、次の日の講義が始まる前、私、ニコラ、アレイナの順で一人ずつ呼ばれ、先生と二人きりの状態で話をした。先生は手短に作戦参加の是非を問い、私は作戦参加への意思を伝えた。先生はなんとも言いがたい複雑な表情を浮かべていたが「わかりました。あなたの決断に敬意を表します。」と言った最後の言葉には、どこか覚悟を決めたような声の響きが感じられた…先生の反抗はこうして幕を閉じた。
結果的に私達の運命は変わる事はなかったが、作戦えと向かう道筋は大きく変わる事となった。先生はまず私達に渡したバーナエフ派の教則本を破棄させ、聖典もより世俗的とされるスフム派の物と変えられた。先生の講義も死を迎えてからどうなるのかと言う内容が無くなり、シアリム教徒としてどう生きるべきなのか、人間としてどうあるべきなのかと言う内容が全体をしめる様になって来ていた。私達の居る場所や置かれている立場を別にすれば、それはまさに宗教指導者による説法そのものであった。私達にはとても静かな日々がゆっくりと過ぎていった。訓練場に来てからの二週間と比べたら雲泥の差があると思う。ある人々にとっては生ぬるい偽善に満ちたものかもしれないが、少なくとも私にとっては静かで平和な時間がとても嬉しくとても楽しかった。先生はこの平和な日々を作り上げるのにどれだけの労力とどれだけの代償を支払ったのだろうか?時々憔悴した表情で訓練場にあらわれる先生を見る。その表情は講義が始まると直ぐに消えてしまうのだが、先生の身体がとても心配であった。日々魂を削ぎ落としながら生きている様に見受けられたからだ。先生のそんな姿を見る度に頭の中に一つの考えがよぎる…先生は私達と一緒に消えてなくなってしまうつもりなのではないか?…思い過ごしであってほしい、心からそう思う。私はこの事が自分が死んでしまう事よりも怖くて怖くてたまらなかった…
私の心配はよそに日々は着々と進んで行く、作戦の具体的な内容はいっさい明かされないまま学校に来てから二ヶ月が経とうとしていた。この日ニコラは朝からイライラしていた生理中なのだという、私はだいぶ前に止まったままだったが、私もニコラの様な感じであったのかと不安になった。見るからに不愉快な表情でボヤキを連発し、終いにはアレイナにも食って掛かっていた。「ここに来て二ヶ月以上たったわ…何時になったら作戦の命令が下るのかしら?ここの暮らしはウンザリ!まるで牢獄だわ!!外に出る事もできないし、このままこんな暮らしをしていたらカビが生えて死んでしまうわ!こんな所でカビまみれになって死ぬ為に私は志願したんじゃないわ!!」それに対してアレイナはニコラをなだめるようにこう言った。「今、様々な人々が係わって作戦の準備が進められている事は確かよ…ただこの手の作戦は場所とタイミングが重要になってくるの、いくつかの候補からよりダメージの大きい作戦が選ばれるわ、最終的にターゲットが決まるのは一週間前ぐらいで、私達が作戦のミーティングを受けるのは早くても四日前ほどになるわ…それまでは作戦の全体像を知っているのは指揮権を持つラヒムとバーナエフ派との調整をしているルモルフぐらい、情報が漏れ伝わる事はないわ、安全処置だと思って、もし私達の誰かが捕まっても知らない事は自白剤を使っても答える事は出来ない。多くの仲間を守るためだと思って今しばらく我慢してちょうだい…」
ニコラのイライラは収まらなかったが、少しは落ち着いた様だった。「みんなおはよう!今日も天気が良いわね。」突然現われたハンナが何時もの様に元気に私達に声を掛け、私達が挨拶を返す前にハンナは今日の講義が昼食前に変更になった事と朝食の準備がまだ終わっていない事を伝えると「ごめんなさいね。」と言い残してそそくさと朝食の準備へと戻っていった。「大変そうだわね、私も手伝ってくるわ。」そう言ってアレイナはハンナの後を追い訓練場を出て行くと、思いがけない形で私とニコラが二人きりとなった。私が気まずいなと思っているとニコラも気まずかったようで、その場を立ち去りベットルームで何やらゴソゴソと始めた様だった。私達が遅めの朝食を取り、お茶を頂いていると先生が訓練場へと姿を現した。先生はまず予定が急に変更になった事を私達に詫び、早々に講義を始めたいがかまわないかと尋ねた。アレイナが今から始めてもかまわないと答え、私とニコラも同意した。
この日の先生の講義はいつもの聖典の内容に関する講義ではなく、神というものそのものに付いての講義であった。先生の話の内容は先生の師であるリエンコ・ロテ聖主卿が説いたもので、かなりおおざっぱに言うと、神とは宇宙をも内包する絶対的な全てなのだと言う、師の自論ではあるが多くの唯一神の預言者も多神教の開祖達も同じものを求め、同じものを見ていたのではないか?違っていたのは神を表現する仕方が違っていただけではないのか?と言うのだ。
この様な考え方は一部の多神教で見られる考え方ではあるが、シアリム教各宗派の中では異端中の異端で、この様な宗教観が元でリエンコ師は国を追われる立場になったのだと先生は話していた。先生の講義は次第に白熱し、それに呼応するかのように話の内容も私が理解できる内容を軽く超えていた。知らない言葉が訓練場を満たし、もはや先生の話す言葉はロスキ語には聞こえず、私はいち早く理解する事を諦めてしまったが、ニコラ一人だけは気を張り、この講義に食らいつこうとしていた。「先生の話では神なんかいないし、私達の魂も救われる事なんてないって事ね!」ニコラは目をギラギラさせその発言には怒りが満ちていた。訓練場の空気が一瞬氷付く…先生は少し間をおいてからニコラの会心の一撃に答えた。
「私は神を否定している訳ではありません、神をどの様に捉えるかを話しているのです…それに人間の魂について神や預言者が関わっているとは私は思っていません。」「神への理解を深めると言う講義の内容からは外れますが、先ほどニコラが言った事に付いて私なりの考えを話したいと思います…」「“神が魂を救う”まずこの言葉に疑問が湧きます…魂が救われている状態とは一体どんな状態の事でしょうか?救われている状態とは幸福であると言う事でしょうか?しかし幸福であると言うのは人それぞれによって違いがあります。あまりに主観的で個人的なものです。神を信じ神の為の行いをすれば神が人それぞれが求める幸福の状態に誘ってくれるのでしょうか?信仰または善行の見返りとして与えられる幸福と言う考え方は、私は間違っていると思います。人がより正しく生きようとする事に神の褒美が存在してはなりません…では魂とは一体どの様なものなのでしょうか?我々の中に存在し、私自身の分身であり本体。もしくは私達をつかさどる霊的なもの、それとも我々が認知していない様な未知の何か?私達は存在自体あやふやなものに心引き寄せられ、なんとかして形ある物にしようと努力し続けています。私達を引き付けて止まない魂と言うものを、私達はいついかなる時に感じて来たのでしょうか…太古より受け継がれてきた神話や伝説、人類が築き上げて来た文明や文化、その身を賭して作り上げてきた知識や知恵、人々の生き方や行動に私達は一つの情報と言うものを超えた何かを感じて来たのだと思います。人々はそれに触れ、引き合い、呼応する事で人間の死、さらには生物としての死を陵駕していきました。人間にしかないこの様な情報伝達能力は時に霊的なものに譬えられます、宗教により違いはありますが、この人間の不思議な力を神と結びつける事は、人間という生き物の立場を考える上で必要であり必然だったのだと思います…神の存在を否定する訳でも、魂の存在を否定している訳でもありません…私とニコラの違いは、その存在の捉え方の違いでしかありません…
最後に、私の個人的な願いですが、私の魂の救われた状態をあなた達に伝えたいと思います…わたしは私の魂が私の愛する人々に触れ、引き合ってくれれば私の魂は救われているのだと思います。良い事でも、悪い事でも私の魂から何かを拾ってくれれば、これほどの幸福はないでしょう…私の個人的な幸福とはこの様なものですが、ニコラの魂の幸福とは一体なんでしょうか?永遠の若さで神の美国で永遠に生き続けることではないと私は感じていますがいかがでしょうか?」
ニコラは必死に強気の態度を崩そうとはしなかったが、手は強く握り締められ、目にはうっすらと涙を溜めていた。ここに居る誰一人として幸せな人生を歩んできた人間はいない。聖典を引用し、言葉巧みに私達を籠絡する事はたやすい事だったはずだ。だけど先生はそうしなかった。聖職者や神の僕と言う前に一人の人間として私達に対峙したのだ…難しい事はわからないが私達の魂は先生によって導かれ、救われているのだと言う事を感じていた。
そしてこの日から一週間ほど過ぎた頃、私達の作戦決行日が11月4日に決まったという事が伝えられた…
( 3・決行日につづく )