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2・学校 (2-1)

私の意識は何時ごろ戻ったのだろうか?もう既に日は昇っていて、私が居る場所は私が犯された場所とは別の納屋の様だった。私はこの納屋にあの時と変わらず、ボロボロの上着を一枚羽織るだけの全裸に近い姿で投げ捨てられていた。陵辱とリンチを受けた私の体は自分の意思によって動かす事ができず、目に映る世界にはほんの少しの現実感さえ感じる事は無く、それはまるで遠くにあるテレビ画面を呆けながら眺めているかのようだった。私が目を覚ましてから数時間ほどは経っていたと思うが、納屋の外に幾人かの女性の気配を感じた。彼女達は壁の隙間から私を眺めて私の悪口をささやき合っていた。とても酷い蔑む言葉と罵声が聞こえて来るのだが、まったく心が動かない感じる事はできていると思うのだが何も気になる事がない、全ての状況がどうでも良くなっている事に気付き始めていた。

 「バケモノだ!」「オバケだ!」夕日が納屋に差し掛かっていた時、今度は集落の子供達が覗きに来ていた。子供達はしばらく女性達と同じようにガヤガヤと騒いでいたのだが、老女の怒鳴りつけるが聞こえると蜘蛛の子を散らす様に納屋の側から逃げ出していった。“どうぞゆっくりとながめるといいわ”私の頭の中に浮かんだのはこれくらいのものだった。場末の集落では私はとびきりの見世物だろう、今思い出すと震えるほどの怒りと恥ずかしさを感じるのだが、この時の私は恐ろしいほど超絶としていて本当に本物の化け物の様になっていた。

 「どうだ?感じるか?気持ちいいか?」「こうしてやる!!これでもか!これでもか!」ふと気が付くと私の上にはロザルが覆いかぶさっていて、まるでキチガイのイヌのように身体を小刻みに動かし息を切らせていた。手持ちランプに照らされた顔には、あのイヤらしい笑みが浮かんでいて、半開きの口からは臭い息とともに汚いよだれを吹き出していた。“私の命が続く限りあなたに感じる事はない。たとえ生まれ変わって恋人同士になったとしても絶対にあなたには感じない”私の口が開く事が出来たならロザルにそう言ってやりたかった。ロザルはその夜、酒を飲みながら何度も私の体で自分を慰めていた。

 その後の私はさながら具合のよい雌羊か雌牛の様に扱われる様になった。ロザルは毎晩のように楽しみに来ていたし、ロザルの他にもカノマや誰だか解らない人がやって来ていた。彼らは朝も昼も夜も関係なく私を犯し続けていた。私は時折いたみを感じる事もあったが、ほとんどは何も感じる事はなかった。恐ろしい事だが初めてロザルに犯された時の様な心の衝撃も無かった。人間が何にでも慣れてしまうのか、私の心が完全に壊れてしまったのかは解らないが、私はこの状況をただ淡々と受け入れる人形の様になっていた。私は彼らの体液が私の身体に吐き出される度に、私は人間としの存在や今までの人格を失って行ったのではないだろうか?

 “私は生きているの?”時々やってくる頭の中の疑問もしばらく無くなって来た頃、納屋の外から大叔父が誰かと話しをしている声が聞こえて来た…「こいつだ、どうだ?」「……」「いくらでもいいんだ、引き取ってくれ。」「…この女を?…これじゃ使い物にならない…どうしてこんなふうにしちまったんだ?」

 “私を買いに来た!”私は大叔父の話し相手が人買いである事を悟った。人買いでもいい、たとえ一生性的奴隷でもかまわないからこの集落から連れ出してほしい、この場所で生きていたくないし、決してこの場所で死にたくは無い。“神様お願いです!この人買いに私を連れて行かせてください!”私は私の人生の中でこれほど神に願い事をした事はなかった。しかし神様がする事は過去も今もこれからもいつも同じで、ただ見守ってくれるだけだった。結局、私が人買いに買われる様な事は無く、その後に訪れた人買い達も私を買って行く事は無かった。

 人買いにさえ買われることの無かった私は、慰め物としての生き方を強いられ続ける事になった。ある日かある晩ロザルがせっせと事にはげんでいる時、ロザルがとびおきて大声で怒鳴り声を上げた。「このアマ!糞をもらしやがったな!!」…ああ私は粗相してしまったのだなと思い、心の中でロザルを大笑いしてやっていると、私の腹にはロザルの蹴りが入り、私の顔にはロザルの拳がとんで来た。私は痛みを感じる間もなく意識を失い、ふたたび深い闇の中へと沈んでいった。

 私の意識が戻ったのは夜だった。納屋の扉が開く音と土を踏む足音、そして聞きなれない訛りを持つ男の声で私は目を覚ました。「ウッくせえな…」この時、私の身体は血と精液と糞尿でドロドロになり酷い異臭を放っていた。私の状態をそう的確に表現した男は、後ろに控えていた大叔父と取引の話を始めた。「いつからこんななんだい?」「五日前からだ。」「クルコさんの噂は聞いていたが、随分と凄いね…」「そんな事より引き取れるのか?」「先方からの注文は生きている事だけだ。」「なら引き取ってくれ、こいつの父親もあんたのゲリラ組織で死んだんだ、ここではもう手に負えない」「よしてくれ俺はただの運び屋で組織とは関係ねぇし仲間なんかじゃねぇ」「まあいい何でも良いから引き取ってくれるんだな」「あぁOKだよ…とりあえず手付けの200だ、後は使いがまた来る…」“…父が組織で死んだ!?…”私は初めて知らされた父の消息に驚くとともに、今まで理解に苦しむ大叔父の言い付けが父の犯罪を隠蔽する為に必要だった事に今更ながら納得していた。“そうか私は随分と前からこの集落では厄介者だったのだ…こうなる事は父が死んだ時からの運命で何をどうしようと今の私は変わる事はなかったのだ…”そう思い始めると次第に身体の硬直が抜けて行き、指先や足先には軽いシビレを感じるようになった。運び屋の男が私に薄い毛布をかけてくれ、しきりに立てるかと質問していた。私はほとんど何の不自由も無く立ち上がり、その男の後に付いてトラックが止めてあると言う農道まで歩いて行った。途中何度か転んだか転びそうになったがあまりよくは覚えてはいない、地面を裸足で歩いた足裏の感覚だけが鮮明に記憶に焼き付いている。トラックへとたどり着いた私は男に荷台に乗るように指示され、荷台の荷物と荷物の間に身を隠すように言われた。私は言われたとおり荷物の間に身をうずめると、男は一時私の側から離れ荷物の中から何かを取り出そうとしていた。「腕を出すんだ。」懐中電灯の光とともに現われた男は私にそう言うと、私の腕をつかんで紐で縛り手馴れた手つきで私の腕を数回たたき私に何かの薬を注射していた。「安心しなこれでおまえはハッピーになれる。」薬を打ち終わった男はそう言っていたが、私はそんな事が本当にあり得るのかと疑っていた。「今から荷物を積み直す、外からおまえが見えないようにだ、たとえ明るくなったり車が止まったりしても絶対おもてに出てくるな。出て来たら俺もおまえもお終いだ、俺はおまえを助けたんだ、命の恩人を困らせたくは無いだろ…いいな俺が声を掛けるまで絶対に出るな、移動は三日ぐらいかかるが薬を打ちに来てやるから平気だ、いいな!いい子にしてるんだぞ。」男はそう言ってトラックを走らせる準備を始めた。準備が進むにつれ私は暗闇に包まれ、徐々に気分がゆったりと楽になって来た。“これでこの集落から抜け出せる…これで私は私のほとんどを捨て去る事が出来る…”この先一体どうなってしまうのかと言う不安を私は頭の片隅にも抱く事は無く、この集落から抜け出せる事実に私は小さな幸せさえ感じていた。急速に拡がっていく安堵感の中、私は久しぶりに感じる眠気に襲われ始めた。“まだダメだ、車が動き出すまでは安心は出来ない、まだ起きていないと…”私は大叔父に引き戻されるのではないかと言う不安から自分にそう必死に言い聞かせ、重くなる一方のまぶたと戦っていた。やがて運び屋の男が荷台から降り、農道を踏みしめる足音と車のドアを閉める音が車内に響き渡った。“もう大丈夫…きっと大丈夫…”私は睡魔に勝つ事が出来ずに、自分を納得させる形で深い眠りの中へと身を落として行った。

 その後トラックは昼夜をとわず走り続けている様だった、私は何度か目を覚ましたがその度に私の腕を掴み薬を注射している男の姿を覚えている。男は傷だらけの私に何の興味も同情も見せる事は無く、時間が来ると機械的に注射を打ちに来ていた。私はそんな男の態度が嬉しく、物として扱われることに心地良さを感じていた。だから男がやって来て私に水を飲まそうとした時は、まるで介抱されている様でギョッとしてしまった。男は私の口にペットボトルを押し当てて何とか水を飲まそうとしていた、私はそれを振り払うようにして出来うる限りの抵抗をしていた。男はしばらくして諦めたのか私の手にペットボトルを握らせ、私の前から姿を消していった。そんな事が数回あったのだろうか?私の回りにはペットボトルが4、5本あり空の物もあれば一本丸々残っているのもあった。私は半分寝ぼけた状態でそのペットボトルを眺めていると、突然のどに猛烈な渇きを感じ手にしているペットボトルの水を飲もうと試みた。だがしかし私の身体は自分の意思と手の動きにギャップがあり、かなりの間もどかしく歯がゆい時間を過していた。水を自力で飲む事を諦めた私の頭の中に、どの位トラックに乗っているのだろうと言う疑問が湧き上がって来た。私は自分なりに答えを見つけ出そうと辺りを見渡していると、トラックが停車しているのではないかと言う事に気が付いた。車が停車しているのに男はやって来ない、私がいつもと違う状態に不安を感じていると、車の外から男と女性が話しをしている声が聞こえて来た。声は次第に大きく聞こえて来て荷台に人が乗り込む振動を感じると「どこにいるの?」と言う女性の声が荷台一杯に響き渡った。

 「どこなの?」「いちばん奥さ…」荷物をガサゴソと避ける音と共に、一人の中年女性の姿が見えた。「もう大丈夫よ、何も心配する事は無いわ…ちょっとアナタ!もっと人間らしい扱いをしたらどうなの!!」「引き取った時からこんなだったさ…」女性は男を叱り付けると、男はバツの悪そうな感じでそう答えた。そして女性は私の様子を注意深く眺め、「クスリを使ったわね!!」ともの凄いけんまくで怒り始めた。「薬を打たなきゃここまでもたなかった!死にかけだったんだよ!」「何を打ったの!?」「……」「はやく答えなさい!!」「アンペックと…」男はまるで母親に叱られているかの様に、ずっと言い訳をしていた。女性は話しを進める毎に怒りを強めていった。「もう結構!この事はあなたのボスに注意しとくわ!」運び屋の男のしょんぼりする姿が見るまでも無く伝わって来た。女性は私の頭を優しく撫で「つらかったわね」と優しく声を掛けてくれた。瞳にうっすらと涙を浮かべたその女性は、私を力強く抱き寄せ私を立ち上がらせようとした。私は自分は汚いから触らない方が良いと言おうとしたのだが、私の口はまだまだもつれたままで、自分でも何を言っているのか定かではなかった。「いいのよ、何も言わなくていいのよ。」女性は優しくそう言い、私の肩を支えながらゆっくりと荷台の外へと出て行った。荷台から降りると外は闇に包まれており、トラックはメゾネット形式の共同住宅の前に停車していた。どうやらここは女性の自宅らしい、大きく開かれたドアからは優しい光が私達が居る車の方まで伸びていた。私は再び女性に担がれ一歩一歩その光の方に近付いて行った。途中ばつの悪そうな運び屋の男が女性に手を貸そうとしていたが、女性は「アナタにこの子は触らせません!!」と一括されていた。私と女性は何度かよろめき何度か膝を落としながら、わずか数mの距離を数分かけて玄関へとたどり着いた。私は玄関先で横になり少しの間待っているように言われ、女性は玄関のドアを閉め外で待っている男と何かを話している様子であった。数分後トラックのエンジン音と共にドアが開き、女性が私の元へと戻って来た。「あなたはエミル・サラムね…わたしはハンナ・ジサクよっろしくね…何故アナタがここに来る事になったかは、後でゆっくりと私の主人が話しをします…とりあえず今は身体の傷を癒す事が第一です…今夜は身体をきれいにして傷の消毒だけをしましょう。」女性の話し方はとても優しかった。私はその雰囲気にあまり覚えていない母の印象を一瞬にしてだぶらせていた。彼女は私に立ち上がれるかを確認して、再び私を抱えてこの家の奥にあるバスルームへと私を連れて行ってくれた。私は薬が切れ始めたのか、それとも人間らしい感覚が戻ってきたのか一歩一歩足を進めるたびに全身に痛みを感じ、バスルームに近付く度にその痛みは強さを増していった。私と彼女がバスルームへとたどり着いた時、彼女は「今夜は夫はいないの、この家にはアナタと私だけだから安心して…アナタの身体を洗うからこの毛布を取るけどいいわね?」と言って、私が身に着けていた毛布をはがすと、今まで話し続けていた彼女の声が止まり、トラックの中から耐えていた涙がひとすじふたすじと彼女の頬の上を流れ落ちていた。彼女は私の体を見て私の絶望を知ってしまったのだろう、彼女の涙は私の体を洗いながらも流れ続けていた。彼女は自分の服が濡れてしまうのも気にせずビショビショになりながら、私の血と汚れと泥を丹念に洗い流し、口の中や鼻の中の血の塊を傷口を広げない様に優しく取り除いてくれていた。

 私に重く圧し掛かる全身の痛みは消えないままだったが、彼女の献身的な努力によって私の身体の方はだいぶ人間らしく綺麗に整えられた。「もう大丈夫、これで大丈夫よ。」と彼女は声をつまらせながら言うと、私の身体の水気をフカフカのタオルで優しく拭き取り、私の傷を一つ一つ丁寧に消毒して出来うる範囲の手当てを施してくれた。「私の出来る処置はここまでね、後は明日お医者さんが来てからの治療になるわ…あとねエミルあなたの性器から血が出続けているの…今は清潔にして止血剤を飲む事しか出来ないからこの生理用品と下着を使ってちょうだい、あとこれがあなたの寝巻きよ…」私は手渡された生理用品の使い方をまるで理解していなかったため、ここでもやはり手取り足取り寝巻きを着終わるまでハンナの手助けが必要になった。私は大きめの下着とブカブカの寝巻きに身を包み、シャワールームを出て一階にある客間へと通され、その部屋にある小さめのベットに横になった。「私も着替えてくるわ、そのまま横になっていて。」ハンナは息を切らしながらそう言って、一端ゲストルームを出て行った。私は自分が寝かされた部屋がどんな部屋かきになって頭を上げて眺めてみると、部屋はヨーロッパ調の家具で調えられ趣味の良さを感じさせる空間であった。“こんな素敵な生活をしているゲリラもいるの?”私は自分の知っているゲリラ達のイメージとあまりにも懸け離れた生活環境に困惑し、あの運び屋の男が言っていた事はでたらめだったのではないかと疑い始めていた。「どうこの部屋は気に入ってくれた?」着替えを終えたハンナが部屋へと戻って来た。「あの画はマチスよ、もちろん偽物だけど素敵でしょ、私も主人もこの部屋が一番気に入ってるのよ…ベットの寝心地はいかが?身体は痛む?」私は小さくうなずき身体の痛みをハンナに伝えた。「わかったわエミル、この薬を飲んでちょうだい、痛み止めの薬と止血の薬よ。」ハンナは私に水をふくませ口に薬を入れてくれた。「薬が効くといいんだけど…身体が痛む時は言ってちょうだい、私はそこのソファーであなたの様子を見ているから安心して大丈夫よ…」ハンナは私に毛布をかけてから、ベットの横にあるソファーに深々と腰を下ろし一冊の本を読み始めた。時間が経ち私の身体には周期的な痛みが襲って来る様になった。私は痛みに翻弄され寝ているとも起きているとも言えないボンヤリとした意識の中にいた。ハンナは時折ベットの近くに来ては、私の寝相を変えてくれたり私に熱がないかどうか見てくれたりして一晩中私の看病を続けてくれていた。私が眠りにつく事が出来たのはおそらく明け方ちかくの頃だったと思う、閉じたまぶたに薄っすらと朝日を感じ、ハンナが部屋と廊下を動き回り私が汚してしまった場所を掃除していたのを覚えている。私は聞こえて来る物音と自分の空腹を結びつけ、ハンナが私に食事を振舞ってくれる夢を見ていた。

 私が目を覚ましたのは正午過ぎの事で、目を覚ますとハンナではない女性が私の横に立っていた。「…彼女目が覚めたみたいよ…」その女性は妙に甲高い声だった。「おはようエミル、彼女は医師のザレーマよ…あなたの診察をしに来て下さったの」ハンナはそう言うと先生の言う診断結果をノートに書き留めていた。「まず顔の怪我だけど…左頬骨が陥没骨折しているわ、手術が必要ね…下唇の創口は縫合が必要よ、どちらも一日で終わる簡単な手術になると思うわ…問題は鼻ね、鼻の軟骨がズレて曲がったたまま固まり始めている…この町での手術はお勧めできない、専門医がいる病院を探さないと…それと身体の打撲痕はレントゲンを撮った方が良さそうね、とりあえず私が見て解るところはそんなものね。それじゃ私の専門に移るわ…」そう先生が言うとカバンから鈍く光る器具を取り出し、ゴムの手袋を着け始めた。「エミル、今からあなたの膣を診察するの、あなたが病気にかかっていないか調べる大切な診察よ…怖いかもしれないけど何も心配する事はないわ。」ハンナはそう言ってくれたが、とうぜん私は不安に襲われ体を強張らせた。「大丈夫よ…大丈夫…心配しないで…」ハンナは私の腕をさすり、私の気分が落ち着くまで私の手を握り締めていてくれた。「診察を始めても大丈夫?」私はハンナの質問に小さくうなずき診察を受ける準備を始めた。先生が指示したとおりの体勢をした私は、とても診察の様子を見ていられず、捲し上げたシーツで顔を覆っていた。心臓の高鳴りと冷たい器具の感覚…診察は十数分で終わったが、私は何倍も長い時間に感じていた。診察が終わると先生はゴムの手袋をはずしながら、私にもう大丈夫よと言うような笑顔を見せてくれていた。「見た感じだとやはり入院が必要ね…性感染症にかかっている可能性があるわ、検査の結果を待たずに今日注射を打ちましょう、その方が感染初期には有効だから…あとは膣開口部の外傷と後膣円蓋に傷が認められるから出血はそのせいだと思う…経過の観察や顔の手術の為にも…」先生はそう言ってハンナに目をやった。ハンナはほんの一瞬困った顔をして、メモを取っていたノートを見つめていた。ハンナが見せた困惑の表情を見て私はやはりハンナはゲリラの人達なんだと確信した。ハンナは考えた挙句、今日中に主人と相談してみると言う答えを捻り出した。「そうしてちょうだい、ベットは空けておくわ、それと妊娠してしまう可能性があるわ、避妊器具を挿入する処置をしましょう。性交から時間が経っているから確実ではないけれ…」“妊娠”“妊娠しているかもしれない!?”“アイツ等の子供を身籠っているというの?”…今になって冷静に考えてみれば、成熟した女性が性交をすれば当然の結果として十分可能性があるのだが、この時の私には考えてもいない事態であり、頭の中は妊娠と言う言葉によって掻き乱され、突然現われた生き物としての摂理に、私は恐れをはるかに超えたものに支配されようとしていた…次第に私の全身の筋肉は強張り始め、手足は踊るように震えだして来た。私の奥歯がギリギリと音を鳴らし始めた時、私の異変に気が付いた先生が、私に駆け寄り私の名前を呼び続けていた。私の様子を覗き込む先生と真っ青な顔をして私の手を握り私の名前を連呼するハンナの姿…私が記憶しているこの日の最後ののこうけいとなった。私はそのまま意識を失い、次に目を覚ました時には病室のベットの上に横たわった状態であった。

 「あなたエミルが目を覚ましたわ!」ハンナが私に気が付き、病室に居た男性に声を掛けていた。「今、先生を呼んで来てもらうわ、ごめんなさいエミル、あなたの症状を甘く見ていたの…ゆるしてエミルごめんなさい。」ハンナは涙ぐみながら許しを求めていた。ハンナの側に居た男性は慌てた様子で病室を出て行き、ハンナの家で診察してくれたザレーマ先生を連れて病室へと戻って来た。ザレーマ先生は私の目や呼吸や心拍を診た後、私にいくつかの質問をして私にしっかりとした意識があるのかどうかを確認していた。「…たぶん大丈夫でしょう…発作も精神的なものだと思うから…」ザレーマ先生はそう言って、私がここで横になっている事の説明を話し始めてくれた…あの時私はてんかんの発作の様な症状を起こし、二日ほど意識の無い状態が続いていたらしい。先生は専門の医師ではないのでハッキリとした病名は診断しなかったが、強いストレスによる乖離障害ではないかと言っていた。突然ひきつけを起こして意識を失った私はザレーマ先生の車に乗せられ先生が勤務する病院へと運び込まれた。脳や脳波、血液などの検査をして、病気や重度の障害は認められなかったものの、顔の整復手術や性感染症の治療をするために、そのまま入院させる事にしたのだと言う…「性感染症は性器クラミジアが出たの、既に治療を始めているわ…それと妊娠している可能性はほとんど無いわ、避妊の処置もしてるから安心してもらっていいわ…顔の整復手術だけど今日一日あなたの様子を見て明日の午後に行いましょう。手術は左頬骨の整復と下唇の縫合で数十分から一時間程で終わる簡単なものよ…手術後は二、三日様子を見て退院になるはずだわ…」ザレーマ先生は感情をはさむ事無く、淡々とした調子で私に語りかけていた。私は妊娠の可能性が無いと聞いてめまいを感じるほど安堵していた。そして手術をする事によってほんの少しでも以前の自分に戻れるのではないかと淡い期待を持ち始めたのだが、入院するにしても手術するにしても多額の費用が必要だと言う事が、私に漠然とした不安を感じさせていた。当然の事ながら私はお金を持っていない、今後カラダで返すとしても長い時間がかかるだろう、ハンナが手術費用を支払うのだろうか?それとも組織のエラい人が支払うのだろうか?私は引き換えに一体何をしなければならないのか?クルコエを出れればどんな事になってもかまわないと言う決意がぐらつき始める…

 「…何もがんばる事も無いけど気を楽にしてちょうだい、がんばってね。」ザレーマ先生はそう言い残して病室を後にした。側に居るハンナを見るといまだ不安そうにしている、病室に居た男性は廊下に出てザレーマ先生と何かを話している様だった。やがて病室のドアがやさしく閉まり男性が再び病室に入って来ると、ハンナがその男性の紹介を始めてくれた。「まだ紹介していなかったわね、エミルこちらは私の夫で教師のラヒム・ジサクよ。」「おはようエミル。」男性の歳は三十代後半、ハンナとは違い明らかに外国人で中近東系の顔立ちと髪質であった。男性はその顔立ちとは裏腹にとても丁寧で知性のあるルスキ語を話し、何よりもその口調はやさしくいたわりに満ちているものだった。「おはようエミル、紹介されたとおりハンナの夫のラヒムです。あまり手術前にいろいろな事を話さない方が良いと思うのですが、話しをしなければあなたはきっと不安になると思うので少しだけ話をしましょう。」「まず私達はあなたが健康を取り戻すために全力を尽くします。これは組織の意向とはまったく関係がありません。私とハンナが人として行う行為です。ですから何一つ心配する事はありません。健康を取り戻した後、組織に入るのもこの町を出るのもあなたの自由です。我々の組織があなたを保護したのには目的があるからですが、それでもあなたがしたくない事を強要する事は決してありません。だから今は安心してケガを治すことだけに集中してください。この国では汚い悪行があふれています、そんな世の中でも私とハンナはは正しくありたいと願っています、どうかエミル私達に正しいと思える行いをさせて下さい。」男性はそう話してしばらくの間病室で時を過していた。私はもちろん話を鵜呑みにする事はなかったが、男性の真直ぐで優しい眼差しを見ていると何故だか話を信じて見たい様な気分になった。その後男性は学校へ戻らなければならないと言って病室を後にし、病室に二人きりとなった私とハンナはただ静かに時間を過していた。ハンナは本を読み私は病室に備え付けてあるテレビを眺めていた。昼の食事を済ませてからは、明日の手術のためのレントゲン撮影をしたり、執刀する医師の問診を受けたりした。最終的に明日手術を行う事が決定したのは夕方のザレーマ先生の問診の後だった。実際に手術が決まると私の緊張は徐々に高まってゆき病室のベットに横になっている事も辛く耐え難いものになって行った。私の様子をつぶさに見ていたハンナは私が少しでもリラックス出来る様にお茶を入れてくれたり、私のとくに打ち身のひどい腕などをやさしくさすってくれたりしていた。この時ハンナが話してくれた事だが、ハンナは元看護師だったと言う、ハンナの介護が本職の物だと知った私は何故だかもっとハンナに甘えてみたくなった。この夜わたしはハンナの腕にしがみ付き、小さな子供の様に体を丸めて深い眠りの中へと沈んでいったのだった。

 次の日私が目を覚ますと私の周りで何やらガチャガチャと準備が始まっていた。私はハッとして身体を起こすとハンナがそっと私の肩に手を置き「大丈夫よ、手術の準備が始まっただけ、昨日は良く眠れたみたいで良かったわ。」と言っていた。私はすぐに落ち着きを取り戻し、私の周りで手早く働く看護師の様子を眺めていた。「おはようエミル、気分はどう?昨日はよく眠れた?」ザレーマ先生の軽快な質問に私は少し身を引くようにうなずいた。「よかったわ、今から手術室に行くのでこっちのストレッチャーに乗ってちょうだい、今日はとても良い天気よ。」ザレーマ先生がそう言うので病室の小さな窓を見てみると、もうすでに日は高く昇っていて透通る様な青空が広がっていた…私の手術はその二時間後に始まり、予定をしていた時間よりもずっと遅れて午後の三時頃に終わり意識が戻ったのは夕方の五時頃の事だった。手術の時間がかかった理由は私がケガをしてから時間がかなり経っていた事により、骨の整復に手こずったためだった。そして綺麗に元通りになると勝手に思っていた顔にも、手術前と変わらず青アザや顔の麻痺が残っていた。私はやはり以前の自分には戻る事は出来ないのだと言う事に打ちのめされていたが、ハンナはとても綺麗になったと言って喜んでくれていた。ザレーマ先生の手術後の説明ではシビレや麻痺は数ヶ月続く場合があるのだと言う、手術自体は成功しているので後は根気よくリハビリを続けるしかないと言われた。手術をした後の経過は良好だった。一日二日と時間が過ぎていくと、私の身体は予定通り入院の必要が無くなって行ったが、身体も重く気分も優れないのに外見だけが元に戻りつつある事に居心地の悪さを感じていた。気分が優れないまま手術をした日から三日目の朝を迎え、ザレーマ先生の簡単な診察を受け数種類の薬をもらい、ハンナが用意してくれた外行用の服を着て、私の入院生活は終わりを告げ退院の時を迎えた。「主人が迎えに来れれば良かったのだけど今日はどうしても外せない用事があって…仕方がないからタクシーに乗って家まで帰りましょう…」ハンナは私の入院中ずっと私の側についていてくれた。疲れていない訳が無いのだが、ハンナはそんな事を感じさせないくらい元気にしっかりと私の手を引き、私を外の世界へと誘ってくれていた。「困ったわね、タクシーが一台も無いじゃない…」病院のタクシー乗り場には一台のタクシーも無く、乗り場には何人かの人々が列を成しタクシーが来るのを待っていた。「仕方がない…そこのペテロ広場まで行ってみましょう、きっとタクシーが居るわ…」重い足取りの私に歩調を合わせながら、ハンナは市場や商店のある広場まで私を連れて行った。色とりどりの食べ物に華やかな洋服そして行き交う大勢の人々、私は改めてこの町がベズロアでない事を実感していた。「今日は何かあるのかしら?タクシーが一台も見当たらないわ…バスを使うしかないかしら?ねぇエミルのど渇かない?私はカラカラだわ、そこのカフェで何か飲みましょう。」ハンナが指を差したのはオープンテラスのカフェだった。ハンナは疲れた感じでカフェの椅子に腰をかけると、レモネードを二つ注文し、定員になぜタクシーが居ないのか尋ねていた。ハンナが聞いた話しでは隣町の教会で大きな祭事があり、大方のタクシーは観光客目当てにそちらに行っているのだろうとの事だった。「まったくついていないわね…これも思し召しかしら…エミルやはりバスを使うしかないみたいね…」ハンナはそう言うとバックの中から時刻の書かれたメモを取り出して見ていた。「お昼に一本あるだけね、あと一時間もあるわ、どうするエミルここで食事を済ませていく?」ハンナにそう聞かれるも、何も声を出せない私を見て「食事は家でゆっくり食べましょうか、代わりに何か甘い物でも食べましょう…これがいいわね。」今度は私の答えを待つ事はなかった。ハンナはチョコなんとかと言う、まったく意味が解らない名前のケーキを頼んでいた。数分後カフェの定員が持って来たのは茶色くまるでオモチャの様な小さなケーキだった。私がその不思議な形に見とれていると、ハンナはケーキをザクリと半分にして片方を私に差し出してくれた。「まあまあだわね…」ハンナはケーキの味をそう評価していたが私にはただ強力な甘さだけが口に広がる食べ物の様に思えた。“ケーキってこんなに甘かったかしら?”なにげなく頭に浮かんだ言葉に私は自分がまだ幼かった頃、父にせがんで小さなケーキを買ってもらった事を思い出した。“なぜ私は父との思い出を忘れていたのだろう?”そう思うと私の視界はにわかにぼやけて来た、私は訳も解らず必死になってまぶたをこすりこぼれ出た涙を止めようと努力していた。そんな私の様子に気が付いたハンナはすぐに私に近付き、私を強く抱きしめ小さな声で「泣きたい時は泣いた方がいいわ…その方があなたの心が元に戻れると思うの…だから我慢しなくていいのよ…」と言って私をなぐさめてくれていた。私は大粒の涙を流していた、人がたくさん居る所で泣いている事はとても恥ずかしかったが、自分の意思ではどうにも出来ないほどの感情のうねりが私を羽交い絞めにしていた。私が徐々に気持ちを落ち着かせ涙を堪える事が出来るようになった頃、私達が待っていたバスは既に広場を出てしまい、いつ来るのかもしれないタクシーを待ち続ける事になってしまった。結局タクシーを拾う事が出来たのはバスを乗り過ごしてから二時間ほど経ってからで、家に戻る事が出来たのは午後の四時を少し過ぎた頃であった。

 家には既にラヒムさんが学校から帰っていて、私達が戻っていない事を心配して病院の方に車を出そうとしているところだった。ラヒムさんは私達の姿を見ると安心した様子でハンナと話を始めていた。その日私は直ぐにベットに横になり夕食をとって浅い眠りについたが、ハンナは家に帰ってからも夕食を作ったり掃除をしたり、私の入院中の汚れ物を洗濯したりと大忙しであった。私は申し訳ないと思う反面、身体の芯から滲み出る脱力感や無力感に押しつぶされていた。私は次の日もそのまた次の日もベットの中で泣いている時間が多くなっていた。そして涙が尽きると何時間でもボーッとしている状態が続くようになっていた。そんな状態の時私に少しでも感情の起伏が現われると、私は自分の肘にある傷をかきむしる事が癖になってしまった。私が痛みも忘れてかきむしるため、私の傷はすっかり化膿しベットの上にもいくつかの血のしみを残していた。私は自分の傷を悪化させてしまった事とベットにシミを付けた事を気に病んでいたが、ハンナも往診に来てくれた

ザレーマ先生もその事で私に注意する事も無く、毎日丹念に傷口を手当をして汚れたシーツを取り替えてくれていた。私の陰気さは日を追うごとにひどくなっていったが、ハンナとラヒムさんはそんな私に辛抱強く付き合ってくれ、私が意味も無く泣いている時はずっと側に居てなぐさめてくれたり、私が塞ぎこんでいるとどんなに些細な事でも話しかけてくれていた。私の感情が何の光明も見出せないまま一週間が過ぎた頃、ラヒムさんが神妙な面持ちで私が横になっている客間へと入って来た。「今日は話があるのですが時間を割いてもらってもいいですか?」時間を割くも何も私はここに寝ているだけなので当然ラヒムさんの質問にうなずいた。「まえにも少しだけ話しをしましたが、あなたがここへ来る事になった理由を話さなければなりません。もちろんあなたの身体が充分回復していない事は解っているのですが、我々にも残された時間が少なくなって来ているのです…本当に申し訳ないと思っています、あなたが正しい判断が出来る状態ではないのですが…本当にすいません…とにかく始めに行っておきますが、選択をする事が出来るのはあなただけです、あなたが望まない事は絶対にしないでください…お願いします…」ラヒムさんの表情は険しく、ラヒムさんの声は明らかに強張っていた。「まず私達は第二代ベズロア自治共和国大統領グルスタフ・スフムアル派のルモルフ野戦司令官が率いるルモルフ東部隊に属しています。本隊はルモルフ司令官のもとベズロア南部で戦いを繰り広げていますが、私達のグループはロシスキ連邦管区内での情報収集、資金収集、武器調達などの活動をしています…工作員は20人前後で此処リユン市とロスク市に拠点があり、基本的には表向きの仕事をしながら生活しています。ハンナは今は主婦ですが場合によっては看護師として仕事をしますし、私はシアリム神学校の学部長として働いています。」「私達の部隊の大儀はベズロア紛争の即時停止と民族の高度な自治にあります。ベズロアと近隣共和国との大シアリム国家樹立は我々の本意ではありません。何よりもベズロア紛争終結の為に我々は全力を尽くしています…我々はバラバラになってしまったベズロア民族を一致団結させる為にある作戦を準備しています。もしもこの作戦が成功すれば必ず紛争は終結へと向かうでしょう…エミル…あなたがここに来た理由はその作戦で中心的な役割を担ってもらう為なのです…この作戦に参加した場合…もちろんあなたが同意してくれたらの話しですが…この作戦に参加した場合あなたの魂はあなたの肉体を離れ神の美国へと旅立つ事になります…つまりこの世では死ぬと言う事になりますが、あなたの魂は殉教者として神の下で永遠の幸せと若さで生き続け、そしてこの現世でもベズロアを平和に導いた英雄として後世に語り継がれる事になるはずです…」「今すぐに答えを出してくれとは言わないので、明日わたしが学校から帰るまで考えていてください。もしあなたがこの作戦に参加しなくても私達があなたを酷い目にあわせたり、あなたを追い出したりする事は決して無いので安心して下さい…」「それともう一つ…この作戦に参加した場合、あなたには報酬が支払われますグルスタフ大統領とルモルフ司令官からです。結果的にはあなたが使う事は出来ないが、あなたが求めるとおりの人に受け渡される…これは我々の最低限の約束で、あなたが求めるな…」

 「いくらもらえるの!?」ラヒムさんの話をさえぎり私は思わず声を出した。ここに来て初めて発する言葉だった。ラヒムさんは少し驚いた様子で「あなたが作戦参加で手にする金額は3万USドルです。あなたを保護…」“3万合衆国ドルですって!?3万ルブルでも3万ナナトでもない!?クルコエ全住人がひと冬充分暮らしていけるだけの金額だわ!ラヒムさんは冗談でも言っているの?”もちろんラヒムさんはそんな冗談を言う人でも、私を騙す様な人でもなかった。後で聞いた話ではあるが、3万USドルというのはこの手の作戦の報酬としては相場の金額なのだそうだが、ラヒムさんからこの金額を聞いたときには自分でも目が丸くなってるのが解るくらいに驚いていた。私は3万USドルと聴いた瞬間からこの金額の虜になり、稚拙な思考も明日への不安も失って、おかしな安堵感だけが広がっていった。それは決して幸福がもたらす安堵感ではない、もうこれで楽になれると言った具合の安堵感である。肥溜の過去と歪んだ顔を持つ女には明日への希望などありはしない…私は次の日ラヒムさんに作戦参加の意志を伝えた。私の様子がおかしいと気が付いたのかラヒムさんは「明日またもう一度考えましょう、そんなに簡単に答えを出せる話ではありません、考える時間はいくらあってもかまわないはずです…」と言って逆に返事を先延ばしにされてしまった。ラヒムさんに諭されるまま、私は一日考えてみたが私の望みは変わるはずが無く、私はもう一度ラヒムさんに作戦に参加する事を伝えた。ラヒムさんは解りましたと言って、明日からの予定や私が訓練を受けるラヒムさんの神学校についての説明をしてくれた。私は自分が参加する作戦に付いて詳しく話を聞きたいと思ったが、作戦が準備中である事や私自身の心の訓練が必要と言う事もあって作戦の詳細については後々説明して行くとの事だった。そしてラヒムさんは最後に「今回の作戦から抜けたくなったらどんな時でも私か妻に話してください。あなたの心のままを私達は受け入れます。決して無理をしないように…あと私達に出来る事があれば何でも行ってください。」と言ってくれた。私はこの時まで思いもしなかった父の消息について尋ねて見る事にした。「どうしても知りたい事があります…父の消息です…父はルモルフ司令官の組織で死んだと聞きました…父の最後について解っている事があれば教えてほしいです。」「…わかりました、お父上の名前は?」「カフカ…カフカ・サラム…年齢は四十三歳…2001年9月頃消息が途絶えました…だいたい二年ぐらい前です。」「そうですか…私は父上を存じませんが、必ず調べてあなたに伝えます…そのほかには何かありますか?」「今はそれだけです。」「わかりました。明日からは予定に沿った行動になります。今夜はゆっくり身体を休めてください。あなたに心の平穏が訪れる事を私達は心から祈っています…それと何か食べる様にしないとダメですよ…」ラヒムさんは私がここ二日ほど満足に食事を取っていない事を気にかけてくれていた。ラヒムさんは部屋を出る間際に今後自分の事は先生と呼んで下さいと言っていた。ラヒムさんが部屋を出て行った後、私はしばらく呆けていたが、私の心の中には昨日までとは違う心の落ち着き場所が出来ていた。私には先生やハンナそして組織の人々のような崇高な理念は有りはしないが、私の様な下賤の人間が先生達の役に立つのであればそれは素晴らしい事であろう、私の醜い人生にも一輪の花が咲くと言うものである。その夜わたしは時間が掛かったが夕食をすべて食べ、今まで感じた事の無い様な胸焼けを感じながら明日に備えて眠りに就く事にした。

 次の日私はおはようと言うハンナの声で目を覚ました。私はハンナに挨拶を返し身体を洗いたい旨を伝えた。私はこの日病院に行って身体の方が元に戻っているか診察を受けなくてはならない、先生は身体が感知するまで神学校には行けないと話していた。私は少しでもよく見えるようにと入念に身体を洗った、身体を洗い終えてシャワールームを出るとハンナが朝食ですと言って、私はキッチンへと通された。キッチンには既に先生が居て朝食も用意が済んでいる状態であった。私はこの家に来て初めて先生達と食事を取るので何か粗相が無いかと緊張していたが、この家のルールをハンナが教えながら食事をしてくれたので私は何の問題も無く食事を済ます事ができた。先生達の食事は一般的なシアリム教家庭よりもお祈りの時間が長く、野菜や穀物を食べる順番も決まっていて禁止されている食べ物も随分と多い様だった。また食事を取り終えた後はお茶の時間になるのが氏族の慣わしだと言う、私はその慣わしに従い先生達とお茶を頂き、世間話などをしながら穏やかな時間をすごした。お茶を切り上げるのは男性の役目と決まっている、先生のそろそろ病院へ行く準備を始めましょうと言う言葉でお茶の時間はお開きとなった。私は食器の後片付けをしているハンナの手伝いをした。ハンナはただの手伝いを自分に娘が出来たみたいだと大変喜んでくれ、私はその言葉が嬉しくて今出来うる限りの笑顔をハンナへと返した。手伝いを済ませたあと私は部屋に戻り病院を退院した時と同じ服に着替えた。どうやら教は先生が車を出してくれるらしい、車に乗り込んだ私と先生はハンナの仕度が終わるのを待っていた。「妻は仕度が遅くてね…」先生が諦めたようにつぶやいた。ハンナは先生が言っていた通り私達よりも十五分ほど遅れて車に乗り込んで来た。「さぁ行きましょう。」ハンナの何も気にしない様子に私は久方ぶりに愉快な気分になった。この日町の道路は空いていて病院も患者が少なく家を出てから三十分ほどで手術を執刀した医師とザレーマ先生の診察を受けることが出来た。医師たちの診察では傷や顔の痙攣もだいぶ回復しており、性病等の感染症もほぼ感知したと言っていいだろうと診断を受けた。私とハンナは診察室を出たが、先生は医師と話しが在ると言う事で私達は廊下の長椅子に座り先生が来るのを待っていた。ハンナはいつもの様に話し始めることは無く、何か悲しげで不安そうな表情を浮かべていた。「お待たせしました。それでは帰りましょうか。」先生の優しい声が廊下に響き、私達は家へと帰る事になった。「ザレーマ先生がエミルの事をほめてましたよ、よくがんばって病気を治したと…私もよくがんばっていると思います。」先生は帰りの車中でそう言ってくれていた。私はそんな事は無いと一番よく知っている人間ではあるが、先生の言葉は正直嬉しかった。家へと帰った私達は昼食を取りお茶を頂いた後、今後の予定について話し合いを行った。私が寝泊りする学校にはせいかっに必要な物は整っているのだが、私が個人的に使う服や下着と言った物などは無いため、明日ハンナが町に出て買い揃え明後日に家を出る準備をして午後には学校に入る予定となった。予定が決まれば後は予定に従うだけである、ハンナは大変忙しそうだったが私は待っている時間が多く、食事の支度やハンナが買って来た服を試着する時以外は主にテレビを眺めているだけだった。

 家を出る日、ハンナはやはり忙しそうに朝から動きまくっていた。ハンナの凄い所はどんなに忙しくとも笑顔を絶やさない事だ。朝食を済ませ先生を送り出した後、私達は早々に家を出る準備を始めた。大きな旅行バックに昨日買ってもらった服を詰め、薬や洗面用具などをダンボールの箱に入れて約二週間ほど寝泊りした客間の掃除を始めた。私はそれ程感じていなかったがハンナは少し感傷的になっていた様だった。「エミルがいなくなるのはとても寂しい。」とたびたび口にしていた。ハンナが昼食の支度を始め客間の片付けがようやく終わりに近づいて来た頃、先生が私を学校に連れて行くために一端家へと帰って来た。先生は私に片付けは終わりそうですかと尋ねたので、私はもうすぐ終わりますと答えた。先生はそれでは片づけを終わらせてから昼食にしましょうと言って、私の荷物を車に詰め込み始めた。昼食が出来上がる頃には出発の準備と客間の片付けが完了した。私達は昼食をいただきお茶の時間を迎えていた。他愛の無い世間話が続いていたが一瞬話題が途切れた時、先生から今回の作戦を実行する人員は三人である事、一人は既に学校で訓練に入っている事、もう一名は五日から七日で学校に到着する事が私に伝えられた。私は幼い頃からよく人見知りをする、作戦がどうとかよりもほかの二人とうまくやって行けるかどうかが不安であった。そしてこれは恐ろしくて口にも出せなかったが他の二人の中に男性がいるのかが気になってしかたなかった。のどもとまで質問が出掛かっているのだが、やはり恐ろしくて口に出せない。私は少し強張りながらじっとテーブルの木目を眺めていると、先生はハンナのほうに目をやりハンナに相談を始めた。「実は学校でエミル達を補佐する人員が不足していてね…君が賄い婦を引受けてくれると助かるのですが…」「あらほんとに!!」ハンナの声が一気に高くなった。「週に二日ほどは学校での寝泊りになるし、毎日の炊事はかなり大変な作業になりますが…」「問題ないわ、大丈夫よ!まぁ嬉しいこれでしばらくはエミルのそばに居れるわ!」ハンナは満面の笑みを浮かべていた。ハンナが学校で働き始めるのは実行要員三人がそろってからだが、学校の宿直室や炊事場を見る為に三人で学校へとむかう事になった。移動する車内ではハンナの明るさが冴えていた、先生も穏やかな表情を浮かべている、私も不安を抱えながらも学校までの三十分の道程を少し落ち着いてすごす事が出来た。車は次第に町の中心部を離れ広い荒地といくつかの住宅街を走っていた。「さぁ着きましたよ、ここがリユン・シアリム神学校です。」車がたどり着いた場所は学校そのものの場所だった…いわゆる神学校というものの多くは、教会に隣接する建物や教会自体が学校としての機能を持つものなのだが、リユン神学校はロシスキ全土にあるごく普通の典型的な学校建物だった。なぜこの学校が神学校なのかは、校舎を案内する案内する先生によってすぐに明らかとなった。このリユン神学校は1997年廃校となっていた校舎をそのまま買い取り、ベズロア紛争停戦時にルモルフ司令官が設立した神学校なのだと言う。生徒はロシスキ全土から集まった信仰心の厚い子供たちで、男女合わせて150名ほどが親元を離れ寄宿生活をしている。校舎を歩く私達の耳にシアリム教の聖典を朗読する声が聞こえて来る、私達が歩いているA棟は男子クラス、B棟が男子寄宿舎、教職員室を挟んでC棟が女子クラス、D棟が女子寄宿舎となっていた。学校はちょうどEの字の形をしており、校舎から少し離れた所に私達が訓練を受ける体育館や給仕棟、宿直棟などがあった。私達が体育館に入るとそこには一般的な学校で使われるだろうありとあらゆる運動器具や教壇、机などといった物がうず高く積み上げられていた。私達は積み上げられた物の間を縫う様に歩き、粗末なベニヤ板で仕切られた体育館の中央部までたどり着いた。どうやら体育館の前半分を用具置き場に後半分を訓練場にしているらしい。ベニヤ板が途切れた所にはカーテンがかかっていて、そこが出入り口のようだった。「すまんね…何もかもが急ごしらえでみすぼらしいが我慢してくれ。」先生はそう言ってカーテンを巻くし上げ、私を中へと通してくれた。訓練場の中はがらんとしたスペースが広がっており、大型のストーブが二台と食事を取るための長テーブルが置かれているだけだった。先生は体育館の後方を指差して「右側の体育準備室と書いてある部屋が君たちが就寝するベットルームで、私物はそちらに置いて下さい。そして左側がトイレで男子トイレと書いてある方をシャワールームに改造してあります。」「実行要員の一人はベットルームに居るはずです。紹介しますので来て下さい。」先生は私をベットルームの前まで連れて行き、入口のドアの扉をノックした。「はい。」中からは女性の声が聞こえて来た。私はホッとして開かれたドアの中へ入ると、ベットルームの中はまるで病院の相部屋の様に大きなカーテンで三つに仕切られていた。一番奥のカーテンから神経質そうな顔がこちらを覗いている。「こんにちはニコラ、こちらは今日から君と一緒に訓練を受けるエミル・サラムです。よろしくお願いします。」「よろしくエミル。」「こんにちは…よろしくお願いします。」私は恥ずかしくて顔を上げる事が出来なかった。私とニコラのぎこちない挨拶を見た先生が、ニコラに皆で一緒にお茶を飲まないかと誘った。ニコラはハイと短く返事をして、皆で訓練場の長テーブルの椅子に腰を下ろした。最初ハンナがお茶を用意するために炊事場へむかおうとしていたのだが、先生がハンナを席に留めさせて私が用意しますと言って訓練場の外へと出て行った。先生が出て行った後、私達三人はしばらく顔を見合っていたが、ハンナがニコラに自己紹介をするかたちで会話の重い扉が開いた。ハンナとニコラの会話の中でニコラはイルクーシとの国境近く、私が居たヌイノフスクよりもずっと西の出身であった。ニコラは話を始めるととてもチャーミングで、私が初めに抱いた印象とは全然違う人物に思えた。とても女性らしく人を和ませるユーモアを持った人だった。ハンナとニコラの会話が弾んで来た頃、先生がお茶を持って訓練場へと戻って来た。先生はこの場の雰囲気を感じて安心したのだろうか?その顔にはいつもの穏やかな笑顔が戻っていた。しゃべり続けるハンナとニコラ、ときたま一言二言つぶやく私と先生、時間は思いのほか早く過ぎて言った。

 「いけません、もうこんな時間だ!君達の食事を確保しなくてはいけない。ハンナは私と一緒に来て下さい。ニコラはエミルにベットとシャワーの使い方を教えてあげてください。ニコラ大丈夫ですか?」「わかりました大丈夫です。」「では一端お開きにしましょう。」先生は少し慌てた様子で訓練場を後にして行った。二人きりになった私とニコラは私の荷物の片付けや、ほとんど男子トイレのままのシャワールームの使用上の注意などを聞いた。「このシャワーお湯が出るようになったのは一昨日からなのよ。」思い返せばこの言葉がニコラのぼやきを聞いた最初であった。ニコラがこの訓練場に来てからの一週間、ほとんどの時間をこの訓練場の設営に当たっていたことを語った。そしてルモルフ司令官の部隊が今回の様な自決作戦を行うのが初めてである事を聞いた。つまり先生も自決作戦を指揮するのは初めてと言う事になる。私は先生が血で血を洗う極悪非道のテロリストではない事に安堵すると共に、今後の作戦の行方に一抹の不安を感じていた。先生とハンナが私達の食事を持って来たのは午後六時を少し過ぎた頃だった。先生は食事を取りながらでよいのでと言って、明日からの訓練の内容を私達に教えてくれた。先生の話では一日の大半は聖典の朗読の時間であり、先生の講義は一日二時間から三時間程度である事がわかった。銃や爆弾の扱い方と言った、戦闘訓練の様なものは一切行わない事も先生の口から語られた。今思えば確かに戦闘訓練など必要の無い、ただ自決しに行くだけの作戦なのだが、この時はまだその先に死があるだけしか解っていなかった為、なぜ戦闘訓練よりも聖典の朗読を重視するのか少しも理解できずに居た。先生は最後に数日中に合流する作戦要員についての話を始め、その人物がアレイナ・カリヤと言う女性戦士であることやルモルフ司令官の右腕で歴戦の勇者である事が語られた。私は全員が女性である事に安堵していたが、ニコラはその人物の名前を聞いて少し強張っているように思えた。私達は食事を終え身の回りの整理をした後、一日の締めくくりとなるお祈りをして消灯の時間を迎えた。私は食事の時のニコラの様子が気になったので、ニコラにアレイナという人物を知っているのか聞いてみた。ニコラはうわさ程度しか知らないと前置きをして、彼女はルモルフ部隊の最強の女戦士で、戦場での勇猛果敢な行動はもはや伝説と言っても良いほどのものだと語った。「本物の戦士が私達の仲間になるなんて…私こわいわ…」ニコラは溜息をつくようにつぶやいた。私もニコラの言葉に触発される様にして不安を感じた。私は自分の知っている軍人にアレイナのイメージを照らし合わせていた。初めて横になるベットの上で何とも言えない寝苦しさを感じながら、その日は眠りの中に落ちていった。翌日わたしとニコラは学校における本作戦の訓練プログラムを始める事になった。まず起床した後シャワーを浴びて身体を清め、お祈りをしたあと朝食を取る、朝食の後は聖典の朗読を正午まで行い昼食を取る。昼食の後には先生の講義が行われ、夕方から夜の七時までは自主的な学習や聖典の朗読、瞑想室での瞑想の時間やミーティングなど、その時折に必要な事に時間を使い七時から八時の間に夕食となった。夕食後から消灯までは一応自由時間とされたが基本的には聖典の朗読を求められた。本作戦の訓練プログラムは死後の自分がどうなるのかと言う事に重点が置かれ、自分が信仰のために何をすべきかをより深く考えられるように組まれていた。私が渡された物は“シアリム聖典”とっ“最後の一瞬に咲く花”と言う詩集の二冊だった。私は今まで宗教的な教育を受けた事がなかったため、聖典の朗読には大変な努力が必要だったが先生やニコラの協力で少しづつ聖典の内容が解る様になって行った。そして先生の講義はとても丁寧に行われ、私の様に無知な人間にでも充分に理解できるように進められていた。ただ少し気になったのは教壇に立つ先生の雰囲気で、明らかに普段とは違う振る舞いであった。それは何処と無くぎこちない様な何となく自信が無い様な感じであった。そんな先生の講義も三回目を終えた時、先生が書類の束を持ちながら私に近付き話しがあるので来て貰えますかと言った。私は返事をして先生のあとについて行った。先生と私は体育館を出てC棟の空き教室の中へと入っていった。私が席につくと向かい合うようにして先生が椅子に座った。私は自然と身体が強張っているのを感じた。たとえ相手が先生だったとしても部屋に二人きりになるのは、私の体が拒んでいた。私はうつむいたまま先生の顔を見れないでいると、「あなたのお父さんの消息に付いて今解っている事をあなたに伝えたいと思います。」と先生が神妙な面持ちできりだした。

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