かべのしみ
晴香の家に泊めてもらって、他愛ない話をして過ごした。
布団は、無理言って晴香のものを貸してもらった。
「電気消すね」
晴香がそう言って、蛍光灯の紐を引っ張る。
ぷつん、と音がして、星明りだけになった。
その日の夜は、よく眠れたと思う。
携帯電話の着信音で、目が覚めた。
「……だれからだろ? 」
枕元で光る携帯電話を開く。
一瞬はやく、着信音は途絶えた。
待ち受け画面には、新着メールと不在通知のアイコン。
「うわ……」
アイコンを選択して、その数を見て。
わたしは息を呑んだ。
不在通知は二桁、新着メールに至っては三桁を超えている。
あまり知人と交流しないわたしにとって、異常な数字だった。
そしてそれら全てが、同じ人の名前で埋め尽くされている。
聡子ちゃんだ。
「……気持ち悪いなぁ、もう」
留守電を聞く気になれなくて、とりあえず最新のメールを開いた。
『・・・・・・・・・・・・・・・・・・』
全部文字化けしていた。
「――? 変なの」
続けて、新しい順にメールを開く。
文字化けばかりの文面が、いくつもいくつも続いていた。
あまりの異様さに、背筋が寒くなる。
時間を過去に辿るほど、文字化けの量は少なくなっていった。
『・・・うわ・・・ら・・・まし・・・・』
『・・・ゃん・ない・ら、・の・・けち・った・』
『鍵・・・てて、・入・な・』
『・美ちゃ・いつ帰って・るの・』
『今出かけて・のかな? 家の前で・って・ね』
『帰ってきたよー。鍵・けてほしいな』
『今日どうしたの? 講義来てなかったよね? 』
一番最初のメール。
その白々しい文面に、わたしは思わずむっとした。
誰のせいで、こんなことになったのか。
怪我することになったのか。
ふつふつと腹の底からわく怒り。
携帯電話を握る手に力が入ったそのとき。
晴香が眠そうに起き上がった。
「んー、まだ五時じゃん。由美って以外に早起きだね」
腫れぼったい目を擦り、銀縁メガネを掛ける。
二度寝しようか決めあぐねている晴香。
その横で、わたしは携帯電話を閉じた。
「ごめん、家に帰らなくちゃ」
「え? 」
寝ぼけていた晴香の顔が、急にしゃきっとした。
「由美の家にいるんだね? 変な人」
「う、うん……」
寝起きとは思えない鋭い推量。
それにうなづくと、晴香はいそいそと着替え始めた。
「わたしも行く」
「え、だ、だめだよ」
「なんで? その人が由美に怪我させたんでしょ? 一人で行ったら危ないよ」
「でも、晴香まで怪我したら――」
言葉をにごしていると、階下から晴香のお母さんの声が聞こえた。
「晴香、起きてるのー? だったら朝ごはん作るの手伝ってちょうだい」
呼ばれた晴香は、行こうか迷っている。
その間に手早く着替えて荷物をまとめ、わたしは立ち上がった。
「あ、由美」
「泊めてくれて、ありがと。気分も落ち着いたみたい。だから――帰るね」
やっぱりついて行く、と晴香が言いかけたのを遮って。
「最後にお願いがあるんだけど、この布団……」
今度はわたしが遮られた。
「由美、もしかして昨日晃が言ってたの聞こえてた? 気にしなくてもいいのに」
わたしたち友達なんだから、と晴香が言う。
くすぐったい言葉に、わたしの頬がほころんだ。
「うん。……だから、かも。大丈夫、何かあったらまた電話するから」
晴香は不満そうな表情のまま、わたしを見詰めた。
もう一度、晴香のお母さんの声がする。
渋々着替えだす晴香にさよならを言うと、わたしは外へ出た。
アパートの階段をのぼって、家の前に着いて。
鍵を差し込んで回したとき、気付いた。
「……開いてる」
家の鍵は、わたしと大家さん以外持ってないはずなのに。
冷たいドアノブを握ると、玄関扉を開ける。
背後で排水パイプがカタカタと鳴っていた。
「……」
電気のついてない家に、わたしは眼を走らせた。
聡子ちゃんのボストンバッグが、昨日出ていくときに見た位置から移動している。
「……聡子ちゃん、いるの? 」
声をかけてみたけど、返事は無い。
耳が痛むほど静かな部屋のなかで、小さなもの音がした。
カタカタ、カタカタ。
「――! 」
ほんの小さな物音なのに、全身が引き攣る。
どこから、聞こえてくるのだろう。
息を殺して耳を澄ます。
「まさか……」
北側の部屋から、音がする。
物置状態の、開かずの部屋。
中に何が?
ひんやりしたドアノブを握り、思い切って開く。
うすく埃の積もったフローリングに、足跡がついている。
辿った先に、細い足。
「あ、由美ちゃん。おかえり」
聡子ちゃんが、体育座りでこっちを見ていた。
その顔に、微笑みを浮かべて。
三日前は綺麗だと思った笑顔も、今は不気味なだけだった。
「昨日はどこに行ってたの? ずーっと待ってたんだよ」
「聡子、ちゃん……。どうやって家の中へ……? 」
質問を質問で返すと、聡子ちゃんは口端を吊り上げた。
「大家さんに頼んで開けてもらったんだ。ちゃんと学生証見せて、由美ちゃんの友達だって言ったよ? 女の子が夜うろついてるのは危ないからって、すぐ鍵開けてもらえた。十一時くらいだったかな」
「そ、そう……」
聡子ちゃんは、にこにこと微笑んでいる。
その言葉に怪しいところは何もない。
深くきくことはできなかった。
朝の静かな家の中に、目覚まし時計のアラーム音が響く。
弾かれたように、聡子ちゃんが立ち上がった。
「あ、もう時間だ。サークルのミーティングに遅れちゃう」
ごく当たり前の言葉を喋って、ごく当たり前に鞄を肩にかけて。
それが普通のことなのに。
どうも妙な雰囲気だ。
……すこし、わざとらしい気がする。
「聡子ちゃん、ごはん食べた? 」
尋ねるわたしに、聡子ちゃんはうなづき返した。
その顔は、こころなしかやつれて見える。
家の中に、料理をしたような匂いはなかった。
「じゃ、また帰りにね」
さらさらと髪をなびかせて、聡子ちゃんは家を出て行った。
後に残ったのは、奇妙な懐疑の心だけ。
「……なんで、使ってない部屋に勝手に入ってるのよ」
薄気味悪くて、ついイライラしてしまった。
部屋から出て、扉を閉めようとすると。
「――? 」
違和感を感じて、手を止めた。
何だろう、何かが変わっている気がする。
部屋の中を見回し、積まれたダンボールの陰に眼が向かう。
「え……」
壁が、変色していた。
湿気のある部屋でもないのに。
近寄って、ダンボールを退かせてみると。
そこには手の平大の染みができていた。
薄い、赤みの強い紫。
生臭い匂いが、鼻をついた。
「何これ、血――? 」
ぞっとして体を引くわたしの耳に、またあの音が聞こえる。
小さな小さな、不快な音。
カタカタ、カタカタ。
カタカタ、カタカタ。
音と共に、染みが広がっていく。
「いや――」
後退りするわたしの腕に、鞄から落ちた手帳が触れた。
晃がくれた手帳だ。
そうだ、もう黙って怯えているわけにはいかない。
家鳴りのような音と、広がる染み。
染みを睨み、わたしは決意した。
もう聡子ちゃんの好きにはさせない。
晃の予言したとおりになるつもりもない。
だから、絶対、聡子ちゃんを追い出してみせる。
強気になったのは、久しぶりだった。
わたしの目の前で、染みは広がり続ける。
固く心に誓ったその言葉を嘲笑うように。
なり続ける音の中、小さな変化だった。