昼間の会議
晴香の影に隠れるように、街中を移動して。
気が付くと、晴香の家に着いていた。
傷だらけの顔をみられたくなくて、俯いていたから。
道中の記憶は全くない。
「ただいまーって、晃、もう来てるんだ」
鍵のかかってない引き戸を開けて、晴香が呟く。
土間のような広い玄関に、和と相容れないゴスロリな靴が一足。
メールの遣り取り以上に奇妙な事態が起こりそうだ。
黒革にフリルだらけの厚底ブーツを見詰め、内心そうこぼした。
廊下の奥から、晴香のお母さんがエプロンをつけたまま出てくる。
「おかえりなさい、お友達来てるわよ。大学サボるのもほどほどにね。……あら、由美ちゃん。怪我したの? 」
「……こんにちは、お邪魔します」
おろおろする晴香のお母さんに頭を下げて。
何も言えない、言いたくないわたしのかわりに、晴香が適当に誤魔化してくれた。
「――ってわけで、わたしたちこれから大事な話があるから。勝手に部屋入ってこないでよー? 」
「はいはい。飲み物とお菓子用意するから、呼んだら取りに来なさいね」
めんどくさいなー、と晴香が頬を膨らませる。
晴香のお母さんはにこにこ笑っている。
ふっと、実家にいるお母さんのことが恋しくなった。
アパートなんか借りずに、実家から大学に通えばよかった。
そうすれば、こんな気味の悪い目にあわずにすんだかもしれない。
日常のなんのことはない幸せな風景を見て。
わたしの心はすこし荒んだ。
「あ、スリッパ好きなの履いていいよ。わたしの部屋覚えてる? 」
「二階の、階段に一番近い和室だよね」
「そそ。晃待ってるみたいだから、先行ってて。わたしジュース運ぶから」
頷いて、階段をのぼる。
古い板張りの階段は、わたしの体重にきしんで悲鳴を上げた。
レトロな木のてすりを掴んで、二階を見上げる。
ぴったりと閉められたふすまの間から、オレンジ色の光がゆらゆらと見えた。
「……晃、いるの? 」
揺れる光に昨日の恐怖を思い出し、おっかなびっくり尋ねる。
「その声、由美だな。入りたまえ」
「……」
晃は中にいるらしい。
メールでさえ奇妙と思った遣り取りは、細い女の子の声を通すとますます奇妙だった。
ふすまに手をかけてそっと開く。
隙間から覗きこんだ先には、西洋風の病んだ衣装を着た女の子が座っていた。
晃だ。
黒い長い髪を白いレースのリボンで高く結い上げ、蝋燭を片手に座っている。
「何してるの? 」
「そちが体験した怪異を聞くため、雰囲気をつくっているのだ」
表情乏しい顔で晃がのたまう。
電気をつけない部屋は、薄暗く不気味だった。
晴香の部屋は隣のビルのせいで、日光がはいらないから。
「突っ立ってないで、座ったらどうだ。そこに座布団があるぞ」
ほれ、と、晃の指が下座の座布団を指す。
晃自身は上座にいるのに。
つぎはぎだらけの座布団に腰を下ろすと、晴香が階段をのぼる音がした。
「お待たせー……って、暗いなぁこの部屋。電気つけよーよ」
「そのままにしてくれ」
ひもをひっぱろうとする晴香を、晃が制止した。
晴香は怪訝な顔で卓袱台に飲み物を置く。
「――あ、由美。そっち座っちゃったんだ? 」
「うん。だめ? 」
「だめじゃないけど、それわたしの普段使いだから、きったないよー。こっちのお客さん用のどうぞ」
真新しい座布団を持ち上げる晴香。
それを、また晃が制止する。
「それも、そのままで」
晃の言葉に、晴香は銀縁メガネの奥から不思議そうな視線を向けている。
しぶしぶ、晴香は新しい座布団の上に腰を下ろした。
蝋燭の火が揺れる。
「では話したまえ。その怪異とやらを」
もったいぶった口調で急かされ、わたしは口を開いた。
わたしが語るここ三日の出来事を、晃は分厚い手帳にメモする。
全てを話し終えると、晃は手帳に目を通した。
「……ふむ」
手帳を覗き込む顔に、揺れる炎が妙な陰影を描く。
「……どお? なんかいいアドバイスとかある? 」
真剣な表情で、晴香が晃に詰め寄った。
まるで自分のことのように考えてくれる晴香の存在が、嬉しくてすこし恥ずかしい。
晃はというと、無表情だった顔を歪めている。
「なんともならんなぁ。さっぱりだ」
急に軽い声になって、天井を仰いで溜息をついた。
それって、と、口を挟もうとする晴香を遮り、晃が続ける。
「家に泊める許可を出してしまったのがなぁ。帰れと言っても、約束を盾にして帰らんだろう」
たしかに、最初の日に約束してしまった。
聡子ちゃんの持つ雰囲気に流されて。
自己嫌悪で落ち込むわたしの横で、晴香がしつこく食い下がっている。
「何がダメなのか、詳しく教えてよー。ひょっとしたら、解決する方法があるかも……」
「家というのは、一種の結界みたいなものだ。ウチとソトの概念。そこには曖昧だがはっきりとした線引きがあり、そうであるものと、そうでないものとを分けている。その境界から生まれる緊張はプライバシーの問題の発端でもあり、古今東西争いの種でもあり――」
「おーい? 晃、どこ見て喋ってるのー? 」
虚ろな目をして呟き始めた晃の肩を、晴香が揺すっている。
おっとすまない、と、晃が謝った。
頭を下げるのと一緒に、膝に抱えていた可愛いバッグから箱を取り出す。
人形の入った箱だ。
「うわ、そーいうの持ち歩いてるんだ……」
若干引き気味の晴香を気にせず、晃は冷えたコップに手を伸ばした。
オレンジジュースが、ちゃぷちゃぷと音を立てて揺れる。
「まぁ、見ていたまえ」
眉ひとつ動かさずに、晃はコップと箱を畳の上に置いた。
そしてバッグの中から、ハンドタオルを取り出す。黒いレースが悪趣味だ。
「まず、仮定。この液体が、由美の言う怪異だとする。箱が家、人形が由美だ」
「う、うん」
凝視するわたしたちの前で、コップが傾けられる。
オレンジジュースが、プラスチックの箱にかかる。
「家が怪異に対して閉じられていたら、怪異は入ってこれない」
ハンドタオルでジュースを拭い、淡々と続ける。
スライド式の蓋を開き、その上でコップを傾ける。
「あっ」
人形を心配するも虚しく、オレンジジュースがこぼれた。
「開かれていると、こうなる」
べたべたになった人形をつまみ、持ち上げる。
小さな服から、ジュースが滴り落ちた。
「で、でもさぁ。それならまた結界を張ればいいんじゃない? 」
人形から眼を逸らしながら、晴香が提案する。
晃の青白い頬に、えくぼができた。
忍び笑いが聞こえる。
「そうだな。怪異に汚された家と、自分をしっかりと清めて、怪異に嗅ぎ付けられぬようにできれば」
そうすれば、わたしは聡子ちゃんから解放されるのだろうか。
「徹底的にやらなければ意味がない。できるか? また例えだが、この人形と箱に染みたオレンジの匂いを全て消すようなものだぞ? 他の香りで誤魔化そうとしてもだめだ。完全無臭、全く元通りにできるか? 」
にやにやと笑いながら、晃は挑発的な言葉を投げ掛けてくる。
つられて晴香もこっちに眼を向けた。
二人に見詰められて、膝の上で握った両手が固くなる。
「やって、みる……」
「そんな弱気ではだめだ。実行する、と言いたまえ。話を聞いて感じたが、どうも由美はクールというより意志薄弱なだけだな。そこに漬け込まれていることを、薄々感付いているだろう? 」
全て見透かしているように、晃はわたしを見下ろす。
……確かに、そうだ。
あの昼下がりの教室で、聡子ちゃんと話してから、なんだか変だ。
そう、三日前から。
「……」
本当に、三日前から?
頭の中に霞がかかる。
今、何か思い出しかけたような。
沈黙するわたしに、晴香が声をかけた。
「大丈夫? 由美。わたしも協力するから。今すぐにでも、その変な人に出てってもらおうよ」
その変な人は、晴香の友達の聡子ちゃんなのだ。
素直に喜べず、泣き笑いのような表情でうなづいた。
やりとりをじっと見ていた晃が、気味の悪い笑みを浮かべている。
バッグからまた何か取り出した。
晃が持っている手帳と、まったく同じものだった。
「決意ができたなら、もって行くといい。今まで趣味で調べたものの写しだ」
「――ありがとう」
手帳を受け取り、眺める。
大きな蛾の模様。
擬似の目玉が、わたしを見詰めている。
「それでは、わたしはこれで。家まで送ろうか、由美? 」
レースをひきずり、晃が立ち上がった。
手帳を抱えたまま、沈黙するわたし。
二人に話を聞いてもらっても、まだ不安だった。
安定することのない感情の波が、寄せては返し。
心がざわめく。
「由美、よかったら今日泊まってく? 」
晴香の明るい声で、現実に引き戻された。
「い、いいの? 」
尋ね返しながら、安堵している自分がいる。
ふすまに手を掛けた晃が、その様子をじっと眺める。
「うん。ウチ布団なら腐るほどあるし。寝巻きも、わたしのでよければ。よかったら下着も貸すよー」
ただし紐パンだけどね、と見栄っ張りな冗談を言う。
ぺろっと舌を出しておどける晴香に、わたしもつられて笑った。
「じゃー決まりね。あ、晃、今日はありがとう。今度なんか美味しいものでもご馳走するよ」
晃は真黒な瞳で静かにこっちを見下ろしている。
晴香を手招きで呼んで、晃はふすまを閉めた。
薄い境界の向こうから、二人の声が聞こえる。
「なに? 食べ物じゃ不満? 」
「いくつか忠告がある。由美に使わせるのは、全部晴香の普段使いのものにするのだ。それと、由美が帰ったらそれらは全て捨てるように。風呂に入って、塩で体を洗うのも忘れるな。念入りにな。最後に、部屋で自分の好きな香りのアロマオイルを焚いておきたまえ」
「……なに、それ。感じ悪い」
「由美は助からんよ」
冷たい一言に、どき、と胸が鳴った。
手帳を握る手が汗ばむ。
助からない?
わたしが?
それってどういうこと?
ぐるぐると疑問が頭の中で渦巻く。
ふすまの向こうでは、晴香があからさまに不機嫌な声を出していた。
「ちょっと、やめてよ――友達でしょ? そんなひどいこと」
「友達だから言っているのだ」
抑揚のない晃の声に、残酷な笑いの色が滲んでいる。
きっと、あの青白い顔に薄気味悪いえくぼができているんだろう。
「……もう、いい。またね」
「わたしは忠告したぞ。さよならだ」
木の階段が軋む音が遠ざかり、引き戸の音が聞こえた。
ふすまが開き、晴香の顔がのぞく。
「じゃ、お客さん用の布団もってくるね! 」
無理矢理明るい声を出している。
晴香は晃の忠告に従わないみたいだ。
わたしは、どうする?
胸に抱えた手帳に眼を落とし、唇を噛む。
消えかかった蝋燭の炎に照らされて、部屋の奥のおしいれが揺れた気がした。
カタカタ、カタカタ、と。