人のつながり
意識が遠のいてから、どれくらい経っただろう。
気が付いたら、朝の光に照らされていた。雀の囀る音が聞こえる。
あまりにも静かな部屋の中で、わたしは茫然と天井を見詰めた。
蛍光灯の傘が、わずかに揺れている。
「……夢、だったの……? 」
だとしたらひどい夢、そう思って上半身を起こした。
居間へ続くふすまが開け放たれている。
ローテーブルの近くに、聡子ちゃんのボストンバッグが放り出されていた。
聡子ちゃんの姿は、ない。
また、先に出かけたんだろうか。
布団の上であぐらをかくと、右目をこする。
あんな夢を見たあとだからか、妙にまぶたがむくんで、見づらい。
「……? 」
右目をこすった手の甲を見て、わたしは目を見開いた。
血が、ついてる。
「まさか――」
あわてて洗面台の前へ走り、顔を確認する。
無機質な鏡の向こうには、生々しい傷を負ったわたしが居た。
右目から顎にかけて、細かい擦り傷がたくさんある。
どうして。
背筋に悪寒が走り、思わず体を両腕でぎゅっと抱きしめる。
悪夢のような戯事は、現実だった。
傷に塗りこむように付着した塩が、ぽろぽろと顔から落ちる。
彼女は、いったい何者なの?
冷や汗が首筋を伝う。
目覚まし時計のアラームが鳴って、わたしは我に返った。
「学校……行かなきゃ」
染みる擦り傷に触れないように顔を洗う。
救急箱から包帯を取り出して巻いてみたけど、上手くできなくてミイラみたいになった。
この格好で大学に行くのは気が重い。
けれど、家に居るのも怖かった。
床に座り込んで途方に暮れる。
こんなこと、誰に相談したらいいんだろう?
「……お父さん」
携帯電話で実家にかけてみるけど、誰も出ない。
そう今は一日で一番忙しいとき。お父さんもお母さんも電話に出れない。
八コール目に呼び出しが切れて、わたしの中の何かも切れた。
噛み締めた唇から嗚咽が漏れて、顔に巻いた包帯を涙がぬらす。
「やだよ、やだよ――。どうして誰も電話に出ないの」
涙が頬の傷に染みて、余計に悲しくなって。
そのまま泣きじゃくりそうになった。
頭の中に晴香の言葉がよみがえるまでは。
――もし、一人でなんともできなくなったら、いつでも電話してきていーよ。
カタカタ震える指で携帯電話のボタンを押す。
アドレス帳の中の、晴香の名前。
「お願い、出て――」
祈るように呟くわたしの耳に、聞きなれた声が携帯電話を通して聞こえた。
『もしもし、由美? どーしたのこんな朝早くに』
あくびの音が聞こえ、雑踏の音も聞こえる。
もう家を出ているみたいだ。
「晴香、あのね、……」
口を開いたけれど、何と言ったらいいかわからない。
昨日のあれは、本当にあったことなのか。
聡子ちゃんは、本当に聡子ちゃんなのか。
黙りこむわたしに、晴香は携帯電話の向こうで声のトーンを落とした。
『……何かあった? ちょっと待ってね、静かなとこ行くから』
「うん――」
雑踏の音が遠のき、衣擦れの音が聞こえた。どこかの壁にもたれかかったらしい。
『おっけー。で、どうしたの? 』
「……助けて、晴香――」
悩んだ末、口に出せたのはそれだけだった。
自分自身でも、うまく話をまとめられない。
だけど、たったそれだけで晴香は察したようだった。
重苦しい沈黙が続いている。
『由美、大学来れる? 詳しく話を聞かせて』
「顔に怪我しちゃって――人前には出たくないの。……でも、家に居るのも怖いし」
『家でなんか嫌なことが起こったんだね。待ってて、今から迎えにいく。わたしの家で話そう』
うん、と答える。
地下鉄乗るから電話切るね、と言って、通話が終わった。
それから数十分間、心細い気持ちで晴香を待ち続けた。
インターホンの音とともに晴香がやってきて、玄関扉を開ける。
わたしの姿を見て、晴香は一瞬ひるんだみたいだった。
「う、うわ……。由美、だいじょうぶ? 」
うなづくわたしに、晴香は険しい顔で家の中を覗きこんだ。
「ごめん、凹んでるとこ悪いんだけどきいてもいい? もしかして彼氏に殴られたりとかした? 」
「まさか。そもそも彼氏まだいないよ」
「じゃあ、あのバッグ誰の? 」
やっぱり晴香は鋭い。
あのボストンバッグが聡子ちゃんのものだと話すべきか否か、わたしはまだ迷っていた。
沈黙するわたしを見て、晴香は深入りせず扉から身を引く。
「おーけーわかった。誰にでも秘密のひとつや二つあるよね」
「――ごめん」
頭を下げると、結ぶのがゆるかったのか、包帯の端がほどけた。
細かな擦り傷だらけの右顔面を見て、晴香の表情が固まる。
「ゆ、由美――それ――」
わたしを指す手が震えている。もう隠し切れない。
目を伏せると、わたしは口を開いた。
「話したいことって、これなの。二日前から一緒に暮らしてる人がいるんだけど、その人の様子がおかしいの」
「おかしいって――具体的にどんな感じよ? 」
「……金縛りにあってるときに襲ってきたり、塩を部屋に撒いたり。目があったり、なかったり」
わたしの言葉に、晴香はボブカットの頭を抑えて後退りした。
「な、なんかオカルトチック。一応、相手は人間なんだよね? 」
「昼間は普通にしてるみたい。友達もたくさんいるし」
友達、と晴香が繰り返し、呆れ果てた表情をしている。
……晴香、信じてくれないのかな。
知らず知らず解けた包帯を握る手に力が入る。
友達に信じてもらえなかったら。
本当に一人ぼっちになってしまう。
見捨てないで、そう言いかける寸前。
晴香が決意した顔で携帯電話を取り出した。
「……電話? 」
「うん。晃に。あの子、確かこーいうことに詳しかったはず」
晃。その名前を聞いて、わたしも思い出した。
長い黒髪の女の子。最初はちゃんと講義に出ていたけれど、段々と姿を見せなくなった。
たまにメールを送るんだけど、返事がまともだったためしがない。
そんな子が電話に出るだろうか。
疑い半分で見詰めていると、晴香の顔が明るくなった。
二言三言交わして、晴香が携帯電話を閉じる。
「来てくれるって。わたしの家に直で行くみたいだから、わたし達も急ごう」
「う、うん」
急いで包帯を巻きなおし、晴香と一緒にエレベータへ向かう。
ボタンを押して待つわたし達の横で、排水パイプがカタカタと揺れていた。
風も、ないのに。
気が付いて、おもわず握り締めた家の鍵が、冷たく肌に食い込んだ。