夜の戯事
全ての講義が終わって、わたしはカフェテラスで聡子ちゃんを待っていた。
五月の陽は傾いて、空がきれいなバラ色に染まっている。
カラスが鳴いて、わたしは携帯電話を取り出した。
四時五十分。
溜息をついて携帯電話をしまおうとすると、メールの着信音がした。
「……聡子ちゃんからだ」
液晶画面をスライドさせてボタンを押す。
『改札の中で待ってるよ・』
「……文字化けしてるし」
いつのまに、大学から出ていたんだろう。
正門を見下ろす場所に立つテラスから、わたしは駅へ向かう学生達を眺めた。
じっと見ていたけど、聡子ちゃんらしき姿は見えなかった。
他の門から駅に向かったのかな。
「きっと、そうよ」
彼女にだって付き合いがあるし、サークルの友達と途中まで一緒だったのかも。
携帯電話片手に、わたしは席を立った。
先払いのレジを通り抜け、足早に駅へと向かう。
坂を下った駅の中で、聡子ちゃんは携帯電話をいじっていた。
握っていた携帯電話から、またメールの着信音がする。
それに気付いた聡子ちゃんが、携帯電話から顔を上げた。
「あ、由美ちゃん。ごめん、メールいっぱい送っちゃった」
「……聡子ちゃん、ちょっと話したいことがあるんだけど」
駆け寄ってきた聡子ちゃんが、首を傾げる。茶髪のショートカットが揺れて、さらさらと音をたてた。
「あのね、うちに泊まるの――」
「やだ、帰りたくない」
二言も喋り終わらないうちに、わたしの声は聡子ちゃんのそれに掻き消された。
眉根を寄せるわたしの前で、聡子ちゃんはTシャツの襟首をぎゅっと握っている。
白くて細い指が、カタカタと震えていた。
「帰りたくないの……」
「どうして? 」
尋ねるわたし。
沈黙する聡子ちゃん。
……彼女は何を恐れているんだろうか。
そう困惑していると。
突然、聡子ちゃんがわたしの胸に飛び込んできた。
「――? 」
「ニュースで報道されたアレ……わたしの家のすぐ近くのことなの。まだ報道されてないけど、もう何人も行方不明になってる。だからわたし、怖くて――帰りたくない」
「えっ……」
お昼に晴香が言っていたニュースの内容が、わたしの頭にフラッシュバックする。
箱に入ってみつかった、女子大生の遺体。
その近所に住んでいるという聡子ちゃん。
なるほど確かに、恐怖を感じて少しでも遠くに行きたくなるだろう。
でも……。
テレビクルーが取材にくる前から、彼女はこのことを知っていた?
胸元で泣きじゃくる聡子ちゃんの頭を撫でて、わたしは事件に思いを馳せた。
女の子が泣いてるのが珍しいのか、皆こっちを見ながら改札を通っていく。
霞がかかったように、うまく考えが纏められない。
ここじゃだめだ。家に帰ろう。
さらさらの髪を撫でながら、わたしは聡子ちゃんの顔を覗き込んだ。
こんな風に泣かれちゃ、追い返すこともできないし。
「ごめんね、そんな事情があったなんて知らなかったから。さ、帰ろっか」
「――うん」
しゃくりあげていた聡子ちゃんは、ぱったり泣くのを止めて一直線に改札に向かった。
……嘘泣き?
思わず疑惑が胸に渦巻く。
でも、涙も出てて、目腫れてたし……。
「由美ちゃーん! はやくはやくー」
けろっとした様子で聡子ちゃんは手を振っている。
周りの視線を痛いほど浴びながら、わたしは急いで改札に定期をかざした。
地下鉄を降りて、駅から歩いて数分。
アパートに着くと、前に白いワゴン車が停まっていた。
エレベータのほうから金属の擦れあう音が聞こえてくる。どうやら修理の人みたいだ。
「エレベータ、直るのいつだっけ? 」
「明日には使えるようになる、はず」
すっかり目の腫れがひいた聡子ちゃんの問いに、素っ気無い返事をする。
階段を上って、玄関の鍵を開けて。
今日も排水パイプがカタカタいっている。
「はい、どうぞ」
「おじゃましまーす」
勢いよく靴を脱ぎ、聡子ちゃんが家の中へ入っていく。
後ろで靴を並べ、わたしも中へ入った。
その後はまた夕食を作って、二人で食べて。
かわりばんこにお風呂に入って。
今日は何も起こらない。
わたしが、気にしすぎなんだろうか。
「わーパンダかわいいー」
テレビを見ながら笑い声を上げる聡子ちゃんを、布団に寝転び横目で盗み見る。
時計の針は十一時を差している。
……そろそろ、眠いな。
枕元の目覚まし時計から教科書に眼を戻し、枕に顔をうずめる。
聡子ちゃんはずっとテレビを見ていて、眠る気配をちっとも見せない。
バラエティ番組が終わり、夜のニュース番組が始まった。あのニュースが流れている。
被害者の子は、何も所持していない上に顔が削られていたため、まだ身元がわからないようだ。
どうやら、握っていたファイルの破片で大学生だと判ったらしい。
テロップに流れたのは、わたし達が通う大学の名だった。
「……」
さっきまではしゃいでいた聡子ちゃんは、急に無口になっている。
俯いたかと思うと、無言でチャンネルを変えた。
彼女が言うことが本当だとすれば、無理もないだろう。
近所の、それも同じ大学に通う女の子。
その子がこんな気持ち悪い事件に巻き込まれて、死んでしまうなんて。
掛ける言葉が見つからずに沈黙する。
青白いテレビの光に照らされた聡子ちゃんの顔は、目の下にうっすらとクマができていた。
「聡子ちゃん、寝ないの? 」
尋ねるわたしに、聡子ちゃんは小さく首を横に振る。
「……先、寝るね」
南の部屋の電気を消して、ふすまを閉じる。
閉まる寸前に見えた聡子ちゃんの背中は、なんだか妙に丸まっていた。
目が覚めたのは、息苦しかったから。
「……? 」
苦しくなって開いた両目に映ったのは、灰色の壁と畳だった。
金縛りだ。
生まれて初めての体験に、わたしの体はますます強張った。
目以外、動かせない。
寝相が悪かったのか、視界の端には押入れが映っている。
そこから伸びる白い線を見て、わたしは目をみはった。
塩の筋が、星明かりを浴びてきらきらと輝いている。
どうして、また。
目をぐるぐると動かして、わたしは必死にふすまを見ようとした。
聡子ちゃんがやったんだろうか? 何のために?
けれどどんなに頑張っても、真後ろにあるふすまを見ることはできない。
嫌な汗がいっぱい出て、息が苦しい。
小さな音がする。どこから?
塩の線を追って、わたしの視線が押入れに吸い込まれていく。
ぴったり閉めたはずの押入れが、指一本分だけ開いていた。
カタカタ、カタカタ。
カタカタ、カタカタ。
押入れが揺れている。
「……! ……! 」
叫ぼうとしたけど、声にならなかった。
ただ引き攣った音が喉からひゅうひゅうと漏れるだけ。
苦しい。
息が吸えなくて目を見開くわたしの首に、誰かの手が触れた。
「――由美ちゃん」
ひやりとした指先が、わたしの首筋を撫で上げる。
この声は聡子ちゃんだ。でもどうして?
わたしが混乱しているうちに、冷たい手が体の向きを変えた。
ぐったりした頭がひっぱられ、視界に天井が映る。
そして、聡子ちゃんの姿も。
「……」
暗がりの中、聡子ちゃんの顔はよく見えなかった。
無言でわたしを見下ろしている。
その姿はどうにも生気を感じられない。
……何を考えているの、わたしは。
激しく脈打つ心臓に、自分自身をなだめる。
きっと、わたしが金縛りにあってることに気付いて、なんとかしようとしてくれてるんだ。
だってほら、手を伸ばして……。
わたしの両脇に、聡子ちゃんの細い手が伸びる。
ふとんが押さえられ、余計に息苦しくなった。
「由美ちゃん」
聡子ちゃんがまた、わたしの名前を呼んだ。
なんか変だ。
どう考えても様子がおかしい。
わたしの上に、聡子ちゃんの足が乗る。まるで馬乗り。
その間も、押入れの音は止まらない。
カタカタ、カタカタ。
カタカタ、カタカタ。
「ふふふ……由美ちゃん……あのね」
聡子ちゃんの手が、わたしの両頬を覆う。
じゃり、と、音がした。塩だ。
じっとりとした嫌な汗が体中から噴き出す。
そのまま、聡子ちゃんはわたしの頭を持ち上げた。
ますます息が苦しくなる。
ひゅうひゅうと息吐くわたしに、聡子ちゃんが顔を近づける。
ゆっくりと、でも止まることなく。
前髪が触れ合ってもまだ近付いてくる。
鼻と鼻が触れた。
覗きこんだ聡子ちゃんの目は、笑いの形をしているただの穴だった。
「……! 」
どくん、と心臓が鳴り、呼吸ができるようになる。金縛りが解けた?
「由美ちゃん……」
わたしの名前を囁いて、聡子ちゃんが唇を近付けてくる。
薄紅色の唇からのぞく、赤黒い舌。
「い、いやっ――! 」
来ないで、と言いかけたわたしの顔に、聡子ちゃんの唇が触れた。
ぞわり、と背の毛が総立ちになる。
薄紅色の唇は、氷のように冷たかった。
ただ、赤黒い舌だけが炎のように熱く。
わたしの頬を舐め上げていく。
「――っ! ――っ! 」
溢れる涙の筋を辿り、聡子ちゃんの舌がわたしの眼球を舐めた。
必死で抵抗しているのに、全然動けない。
押入れから聞こえる音が、いっそう大きく聞こえる。
ぬるぬると熱い舌が右目を嬲り、そして離れた。
歪んだ視界に、糸引く舌を口に仕舞う様子が映る。
「由美ちゃん、約束だよ……」
震えるわたしの喉に爪を立て、聡子ちゃんが囁いた。
「……おしいれの――」
カタカタ、カタカタ。
「……だめだよ……? 」
カタカタ、カタカタ。
自分が震えているのか、押入れが揺れているのか。
もうわからなくなっていた。
ただただ、目の前の恐怖に打ち震えて。
灰色の世界に、閉じ込められていた。