晴香の忠告
地下鉄に揺られ、坂をのぼり。
五月の陽光に照らされた大学で、わたしは空き時間を潰していた。
今日は二時限目からしか講義がない。
大学内のカフェテラスで教科書を読み、晴香が来るのを待つ。
今日も大学内は人でいっぱいだ。
昨日あれほど不安だった気持ちも、人に囲まれると薄れてきた。
空き時間をそれぞれに過ごす学生達を眺めるわたし。
ひときわ大きな笑い声に、ふと視線が向かう。
聡子ちゃんだ。
「あ……」
手を振りかけて、途中でやめた。
聡子ちゃんはわたしの知らない人に囲まれて、楽しそうに笑っている。
サークルの仲間なのかな。
「よっ、由美。おはよー」
聞きなれた声に、わたしは我に返った。晴香だ。
振り返りかけるわたしの顔を、晴香がのぞきこむ。
「どしたの? ぼーっとしちゃって。空でも見てた? 」
黒のボブに銀縁のめがね。晴香は今日も元気そうだ。
生返事をするわたしの肩ごしに、晴香が向こうの景色を眺める。
そして聡子ちゃんに気が付き、名前を呼んだ。聡子ちゃんも手を振って微笑んでいる。
「あ、そろそろ講義始まるよ。行こ、由美」
またねー、と晴香が手を振り、わたしたちは講義室へ向かった。
長い講義の後のお昼休み。
少し肌寒いけど、天気がいいからお昼は外で食べることになった。
自作の弁当を頬張る晴香。わたしの手にはサンドイッチ。
「――由美。なんか元気ないね? 」
晴香はいつも鋭い。
「うん……。ちょっと困ったことがあって」
「え? 何々? 言ってみ」
「うーん……」
聡子ちゃんは晴香の友達だし、昨日のことをそのまま話すのは、ちょっと抵抗があった。
少し考えた後に、わたしは晴香に尋ねる。
「晴香はさ、誰かが急に一週間泊めてって言ったら、どうする? 」
もちろん内容はぼかして。
わたしの質問に、晴香は眉根を寄せて変な顔をした。
「え、断るけど。普通に。だってウチ汚いもん」
「だよね……」
断りきれずに流されてしまった自分が情けない。
しらずしらず、顔がうつむいていく。
晴香がそれをのぞきこみ、銀縁のめがねを指で押し上げた。
「もしかして、由美、変な人に絡まれてる? 何かあったら、ちゃんとわたしに言いなさいよ? 」
「うん」
「うん、って軽いなぁー。ひとり暮らしなんだからね? もしものことがあっても、ご両親はすぐ来てくれないぞ? 」
ちょっとふざけた口調で、晴香が人差し指をふった。
冗談に笑いきれず、微妙な表情になる。
それを見て、晴香は肩をすくめた。
「――ま、由美のことだから、大事に至る前に自分でなんとかできるよね。……もし、一人でなんともできなくなったら、いつでも電話してきていーよ。わたし夜型だから、三時とか四時でも起きてるし」
だから昼間は眠いんだけどねー、と、晴香が大きなあくびをした。
そのままお弁当を食べ始める晴香の前で、わたしはきっと暗い表情をしていただろう。
爽やかな五月の陽光とは反対に、わたしの心にはまた不安の闇が押し寄せてきていた。
断る……。
そう、断るのもいいかもしれない。
聡子ちゃんには悪いけど、この不気味な感情の揺らぎを抱えたままじゃ、まともに生活もできない。
だから今日の帰り道、事情を話して帰ってもらおう。
「あ、そういえばさー、今朝のニュース見た? 女子大生が箱に入れられて死体で見つかったんだって。けっこー大学の近所だったよ。怖いよねー、わたしたちも気をつけなくっちゃ」
晴香がのんきな声で不気味なことを言っている。
けれど、それはわたしの耳にほとんど入ってこなかった。
頭の中は、ひとつのことでいっぱい。
晴香ちゃんに帰ってもらう。
不思議と、そう考えるだけで、不安定な気分が落ち着いていく。
それから放課後までずっと、わたしはうわのそらだった。