白の線
妙な物音の元を確認して、わたしは家に帰った。
玄関扉がちょっとさびついた音を立てて閉まる。
ふっと目を上げると、台所にバスタオルを巻いた聡子ちゃんが立っていた。
「あ、もうちょっとで晩ごはんできるから――」
声をかけようとしたわたしは、言葉を飲み込み口を噤む。
まだ湯気の立つ聡子ちゃんの白い腕に、調味入れが抱かれていた。
四角い調味入れの中に聡子ちゃんの手が伸び、白い粉をつまむ。
塩だ。
ぼんやりとそう認識する。
塩を摘んだ聡子ちゃんの指は、そのまま口元へ。
ぺろり、と、聡子ちゃんは塩を舐めた。
薄紅色の唇には、白い結晶がたくさんついている。
調味入れの中身は、かなり減っていた。
「聡子ちゃん……何してるの? 」
おそるおそる声をかける。
わたしに気付いた聡子ちゃんは、調味入れを棚に戻した。
「……うん、なんでもないよー」
蛇口を捻り、聡子ちゃんが手を洗う。
「ほら、塩分補給? お風呂で汗いっぱいかいたから」
にこにこと微笑みながら、聡子ちゃんが手を洗う。
塩はとっくに落ちている。
何か変だ。
もやもやした気持ちで立ち尽くしていると、インターホンが鳴った。
こんな時間に誰だろう。
玄関の覗き窓から外を見ると、近所の中華飯店の人が立っていた。
「あのー、宅配なんですけど。ラーメンセット頼んだ方ですよね」
分厚い鉄のドア越しに、男の人の声。足元には見慣れた鉄製の箱。
でも、頼んだ覚えは無い。
「……聡子ちゃん、もしかしてラーメン頼んだ? 」
台所を振り返ると、聡子ちゃんはもういなかった。
南の部屋に居ても、声は聞こえるはずだ。
返事を待ったけど、何も聞こえなかった。
中華飯店の店員さんは、じれったそうに玄関扉の前で腕を組んでいる。
「うちは頼んでいないんですけど」
「え? でも、ここグリーンハイツの五〇一号室ですよね? 」
店員さんが、胸ポケットからメモを取り出して読み上げた。
住所は合ってる。
どうしようかと戸惑っていたそのとき、隣の玄関扉が開く音がした。
「あ、すいませーん。ラーメン頼んだの俺です」
号数間違えちゃって、と隣の人が言い訳をしている。
なんだ、隣の人が頼んだのか。
覗き窓の向こうから店員さんの姿が消え、隣の人に注文の品を渡す音が聞こえた。
隣に住んでいるのが男の人だというのは知ってた。
けど、いつもいないから、声を聞くのは初めてだった。
胸を撫で下ろして台所へ戻ると、レトルトパックを湯煎する。
炊飯器の音が、ご飯の炊けたことを知らせてくれる。
簡単な料理をつくって、それを聡子ちゃんと食べて。
ぬるくなったお風呂に入って、南の部屋に戻ると。
「……? 」
布団を敷いた畳の上に、細くて白い線が一本。
見慣れない線を、目が追う。
押入れのほうから、白い線が延びていた。
「なに、これ……」
しゃがみこんで近くで見ると、それは塩だった。
聡子ちゃんは居間でテレビを見ている。
「ねぇ、これ聡子ちゃんがしたの? 」
居間を振り返って尋ねるけれど、返事は聞こえない。
何か変なことする子、だなぁ。
掃除機を出して塩を片付けると、わたしは電気を消して布団にもぐりこんだ。
ふすまから漏れる居間の光が、妙に青白かった。
次の日。
すずめのさえずりで目を覚ますと、聡子ちゃんはいなかった。
ただ、食卓代わりのローテーブルの上に、一枚の白い紙。
『サークルの活動があるから、先大学行ってるね。夜は一緒に帰ろ』
五月の透き通った光と、寝ぼけた頭で。
置手紙の内容はどうにも非現実的だった。