箱の中から
ちかちかと点滅する蛍光灯に照らされて。
わたしは畳の上で固まっていた。
――今、確かに押入れの開く音が聞こえた。
気のせいかもしれない。
気のせいだと思いたい。
ほんの少し首を右に動かせば確かめられることなのに、どうしてもできない。
家全体が、小刻みに鳴っている。
カタカタ、カタカタ。
カタカタ、ガタガタ。
それに自分の歯が震えて立てる音が重なって。
眼だけがぐるぐると天井を回り。
「あ、あ……」
人としての思考を放棄しそうになったその時。
「えいっ」
わたしの視界に白い粒が舞った。
見開いた目の中に、塩の粒が落ちる。
「えいっ。えいっ。えいっ」
傷の入ったCDのように、聡子ちゃんが全く同じ掛け声を上げて塩を撒いている。
その先にわたしがいることなど、お構い無しに。
塩が染みて目を閉じたわたしの耳に、何かの物音が聞こえた。
畳に爪を立て、重い物体を引き摺るような音。
生暖かい息が、わたしを取り巻く空気を揺らしている。
『由美は助からんよ』
頭の中で、晃の声が再生された。
物音はどんどん近付いて、荒い息もはっきり聞き取れる。
嫌。こんなところで死ぬなんて。
何かが腕に触れて、絶望したその時。
ひゅんと空気を切る音がして、何かは畳の上を転がった。
この世のものとは思えない呻き声を上げて、何かはのたうちまわっている。
聡子ちゃんの足音と、何かが引き摺られる音。
押入れがぴしゃりと閉められた。
はぁはぁと、聡子ちゃんの息遣いが聞こえる。
恐る恐る目を開くと、聡子ちゃんが押入れのふすまをしっかり押さえていた。
隙間から、何か黒い長いものがはみ出ている。
「さ、聡子ちゃん……? 」
「どうして出てくるの――ちゃんと閉じ込めたのに――。どうしてついてくるの――? 」
濡れた髪を振り乱し、聡子ちゃんは押入れを睨んでいた。
いったい、どういうこと?
わけがわからない。
乱れる感情の原因は。
屋鳴りの原因は。
壁や天井から染み出てくるものの原因は。
聡子ちゃんそのものではなくて。
聡子ちゃんについてきているもの?
カタカタと鳴り続ける押入れ。
それを見詰めるわたしの背後、聡子ちゃんのボストンバッグから微かな物音が聞こえた。
聡子ちゃんは押入れに夢中で気付いていない。
そっと振り返ると、ボストンバッグが動いている。
「な、何……」
バッグ自体が動いているのではなく。
中に何かが入っている。
聡子ちゃんの様子を盗み見ながら、震える手でボストンバッグを開ける。
鼻の曲がるような生臭い匂い。
きつく結ばれたビニール袋の中には、既に腐敗し始めている薄い何か。
そして、濁った二つの球体。
それらが、炭と一緒にバッグに詰められていた。
「これは……」
手の中で蠢くものたちを見つめて。
頭の中で何かが繋がった。
晴香から聞いたニュース。
絶対に家に帰ろうとしない聡子ちゃん。
箱に入れられて見つかった女子大生の死体。
削り取られた顔。
わたしの顔の傷。
聡子ちゃんが塩を撒く意味。
事件現場の近くに住んでいると言った。
もう何人も行方不明だと言った。
そしてさっき、『閉じ込めたのに』と言った。『ついてくる』と言った。
ビニール袋が破れ、蠢く中身が一直線に聡子ちゃんのもとへ這っていく。
球体がころころと転がっていく。
それを追うように、わたしは聡子ちゃんを見た。
押入れの中の何かを押さえつける、華奢な殺人鬼を。
カタカタ、カタカタ、と、押入れが鳴っている。
聡子ちゃんはそれに気を取られて、わたしが近付いていることに気付かない。
「……」
足元に落ちていた炒飯皿を拾う。
揺れる感情の波は最高潮に達して、今にも心臓がはじけそうだった。
この音は、北の部屋の染みやお風呂場の液体は、全てサインだったんだ。
彼女に殺された誰かからの。
躊躇うつもりはなかった。
彼女はわたしも殺そうとしたんだ。
頬の傷がずきずきと痛む。
「うっ」
無言で振り下ろした皿が彼女の左側頭部に当たり、呻き声が上がった。
押入れを押さえていた手で頭を押さえている。
白い指の間から、赤い液体が流れた。
押入れが内側から開き、よくわからないもやのようなものがこっちに伸びてくる。
「な、なにするの。由美ちゃんひどい……」
することは分かっていた。
半分ほど開いた押入れへ、抵抗する聡子ちゃんを押し込む。
細い足をじたばたと動かしていたけれど、頭に怪我をしたせいか、簡単に押さえ込めた。
「やめて! いや! 放してってば! 」
いつの間にか、立場が逆転していた。
怯えるのは彼女、追い込むのはわたし。
泣き叫ぶ彼女を見て少し罪悪感が湧いたけれど。
そんなものはここ数日の間に積み重なった怒りで消されてしまった。
ほんとに、ずうずうしい。
自分がしたことから逃げるために、わざわざわたしのところまでやってくるなんて。
その上、わたしを殺そうとまでしていた。
「開けて! はやく開けてよ! ねぇ、ここから出して! 」
ぴったりと閉めた押入れを、彼女が内側から叩いている。
やがて真っ暗な押入れの中から悲鳴が上がり、何も聞こえなくなった。
家鳴りもおさまって。
わたし以外誰もいない家は、しんと静まり返った。
「……」
沈黙した押入れを見詰め、そっと手を放す。
何も起こらない。
机の上で、わたしの携帯電話が鳴った。
「――! 」
びくんと体が震え、携帯電話まで走る。
液晶画面にはお父さんの名前が出ていた。
「も、もしもし――」
『おう由美か。元気にしてるか? 昨日の朝電話したようだけど、急ぎの用事でもあったのか』
電話の向こうでは、ラジオの音。
仕事の帰りに、路肩に停車して電話しているらしい。
昔から変わらない音に、張り詰めていた何かが緩んだ。
「お、お父さん、あのね……」
喉から嗚咽が上がり、ぽろぽろと涙が零れた。
涙を拭こうとした手が、生臭い。
電話の向こうでは、お父さんが驚いた声を出している。
『どうした? 何かあったんだな? 』
そう。
人殺しがやってきて。
殺されそうになった。
止め処なく溢れる涙が喉を締め付けて、うまく声が出せない。
ただ泣きじゃくるばかりのわたしに、お父さんもただならぬ雰囲気を感じ取ったみたいだった。
『大学でうまくいってないのか? 』
「……ううん」
『何か怖い目にあったのか? 』
「……うん」
『なんだって? ……ちゃんと警察に相談したか? 』
「ううん……友達には相談したの」
『最近、由美の大学の近くで変な事件があったじゃないか。危ないことがあったら、すぐ警察に――』
「そのことで、困ってるの……」
お父さんが沈黙する。
困惑して押し黙っている様子が目に浮かぶ。
うーむ、とうなる声が聞こえた。
『――待ってろ、父さん今から高速乗ってそっちに行くから。二時間ぐらいかかるけど、家で待ってるんだぞ。しっかり戸締りして、父さん以外の人が来ても応対しちゃいかんぞ』
「……わかった」
通話が終わり、再び静寂が訪れた。
さっきとは違った静けさ。
お父さんが来てくれると言っただけで、大分気持ちが落ち着いた。
安堵で胸を撫で下ろすと、わたしはそっとテレビの電源を入れた。