線の意味
いつもと反対方向の地下鉄に乗って。
郊外の大きなショッピングセンターで、わたしはあるものを買いあさっていた。
晃からもらった手帳には、いろいろなことが書いてあった。
……でも、どれも眉唾もの。
手帳の最後には、おそらくわたしに向けられた一文が添えてあった。
『こんなものに頼るぐらいなら、自分で解決法を調べたまえ。君の頭は何が入っている? 君の家にある箱は何に使うもの? 』
箱というのは多分、パソコンのことだろう。
前にわたしのパソコンがウィルス感染したとき、相談したのを覚えていたんだ。
メモの通りパソコンで調べてみたけど、出てくるサイトはどれも怪しいものばかり。
――結局、自分で何とかするしかなさそうだ。
有効そうな対策をいくつか手帳にメモして。
かさぶたになった怪我にファンデーションを塗りたくり。
これで準備万全だ。
こうして、わたしは必要なものを買うために遠くのショッピングセンターまで足を運んだ。
「これと、これと、……それとあれも」
ひとつひとつ商品を確認しながら、買い物籠の中へ入れる。
ニンニク、榊、アルコール度数の高いお酒。
幾何学的な模様のテーブルクロス。
朱色の絵の具。
これで全て揃った。
思わずほころぶ顔を見て、店員さんは不思議そうな顔でレジを打っている。
エスカレータ横の柱時計は、もう午後三時を示していた。
あとは、家に帰って準備をするだけ。
追加で買った二㎏の塩の袋を抱いて、わたしはほくそ笑んだ。
家に帰って、全ての仕度を整えて。
ローテーブルの前に座ってテレビを見ていると、七時のニュースが始まった。
ここ数日のニュースやワイドショーは、あの残酷な事件のことで持ちきりだ。
けれどどんなにマスコミが騒ごうとも、事件は少しの進展も見せなかった。
立ち入り禁止の黄色いテープが張られたアスファルトを、テレビカメラが映している。
事件のあらましをカメラ前のキャスターが読み上げ、何の意味もない中継は終わった。
「……」
新しく張り替えたテーブルクロスに肘を突き、ぼーっとテレビを眺める。
インターホンの音が聞こえた。
「はーい」
立ち上がるよりもはやく、玄関扉の鍵が開く。
「ただいまー。へへ、合鍵作っちゃった」
聡子ちゃんが、にこにこしながら勝手に上がってきた。
非常識な告白に、眉根が寄る。
その耳に、聞きなれた名前が入った。
『――るさん十八歳のものと思われる鞄と血痕が見つかり、周辺の捜索を続けています』
「えっ? 」
振り返って画面に喰らいついたけれど、もう次のニュースに移っていた。
「今……晃って言った? 」
嫌な予感がして一人呟くわたし。
背後で、聡子ちゃんが近付く足音がする。
「晃って、もしかして斉藤晃ちゃん? うちの近所から大学通ってる――」
そう、その晃だ。でも、まさか――。
ほんの十数時間前は三人で話していたのに。
沈黙するわたしの横に、聡子ちゃんが腰を下ろす。
「わー、今日の料理すごく凝ってるね。おいしそう」
こんなに気合いれちゃってどうしたの? と尋ねる聡子ちゃん。
それを横目で見て、わたしは隠し持つ手帳を握りしめた。
気合を入れるも何も、これは全て聡子ちゃんのために作ったものだ。
彼女を、追い出すための。
古今東西様々な怪異が嫌う食べ物満載のメニュー。
一品づつに、すぐそれとわかるように混ぜ込んである。
「おいしー! やっぱり由美ちゃんのところに泊まりにきて正解だったー」
なのに、聡子ちゃんは料理を全て平らげてしまった。
「……そ、そう」
「あ、テーブルクロス変えたね。わたしこーいう柄好きなんだ」
幾何学模様のテーブルクロスを指し、聡子ちゃんが言う。
その手首には、十字架のブレスレット。
彼女は西洋系の怪異ではないようだ。
作っているような明るい態度に嫌気が差して、次の手段に移る。
「聡子ちゃん、おまじないって好き? 」
尋ねるわたしに、聡子ちゃんは首を傾げる。
「好き、だけど……。由美ちゃんも好きなの? てっきり、そういうことに興味ないタイプだと思ってた
」
「今日面白いおまじない教えてもらったから。あのね、例えばこんな紙に名前を書いて――」
買い物袋から色々な言葉が書いてある紙を取り出し、ボールペンで字を書く。
聡子ちゃんもやってみる? と尋ねると、何の警戒も無く同じようにした。
……変化は見られない。
「ね、これ何のおまじない? わたしね、バイト先の先輩に告白するつもりなんだ。恋愛のおまじない教えてほしいなー」
何も知らずににこにこと、聡子ちゃんは名前を書いた紙を振っている。
デザートのパンナコッタに混ぜたお酒に酔ったのか、聡子ちゃんの頬はほんのり桜色だ。
八時半を指す時計を見て、無理矢理話題を変えてみる。
「……また今度ね。それより、お風呂もういれてあるよ」
「ほんと? なんかちょっと汗かいてきちゃったから、先お湯もらうね」
ふらふらと千鳥足になりながら、聡子ちゃんは風呂場へ向かった。
唯一効果が出ているのはお酒だけど、果たして――。
聡子ちゃんが本当に人じゃない何かなのか、単にお酒に弱いだけなのか。
どうにも判断つきかねる。
風呂場からは、下手な鼻歌が聞こえてくる。
榊を飾ったのも、聖別した精製油のお風呂も、効いてないみたいだ。
「……」
聡子ちゃんがお風呂に夢中なのを確認して、わたしは北側の部屋に向かった。
ドアを開けた向こうには、朝よりさらに広がった壁の染みが。
そして小さな物音が。
カタカタ、カタカタ。
カタカタ、カタカタ。
「――っ」
気付くと、壁を拳で叩いていた。
手の痛みに気付いてはっとする。
その耳に、大きな物音が聞こえた。
「え? 」
ガタン、という音。
思わず身を竦めるわたしの耳に、お風呂場が開く音が聞こえる。
「大丈夫? 今の音何? 」
タオルも巻かずに、聡子ちゃんがお風呂場から走り出てきた。
「何も……。ちょっと部屋の片付けしようかと思って」
弁解するわたしの前で、聡子ちゃんは細い首を傾げている。
その足元に、水溜りがどんどん広がっていく。
眉間にシワが寄っていたのか、わたしの顔を見た聡子ちゃんは慌ててタオルを取りに戻った。
下着もつけずに水溜りを拭く聡子ちゃん。
その無頓着で無防備な姿が気味悪くて、わたしは逃げるように北側の部屋から出た。
「……わたしもお風呂入るね」
「うん、わかったー。床濡らしちゃってごめんね」
一直線にお風呂場へ向かう耳に、すこし物音が聞こえた。
多分、聡子ちゃんが何かを動かしてるんだろう。
あの部屋には食器とかもあるから、あんまり荷物を動かさないでほしいのに。
そう思いながら、服を脱ぎ捨ててお風呂に入る。
精製油の良い匂いが、お風呂場中に満ちていた。
ちゃぷん、とお湯に漬かり、物思いに耽る。
食べ物も、図形も、植物も香油も御札も効かなかった。
ということは、聡子ちゃんは普通の人間?
そう結論付けるしかなかった。
たとえ一昨日の出来事の説明がつかなくても。
「ちょっと頭にくるとこもあるけど、普通の子。かぁ……」
半分ほどに減ったお湯の中で足を動かし、天井を見上げる。
じわりと赤い液が染み出しているのを見つけ、肩が強張った。
「……な、なに? 」
赤くて液状のものと言ったら。
でもそうだと思いたくない。
ユニットバス特有の天井の継ぎ目から染み出る液体をみつめたまま、お湯から出る。
赤い液体は、天井についた水滴に混じってお風呂の中に滴った。
絵の具を溶かしたように、お湯の中に赤い線が細く広がっていく。
「もしかして――入る前から混ざってた? 」
ぽたぽたと垂れる雫を見詰め、一人呟いた。
すぅっと背筋が寒くなり、慌ててシャワーを浴びる。
急いで着替えて居間に戻ると、聡子ちゃんはテレビを見ていた。
「……ねぇ、聡子ちゃん。お風呂場のことなんだけど……」
体育座りでテレビを見詰める聡子ちゃんに、声をかける。
くるっと首だけこちらを向いて、眼と眼が合った。
「うん? 今日はお風呂もいい匂いしたね。もしかして誕生日だった? わたし何かプレゼント買ったほうがよかったかな」
上気して桃色になった頬で微笑み、聡子ちゃんがそう言った。
……彼女は赤い液体に気付かなかったのだろうか?
困惑してその場に立ち尽くしていると、インターホンが鳴った。
中華飯店の人の声がする。また、部屋の番号を間違えてるのかな。
玄関扉に向かうわたしを、聡子ちゃんが追い越していった。
「あ、わたしが頼んだの。ごはん美味しかったけど、ちょっと足りなかったから――」
財布を片手に、聡子ちゃんが説明する。
確かに、晩御飯は品数が多いわりに総量は少なかった。
玄関では聡子ちゃんと店員さんが何かもめている。
「あれ? わたしが頼んだのは肉ラーメンCセットですよ」
「えっ……しまった。すみません、隣の人に間違って渡しちゃったみたいなんで。新しく作るんで、もう三十分ぐらい時間いただけますか」
「ええー、もう待てないですよー。ていうか隣の人に渡したんなら、こっちのセットと交換してもらえば万事解決じゃありません? 」
「いやもう食べ始めちゃってるかと……」
「訊いてみなきゃわかんないですよぉー。一緒に行きましょう! ね? 」
どうやら店員さんが渡す品を間違えてしまったようだ。
聡子ちゃんと二人で騒ぎながら、玄関を出て行く。
閉まった扉の向こうから、今度は三人で揉める声が聞こえてきた。
野次馬根性が頭をもたげてくるけど、ぐっと我慢する。
「そうだ、布団敷こう」
煌びやかな画面を映すテレビの電源を落とし、南の和室へ向かう。
「――! 」
そこで、視界に映ったのは。
またしても白い塩の線だった。
「もう、何なのよ――」
畳に膝をつき、塩の線を指で触る。ざらざらした感触が一昨日の悪夢を呼び起こし、肌が粟立った。
さっき食事をしていたときは、何もなかった。
わたしがお風呂に入っている間、あの十数分間に――。
聡子ちゃんが――。
何のために?
伸びる塩の線の先を眼が追う。
蛍光灯の光を浴びて白く輝くその行く先は。
僅かに開いた押入れへ。
「……」
耳に聞こえてくる聡子ちゃんの声が、やけに遠く感じた。
ふらふらと火に誘われる蛾のように、押入れへ近付く。
引き手に手を掛け、躊躇する。
この先に、何かがあるのだろうか?
緊張か恐怖か。
わたしの手は震えていた。
振動が引き手に伝わり、押入れのふすまを揺らす。
カタカタ、カタカタ。
塩の粒が跳ねて転がる。
「由美ちゃん、」
「……っ! 」
肩を叩かれて、全身がびくんと痙攣した。
炒飯皿を片手に、聡子ちゃんが肩に触れている。
「……あ、戻ってきたんだ。ちゃんと頼んだもの受け取れたの? 」
限界まで首を回して、やっと聡子ちゃんの頭が見えるぐらいの場所。
そう、ほとんど死角に、聡子ちゃんは立っていた。
足音が聞こえなかったのは、気のせい?
わたしの問い掛けに、聡子ちゃんは沈黙している。
「聡子ちゃん? 」
「由美ちゃん、約束したよね」
肩に触れた聡子ちゃんの手に、力が入る。
すす……と、畳の上を一歩進む音。
「おしいれの中、見ちゃだめって言ったよね? 」
ゴトン、と何かが落ちる音がした。
震える視界の端に、散らばった炒飯が見える。
おしいれの中、見ちゃだめ?
そんなこといつ言われたっけ?
混乱する間にも、聡子ちゃんの手はわたしの肩に食い込んでいく。
「い、痛い……」
「由美ちゃんはダメだなぁ、こんな簡単な約束守れないなんて」
囁くように小さな聡子ちゃんの声は、震えていた。
笑っている。
必死に笑いを堪えているんだ。
「聡子ちゃん、どうし――」
急に突き飛ばされて、言葉が途切れた。
いきなり態度を豹変させた聡子ちゃんは、薄ら笑いを浮かべている。
「由美ちゃんでしょ? 塩を片付けちゃったの。ぴったり閉めたおしいれを開けたの。だめだよ、おしいれはちゃんと閉じてないと」
にこにこと笑いながら、でも死んだような目で、聡子ちゃんが近付いてくる。
炒飯皿を拾い上げるのを見て、わたしの頭の中で警報が鳴った。
逃げなきゃ。
殺されてしまう。
「うふふ、由美ちゃん……ふふふふふ」
だけど、体が震えて力が入らない。
指一本動かせない。
じりじり近付いてくる聡子ちゃんの唇が動いているけれど、声が小さすぎて何を言っているかわからない。
「な、なんで――ここはわたしの家なのに――。押入れなんていつでも中を見てるのに――」
畳を引掻き、腕の力だけで後ろへ逃げた。
塩の線を指が掻き消し、散らせる。
後退りする背中に、押入れのふすまが当たる。
震えるわたしに合わせて、ふすまが鳴った。
カタカタ、カタカタ。
聡子ちゃんの顔から笑みが消える。
「由美ちゃんが余計なことするから――」
暗い眼がわたしを見詰めている。
空洞なんかじゃなく、生きた人間の視線。
気味の悪い舐めるような視線。
聡子ちゃんの細い手が伸びて、わたしの足首を掴んだ。
「ひっ――」
口から漏れる悲鳴に、聡子ちゃんは両目を細めて笑った。
聡子ちゃんの手が炒飯皿から離れ、足に伸びてくる。
もう片方の足首も掴まれて、ずるずると部屋の真ん中へ引き摺られた。
視界が揺れて一方向に定まらない。
「どうして、約束守れないかなぁ? おしいれを開けちゃうのかなぁー? 」
握られた足首がぎしぎしと音を立てる。痛みに悶えるわたしを見下ろし、聡子ちゃんは蛍光灯の紐に手を伸ばした。
紐が揺れている。
「ほら、来た……。由美ちゃんのせいだよ」
わたしが触れてるわけでもないのに、押入れが鳴り始めた。
どこからか、重い響きの物音も聞こえる。
まるで、出してくれと壁を叩くような音。
音が激しくなるにつれて、聡子ちゃんの様子もおかしくなってきた。
瞳孔が大きくなったり小さくなったり。
額にはうっすらと汗が滲んでいる。
笑顔の形の顔は、ぴくぴくと引き攣っていた。
「塩……もっと塩を持ってこなくちゃ……」
うわ言のように繰り返し、聡子ちゃんが台所へ向かう。
その間も音は鳴り続ける。
恐怖に打たれて動けないわたしの後ろで。
押入れの開く音が、聞こえたような気がした。