狭霧、風邪をひく〜恋も熱も、限界突破〜
冬の朝。
霧ヶ崎神社。
薄い雪が舞っていた。
狭霧が境内に立っていた。
白い和装が、冬の空気の中で揺れていた。
「……ふぇっ……くしゅん」
「のう一尾よ、布団から出るなと言ったじゃろ」
瑞羽が縁側に座っていた。
「……我は大丈夫じゃ……」
「大丈夫に聞こえんのう。顔が赤いぞ」
「……赤くない」
「赤いぞ」
「……赤くない」
「赤い。妾の目は誤魔化せん」
狭霧がふらっとした。
「……あ」
どさっ。
「のう」と瑞羽。
朔夜が飛んできた。
「……ねえちゃん」
「……大丈夫……」
「大丈夫じゃないにゃ。顔が真っ赤にゃ」
「……くしゅん」
「くしゅんが出てる時点で大丈夫じゃないにゃ」
瑞羽が立ち上がって狭霧に近づいた。
「……熱があるのう。妖狐が人間の風邪にかかるとは」
「……人間と長く接しておると……うつることもある……」
「格好悪いのう。一尾が人間に負けて」
「……うるさい」
「ほれ、布団に入れ」
「……自分で入れる」
「入れんだろ、今」
「……入れる」
「入れるか?」
「……入れる」
「入れてみろ」
狭霧が動こうとした。
「……あ」
また倒れかけた。
瑞羽が支えた。
「……だから言ったじゃろ」
狭霧が黙った。
「……ありがとう……じゃ」
「礼は不要じゃ。妾は格上として一尾の世話を焼いているだけじゃ」
「……格上という理由で世話を焼くのか」
「そうじゃ」
「……変な論理じゃ」
「妾の論理は全て正しい」
「……そうか」
「そうじゃ」
朔夜が毛布を持ってきた。
「……これ使うにゃ、ねえちゃん」
「……すまないな、朔夜」
「……ぼく、尻尾の毛を全部あげてもいいにゃ。元気になってくれるなら」
「それは要らない。毛は取れない」
「……そうにゃ。でもあげたかったにゃ」
瑞羽が毛布を掛けた。
乱暴ではなかった。
丁寧だった。
「……妾が看病してやる。感謝しろ」
「……感謝する」
「もっと感謝しろ」
「……十分感謝している」
「十分ではない」
「……では足りない分はどうすれば」
「治ったら、一尾じゃなくなれ」
狭霧が少し間を置いた。
「……なれない」
「ならば一生感謝し続けろ」
「……お前は本当に面倒だな」
「面倒なのは妾ではなく一尾の不調じゃ」
昼。S・H・B緊急集合。
「"狭霧が高熱で倒れた"って——また準絡みの呪いか」と加賀。
「違う。俺じゃない」と準。
「でもお前、最近"狭霧様かわいい抱きしめたい"って10回くらい言ってたぞ」と雅紀。
「言ってたけど呪いじゃない」
「言ってたのか」と加賀。
「言ってた。でも関係ない」
「関係ないとは言いきれないぞ」
「言いきれる。俺の感情と狭霧の体調は別の話だ」
「……そうか」と加賀。「まあ、行くか」
「行くYO」とマイケル。
「心配なんだけど——なんか怖くて入れないんだよな、神社に」と細田。
「瑞羽がいるからか」と雅紀。
「瑞羽も怖いし、あの雰囲気が」
「行くのか行かないのか」と加賀。
「……行く」
「なら行くぞ」
霧ヶ崎神社。
狭霧が布団に横になっていた。
額に冷却シートが貼られていた。
顔が赤かった。
息が荒かった。
「……はぁ……あつい……蝉の声が……聞こえる……」
「冬ですよ」と朔夜。
「……そうか……冬か……」
「そうにゃ。冬にゃ」
「……寒いのに……あついな……」
「熱があるからにゃ」
準が入ってきた。
狭霧を見た。
「狭霧——」
狭霧が目を開けた。
「……準殿か……」
「俺だ。大丈夫か」
「……大丈夫……じゃないかもしれぬ……」
準が膝をついた。
「何か必要なものはあるか」
「……静かにしていれば……治る……」
「でも——」
「……準殿は……騒がしいから……」
「騒がしくしない」
「……騒がしい人間が騒がしくしないと言っても……信用ならぬ……」
「今日は静かにする。本当に」
狭霧が少し間を置いた。
「……ならば……そこにいてよい……」
準が壁に背中をつけて座った。
黙った。
本当に黙った。
瑞羽が横から言った。
「のう、鈴木殿とやら。一尾がお前のことを気にしてるぞ」
「黙れと言われてるから黙ってる」と準。
「黙りながら気にしてると言っておる」
「うるさい」と狭霧(熱で声がかすれていた)。
「一尾が熱にうなされながらうるさいとはよく言えるのう」
「……お前がうるさいんじゃ……」
「妾は適切な音量で喋っておる」
「……瑞羽……少し静かにしてくれ……」
瑞羽が少し間を置いた。
「……まあ、仕方ないのう」
静かになった。
午後。
狭霧が和歌を詠み始めた。
「——風の音 冬を纏いて 夢の国 君が泣くなら 春は遠からじ」
「やめてくれ」と朔夜。「辞世の句みたいに詠まないでにゃ」
「フラグやめろ」と準。
「完全に最終回ムーブだ」と加賀。
「葬式BGMが聞こえる」と雅紀。
瑞羽が狭霧の手を取った。
乱暴ではなかった。
「……狭霧」
全員が止まった。
「さま」がなかった。
「……瑞羽?」と狭霧。
「縁起の悪い歌を詠むな」と瑞羽。「妾より先に逝くな」
「……逝かない……ただの風邪じゃ……」
「ただの風邪でも、縁起が悪い」
「……心配しているのか」
「……していない」
「……声が震えておるぞ」
「……震えていない」
「……震えているぞ」
「……していない」
朱音がメモ帳に書いていた(いつの間にか来ていた)。
準が小声で言った。
「……瑞羽、今さま抜きで狭霧って言ったよな」
「言ったYO」とマイケル(小声)。
「初めて見た」と細田(小声)。
「記録した」と朱音(小声)。
「聞こえておるぞ」と瑞羽(大声ではなく普通の声で)。
「聞こえてたのか」
「聞こえていた。記録するな」
「した」
「消せ」
「消さない」
「……」
瑞羽が狭霧の手を握ったまま言った。
「……治れ。それだけじゃ」
狭霧が目を閉じた。
「……うむ……治る……」
「治ってから"一尾"と馬鹿にする。その前に逝くな」
「……お前のそれが愛情なのか」
「愛情ではない。妾のスタイルじゃ」
「……変なスタイルじゃ」
「妾のスタイルは全て正しい」
「……そうか……」
狭霧が少し笑った。
熱で顔が赤いまま。
「……ありがとう……瑞羽……」
瑞羽が顔を背けた。
「……礼は不要じゃ」
夜。
準が神社の外で祈っていた。
「狭霧、俺、マジで祈ってる。車検の時より本気で祈ってる」
朱音が来た。
「治安維持部隊、出動。原因は過労と狐特有の霊力バランスの崩壊だ」
「働きすぎってことか」と準。
「そうだ」
「俺が……何かしたのか」
「お前のせいではない。でも——」
「でも?」
「狭霧が人間界に長く留まりすぎている。その影響だ」
準が黙った。
「……俺がいなければ、こうならなかったのか」
「わからない。でも——お前がいるから狭霧はここにいる。それは事実だ」
「それは……いいことか悪いことか」
朱音が少し間を置いた。
「……どちらでもある。記録しておく」
舞花が来た。
「準、夜這いとかしてないでしょうね」
「してないよ」
「まあ、今回はあなたのせいじゃないわ。でも——狭霧への負荷を考えろ。人間と長く関わることは妖狐にとって簡単ではない」
「……わかった」
「わかったじゃなくて、どうするかだ」
準が神社の本殿を見た。
「……どうするかは、狭霧と話す。治ってから」
「それでいい」
翌朝。
小鳥の声がした。
狭霧が目を開けた。
「……おはよう……ございます……」
「狭霧生還」と朔夜。
「生き返ったぁ」
「……生き返ってはいない。ただの風邪じゃ」
「タイトルを"風邪"じゃなくて"臨死体験"に変えろ」と加賀。
「大げさじゃ」と狭霧。
「大げさじゃない。昨日の和歌は本当に危なかった」
「……辞世の句ではなかった」
「でも聞こえた」
準が狭霧の前に来た。
「よかった」
「……準殿」
「本当によかった」
「……昨日、静かにしていてくれたな」
「してた」
「……珍しかった」
「俺だってできる」
「……できるんだな」と狭霧。少し笑った。
「できる」
「……そうか」
瑞羽が縁側から言った。
「……治ったのう、一尾よ」
「……治った」
「では今日から馬鹿にする」
「……少し待ってくれ」
「待てん」
「……昨日は"狭霧"と呼んだな」
瑞羽が少し間を置いた。
「……呼んでいない」
「……呼んだぞ」
「……呼んでいない」
「……朱音が記録している」
「……」
「……消せとは言うな。もう消えない」
瑞羽が扇を広げた。
「……まあ、気の迷いじゃ」
「……そうか」
「そうじゃ」
「……ありがとう、瑞羽」
「……礼は不要じゃと言った」
「……言ったな」
「……だから言うな」
「……言った」
「……言うな」
「……言う」
「……」
瑞羽の尾が、三本とも一度だけ揺れた。
静かに。
感情がないわけではなかった。
朱音がメモ帳に書いた。
「狭霧、風邪をひく。原因:過労と霊力バランスの崩壊。瑞羽:"狭霧"とさま抜きで呼んだ。"妾より先に逝くな"と言った。治った後も認めなかった。でも尾が三本とも揺れた——記録しておく」
「準:夜通し神社の外で祈っていた。朱音に"どうするかは治ってから狭霧と話す"と言った——記録しておく。走り屋は走ることで正気を保つ、という原則と同じ構造だと思う」




