細田、高校生ぶりに東武東上線に乗ったら痴漢冤罪を食らって人生終了
朝。
細田が東武東上線に乗っていた。
高校生ぶりだった。
フィットが車検に入っていた。
「うおお、東上線の匂い、懐かしすぎる」
朝の満員電車だった。
汗と絶望の香りがした。
「やっぱこれだよ、埼玉の血液。俺のフィットが入院中でも、心はまだ走れる。L15Aよ、待っていてくれ」
混んでいた。
体が密着していた。
細田は吊革を両手で掴んでいた。
次の瞬間。
「——っ、この人です」
女子高生の声だった。
「は?」
「痴漢!」と乗客。
「マジかよオタク顔!」
「ちょっ、待って、俺、手、吊革掴んで——降ろすなよ」
ドアが閉まった。
人生も少し閉まった。
警察署。
「名前は?」
「細田葵人っす。大学生。ホンダ信者」
「職業:オタク、と」
「やめろ」
「目撃者なし、証拠なし……だが被害者の証言がある」
「俺、そんな接触してないっすよ。東上線が狭すぎただけで」
「東上線の混雑は関係ない」
「関係あるだろ」
「関係ない」
「でも——」
「関係ない」
細田が黙った。
警察が書類を書き続けた。
窓の外に、東上線の線路が見えた。
細田はその線路を見た。
(フィットに乗って帰りたい)
(L15Aのエンジン音が聞きたい)
(エンジンをかけたら全部どうでもよくなる)
大学。
朱音がスマホを見ていた。
「……舞花先輩。事件です」
「また細田? あのVTECオタク。何したの?」
「痴漢冤罪だそうです」
舞花が少し間を置いた。
「……やっぱり」
「何が"やっぱり"ですか」
「あの顔、やりそうなんだよな」
「やってないと思います」
「思います、という言い方が怖い」
「たぶんやってないです」
「たぶん、という言い方も怖い」
朱音が少し考えた。
「確率的にはやってないと思います。細田が混んでる電車でそういうことをするリスクを取るタイプかどうかという観点から——」
「論理的すぎる。でも助けに行くわよ」
「なぜですか」
「冤罪だから」
「でも"やっぱり"と言っていましたが」
「顔がやりそうでも冤罪は冤罪だ」
「論理的ですね」
「当然だ」
準がS・H・B全員に連絡した。
「細田が痴漢冤罪で警察署にいる。助けに行く」
「助けに行くというのは具体的に何をするんだ」と加賀。
「行って、いる、というアピールをする」
「それは助けにならない」
「でも放っとけない」
「俺も行く」と雅紀。
「なんで」と準。
「弟の傷みがわかる」
「雅紀に弟はいないだろ」
「感情移入だ」
「俺も行くYO」とマイケル。「東上線より車の方が速いデスYO」
「速さは関係ない」
「でも俺が行けば細田を乗せて帰れるYO。車があるYO」
「それは合理的だ」と加賀。
全員で警察署前に集まった。
「……全員バカだわ」と舞花。
「でもこういうときだけ団結力がある」と朱音。
「笑えるな」
「笑えるが嫌いじゃない」
「記録しておく」
「するな」
「した」
1時間後。
「被害者の証言に矛盾が見つかりました。無実ですね」と警察。
「よかった」と細田。
「ただし——」
「ただし?」
「通報された時点でネットに名前が出回っています」
細田が固まった。
「……どのくらい」
「"東上線 痴漢 細田 フィット VTEC"で検索すると上位に出ます」
「フィットとVTECまで出てるのか」
「ご本人がサークル活動でそのような発言をされていたようで、特定に使われたようです」
「俺のVTECが俺を殺したのか」
「比喩として正確だと思います」と警察(真顔)。
細田が外に出た。
全員が待っていた。
「生きてたか」と加賀。
「生きてる。でも社会的には——」
「生きてる」と加賀。
「でもネットに——」
「生きてる」
「名前が——」
「生きてる。走れるなら生きてる」
細田が加賀を見た。
「……フィット、車検中なんだよ」
「呉に連絡しろ。早めに返してもらえるか聞く」
「車検が早く終わるのか」
「終わらないかもしれないが——お前が会いに行けば呉は少し早める」
「本当か」
「わからない。でもお前のフィットへの愛着は呉も知ってる。それだけだ」
細田が少し間を置いた。
「……ありがとな、加賀」
「礼は走ってから言え」
「結局ネットに"東上線 痴漢 細田 フィット VTEC"でまとめられてるじゃないか」と準。
「記事のタイトル、"暴走オタクVTEC男、社会に制裁を受ける"はウケるデスネ」とマイケル。
「ウケるな」と雅紀。
「笑うな」と細田。
「名前が"細田葵人"じゃなくて"細田痴漢人"に改名されてないだけマシよ」と舞花。
「全然マシじゃない」
「マシだ。ネットの洗礼としては軽い方だ」
「軽いのか」
「軽い。加賀に聞いてみろ、あいつは川越街道暴走ニュースに3回出てる」
「3回も出てるのか」と準。
「出てる」と加賀。
「平然としてるな」
「走ってれば関係ない」
「ネットに名前が出ても走れるのか」
「走れる。セリカは俺の名前をネットで検索しない」
細田が笑った。
少しだけだったが、笑った。
「……フィット、早く返ってきてほしい」
「来る」と加賀。
「来ると言いきれるのか」
「お前が乗りたいと思っている限り来る。それだけだ」
そのとき。
研究棟のドアが勢いよく開いた。
高坂が出てきた。
「聞き捨てならんな」
「お前、何の用だ」と加賀。
「電車に怯える者を救うのは我々、鉄道研究会の使命だ」
「使命というのはどこから来るんだ」
「鉄道を愛する者の責任だ」
「電車で冤罪にあったのに鉄道研究会が来るのか」と細田。
「東上線が悪いのではなく、混み方が悪い。鉄道の本質は悪くない」
「その論理は微妙だ」と朱音。
佐野が前に出た。
「我々の研究によれば、痴漢冤罪を避ける安全車両ポジションが存在する」
「教えてくれ」と細田(真剣に)。
「ドア横の端っこのロングシート隣だ。カメラの死角が少なく、証拠も取りやすい」
「なぜ知ってるんだ」と準。
「俺たちの定期ポジションだ」と三輪。
「陰キャの定期ポジション……確かに」と細田。
「有用な情報だった」と加賀。
「役に立てたのか」と高坂(嬉しそうに)。
「役に立った。でも今後は撮り鉄のカメラを人に向けるな」
高坂が三輪を見た。
「……佐野」
「はい」
「今後は人に向けない」
「でもいいシャッターチャンスが——」
「向けない」
「……フヒヒww」
「笑うな」
「フヒヒwww」
「だから笑うな」
鉄研とS・H・Bが、珍しく同じ方向を向いていた。
でも分かり合ったわけではなかった。
加賀がセリカのキーを出した。
「走ってくる。細田、来るか」
「俺のフィットが——」
「俺のセリカに乗れ」
細田が少し間を置いた。
「……いいのか」
「お前のフィットが帰ってくるまでの間だけだ」
「ありがとな」
「礼は乗ってから言え」
二人が歩いた。
駐車場に、赤いセリカが止まっていた。
細田がドアを開けた。
乗り込んだ。
エンジンがかかった。
ヴォォォン。
2ZZ-GEが目を覚ました。
「……フィットと音が全然違う」と細田。
「そうだ」と加賀。
「でも——エンジンの音って、なんでこんなに落ち着くんだろ」
「走り屋だから」
「そうか」
「そうだ」
セリカが、夕方の川越街道に出た。
細田がシートに背中を預けた。
(フィット、待ってろ)
(すぐ迎えに行く)
朱音がメモ帳に書いた。
「細田葵人:東武東上線で痴漢冤罪。無実が証明された。でもネットに名前が残った。加賀がセリカに乗せた——走り屋は走ることで立ち直る。これが正しい療法だと思う」
「鉄研:安全ポジションを教えた。珍しく役に立った。でも分かり合ったわけではない——記録しておく」




