配線ノイズにファブリーズを吹きかける軽音部部長の知能指数
月曜日の放課後。
埼玉中央総合大学・6棟裏、コンテナハウスの部室。
一ノ宮雅紀は、ハードオフ新座店で買ってきたジャンクのデジタルマルチメーター(テスター)のテストリードをカチャカチャと鳴らしながら、パイプ椅子で息をついていた。
「ふぅ……今朝は安藤の植え込みダイブで心臓が縮んだけど、午後の講義は平和だったな。やっぱり静寂こそが大学生活の宝だよ……」
トントン。
その時、引き戸が控えめにノックされた。
ガラリと開いたドアから顔を覗かせたのは、金髪のウェーブショートにヘアピンを交差させた少女――軽音楽部副部長の天野奈々だった。
「あの……すみません、お邪魔してもいいですか……?」
「あ、奈々ちゃん。どうしたの?」雅紀が立ち上がる。
「オッスお兄さんたち! ヘルプミーなんだけど〜!!」
奈々の背後から、黒髪セミロングを揺らした榎本麻衣が元気いっぱいに突入してきた。
両手には、コンビニの袋に入った紙パックのいちごオレ。
「あのさぁ! ウチらの第10棟地下の練習室のアンプがさ、マジで反抗期なの! 電源入れた瞬間から『ブォォォォン!』って重低音のノイズが鳴り止まなくて、アタシの魂のギターソロが完全に掻き消されちゃうんだけど!」
「反抗期って言うな」雅紀がツッコむ。
「……あたしじゃ、配線のこと全然分からなくて」
奈々が胃を押さえながら、深いため息をついた。
「シールド線を変えても直らないし、うちのバカ部長が『接触不良なら除菌すれば直るっしょ!』ってアンプのジャックにファブリーズを大量噴射して、余計に状況が悪化して……」
「電気接点にファブリーズ吹きかけるなバカヤロウッッ!!」
雅紀の魂の絶叫が木霊した。
「界面活性剤と水分でショートして一発で基板が腐食するわ! 接点復活剤を使え接点復活剤を!」
「……ふむ」
セリカのダッシュボード用のケミカルを磨いていた加賀練斗が、冷徹に顔を上げた。
「商用電源の周波数に起因する電磁誘導、いわゆる五十ヘルツのハムノイズだな。さらにグランドループの形成、あるいは平滑回路の電解コンデンサの容量抜けの可能性が高い。工学部として、学内の電磁気学的不良を看過することはできん」
「お前本当に配線トラブルに目がないな加賀!」
雅紀が呆れる横で、加賀は工具箱からハンダゴテ、フェライトコア、そして接点洗浄スプレーを迷わず掴み取った。
――十分後。第10棟(学生会館)地下、軽音楽部練習室。
重い防音扉を開けた瞬間、耳をつんざくような不快な重低音が室内に充満していた。
――ブゥゥゥゥゥゥゥン……ジリジリジリ……!
「うわっ、ひどいノイズだ……!」雅紀が顔をしかめる。
部屋の隅、マーシャルの大型アンプの裏側には、タコ足配線の電源タップがスパゲッティのように絡まり合い、ACアダプターとシールド線が密着してトーションバーのようにねじれていた。
その騒音の中。
部屋の最奥に置かれたシンセサイザーの前に、ひとりの少女がちょこんと腰掛けていた。
淡いグレーのアシンメトリーショート。首元には細い黒革のチョーカー。
法学部一年、灰島凛。
今朝、安藤凪斗を片手で植え込みへ放り投げた張本人である。
凛は感情のない静かな瞳で、ノイズの鳴り響く室内でポーカーフェイスのまま、鍵盤をポロロンと単音で弾いていた。
「あ、灰島さん、こんにちは!」
細田葵人がぺこりと頭を下げる。
凛は視線をわずかに巡らせ、加賀と雅紀の姿を捉えた。
表情筋は一切動かない。ただ、首元のチョーカーに指先を触れ、小さく口を開く。
「……また、来た」
声は小さく、平坦。
「邪魔してすまんな、アンプの修理に来ただけだ」雅紀が苦笑いする。
「退け、作業を開始する」
加賀が工具箱を床に置き、アンプの裏へ潜り込んだ。
「雅紀、電源タップの極性をテスターで確認しろ。ACラインの接地側が逆相で接続されている。さらにアースピンが折れた変換プラグを無理やり使用しているな。完全なグランド電位の浮き上がりだ」
「うわ、本当だ! 極性が左右逆転してるじゃねえか!」
雅紀がテスターを当てて叫ぶ。
加賀は手際よく電源プラグを反転させ、雅紀が持参した円筒形のフェライトコアをシールド線の根本にパチンと噛ませた。
さらに、ファブリーズの残留物をエレクトロニッククリーナーで徹底的に脱脂洗浄し、アンプの筐体アースをワンポイントで接地させる。
カチッ。
アンプの電源スイッチを再投入する。
――スッ……。
嘘のように、すべての耳障りな低周波ノイズが消滅した。
練習室に、完全な静寂が訪れる。
「…………え?」
榎本麻衣が目を丸くした。
「うそっ!? 消えた! ノイズ完全に消えたじゃん! お兄さんたちマジ神なんだけどーっ!!」
「あぁ……静かだ……!」
天野奈々が胸を押さえて崩れ落ちた。
「耳が痛くない……! あたしの鼓膜が生き返った……!」
その時。
シンセサイザーの前に座っていた灰島凛が、音もなく立ち上がった。
加賀の足元までトコトコと歩み寄ると、光の少ない静かな瞳で、加賀の手元の工具箱をじっと見つめた。
「…………」
無言の凝視。何を考えているのか、相変わらず感情のパラメーターがゼロのまま。
だが、凛は小さく唇を開いた。
「……消えた」
「アース電位の差動ノイズをゼロにしただけだ」加賀が無機質に答える。「物理の基本だな」
「……すごい」
凛は短く呟いた。
そして、パーカーのポケットに小さな手を突っ込むと、取り出した小さな包み――紙に包まれた一口サイズのミルクキャラメルを、加賀の工具箱の蓋の上に、コトンと置いた。
「……なに」加賀が眉を寄せる。
「お礼」
凛はそれだけ言うと、表情を変えずにくるりと背を向け、再びシンセサイザーの椅子に座り直してヘッドホンを装着した。
「……あの子なりに、すごく感謝してるんだと思います」
奈々が優しく微笑んだ。
「凛、普段は人にお菓子とか絶対あげないですから」
「ふむ……」
加賀はキャラメルを指先で拾い上げ、ポケットにしまった。
「……悪くない入力信号だな」
「お前も少しは素直に喜べよ!」雅紀が笑う。
その時だった。
雅紀の視線が、部屋の奥のドラムセットとベースアンプに留まった。
「……ん? おい奈々ちゃん、なんだこれ?」
スネアドラムの白い打面に、黒と白の極太マジックで、これ見よがしに殴り書きされた文字。
『雑魚陰キャは音圧で吹っ飛べwww』
「うわぁ……」雅紀の顔が引きつる。「なんだこの、悪意の塊みたいな煽り文句は……」
「あ、それ……」奈々が遠い目で額を押さえた。
「うちのドラムの阿部亜里沙(二年生)の仕業です。超弩級のメスガキで、口を開けば相手のコンプレックスを的確に狙って嘲笑してくる問題児でして……」
さらに、葵人がベースアンプの天板に置かれていた、漆黒の革表紙の分厚いノートを指差した。
「あの、このノートに金色の文字で『深淵の黙示録〜終焉の四重奏〜』って書いてありますけど、これも楽譜ですか?」
「あー! それベースの澪ちゃんのやつ!」
麻衣がゲラゲラと笑った。
「あの子、マジで中二病極めててさ〜! 毎日『我が封印されし漆黒の低音弦が……』とかブツブツ言いながらベース弾いてんの! 喉元撫でるとすぐ懐くから可愛いんだけどね〜!」
「…………」
雅紀の背筋に、冷や汗がツツーッと流れた。
(メスガキのドラマーに……ガチ中二病のベーシスト……)
雅紀はコンテナハウスの平和を思い浮かべ、激しい悪寒を覚えた。
「軽音楽部……やっぱり、うちのサークルより圧倒的に治安が悪い連中が奥に潜んでやがる……!」
秋の日の暮れかけた第10棟の地下。
配線ノイズの解決によって生まれた束の間の平穏の裏で、S・H・Bと軽音楽部の完全なる全面抗争の火種が、静かに、しかし確実に燻り始めていたのだった。




