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朱音の耳鳴り

朝7時。E塔裏のコンテナ。

誰も音を出していなかった。

エンジンもかかっていない。

話し声もない。

雅紀が小声で言った。

「……なんで今朝から誰も音出してないんだ」

「朱音先輩から"音を出すな"って通達があった」と葵人(小声)。

「走り屋サークルがそれ言うか」とマイケル(小声)。

「まあ朱音だし。たぶんイヤホン爆発の後遺症だろ」と準(小声)。

コンテナの外。

朱音が、駐車場のアスファルトの上に立っていた。

目を細めていた。

「……また鳴ってる」

舞花が横に立った。

「耳鳴りか?」

「違う」

「違うのか」

「……うるさい音が、聞こえる。でも誰も出してない音が」

舞花が少し間を置いた。

「お前が一番バグってんだよ」

「わかってる」


講義棟。昼。

社会学部棟の自習室。

朱音がノートを開いていた。

ペンを持っていた。

でも書けていなかった。

耳の奥で、何かが鳴っていた。

キーン、という高い音ではなかった。

もっと低い、持続する音だった。

生活音の隙間にある、消えないノイズ。

(聞こえる。)

(たぶん誰にも聞こえない音が。)

(この大学の"通奏低音"みたいなやつが。)

(エンジン音の残響、笑い声の余韻、怒鳴り声の尾っぽ——全部が混ざって、静かな場所でも耳に残ってる)

準が背後から現れた。

「おーい朱音、スタバ行く?」

「……死ね」

「え、いつもの挨拶より1.5倍低い!?」

「うるさい」

「うるさいって言いながらいつも俺のこと追い払わないじゃないですか」

朱音が準を見た。

「……今日は本当にうるさいと思ってる」

「……ごめん、帰る」

準が帰った。

朱音が再びノートに向かった。

ペンが、止まったままだった。


保健室。

「ストレス性耳鳴りですね」と保健医。

「ストレスの原因はこの大学の存在です」と朱音。

「……それは私には解決できませんが」

舞花が横で言った。

「うちの大学、ノイズの集合体みたいなもんだからな。エンジン音、怒鳴り声、爆発音、たまに包丁が壁に刺さる音——」

「全部実際にあったな」と朱音。

「あったな」

「静かな場所がない」

「ない」

「……静かなのは、音楽の中だけ」

朱音がイヤホンを取り出した。

差し込んだ。

音が、外の世界を遮った。

Lo-Fiのビートが、耳の奥で静かに鳴り始めた。

(ここだけ、静かだ)

(自分で選んだ音だから、ノイズにならない)

(他の人が出す音は——選べないから、ノイズになる)

(……でも)

朱音がイヤホンを外した。

「……先生、一つ聞いていいですか」

「はい」

「音楽とノイズの違いは何ですか」

保健医が少し考えた。

「……聴きたいかどうか、じゃないですか」

朱音が黙った。


夜。大学の屋上。

朱音が一人で座っていた。

イヤホンをして、空を見ていた。

Lo-Fiの静かなビートが流れていた。

足音がした。

葵人だった。

「……大丈夫っすか?」

「まだ少し鳴ってる」

葵人が隣に座った。

「耳鳴りですか?」

「ううん」

「じゃあ何が鳴ってる?」

朱音が少し間を置いた。

「……お前らの笑い声」

葵人が止まった。

「……俺らの笑い声が耳鳴りに?」

「残響。消えない。静かにしてても聞こえる」

「それって——」

「ノイズだと思ってた」

朱音がイヤホンを外した。

夜風の音が入ってきた。

遠くから、エンジン音がした。

ヴォォォン……

セリカだった。

加賀が夜の川越街道を走っていた。

その音が、屋上まで届いていた。

朱音がその音を聞いた。

何も言わなかった。

葵人も何も言わなかった。

セリカのエンジン音が、夜の空気に溶けていった。

「……面白いな」と朱音。

「何がですか?」

「加賀のエンジン音——ノイズじゃない。なんでだろ」

「……聴きたいから、じゃないですか」

保健医と同じことを言った。

朱音が葵人を見た。

「誰に聞いた?」

「誰にも聞いてないっすよ。なんとなく」

朱音が前を向いた。

「……お前、たまにいいこと言うな」

「たまにって言わないでください」

「たまにだ」

「……」

セリカの音が、また遠くから聞こえた。

1周して戻ってくる音だった。

朱音がその音を聞いた。

「……嫌いじゃない」

「エンジン音が?」

「この、うるさい現実が。全部」

葵人が少し間を置いた。

「……珍しくポジティブですね」

「言ったら治った。耳鳴り」

イヤホンをポケットにしまった。

夜風が、屋上を吹き抜けた。

加賀のセリカが、E塔裏の駐車場に戻ってきた。

エンジンが止まった。

ピキ……

冷えていく音がした。

朱音がそれを聞いた。

「……これも」

「何がですか?」

「エンジンが冷える音。ピキって。これも——嫌いじゃない」

葵人が笑った。

「俺も好きっすよ、その音」

「知ってた」

「なんで」

「お前は加賀のセリカが止まるたびに少し聞き耳立ててるから」

葵人が固まった。

「……見てたんですか」

「記録者だから」


翌朝。

「治ったのか?」と舞花。

「うん。でも代わりに——」

「何が?」

朱音がメモ帳を出した。

「夜中に、初めて車のエンジン音をちゃんと聴いた。走り屋サークルに1年以上いて、初めて」

「……それは」

「ノイズだと思ってたのが、聴きたかったんだと思う。選んでなかっただけで」

舞花が少し間を置いた。

「……それ、なんか——」

「ポエムっぽいな。わかってる」

「ポエムじゃなくて本当のことだと思う」

朱音がメモ帳に書いた。

舞花が覗いた。

「朱音の耳鳴り:ストレス性。原因:この大学のノイズ過多。治った理由:うるさい現実が嫌いじゃないと気づいたから。夜中に初めてセリカのエンジン音を"音楽"として聴いた——記録しておく」

「……自分のことも記録するのか」と舞花。

「記録者は全部記録する」

「自分の話も?」

朱音が少し間を置いた。

「……自分の話が一番、記録し忘れてた気がするから」

舞花が何も言わなかった。

朱音がメモ帳を閉じた。

「次は何が起きるんだろうな、この大学」

「何かは起きる」と舞花。

「それだけは確かだな」

二人が、E塔裏を見下ろした。

駐車場に、セリカが止まっていた。

朝の光が、赤いボディに当たっていた。


「朝のヒカリの中デェ~♪Ah~♪」マイケルが熱唱していた。

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