加賀練斗、逆襲す。〜取り戻せ、走り屋のプライド〜
夕方。
加賀練斗がセリカのボンネットに腰掛けて、空を見ていた。
秋の空だった。
高く、澄んでいた。
エンジンはかかっていた。
アイドリングの音だけが、夕暮れの駐車場に響いていた。
ヴォォン……ヴォォン……
2ZZ-GEの低い唸り。
高校含めて5年間、この音を聞いてきた。
(……最近、走ってないな。)
加賀が空を見たまま思った。
(いつからだ。)
(狐が来てから? 猫が来てから?)
(……全部違う。)
(俺が走ることを、後回しにしていた。それだけだ。)
BLITZのレーダー探知機が、ダッシュボードの上でスリープしていた。
最後に起動したのは、2週間前だった。
加賀がボンネットから降りた。
ドアを開けて、乗り込んだ。
ステアリングを握った。
手に、セリカの重さが伝わってきた。
(俺のセリカ、最近"物語の背景"扱いだったな。)
加賀が少し笑った。
「……悪かった」
誰もいない駐車場で、セリカに言った。
エンジンが答えるように、アイドリングが少し上がった。
ヴォォォン。
「……行くか」
その頃、部室では。
準が朔夜を膝に乗せていた。
狭霧が隣で尻尾を揺らしていた。
「尻尾の艶は心の艶」と狭霧。
「……にゃ」と朔夜。
「尊い……」と準。脳が溶けていた。
舞花が頭を抱えていた。
「ダメだ。治安が死んだ」
朱音が棒付き飴を口から外した。
「……この作品、いつから"走り屋"じゃなくなったんだろ」
「だいぶ前からだな」と雅紀。
「最初の"キャンパスでエンジンかけんな"の頃が一番平和だったな」と葵人。
「今や毛並みと宗教と詩の話しかしてない」とマイケル。
「……うるさい」と凛。端の席で座っていた。
「灰島なんでいるんだ」と葵人。
「……いてはいけないか」
「いていいけど——なんで来たんだ」
凛が少し間を置いた。
「……車の話、聞きたかった」
全員が振り向いた。
「……車?」と準。
「……走り屋の話。最近、誰も車の話をしていない」
朱音がメモ帳に書いた。
「灰島凛:車の話を聞きに来た——記録しておく」
そのとき。
ドアが開いた。
加賀が入ってきた。
「……全員、今夜走るぞ」
「今のこの状況、おかしい」
加賀が言った。
「何が」と雅紀。
「俺たちは走り屋だ。エンジンの鼓動で青春するはずだった。でも——最近、走っていない」
「まぁ……狐とか猫とか異世界とか色々あったからな」と葵人。
「全部俺たちの話だ。でも——走ることだけが、俺たちの本質だ」
「珍しくかっこいいこと言ったな」と葵人。
「かっこいいことを言ったつもりはない。事実を言った」
「それがかっこいいんだよ」と葵人。
マイケルが立ち上がった。
「ワタシも走りたい!! レガシィのEJ20、最近鳴いてないヨ!!」
「俺のロータリーも久しぶりだな」と雅紀。
「VTECも目覚めさせたい」と葵人。
準が朔夜を膝から下ろした。
「……俺も行く」
朔夜が準を見た。
「……行ってくるにゃ?」
「ああ」
「……何時に帰るにゃ?」
「わからない」
「……わかったにゃ」
朔夜がライフルのスリングを直した。おっとりした顔で。
凛が立ち上がった。
「……私も行く」
全員が振り向いた。
「走れないぞ、凛は」と加賀。
「……見る」
「見るだけか」
「……それの何が悪い」
加賀が少し間を置いた。
「……悪くない。来い」
夜。
5台が、川越街道に並んだ。
セリカ——加賀。
RX-8——雅紀。
ノートNISMO——準。
フィット——葵人。
レガシィ——マイケル。
後ろに、安藤のフーガが止まっていた。
凛が助手席に乗っていた。
「……なんで安藤の車なんだ」と準(無線)。
「凛が乗るって言ったから」と安藤(無線)。
「フーガで追走できるのか」
「できなくていい。見るだけだって言ってた」
加賀がセリカのシートに背中を預けた。
ステアリングを握った。
路面の情報が、手に伝わってくる。
夜の川越街道。
アスファルトが街灯に照らされて、微かに光っていた。
乾いた路面。グリップは良い。
気温は15℃。エンジンの温度が安定している。
BLITZのレーダー探知機が、起動した。
ピピッ。
「……久しぶりだな」
加賀がそれに言った。
前方の信号が青になった。
加賀がアクセルを踏んだ。
ヴォォォォォン!!
2ZZ-GEが、2週間ぶりに本気の音を出した。
1速、2速、3速。
シフトを上げるたびに、エンジンが吠えた。
右に、RX-8のヘッドライトが並んだ。
「久しぶりだな!!」と雅紀(無線)。
ロータリーの独特の高音が、セリカの横で鳴った。
キュィィィン!!
左に、レガシィのEJ20ターボが加速した。
ドゥォォォン!!
後ろから、ノートのHR16DEとフィットのL13Bが続いた。
ヴィィン!! パパン!!
5台のエンジン音が、夜の川越街道に混ざり合った。
加賀の目が、前方だけを捉えた。
ヘッドライトが、暗い道を照らした。
街灯が流れていく。
速度計の針が上がっていく。
(これだ。)
(これが俺たちだ。)
4速、5速。
セリカが、夜の国道を突き進んだ。
後部座席に、気配があった。
「……また乗ってるのか」
加賀がバックミラーを見た。
狭霧が座っていた。
「霊体に扉は——」
「関係ない。知ってる」と加賀。
「……走り屋の魂を見たかった」
「見てたろ、今まで」
「……今夜は違う」と狭霧。
「何が違う」
「……先日、朔夜に聞かれた。走り屋とは何か、と」
「なんて答えた」
「……走ることが好きだから走る。それだけだと言った」
「正解だ」
「……でも——お前が2週間走らなかった。好きなら走るはずだ。なぜ止まっていた?」
加賀がステアリングを握り直した。
「……後回しにしていた」
「なぜ」
「……他のことが多すぎた」
「言い訳だ」と狭霧。
「わかってる」
「……走り屋は、走ることを後回しにしない。それが本質だ」
加賀が少し間を置いた。
「……お前、説教が上手いな」
「数百年生きると、人間の言い訳のパターンが見えてくる」
「俺のパターンは?」
「……責任感が強すぎて、自分のことを最後にする。それだけだ」
加賀がアクセルを少し開けた。
ヴォォォン。
「……そうかもしれない」
「……走れ。今夜くらいは、自分のために」
加賀がシフトを6速に入れた。
セリカが、夜の川越街道を駆け抜けた。
安藤のフーガが、5台の後ろを走っていた。
安全な距離を保ちながら。
助手席で、凛が前を見ていた。
前方——5台のテールランプが、夜の中で赤く光っていた。
「……速い」と凛。
「速いよ」と安藤。「特に加賀は——久しぶりに本気出してると思う」
「……何が違う?」
「音が違う。セリカのエンジン音、今夜はいつもより——なんか、嬉しそうだ」
凛が少し間を置いた。
「……エンジンが嬉しそう」
「うまく言えないけど——そういう音がするんだよ。走り屋はわかる」
凛が前を見続けた。
5台のテールランプが、カーブの向こうに消えた。
また現れた。
消えた。
「……」
「どうした?」と安藤。
「……なんでもない」
でも凛がメモ帳を出した。
小さく、何かを書いた。
安藤は見えなかった。
後で、朱音がそのメモを見た。
「エンジンが嬉しそう——意味がわからない。でも、わかる気がする」
走り終えて、5台がE塔裏に戻ってきた。
エンジンを止めた。
静かになった。
全員が車を降りた。
「……走った」と加賀。
「走ったな」と雅紀。
「久しぶりだったネ!!」とマイケル。
「VTECが泣いて喜んでた」と葵人。
「ロータリー、まだ元気だな」と雅紀。
全員が少し黙った。
いい沈黙だった。
凛がフーガから降りてきた。
加賀の方に歩いた。
「……加賀」
「なんだ」
「……速かった」
加賀が少し間を置いた。
「当然だ」
「……走り屋って——」
凛が言いかけて、止まった。
「なんだ」
「……なんでもない」
凛が踵を返した。
2歩歩いて、振り返らずに言った。
「……次も、見てもいいか」
加賀が答えた。
「走る時に来い。いつでも」
凛が歩き続けた。
その背中が、夜の中に消えた。
朱音がメモ帳に書いた。
「加賀:2週間ぶりに本気で走った。凛:"次も見てもいいか"と言った。加賀:"いつでも来い"と答えた。走り屋の魂、今夜復活——記録しておく」
「付記:狭霧が後部座席にまた乗っていた。でも今夜は文句を言わなかった。理由:たぶん狭霧も走りたかったから」




