掲示板の張り紙ひとつで過去の黒歴史が蘇る瞬間
火曜日の昼下がり。
埼玉中央総合大学・第4棟(法学・社会学部棟)の掲示板前は、講義の休講情報やレポートの提出期限を確認する学生たちで賑わっていた。
政治経済学部三年の一ノ宮雅紀は、姉の舞花から「法学部の掲示板に貼ってあるゼミの募集要項を写真撮って送ってこい、遅れたらアンタのエイトのシートにコーヒーこぼすから」という理不尽なパシリ指令を受け、人混みをかき分けながらスマホを構えていた。
「まったく、自分で見に来いよな……。えーっと、民法ゼミの掲示は……ん?」
ふと、雅紀の視線が、掲示板の中央に貼り出された一枚の白い用紙に吸い寄せられた。
『法学部・後期学術研究発表会 ゼミ代表者一覧』。
その最上段、燦然と輝く民法ゼミの筆頭代表の欄。
【代表:法学部二年 神宮寺 海羽】
「…………」
雅紀の思考が、完全に停止した。
スマホを握ったまま、二度見、三度見、さらには眼鏡をかけていないのに目頭を揉んで四度見する。
「……じ、神宮寺……海羽?」
雅紀の脳内で、先週末に細田邸の離れで聞いた母親・常子の爆弾発言が、サラウンドの大音量でフラッシュバックした。
『葵人が高校二年のバレンタインのとき! 同じ高校の神宮寺海羽ちゃんっていうすっごく可愛い女の子から手作りチョコをもらったのに! 「糖分の過剰摂取でインスリンが」って突き返したのよ〜!』
「同姓同名……!? いや、学部も学年もぴったり一致してるじゃねえかァァァッ!!」
雅紀は悲鳴を飲み込み、脱兎の如く第4棟を飛び出した。
キャンパスの並木道を全力疾走し、正門を駆け抜け、奥地の6棟裏へと一直線に突進する。
バァァァンッ!!
コンテナハウスの鉄扉が吹き飛ぶような音を立てて開いた。
「葵人ォォォォォッ!! おい葵人いるかァァァッ!!」
「うわあっ!? な、何ですか雅紀先輩!?」
部室の長机で、日本史のレポートを書いていた細田葵人が飛び上がった。
机を挟んだ向かいでは、加賀練斗がセリカのエンジンオイルの粘度指数表を睨みつけ、横では鈴木準が「寒冷地に生息するユキヒョウの尻尾の太さ」について熱心に鉛筆を走らせていた。
「葵人! お前……神宮寺海羽のこと、本当に東京の大学に行ったと思ってたのか!?」
「えっ? は、はい……高校を卒業するとき、風の噂で都内の法学部を目指してるって聞いてましたけど……」
「いるぞ!!」
雅紀は葵人の両肩を掴み、前後に激しく揺さぶった。
「この大学に! 第4棟の二階に! 法学部二年に! 神宮寺海羽が実在してるッ!! ゼミの代表者名簿にデカデカと名前が載ってたんだよォォォッ!!」
「えええええええええええええっ!?」
葵人の絶叫が6棟裏に木霊した。
かけていた紺色のアンダーリム眼鏡がズレ落ち、手に持っていたシャープペンシルが床を転がる。
「う、嘘ですよね雅紀先輩!? 同姓同名の別人じゃないんですか!?」
「法学部二年で神宮寺海羽だぞ!? そんな漫画みたいな珍しい名字と名前が、同じ学年でピンポイントに被るわけねえだろ!」
「……工学的に検証しよう」
加賀がオイルの表を置き、腕を組んで冷徹に口を開いた。
「日本の総人口における『神宮寺』姓の保有者は推定約四千人。極めて希少な苗字だ。さらに埼玉県の人口動態、本学法学部の偏差値五十七、そして葵人の出身高校からの指定校推薦および一般入試の進学実績データを照合すれば――同姓同名の別人である確率は、統計学的に〇・三パーセント未満だ」
「数字で絶望的な外堀を埋めてくるな加賀!!」
「じゃあ……」
葵人は顔を真っ青にして、ガタガタと震え出した。
「昨日……第4棟でキャベツを運んでたときにすれ違った……白いリボンの女の子……本当に、海羽ちゃんだったんですか……!?」
「十中八九そうだな!!」
「……おやおや」
準がスケッチブックを閉じ、灰色の瞳を面白そうに細めた。
「かつて自らの無知と不器用さによって深く傷つけ、逃げ去った可憐な小鹿が……実は同じ森の、すぐ隣の茂みに生息していたわけだね。まさに運命の神の悪戯、ギリシャ悲劇の再来だ。実に美しい伏線回収だよ」
「ポエムで批評してる場合じゃないデース!」
ソファから飛び起きたマイケルが、満面の笑みで葵人の背中をバシバシと叩いた。
「オーウ! ロマンティック・ディスティニー! 葵人、今すぐローズの花束をトランクに満載して、VTECの爆音とともに第4棟へプロポーズに突撃デース!」
「火に油を注ぎにいくなアメリカン!!」
雅紀のツッコミが冴え渡る。
「葵人が高校のときに何をやらかしたか忘れたのか!? あの子から本命チョコをもらっておいて、『糖分の過剰摂取でインスリンが』って言って目の前で突き返したんだぞ!? 今突撃したら六法全書で頭カチ割られるわ!」
「…………」
葵人は俯き、ぎゅっと自分の膝を握りしめた。
その拳が、小さく震えている。
いつもの天然で素直な後輩の顔ではない。胸の奥底にずっと抱え込んでいた、消えない棘に触れたような、真剣な横顔だった。
「……僕」
葵人の口から、掠れた声が漏れた。
「ずっと……後悔してたんです。高校のとき、本当にひどいことを言って泣かせちゃって……謝る機会もないまま、逃げるように卒業しちゃったから。もし本当に、海羽ちゃんがこの大学にいるなら……僕、ちゃんと直接会って、謝らなきゃいけないと思います」
「葵人……」
雅紀は息を呑んだ。
普段はVTECと愛車のセリカやフィット、そしてアニメの聖地のことばかり熱弁しているこの後輩が、かつて傷つけた相手に対して、これほど真っ直ぐな誠実さを残していたとは。
「……分かったよ」
雅紀はため息をつき、葵人の肩にポンと手を置いた。
「お前がちゃんと謝りたいって言うなら、先輩として止めはしない。……だが、相手はお前にブチギレて泣いて帰ったツンデレ女子大生だ。明日、昼休みに第4棟へ行って接触を試みるが……俺たちS・H・B総出で、遠巻きにバックアップ(監視)してやるからな」
「セリカたんの視界を汚さない位置からであれば、双眼鏡による戦況観測を許可しよう」加賀が頷く。
「僕も、人間ドラマの決定的瞬間をスケッチする準備をしておくよ」準も微笑む。
「あ、ありがとうございます……!」
葵人は眼鏡を押し上げ、深く頭を下げた。
しかし――その足元は、生まれたての子鹿のように小刻みにガタガタと震え続けていた。
「おい葵人、今からそんなんで明日まともに喋れるのかよ?」
「だ、大丈夫です! 緊張したときは、鷲宮神社で買ってきたお守りを握りしめて『無事故無違反・安全運転』って三回唱えれば落ち着きますから!」
「交通安全祈願で過去のトラウマを乗り切ろうとすんな!!」
――その頃。
夕日が差し込む第4棟、二階の講義室。
誰もいなくなった教室の窓際で、分厚い六法全書を開いていた少女――神宮寺海羽は、ふとページをめくる手を止めた。
艶やかな茶髪のロングヘア。
両サイドに揺れる、純白の大きなリボン。
大きな水色の瞳が、窓の外――キャンパスの奥地にある第6棟の方向を、じっと見つめていた。
「……なんなのかしら」
海羽は不快そうに眉根を寄せ、胸元をぎゅっと押さえた。
「さっきから……すっごく嫌な胸騒ぎがする。あのバカの……あのデリカシーの欠片もない、車の話しかできない大バカ者の顔がチラついて、全然判例が頭に入ってこないじゃない……!」
トクン、と小さく跳ねる心臓。
二年間、胸の奥底に封印し続けてきたはずの記憶の蓋が、軋んだ音を立てて開きかけていた。




