黒猫
王子失踪の噂を聞いてから、ひと月ほどが過ぎた。
若い騎士は、何度か薬屋を訪れた。
そのたびに同じ問いを繰り返し、棚の上のクロを一瞥する。
けれど、何も見つけられないまま、やがて姿を見せなくなった。
街の噂は移ろいやすい。
王子の話は人々の口から薄れ、代わりに豊作や市場の新しい菓子の話が賑やかに語られるようになった。
薬屋の中では、魚を焼く匂いと薬草の香りが変わらずに満ちている。
そんなある晩、また新月が巡ってきた。
外は風もなく、しんとした闇が街を包んでいる。
私はふと目を覚まし、窓辺に立った。
路地を歩く背の高い影があった。
黒い毛並みではなく、人の姿。
髪が夜風に揺れ、こちらを振り向くことはない。
ただ、その歩みは静かで、どこか遠くへ続いているように見えた。
私は呼び止めなかった。
声をかければ、何かが変わってしまう気がした。
背中はやがて角を曲がり、闇に溶けていった。
翌朝、棚の上でクロが欠伸をしていた。
「魚は?」
「今日は二匹よ」
そう言って火を起こすと、油のはぜる音と薬草の香りが、ゆっくりと薬屋に満ちていく。
この日常は、きっともうずっと続く。
黒猫が視界の端で伸びをするのを見ながら、私はふとそんなふうに思った。