表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

後編

 拓真を取り巻く世界は底深い夜に包囲されている。

 目覚めてから約十五分。彼は父親が入学祝にプレゼントしてくれた中古のテレビを観ながら、インスタントの塩焼きそばを食べている。

 拓真は一人暮らしを始めて以来、無音状態で過ごすことに苦手意識を持つようになり、在宅時は常になんらかの音楽を流すようにしていた。スマホをいじりながらだと食事がしにくいから、というのが表向きの理由だが、音楽を再生した状態のスマホをポケットにでも入れておけば問題は解決できる。それにもかかわらずテレビを選んだのは、家族四人で暮らしていた時代、夕食時はテレビのニュース番組を流すことが多かったからだと、彼は気がついていない。

 八時台の現在、拓真が選んだチャンネルではバラエティ番組が放映されている。風変わりな事物を愛好する趣味を持つ一般市民が、スタジオで芸能人相手に魅力を語り、さらには体験してもらうという趣向の番組だ。

 拓真はこの番組が特別好きなわけではない。ただ、素人が表明する偏執的で過剰な愛に対する芸能人のコメントが辛辣ではなく、なおかつ、紹介されたコンテンツを戸惑いながらも理解しようという姿勢がうかがえ、バラエティ番組にありがちな下品さがない。それが食事中に流すにはもってこいなのだ。

 今週は日本各地のメガ盛りラーメン特集だ。特色があるのは味や食材ではなく、もっぱらボリューム。どの店のラーメンも具材が麺の上に堆く盛られ、収まりきらずに丼からこぼれている。

 タレントが試食して味の感想を述べ、次の料理の紹介に移るという大まかな流れは、拓真が眉をひそめるグルメ番組と大差ない。プレゼンテーターが魅力を語る時間が長くとられているのはこの番組らしかったが、そもそも取り上げられた題材が今週は凡庸だ。長寿番組ゆえにネタ切れ気味なのか、最近は食べ物が取り上げられる頻度が高くなっている。塩焼きそばのカップ焼きそばばかりの食生活でも充分に満足している拓真にとって、興味を抱きにくいテーマだというのに。

 ただ、チャンネルを替えようとまでは思わない。テレビはあくまでも食事中限定のBGM。出演者のやりとり自体は不快ではなく、BGMとして成立しているのだから。

 漠然と映像を見、音声を聞き、黙々と食べる。そんな中、若いグラビアアイドルが口にした言葉に箸が止まった。

「なんかこの麺、触手みたいですよね。宇宙人とかクラゲとかの」

 作った人に失礼だよ、と若手男性芸人がすかさずツッコミを入れ、スタジオは小さな笑いに包まれた。

 画面に大写しになっている問題のラーメンを、拓真は口の中のものを咀嚼しながら凝視する。もやしとネギ、白と緑の二色からなる具材が左右に分かたれ、黄色っぽい麺が覗いている。今拓真が食べている焼きそばに似た、少し縮れた太麺だが、彼は触手を連想しなかった。

 問題の発言をしたグラビアイドルのことを拓真はよく知らない。彼女のような芸能界に身を置く若い女性の中には、人を困惑させるようなピントのずれた発言を頻発し、それを芸風にしている者も一定数いる。彼女も該当者なのか。それとも、本当にそう見えたのか。

 深く観察すれば真実が見えてくる気がして、咀嚼を中断し、上体を乗り出して液晶画面を凝視する。とたんに、初老の男性俳優が麺をすする映像に切り替わった。

 拓真の心は萎えた。テレビ番組に対してではなく、自分に関係がある全ての物事に向き合うのが急に面倒になった、という感じだ。

 リモコンでテレビを消し、再び箸を動かそうとしたとき、インターフォンが鳴った。

 拓真が暮らす部屋を訪れる人間は宅配業者くらいしかいない。まだ夜の八時台だから荷物は配達される時間帯だ。カップを置いてインターフォンの通話ボタンを押すと、訪問者ははきはきと発声する若い男性で、野中拓真宛の荷物を届けに来た旨を告げた。

 拓真はECサイトで商品を注文した覚えがなかった。

 ひきこもりがちな生活を送る彼にとって、購入した商品が届くというのは一大イベントで、配送予定日当日は追跡サービスを利用して状況を頻繁に確認する。だから少なくとも、今日配達が予定されている荷物がないのは確かだ。配達日を指定できない商品の可能性もあるが、彼の記憶にそれに該当する注文品はない。首を傾げながら玄関ドアを開く。

 配達員は、外見にこれという特徴のない若い男性。抱えているのは、一辺が三十センチほどの立方体。そのサイズぎりぎりの大きさのなにかがぴったりと収まっているようでもあり、小さなものが分厚い梱包材に包囲された中央に寂しく収まっているようでもある。

 持参した印鑑で押印しようとしたが、朱肉を持ってくるのを忘れたためにそれを果たせず、配達員の男性に怪訝な顔をされた。印鑑と朱肉は同じ引き出しに保管してあるから、宅配が来たときはいつもワンセットで持っていくようにしている。どちらかを忘れたことなど今まで一度もなかったのに。

 拓真は羞恥の念を感じながらサインを済ませた。なにかとてもちぐはぐな感じがした。受け取った箱はスマホよりも軽い。配達員が去ってから伝票を確認したが、配達に必要な最小限の拓真の個人情報が記されているだけだ。

 部屋に戻って開封する。茶封筒のような色合いの紙を丸めたものの奥から発掘されたのは、一枚のCD。拓真が中学二年生、学校に行かなくなったころよく聴いていた女性シンガーソングライターのものだ。裏面を見ると全部で十三曲が収録されている。

「彼女」は平明な言葉で愛の尊さを謳った歌詞をつづり、伸びやかな歌声と高い歌唱力で歌い上げる。拓真は中学生のころ、たまたまつけていたラジオで「彼女」の歌声を耳にして存在を知った。

 当時の彼くらいの年齢の男女が好む恋愛ソングと同じ愛でも、「彼女」が歌うのはより根源的な愛。色恋沙汰とは縁遠く、性格的にも年齢的にも自らが置かれている状況的にも、「普通」の枠から外れたものを求めがちだった当時の彼は、その特殊性に惹かれた。人間味のある温もりを欲していた彼に、「彼女」のメッセージと声質はぴったりだった。拓真は一時期、一日中といっても誇張ではないほど長時間「彼女」の歌を聴いていた。

 しかし公立高校への進学が決まり、人通りの多い道を再び歩き出したのに伴い、彼の心は次第に彼女から離れた。正常に近い精神状態の者からすれば、「彼女」が歌詞に込めたメッセージは、独自性こそ認められるものの、どこか現実離れした絵空事のようにも感じられ、きれいごとの世迷言に聞こえなくもない。「彼女」にいっさいに非はないが、暗黒時代の思い出と決別したい気持ちもあった。

 たまに思い出したようにCDを聴き直し、「懐かしいな」という面白味のない感想を胸に浮かべて、一巡するとともにケースに戻して棚にしまう。高校生になってからは、「彼女」との関わり合いはその程度の濃度に低下した。

 大学生になった現在、「彼女」の曲はまったく聴いていない。一回目の不登校時代からの五年のあいだにすっかり一般的になった、音楽系のサブスクリプションへの加入後も、試しに一曲聴いてみることさえなかった。

 その「彼女」のCDが届いた。仕送り額はそう多くなく、アルバイトもしていない拓真が、サブスクリプションですら聴かなかったアーティストのCDに金を使うはずがないのに。

 もう一度箱の伝票を見る。誰かからの贈り物かとも考えたが、送り主に関する情報はいっさい記載されていない。そもそも「彼女」の楽曲を好んで聴いていたことは拓真本人しか知らないはずだ。

 知らないのは姉も例外ではない。互いが思春期の中に両足を置いてから、きょうだいが会話する機会は極端に減った。姉はそもそも自分が興味のないものには徹底的に無関心な人だから、弟の趣味嗜好などどうでもいいことのはずだ。

 ヒントはCDの中にあるかもしれないと考えて、改めてCDの裏面に目を通す。アルバム名は『新生世界』。


01.あなたという宇宙が生まれた夜明けに

02.さえずり

03.雪景色の窓外

04.ブランチには温かなパスタと冷製スープを

05.……


 楽曲の内容までは想像もつかないが、タイトルを見るだけで「彼女」らしいと感じる。聴いてみたい、と心から思った。

 ただ、CDが聴ける機器はこの部屋にはない。どうしようかと眉根を寄せて、サブスクリプションで聴けばいいと気がつく。さっそくアプリを起動させて検索をかけると、一発で「彼女」の『新生世界』がヒットした。

 さあ聴こうという段になって、部屋に塩焼きそばの臭いが漂っているのが気になった。インスタントの焼きそばはすこぶる美味だが、化学調味料のせいで匂いが強いのが玉に瑕だ。彼は「彼女」の歌を精神安定剤としても活用していたため、ムードもある程度は大事にしていた。臭いは、雑音と人気の次にムードを損ねる。

 中身と容器をごみ袋に放り込んで口を閉めたが、臭いはしつこそうだ。家電量販店で二番目に安かった有線イヤホンを耳孔にねじ込みながら、掃き出し窓を開けてベランダに出る。アパート前の通りを自動車が行き交う音が距離のわりに遠い。夜ももうじき九時になろうとしているが、今の服装でちょうどよさそうな気候だ。

 後ろ手に窓を閉ざす。あとは再生ボタンをタップするだけ。白々としたコンクリートの床に腰を下ろし次第そうするつもりだった。

 親指が画面に触れる寸前、拓真は気がかりな音を聞き取った。イヤホンから聴こえてくるのかと一瞬思ったが、音楽はまだ再生されていない。

 イヤホンを外してみて、隣のベランダからすすり泣きが聞こえてくるのだと分かった。

 拓真は凍りついた。体の中心部はむしろ平時よりもいくぶん温かいのに、皮膚から外側が冷たく強張り、まばたきや身じろぎレベルの運動さえも封じられてしまった。

 拓真は傾聴する。

 洟をすする運動に伴って発信される音とも声ともつかない音声は、涙の成分を色濃く孕んでいる。物悲しく、切なく、胸に物理的な圧迫感を覚えるような調べ。大声で泣き喚かれるよりもずっと悲しいし、ずっと切ない。

 この部屋に越してきたさいには、生まれ故郷の銘菓を手土産に、両隣と上下の部屋に挨拶に行った。拓真は行きたくなかったし、無理にそうする時代ではないとも思ったが、常識と普通を愛する彼の父が、「挨拶くらいしておかないと、なにかトラブルが起きたときに困るのは拓真だよ」と脅すようなことを言うので、不承不承それに従ったのだ。

 すすり泣きが聞こえる部屋の住人は若い女性だった。顔ははっきりとは覚えていない。どんな言葉を交わしたのかも忘れてしまった。年齢、職業、その他諸々の個人情報はなに一つ知らない。知りたいとも思わなかった。

 生活リズムが微妙にずれているらしく、部屋が隣同士という関係のわりにニアミスする機会は少なかった。顔を見れば「左隣の住人だ」と分かるし、会釈くらいはするが、それだけ。壁は充分な厚みがあり、生活音はほぼ漏れ聞こえない。拓真の中で隣人Aの存在感はかなり低かった。

 その存在感が、彼女が一回洟をすするたびに高まっていく。一回一回の上昇幅は小さいが、着実に。

 初顔合わせを終えた時点で隣人Aの印象は薄かった。ようするに普通の人だったということだ。トラブルもロマンスも起こらず、ただの隣人同士としての関係が続いて、どちらかが引っ越しをすることで永遠に別れるのだと思っていた。

 そんな普通の人間が、泣いている。

 この世界は、普通の人間さえも悲しませる。

 憤りにも似た感情が体の深奥で灯った。不条理を許したくない気持ちが込み上げたが、五秒と経たずに萎えてしまう。すすり泣きの音色があまりにも悲しくて、呑まれてしまったのだ。

 聴きたくない。逃げ出したい。

 それにもかかわらず、体を動かせない。立ち上がって窓を開けて、部屋に戻って窓を閉める。たったそれだけのことが、何千年もの歳月をかけなければ完成させられない、古代国家の狂った一大プロジェクトも同然に感じられる。

 隣人Aの世界に、自分という存在を挿入したくないと拓真は思う。

 そのためにできるのは、この場に留まり、隣人の悲しみに黙って耳を傾けること。

 ――だけではない。それ以外にはなさそうに思えるが、ある。この状況で選択可能な逃避方法が、他にも。

『新生世界』を聴けばいい。

 拓真の意識は何分かぶりにすすり泣きから抜け出した。その気の緩みが、聴く意思がまだ固まっていないにもかかわらず、再生ボタンをタップするという過ちに繋がった。

 大きな物音が立った。拓真の部屋のベランダと隣室のそれとを隔てる仕切りが外れた音だ。

 全高三メートル、額から一本の角を生やした異形が、小動物のような小さな黒い目で拓真を見つめている。

 触手の形になった手が、合図もなく、目にもとまらぬ速さで拓真に接近する。避けられない。胸に衝撃を感じ、意識は闇に塗りつぶされた。


 パチン、という無機質で、チープで、どこか味気ない、スウィッチをオンあるいはオフにしたかのような音が脳内で鳴り、拓真は意識を取り戻した。

 青白い空間だ。白の底に青が息づいていて、ゆえにそう見える。その色をたたえているのは約二メートル四方の、ガラスとプラスティックの中間のような質感の正方形のパネル。それが床、壁、天井、あらゆる面に隙間なく敷き詰められている。

 八方のところどころに、鼠色に変色した円形の部分がある。拓真の目にはドアかなにかに見えるが、ノブや錠の類は付属していない。床や壁のみならず、天井にもそれはある。

 空間内においてもっとも不可解なのは、宙に浮いている立方体のキューブだろう。掌に乗る大きさで、一辺が約五センチ。身長百七十センチの拓真の肩くらいから、手を伸ばせばつま先立ちをせずとも触れられる高さにかけて分布している。キューブの配置に規則性は認められない。直線距離にして、最低でもパネル四枚分の間隔があいているため、鼠色のドアらしき物体と同じくところどころにあるという印象だ。

 八方を埋め尽くすパネルが青色を帯びた白なら、キューブは灰色を帯びた白。灰色の塊を純白で糖衣したかのようだ。いずれも宙に浮いていて、よく見ると物体自身の一辺ほどの幅を上下に動き続けている。十秒ほどをかけて一往復という速度だ。

 疑問なのは、どのような原理によって浮かび、上下しているのか。風は吹いていない。人工的な青白さがどことなく宇宙的だからだろう、重力がないのかと一瞬疑ったが、拓真は己の両足でしっかりと床を踏みしめて立っている。

 恐怖がじわり、じわりと体の芯から滲み出し、遅々とした速度で全身へと広がっていく。

 ここは、どこなんだ?

 ベランダで音楽を聴こうとしたのは覚えている。うたた寝をしてしまったのだとしても、なぜベランダではなく見覚えのない場所にいるんだ? 目を覚ましたら見知らぬ場所にいたという状況のわりに、冷静でいられているのはなぜ? そもそも、意識を取り戻すまで眠っていたのなら、なぜ僕は立った状態で目を覚ましたんだ?

 パニックの第一波が凄まじい勢いで腹の底からせり上がってくる。絶叫しようとした瞬間、頭上でなにかが開いた音がした。自動ドアが開くさいの音を滑らかに洗練させたような、とでも表現すれば近いだろうか。

 パニックを起こしかけているゆえ、異変の根源を目視するのには怖さを感じた。しかし、確認しないことによって生じるリスクもある。後者を恐れる気持ちがわずかながらも上回り、顔を上げた。

 拓真の頭上、真上から少しずれた位置にある鼠色の円形がいつの間にか消失し、暗黒の空洞がぽっかりと口をあけていた。その黒を、一瞬にして白が塗りつぶしたかと思うと、徐々に拡大していく。拓真の語彙では圧力としか呼びようがないものが降り注ぐ。その圧力が白の拡大とともに増大していく。穴からなんらかの物体が出現し、下降してくるのだと悟る。

 下降速度がいきなり上昇し、物体が彼の目の前に移動を完了した。白い物体のディテールを把握するよりも先に、パーソナルスペースに侵入されたことに対する驚きと恐怖に、無声の悲鳴を吐いて尻もちをつく。掌で感じた床は、温かみの底に冷たさがある。

 目線が低くなったことで、物体の下部が視界に映った。白色の絵の具のチューブから絞り出したばかりの白と比べると不純だが、間違いなく白の範疇の白一色の、キューブよりも二回りほど大きな立方体。黒い紐が幾重にも巻きつけられていて、視界に映る範囲内において、白と黒はほぼ一対一の比率だ。

 恐怖はあったが、天井から気配を感じたときと同じ理由から素早く見上げた。

 巨人が立っていた。全高は三メートルにもなるだろうか。少なくとも人型ではあるが、異形だ。額から小さな角が突出し、両腕が触手の束になっていて、スカートのように巻きつけられた赤紫色の布の下端から立方体の足が露出している。草食動物のような黒目が拓真を見下ろしている。生気は感じるが感情は読み取れない。

 見覚えがある。

 この異形は、姉のスケッチブックに描かれていた――。

 異形は右手をくの字に曲げていて、触手の束の先端は肩ほどの高さにある。その先端に、なにかが凝集されていくのを拓真は感じた。五感のいずれを動員しても感知できない、なにかを動かすだけのポテンシャルを内包した、彼の語彙ではエネルギーとしか言い換えられないものが。

 拓真の眼差しも凝集されるもの一つであるかのように、彼は触手の真上の虚空を凝視した。そのとたん、無だった空間にキューブが出現した。彼がいる空間に無数に漂っているのと同形同色同サイズのキューブだ。

 出し抜けに、三十本近くある黄色い触手の一本が微かに動いたかと思うと、キューブが拓真の額を目指して高速で飛んできた。避ける間も、叫ぶ間も、目をつぶる暇さえもなく眉間に衝突する。刹那、

『理解力に乏しいお前たちに寄り添い、私たちなりに懇切丁寧に状況を説明しよう。私たちがお前をこの惑星に連れてきたのは、奴隷として肉体労働に従事させるためだ』

 という文章が脳内でぱっと花開いた。何者かにしゃべりかけられたのではなく、ひとまとまりの文章の全文を一瞬で聞き、一瞬で内容を理解したのだ。今まで経験したことがなく、類例も見つけられない、超現実的な感覚だ。

 エネルギーの凝集現象が再び発生したような気配を、拓真は五感のどれでもない器官を介して察した。彼だけ聞こえる音が空を切り、二個目のキューブが右頬にぶつかる。

『うぬぼれるな。お前が選ばれたのは純然たる偶然。他の地球星人と比べて、お前はなんら特別な資質を持っていない。地球星人を相手にすると話が長引くから困りものだ。私たちはラガヌム星人という名がついた、お前たち地球星人とは違う生態を持つ知的生命体。お前たちの言葉で表すならば異星人だ。地球星人との相似性が部分的に認められる姿形をしているのは、このような姿で生きるのがもっとも効率的な環境下で生きているからであって、地球星人に配慮したわけでも模倣したわけでもない。お前を拉致したのは、先ほども言ったように奴隷として労働させるため。ラガヌム星人は肉体労働を蔑視していて、他の生物に代行させる習慣を持つ。その一匹としてお前が選ばれたわけだ』

 文章はそれなりの長さだが、内容は一瞬で理解できた。それも驚くべきことだが、内容自体も捨て置けない。

 奴隷? 肉体労働を代行? なんで僕がこんな目に?

 不条理な仕打ちに異議を申し立てたい気持ちが見る見る膨らむ。うらはらに、二個目のキューブを食らった直後から俯けていた顔を持ち上げることができない。

 異形からのメッセージを拓真は問題なく理解できるのだから、拓真の言葉を異形は問題なく理解するだろう。ただ、だからと言って、言い分が聞き入れられる保証はない。拓真が訴えたいことを、果たして本当の意味で理解してもらえるのか。

「異星人だ」という自己申告を心から信じたわけではないが、人間とは別種の知的生命体である、という思い切った定義をしてしまった方がしっくりくるような、人間からはかけ離れた生物なのは確かに思える。そして、まとまった文章を一瞬で伝え、内容を理解させる装置を実用化していること――2020年代における人類の科学技術力を圧倒している。

 人間と犬のようなものだ。人間から見て犬は賢い動物だが、人間には到底及ばない。

 犬を愛し、家族のように寄り添う人間は少なくないが、異形は拓真を奴隷として働かせると明言している。捨て犬のように哀れっぽく鳴いて心変わりさせられるのなら、やる価値はあるだろう。しかし、下等生物の命乞いに耳を貸すような存在であれば、そもそも「奴隷として肉体労働させる」という発想には至らないはずだ。

 全速力での思案は、そう自答した直後に切断された。異形の右手の触手が一本だけ蔓のように伸びたかと思うと、拓真の首に巻きついたのだ。逃げるチャンスをわざと与えているかのような緩慢な動きだったが、彼の体は金縛りに遭ったかのように動かず、捕獲を許した。頸部の筋肉が緊張したが、触手はほんの軽く肉を圧迫しただけで、締めつけるような強い力は加えてこない。

 首と触手の隙間に両手で挿し込み、後者を掴む。すべすべしていて、水気がないのに濡れているように感じられる。恐る恐る、ほんの少しだけ指先に力を加えてみると、弾力がある。

 異形の顔を仰ぐ。異形は拓真を見下ろすのではなく、真上を見上げている。自らが通ってきた穴を見ている。

 首の締めつけがわずかに強まった。触手を掴む両手に思わず力がこもった。次の瞬間、拓真の体は真上に向かって勢いよく跳んだ。声にならない叫びが口からあふれ出した。

 無限に上昇し続けること。上昇から下降へと転じて床に衝突すること。どちらに恐怖するべきなのか、決めかねているうちに視界が闇に包まれる。背筋を悪寒が駆け上がり、靴底が床に接した。

 息をつく間もなく異形は移動を開始する。空気が肌の表面を流れる感触から推測するに、せいぜい自転車を立ち漕ぎする程度の速度のようだが、視界がきかないので断定はできない。

 どこに連れていかれているんだ? なにかにぶつからないだろうか?

 胸の内側を埋め尽くす不安とはうらはらに、異形の走行は高い安定感を保っていて、前後左右どの方向にも揺れない。恐怖感は緩やかに薄らいでいき、やがて触手を掴む汗ばんだ指を緩めた。

『無駄なことはするな。私はお前を痛めつけももてなしもしない。お前をここに連れてきた目的のために働いてもらう、それだけだ』

 心の中を読んだかのようなタイミングで文章が花開いた。キューブがいつ送られたのかはまったく分からなかった。

 そのとおりだ、と思う。

 どこに連れていかれるのかなんて、愚問だ。決まりきっている。僕を肉体労働させるために、作業場に連れていこうとしているんだ。そうとしか考えられない。告げられたばかりなのに、理解できない僕はどうかしている。

 拓真は触手から両手を離し、だらりと垂らした。


 どれくらい闇の中を疾駆したか分からない。

 出し抜けに眩い光に視覚を射抜かれた。本能的に閉ざした瞼を恐る恐る開くと、青白い空間に拓真はいた。異形に触手で首を掴まれたままだ。

 移動前にいた空間と同じく青白いパネルで八方を覆われているが、こちらの方が少し狭いようだ。全面が白っぽいせいで視覚的には分かりづらいが、空間の限界面が先ほどよりも近くにあるように感じられる。

 ところどころに鼠色の出入口があり、ところどころにキューブが浮かんでいるのも同じだが、前の空間には存在しなかったものが二つある。

 一つは、長大なテーブルに置かれた水槽。金魚五・六匹を飼育するのに適当な大きさで、中には澄んだラピスラズリ色の液体が満杯にたたえられている。水槽の中央には、カッターナイフの刃部分に似た形状の金属片が浸かっていて、琥珀に囚われた昆虫のように微動だにしない。

 もう一つは、高さ二メートルほど、全身が透明な電気スタンドのような物体。クラゲを思わせる形状の笠は全体が薄い虹色を帯びていて、視線をわずかでも動かすたびに、光を反射したかのようなささやかな輝きを放った。実際の電気スタンドのように笠の下部に電球は付属しておらず、六角形の支柱の側面のところどころから、二本で一組の弧状の突起が突き出している。その部分だけを切り取れば、鋭利な獣の爪か牙に見える。全体を見ると、魚かなにかの骨のようだ。

『地球星人、無駄を排泄して飽き足らない非効率的な存在よ。おまえたちが私たちを出し抜くとすれば、その一点にのみあると言っても過言ではないが、所詮はたった一度強く吹き抜けた特異な強風に過ぎない。集積することはあり得ず、真の意味で私たちを出し抜くなど夢物語』

 出し抜けに脳に咲いた言葉の羅列に、拓真は軽く息を呑んで異形の顔を見る。異形は滑るように電気スタンドもどきへと向かっている。いつの間にか生成されていたキューブが拓真にぶつかる。

『これよりお前に手術を施す。金属片を複数枚人体に埋め込むだけの簡単な手術だ。これによりお前の作業効率は一定程度上昇する。人格・肉体・精神・記憶、いずれも根本的な部分は変更されないから安心しろ。安物だから劇的には変えられないのだよ。お前たち地球星人ごときに金はかけない。それが私の属するコミュニティの方針なのでね』

「しゅ……しゅじゅ……」

 手術ってなんだよ。ふざけるな。お前みたいな訳のわからないやつに、体をいじくり回されてたまるか。

 拓真はそう口走ろうとしたが、声にならない。なにが邪魔をしたのかは彼自身にもわからない。両手を再び触手にかけたが、それ以上のことをするのは怖い。

 電気スタンドもどきに辿り着くと、それに背中から体を押しつけられた。両足を踏ん張ったつもりだが、無駄だった。強い力が加えられたわけでもないのに抗えないのだ。透明な牙が食虫植物の葉のようにゆっくりと閉じ、拓真の首を、両腕ごと胴体を、両脚を、それぞれ束縛した。いやいやをするように首を左右に振ったが、支柱はびくともしない。

 異形は音もなく水槽に歩み寄り、触手をラピスラズリ色の水に浸す。異形は触手の先端を軽く巻きつけるのではなく、めり込ませるようにして金属片を掴んだ。引き抜くと、青い液体がゼリーのように震えた。引き返してくる。

『痛みはない。刺した瞬間に麻酔が全身に行き渡る。キューブと同じ原理だ。どうしても嫌なら舌を噛みちぎって、死ねるかどうか試してみるといい。私たちに別の地球星人を連れてくる手間をかけさせることができて、お前としては痛快なんじゃないか?』

 悲鳴を吐き出そうと息を吸い込んだ瞬間、狙い澄ましたようにこめかめに異物感を覚えた。金属片が刺さったのだ。痛みはない。ただ、異物が人体に、しかも頭部に入り込んでくる肉体的感覚。軽度の嘔吐感を伴った不快感。

「ああああああ……」

 叫んだつもりが、迫力を欠くどこか滑稽なうめき声になった。涎が何本かの筋となって垂れ落ちる。下腹部が温かい。言葉と涎だけでは飽き足らず、尿まで漏れたのだ。

「ああああああ……」という声に歩調を合わせるかのように金属片は中心へ、中心へと進行し、触手の湿り気をこめかみが感じて動きが止まる。鎧戸を下ろしたように「ああああああ……」も閉ざされる。

『施術が始まってから小便を垂らすのは珍しい。上位十五パーセントほどか。たいていの地球星人は私が目の前に現れた時点で漏らしている』

 異形からの言葉を聞いたのと、突き刺されたばかりのこめかみのそばに気配を感じたのは、ほぼ同時だった。触手は伸縮可能だった、と思い出す。

 再び、金属片がめり込む感触、嘔吐感を伴った不快感、ああああああ――。


 手術を終えて朦朧とした意識の中、触手に牽引されて拓真が連れてこられたのは、悪臭が蔓延する広大な空間だった。

 地面には黒っぽいもやもやしたものが堆く積み上げられている。腐肉と排泄物の中間のような悪臭の源泉はそれらしい。鉄製の平たく細い紐を乱暴に丸めたような見た目で、小さなものは指頭大。大きなものは胎児のポーズをとった成人男性ほどもある。

 地面はプレーンのクラッカーかクッキーのような色合いだ。スニーカーの靴底をこすりつけてみると、普通の土の地面とは違い中身が詰まっていないような感触。発泡スチロールに似ているが脆さは感じない。異形の目を盗んで、少し力を入れて踵を擦りつけてみたが、地表は削れなかった。

 空間の横と奥行の広がりには際限がない。それに合わせて、黒いもやもやの山も延々と続いている。丘のようになだらかに盛り上がった箇所、魔女の帽子のように高く鋭く隆起した箇所。仰いだ空は白くぼやけていて、雲も太陽も見当たらない。

『目の前にある大量の黒いものを私たちは「キップル」と呼んでいる。そのキップルをひたすら処理機にかけるのがお前の仕事だ。ひたすらというのは、短期的には、サイレンが鳴ってから再びサイレンが鳴るまで。長期的には、お前が加齢による体力の衰えにより満足に労働をこなせなくなるまで。お前はどうせキップルに見とれて周りが見えていないだろうから、仕事を始める前に処理機と寝床を目で確認する時間を十秒だけやる。ちなみに、寝床はお前のために私たちがもっとも多くの金をかけた設備だ』

 以上の文章が花開いた直後、仰々しい機械の作動音が聞こえてきた。洗濯機の稼働音に近いが、もっと大きな機械が複雑な仕組みで動いているような重厚感がある。

 音源を見向くと、ドラム式洗濯機のような機械が置かれている。正円形の投入口の奥で、方錐形の棘が無数に備わった、人間の腕ほどのサイズの棒が回転しているのが見える。さながら口臭のごとく、その口からもキップル由来の悪臭が漏れ出している。

 首を後方に捩じると、二階建てビルに肩を並べる高さの太い金属製の柱の上に、全面ガラス張りの巨大な箱が鎮座している。床には枯草や藁や赤紫色の小さな花などがビビンバのようにごちゃ混ぜになって敷かれ、中央に陶製らしき扁平な箱がぽつんと置かれている。複数のキューブが浮かんでいるのも確認できた。

『これで十秒』

 キューブに書き込まれた情報が拓真の注意を引き戻す。

『私たちと「キップル」の因縁や、ラガヌム星人の創世神話の解説など、地球星人のためになるようなキューブをいくつか用意している。休憩時間にインプットするがいい。お前の仕事は処理機でただひたすらキップルを処理すること。片時も失念しないようにしろ。以上だ』

 鼠色のドアから異形は空間を去り、拓真は取り残される。

 ドアを開けてみようとは思わない。どうせ彼らにしか開閉できないのだろうし、開けられたところでどこへ逃げろというのか。

 渡された台本で「拓真:疲れたようにため息をつく」と指示されていたから従ったとでもいうようにため息をつき、キップルの山の最前線へと歩み寄る。地面を踏みしめるたびに股間で縮こまった男性器が小さく揺れる。いつ衣服を没収されたのかは定かではないが、十中八九失禁したのが理由だろう。

 少し腰を屈めて掌サイズのキップルを掴む。予想に反して金属的な触感だが、針金のように容易く変形する。硬さのあるビニール紐のような、極薄の鉄板を紐状に切ったもののような。持ってみると羽が生えているかのように軽い。

 ひとまず、手にしているたった一つのキップルを処理機に放り込む。黒くもやもやしたそれは回転する棒の棘に絡め捕られ、乾麺を手で割ったような音を立てる。何回転かするとキップルは視認できなくなり、音もやんだ。少しのあいだ待ってみたが、ただ棒が回転し続けるだけだ。あまりにも呆気ないが、これで処理は完了らしい。

 処理機の前に立ったまま、首を左方向に捩じる。キップル、キップル、キップル――どこを見ても黒ばかり。

 さっきの十倍の数を同じ所要時間で処理機に放り込むとして、何時間、何日、何週間、何か月、何年この仕事に励めば、全てのキップルを片づけてしまえるのだろう?

 全身から力が抜けた。地面に膝をつかなかったのは奇跡としか言いようがない。

 数秒のあいだ呆然としたのち、キップルの最前線へと歩を進める。力のない足取りだったが、すでに覚悟は固まっている。

 とりあえず、サイレンが鳴るまではキップルを処理機へ運び続けてみよう、と。


 サイレンは外の世界からではなく、頭蓋骨の内側で鳴り響いた。拉致される前に拓真が暮らしていた世界でサイレンと呼ばれているものとは似て非なる、電子的な響きを孕んだ単調な音声だ。

 音が響き出したとき、拓真は大小のキップルを両腕いっぱいに抱え、処理機の口に押し込もうとしているところだった。

 何時間にわたって作業していたのかは分からない。時計はどこにも設置されていないし、空に太陽は浮かんでいない。作業時間が募るのに並行して肉体は疲れていき、心は嫌気が差していったが、心身ともに、言うなれば耐えられる疲労。無理をすればあと何時間、何十時間も働けそうだ。金属片の効能に関して、異形は作業効率の上昇と説明していたが、おそらくそういうことなのだろう。

 金属片、金属片、金属片……。

 埋め込まれるさいの不快感と恐怖、嘔吐感、失禁した屈辱。サイレンの響きは抑圧していた過去を甦らせ、疲労感は一気に増した。

 抱えていたキップルを足元に落とす。処理機の口は少し手を伸ばせば届く位置にあったが、そうした。電子音はいつの間にかやんでいる。腰に両手を宛ててため息をつき、キップルの山に背を向けて歩き出す。

 鉄製の梯子を上り、観音開きのドアを開いて巨大なガラス箱の中に入る。内部まではキップルの悪臭は届いておらず、ほっと息を吐く。

 箱の外からもガラス越しに見えた、中央の床の扁平な陶製の四角い箱には、人間が潜れない大きさの正方形の空洞があいていた。サイズ感と、両足を置くらしき浅い窪みがあるのを見るに、トイレらしい。空洞に顔を近づけてみたが、臭気は感じない。風が吹き上がってくるような音が、幻聴かと疑われる微かさで聞こえてくる。この穴を通ればこの場所から脱出できるかもしれないと思ったが、残念ながら拓真は小人ではないし、自らの体を収縮させる能力も持たない。

 穴に跨って長々と尿を放つ。残量はそう多くなかったが細く長く続いた。地球で飲んだ水分を別の惑星で排出しているのだ、と思う。義務かなにかのようにいきんでみたが、大便は出なかった。

 キューブの存在は、雫を切ったあとで思い出した。異形から送られたキューブの情報から推測するに、室内にあるキューブは部屋を使用するにあたっての説明書のようなものなのだろう。部屋の隅に置かれた、マングローブかなにかのように複数の脚が絡み合った机に向かいながら、道中の空中に浮かんでいたキューブに触れてみる。

『食料は机の引き出しの最上段左にある、地球星人の手の指頭よりも一回り大きい、灰色の球体がそれだ。一日一個、労働後に摂取すれば、一日に必要な栄養を得られる。水分も含まれているから、文字どおりその一個で充分だ。複数個食べても死にはしないが、補充は十日に一回しか行わないから、あとになってお前が苦しむだけだ。もっとも、そうなった場合でもお前が死ぬことはないが』

 問題の食料は円筒形のガラスケースに収まっていた。プラスティックでできたような色合いと質感で、まったく食欲をそそられない。ケースの蓋を開けて鼻孔を蠢かせたが無臭で、食べ物ではない匂いを嗅ぐよりも気持ちが萎えた。

 ケースを机上にそっと置き、手当たり次第にキューブをつついてみる。

『床に敷いた枯草の活用法は己の頭で考えてみよ』

『キップルは本質的に無尽蔵である』

『疲労感の程度にかかわらず、休息時間は体を休めることを推奨する』

『盲目であれ。思案は無益。ラガヌム星人は地球星人を指導する存在なり』

 教訓と注意書きの中間のような短いメッセージが多かったので、キップルの山にもっとも近い壁に貼りつくようにして浮かんでいるキューブに何気なく触れた瞬間、膨大な文章が開花したのには驚いた。文章量の多寡にかかわらず理解は一瞬だが、その仕組みにのっとって物事を理解する経験を、地球星人である拓真はこれまでしてきていない。見落としている情報がある気がしたし、量が多い分だけ向き合う時間を長くとらなければいけない気もして、何度も触って丹念に反芻した。

 そのキューブに秘められていたのは、ラガヌム星人が信じる創世神話だった。

『この世界は初め、無だった。無がそもそもいつ発生したのかは誰にも分からない。永遠にも等しい長い時間が流れ、無は突然裏返った。無の裏側は全存在だった。多くの地球星人が呼称するところの「神」だ。ラガヌム星人はこの簡潔な呼称を気に入り、また、地球星人を長きにわたって奴隷として使役している罪滅ぼしも兼ねて、全存在を神と呼ぶことにした。世界そのものだった無が裏返った存在である神は、必然に世界そのもの。自分という存在しか存在しない世界で、神は大いに退屈した。手すさびに、なんらかの物質をこねるイメージを弄んだ。すると、白っぽく柔らかい固体が生じた。こねるイメージを弄べば弄ぶほど固体は嵩を増していく。やがて神がこねるのにも飽きたころには、固体は神の手にも余るほどの大きさになっていた。飽きを感じながらもこね続けるのに並行して、神は別の固体をこねるイメージを時折弄ぶようになった。一つではなく、百、一万、一兆、無量大数――神にしか手に負えないほど膨大な数のイメージを。神は新規の固体の数々を、最初の巨大な固体に埋め込み、混ぜ込んで一体化させる作業に勤しんだ。複数のイメージが混ざり合うことで、神の心すらも飽きさせない、豊かな景色が展開した。あまりにも個性的なので、一つの固体としてまとめておくのはもったいない、と神は考えた。そこで、気に入った領域を何か所かピックアップし、固体本体からちぎり取って虚空に浮かべた。神は大きな固体をこね続けながら、生まれて間もない小さな固体を眺めて楽しんだ。小さな固体には手を加えなかったが、取り巻く虚空の影響を受けて、次第に細く、長く、変形していった。神の想定と想像を超えて、小さな固体には多彩な変化が様々な方面に向かって起こり始めた。神はこれを不快な謀反と見なして罰を与えるのではなく、無邪気に愉快がった。世界イコール自分であることに退屈し、退屈した挙げ句に始めたこねるイメージを弄ぶのにも退屈する、という体験をした神は、変化を喜び、愛でる心を持つようになったのだ。神は全存在だから、たとえ自らの意思を無視して変化したとしても、その気になれば一瞬で是正できる。しかしあえて、一度本体から切り離したものには決して手を加えず、神らしい鷹揚な気持ちで観賞に耽った。様々なイメージを混ぜ込む作業は飽きることがなく、気に入って切り離した小さな固体の総数もすっかり増えた。それに伴い、神の意に沿わない変化を見せる固体の割合も増加した。それもまた一興、という寛大な受け止め方を最初はしたが、該当する固体は増える一方。分裂先の固体はどうやら、自らの意思で神の意に沿う様態に戻ることはないらしい。神は全存在ゆえに変化を一瞬にしてリセットしたり、変化の方向性を変更したりすることも可能だが、遊ぶことにすっかり親しんだ神は、遊びのようなやり方で変化を捻じ曲げることにした。固体はこねればこねるほど柔らかくなり、変形しやすくなる。そこからヒントを得て、固体をもっとも柔らかくした形態、すなわち液体にして虚空に放流した。液体は固体に接触した瞬間にそれに付着する。付着した結果どのような姿になるのかは、液体や固体自体の性質、接触した角度、その他様々な要素、すなわち神にしか知り得ない法則にのっとって変動する。神はその法則を承知していないふりをして、固体たちがどのように変化するのか、ならびに変化した姿を楽しもうと考えた。広い意味ではことごとく神の掌の上とはいえ、変化は実に多種多様で、神の心を楽しませた。神は固体から別の固体を次々と生み出し、たまに液体を流して広範囲に大きな変化を与えるのが日常と化し、現在も続いている。これが私たちの宇宙の姿である。ちぎり取って虚空に浮かべられた固体はいつしか惑星と呼ばれ、液体は自然現象と呼ばれるようになった。自然現象と一口に言っても、様態、規模、影響力などが異なるのは、神が流した液体の量、質、流した地点などが一つとして同じではないからだ。変化を楽しむ神らしい対応ではあるが、その予測不可能性は、宇宙に棲息する全ての生命体を苦しめた。私たちラガヌム星人もそれは例外ではない。私たちの惑星・ラガヌム星における最大の自然災害は、キップル。記録すらも風化するほど長い時間をかけて、この無尽蔵に増殖する不要物を消滅させる機械の開発に成功したのは喜ばしいことだが、現段階では量産が難しい。作業を肩代わりする奴隷として地球から地球人を拉致、金属片を埋め込んだうえで労働させているが、処理は追いついていない。現時点では実行可能な効果的な対策は皆無で、奴隷の調達量を増やすことで対処しているのが現状だ。しかし、それも所詮はその場しのぎ。この惑星はキップルに埋め尽くされる運命にあるのだろうか?』

 何度も文章を読んだ。途中で耐えがたい疲労感を覚え、テーブルに引き返して灰色の球体をかじった。ゴムのような食感で、味がしなかった。テーブルに置き、床に寝そべろうとしたが、床一面に敷かれた枯草の絨毯は思いのほか薄く、ただ横になるだけでは寝心地が悪い。かき集める必要があるが、億劫だ。

 同じ苦役なら食べた方がいい。噛まずに飲み込むようにしながらなんとか食べきったときには、横になりたい欲求は萎えていた。

 再び、あのキューブへ向かう。あたかも不可視の力に吸引されるように。その力に抗おうともせずに。

 触れようと伸ばす手はいっさいの空気抵抗を感じない。

『この世界は初め――』

『この世界は初め――』

『この世界は初め――』

 キップルは本質的に無尽蔵、という言葉が封じられたキューブは過去に読んだ。無尽蔵というのが、処理が追いつかないほどの速度で増殖することの比喩だとすれば、拓真の仕事が終わることはあるのだろうか?

 キップルは山ほどある。見える範囲内だけでも、一生かかっても処理できそうにないほどの量だ。

 拓真は腰を屈めて、両手を使って、足元にある枯草を一か所に集めた。

 赤紫色の花を、異形はなんのつもりで枯草に混ぜ込んだのだろうと思いながら。


 頭の中でサイレンが鳴った。

 寝覚めは悪くない。意識はかなりクリアだ。

 夢は見なかった。これも金属片の効能だろうか? 見ていたとすれば間違いなく悪夢だっただろうから、その意味では感謝せねばなるまい。

 サイレンが鳴ったら仕事、という話は覚えている。

 ガラス箱を出ると、処理機が昨日と同じ音を立てて作動している。悪臭をふんぷんと漂わせるキップルの山と正対する。山の形は昨日と変わっていないように見える。仮に変化が見て取れたとしても、山の総量を思えばあってないようなものだ。キューブの情報から推察するに、キップルは日々増殖しているそうだから、拓真が減らした以上に増えた可能性が高い。

 僕一人ががんばったところで――。

 虚しさが過ぎった。サボタージュしてしまおうか、と思う。職務怠慢した場合については明言されなかったが、相手は人間を拉致して奴隷にするような生命体だ。きっと罰は用意されていて、それは拓真にとって耐えがたいものだろう。金属を埋め込まれたさいの不快感と嘔吐感がおぼろげに甦る。あれは二度と味わいたくない。

 だからと言って、喜んで労働しようという気にはなれなかったが、

「……やろう」

 拓真はのろのろと動き始めた。


 同じ作業のくり返しだった。

 サイレン、起床、労働。サイレン、労働終了、食事、就寝。

 単純作業の反復、減らないキップル、味気ない球体、拓真を目覚めさせ・休憩を通告する電子音、処理機の棒の回転音と破砕音、奇妙な踏み心地の地面、雲どころか太陽すらもない空、形式的な疲労、枯草に混じった赤紫の小さな花、トイレの底なしの空洞、浮遊する数々のキューブ、奴隷の寝床たるガラス箱。

 それが野中拓真の生活の全てだった。

 ずっと同じことだけをしていればよかった。だから、頭を空にするように心がけさえすれば、精神的な苦痛を味わわずに済んだ。

 唯一、したいときにするようにしたのが、ラガヌム星人の創世神話についてのキューブを読むこと。

『すると、白っぽく柔らかい固体が生じた――』

『分裂先の固体はどうやら、自らの意思で神の意に沿う様態に戻ることはないらしい――』

『これが私たちの宇宙の姿である――』

 何度読んでも狂っている。とても現実だとは思えない。

 しかし、その神話を確立した異星人にさらわれ、強制労働させられているのは紛れもない現実だ。

 読み返さずにはいられないなにかが問題のキューブにはあった。この苦役から逃れるためのヒント、ともまた違うなにかが。

 しかし同時に、そのなにかを自分は永遠に見つけられないに違いない、という確信があった。本能的に理解していたと言ってもいい。

 ラガヌム星人の創世神話の狂気性を確認するだけで、思案はそれ以上発展しないため、キューブの確認作業も、確認するタイミングが不規則なだけの形式的なものにやがて堕した。


 ラガヌム星人の神話では、無が裏返った理由は説明されていないが、拓真の身にも説明不可能な裏返り現象が起きた。

 拉致されて一万何千個目かのキップルを拾い上げたとたん、小学生時代のことを脈絡なく思い出したのだ。

 何年生のときかは定かではないが、道徳の授業だったのは間違いない。同じく詳しい内容までは失念してしまったが、小学生のA君の父親の仕事はごみ収集で、そのことでクラスメイトたちからからかわれているが、職業差別をするのはよくない、という大意だった。

 それを見た拓真少年は衝撃を受けた。ごみ収集は人から差別される職業なのか、と。

 野中家がごみを出しているごみ集積場は、一家が日常的に利用する道に設置されていたため、集められたごみの前を拓真が通る機会は多かった。収集されずに残っているごみ、カラスに食い破られて散乱しているごみなどを見て、うちも気をつけなければと気持ちを引き締めることがたびたびあった。両親からごみ出しを頼まれることがたまにあり、ごみ収集車がすでに到着しているところに走ってごみを持っていくこともあったが、そのときはただただ申し訳ない気持ちになった。収集時間が早すぎて不親切だ、ではなく、規定の時間までに間に合わせられずに申し訳ない、と。

 朝が比較的早いうえに体力を使う大変な仕事だ、という認識だった。身近な場所で仕事の様子を見る機会が多いこともあり、よい意味でも悪い意味でも特別視はしていなかった。それゆえに、差別されることがある職業として取り上げられていたのを見て、そうだったのかという驚きに襲われたのだ。

 大人たちが余計な真似をした、という気づきは当時の時点で得ていた。それに対する反発として、胸の片隅で、ごみ収集作業員をリスペクトする気持ちを持ち続けた。将来の夢を訊かれても「ごみ収集作業員」と答えることはないし、仕事中の彼らに労いの言葉をかけることもないが、リスペクトする気持ちだけは持ち続けた。

 しかし、異形に拉致されて働かされている状況下で彼らのことを思い出したとたん、彼らに対する尊敬の念は音を立てて崩れ始めた。

 失望したのではない。むしろ同情している。しかし同時に、リスペクトされるような仕事なのかと疑問に思った。その思いは現在進行形で見る見る膨らんでいく。

 差別されて当然の職業だ、と言うつもりはない。むしろ、絶対に差別してはならない、差別するべきではないと思う。

 でも、しかし、でも――。

「やっている側からすれば、地獄じゃないか。糞じゃないか、こんな仕事……」

 やることが決まりきった肉体労働に従事するのは、全員奴隷だ。誰かの都合のいいように使われて、搾取されて、命をすり減らしている。そのくせ、自らの意思でその境遇から逃れようとしない。その境遇からは決して逃れられないと決めつけている。あるいは、現在の境遇に甘んじることが最善の選択だと盲目的に思い込んでいる。

「地獄だ、糞だ、最悪だ……」

 罵ってはいるものの、罵りの対象に悪感情を抱いているわけではない。むしろ、自分も含めて同情するべきだと思う。

 なぜなら、拓真も含めた全員、好き好んでその境遇に甘んじているわけではないはずだから。

 涙が出そうになる。ああ、と思う。思った二秒後には、雫が頬を伝っていた。呆然と佇み、首を少し上に傾けて、静かに泣いた。太陽も雲もない、もともとぼやけたような空がいっそうぼやけていく。

 どうして僕は泣いているんだろう? 強制労働させられる奴隷の地位に落ちたのが悲しいから? たぶん、そうなのだろう。

 でも、それだけではない。もう一つある。

 理由が分からないのだ。

 不登校のひきこもりだった大学生の若者が、なぜ地球とは別の惑星でごみ掃除を強制されているんだ?

 異形は「お前が選ばれたのは偶然だ」と言っていた。

 法に反する行為をした。だから罰として、懲役。それなら納得できる。たとえ重すぎる罰だとしても、時間さえ経てばおそらく納得する。不承不承だとしても納得できる。

 しかし、なんの理由もないというのは……。

 なにかを強制する側から「理由はない」と告げられたうえで強制されるというのは……。

 涙は収束に向かっていく。異形の存在を意識したことで、作業の手を止めた罰が下されるかもしれないという危惧の念を抱いたのだ。

 異形が恐ろしいからといって、従うのは情けない。反抗しないと。

 科学技術力で勝る異形に勝てるはずがない。労働しよう。嫌でもそうするしかないのだから。

 相反する思いが胸中でせめぎ合う。せめぎ合い、せめぎ合い、せめぎ合う。

 結局、彼は腕いっぱいに抱えていたキップルを抱え直し、処理機の口に押し込んだ。

 負けたと思いたくない。屈したと認めたくない。頭を空にして、もはや慣れきった作業の流れに乗って動く。機械のように働く。

 キップルの山に際限がないことは意識しないようにして。


 単調な作業を軸にした単調な日々が単調に過ぎていく。

 作業中に突如として裏返って涙を流して以来、拓真の心は薄い諦めの膜に覆われた。なにをするときも感情は平坦。山になったり谷になったりしたときでも、上昇下降の幅は微々たるもので、なおかつすぐさま平らに収斂した。怒りも、悲しみも、不安も、絶望も、灯ったと思った数秒後には早くも陰り始め、灯ってから陰り始めるまでよりも短い時間で消えてしまう。

 諦めに囚われたことで単調さは悪化の一途を辿り、動きはいっそう機械的になり、日々が過ぎ去る速度は加速した。その変化は、拓真を苦しめなかったが楽にもしなかった。

 唯一、拓真に直接影響した変化があって、それは夢を見るようになったこと。それらはことごとく、彼が実際に経験した過去に基づいていた。

 嫌な思い出もよい思い出もあり、どちらの場合も姉が登場することが多かった。

 近所の空き地に二人で虫取りに行ったこと。

 家族四人で出かけた遊園地で拓真がはぐれ、泣いて家族の迎えを待ったが、姉は呑気にクレープを食べながら現れたこと。

 自宅の屋根の上まで行って、ひたすら漫画を読みながらジュースを飲み菓子を食べ、帰宅した親に叱られるまで過ごした愉快なひととき。

 真剣に絵を描く姉の肩越しにスケッチブックを覗き込む夢は何度も見た。夢の中の姉はたいていラガヌム星人を描いていた。金属片を手にしたラガヌム星人、いくつものキューブが浮かぶ青白い空間に浮遊しているラガヌム星人、壁にあいた穴から顔を覗かせるラガヌム星人。

 裸の姉がラガヌム星人の触手に雁字搦めに捕らわれて、辱められている映像も多々見た。性欲を刺激されるのではなく、ただただ悲しい気持ちになった。ラガヌム星人の前ではあの姉でさえも無力なのか、と。

 姉が無力。

 この考えは、自分にとって重要な事実に繋がっているらしいと拓真は感じたが、手がかりを掴むよりも先に探求心が萎えてしまい、諦めた。

 夢を見た日、拓真は決まって涙を流しながら目覚めた。ただし、その液体が流れるのは夢を見ているあいだだけとでもいうように、意識を取り戻してからは一粒も眼球から分泌されない。そして、夢の内容は覚えているにもかかわらず、その夢のなにが落涙させたのかを掴むことができず、首を傾げているあいだに頬の湿り気は乾くのだ。


 抱え持つキップルの塊を腕からこぼさずに、なおかつ処理機の投入口に入る量がどれくらいかというのは、何十万回と作業を重ねるうちに体に染みついた。

 しかし、三十二万と何回目かになるその運搬で、拓真は少し多い分量のキップルをその痩せた腕に抱えた。

 全量を機械の中に収めるには、最低でも二回に分けるしかない。それは拓真ももちろん理解していたが、それでも一回で入れようとした。

 腕の力で左右から圧せば幅はいくらか狭まるが、その分縦に広がる。顎と膝を使って縦の膨らみを押しつぶそうとすると、今度は両腕の束縛から抜け出そうとするかのように左右に膨らむ。折り合いをつけ、上下の高さ、左右の幅、両方を少しずつ狭めても、どちらもぎりぎり投入口の輪郭線に引っかかる。

 それでも拓真はキップルを処理機に入れようとした。

 物理的に不可能だから、無理矢理入れようとしても入るわけがない。塊の一部が処理機の内側に入ったものの、つかえた。

 全身を使って押す力を加えた。中に入る領域が拡大したが、それでもつかえている。これ以上の力を加えても目的は叶えられないと、加圧を跳ね返す力の強さが如実に示している。それでもなお力を加え、加え、加え続け――唐突に気持ちが切れた。

 力が緩んだとたん、キップルが押し返す力がキップルを押す力を上回り、拓真は一歩、二歩と後退した。

 突き飛ばされるような強い力ではない。彼が両足にある程度の力を込めて立っていたなら、その場から一歩も動かずに済んだだろう。しかし拓真は、よろめくように一歩、二歩と後退し、さらにはその場に崩れ落ちた。しゃがむ姿勢で踏ん張ろうとしたが、踏ん張りきれずに仰向けに倒れる。

 拓真の視界には薄く白くぼやけたような空が映っている。視野の中央、端、真ん中でも隅でもない中途半端な場所、そのどれもが同じ色で、同じ見た目だ。

 キップルの山と同じようにどこまでも続いているんだな、と思う。

 そんな空の下で、半永久的にキップルを片づけなければならないんだな、と思う。

 拓真は疲労感を自覚した。疲労に屈したい、という心境になった。

 こんな無意味なこと、やめてしまおうか。

 心の中の呟きが引き金となって、記憶が甦った。体調不良でもないのに初めて学校を休んだ、中学二年生の夏休み明けの午後のことが。

 母には「熱はないけど、体がだるい」と言い訳した。ベッドから出て小用を足しに行くのも億劫なくらいにだるいのだ、と。

 嘘だった。実際には、心がそこはかとなく憂鬱で、体がどことなく重たいだけで、体調的にはほぼ平常。気乗りがしない心をどうにかすれば、学校生活を問題なくこなせるという意味では、広義の体調不良にすらも該当しない。

 彼はクラスメイトからいじめを受けていた。加害者が「いじりです」と殊勝らしく説明すれば、教師を苦もなく言いくるめられる程度に過ぎなかった行為の数々が、歳月の経過とともにエスカレートし、夏休みが明けたのを機に悪質性にさらに磨きがかかった。夏休みという、一か月以上にわたる平穏な日々を過ごしたことで拓真の耐性が弱まったのもあり、寝不足ではないのにベッドから出るのがつらかった。学校に行きたくなかった。

 しかし、いじめに遭っていると正直に伝えるのははばかられた。親に対して、自らが被害者だと申告するのは恥ずべきことだと思ったからだ。そしてもちろん、母を悲しませたくない気持ちもある。母が父に報告すれば、「やられっぱなしなのは男らしくない」とか「なぜもっと早く報告しなかったのか」とか、いじめられている側にも責任があるかのような反応をされるのでは、という危惧の念もあった。

 自分も母もダメージが最小限で済む上手い文言を、目を覚ましてから、母が息子の自室のドアをノックするまでの長いようで短い時間のうちに、彼は見つけられなかった。葛藤の末、嘘をついた。体がだるい、ベッドから出る元気がない、トイレにも行けないのに学校に行けるわけがない、と。

 がんばって、なんとか登校できないか。朝からがしんどいなら、午後からでも行けないか。母はあくまでも登校の道を模索したが、拓真はことごとく難色を示した。

 翻意させるのは難しいと判断したらしく、母は「今日はゆっくり休みなさい」と告げて去った。説得役が父であれば絶対に妥協しなかっただろう。その淡泊さに、時間が経てば経つほどありがたみを感じた。

 人生初のずる休みが認められてからしばらくは、後ろめたさが心から離れてくれず、間断なく罪悪感に苛まれた。ベッドから出られず、残暑厳しい季節にもかかわらず掛け布団を頭まで被った。

 しかし、昼前に母がパートに出かけて一人きりになったのを境に、精神状態は改善に向かった。暑苦しいだけの掛け布団を脱ぎ捨てる。横になったままスマホをいじる。ダイニングまで下りて昼食をとると気力は完全に回復した。学校で授業が行われているあいだは外出しようとは思わなかったし、窓越しに見える空が茜色に染まってもその考えは変わらなかったが、罪悪感や後ろめたさとは無縁に時間を消費できた。

 一言で感想を述べるなら、爽快だった。

 続けていたことをやめるのは気持ちいいものなのだ。やめた直後の罪悪感は避けられないにせよ、症状はごく軽いものに過ぎないのだ。そう身をもって学習した。

 次の日も、その次の日も、拓真は登校を拒んだ。

 母は二日目には仮病を疑い、初日よりも強硬な姿勢で登校を促したが、彼は意思を押し通した。

 気が弱いわけではないが、諦めが早い母にはその手が通じたが、強情な父相手にはそうはいかない。口論がくり返され、弁術でも気持ちの面でも父に遠く及ばない拓真はことごとく打ち負かされ、涙した。

 父の言い分には納得できないものも多いが、怠けているという指摘は的を射ていると感じた。

 夜中にトイレに行ったさいに、ドア越しに耳にした両親の口論めいた話し合いで、母の声が潤んでいるようにも聞こえて、現状を変えよう、変えなければという方向に気持ちは引っ張られた。

 登校再開までには一週間の間があいた。夏休み、夏休み明けの不登校と、長い空白が連続したことで興がそがれたのか、いじめっ子たちの加害行為は多少ましになった。母は学校に「息子は夏風邪をひいた」と連絡していたようで、不登校の事実が新たないじめの種になる悲劇は免れた。

 加害行為が少しでも酷くなると、翌日はベッドから出られなくなることもあったが、何日も休みが連続することはなかった。父がプレッシャーをかけてそれを許さなかったし、再び登校できなくなれば二度と抜け出せなくなる気がして、拓真としてもそうならないように心がけた。

 毎週、あるいは隔週で週休三日という変則的な学校生活を送りながらも、拓真はその年と翌年の三年生とを乗り切った。週休三日で安定したわけではなく、ボタンを一つかけちがえれば一週間、あるいはそれ以上学校から遠ざかる事態に陥りかねない、綱渡りの一年と半年だったが、なんとか卒業まで漕ぎ着けた。

 高校生活は中学時代と比べると格段に平穏だった。学校に行きたくないと思う日もときにはあったが、ベッドから抜け出すのが平素よりも遅くなり、慌てて登校することになるだけ。嫌な思いをしながらも踏ん張った過去が自信に繋がったし、中学二年生のときのように、幼稚ないじめをする生徒がクラスメイトにならなかったのも大きかった。

 躓きのあとがおおむね順調だったせいで、「続けていることをやめる爽快感、喜び」を長らく忘れていたが――今、それを思い出した。

 金属片によって抑えられているが、心身が疲労している自覚は随分前からある。委ねよう、という方向に意識は傾いた。とたんに疲労感が噴出した。疲れが疲れを呼び、次第に意識が遠のいていく。異形から罰が下される可能性を失念したわけではないが、疲れの前では取るに足らないことだ。

 拓真は瞼を閉じる。白旗を掲げたのだ。城門を破った敵兵のように睡魔が雪崩れ込み、またたく間に城を占領してしまった。


 拓真が目覚めると、青白い空間に佇んでいた。食い込む感触を体の何か所かに覚えると思ったら、透明な爪が体を束縛し、固定している。頭上を見上げると、虹色の輝きを帯びた笠が近未来的にその存在を誇示している。

 ふと気配を感じて顔を正面に戻すと、キューブが一直線に拓真へと向かってきていて、鼻面にぶち当たる。

『忘れたか、地球星人。お前の役目はキップルの処理。休息時間ではないにもかかわらず労働を怠慢したお前には罰を受けてもらう。罰則について記したキューブはお前の小屋の中にあったが、どうせ見ていないのだろう。奴隷の身に落ちた地球星人特有の無気力に起因する見落としだが、私たちは奴隷にはいっさい妥協しない』

 異形は水槽のかたわらに佇んでいて、黄色い触手を伸ばしてラピスラズリ色の水の中から金属片を掴み出した。これまでに埋め込まれた数枚のそれとまったく同じようにも見えるし、細部が違っているようにも見える。それを手に、異形が拓真に歩み寄ってくる。

 罰? あのときのような不快感を味わわせることが?

 拓真の頭は混乱している。飛んできた二個目のキューブが頬に当たる。

『これからお前には映像を観てもらう。私たちに拉致されてこの惑星に来なかった場合にお前が体験した未来だ。とくと味わうがいい』

 叫び声を上げる間もなく、金属片がこめかみから埋め込まれる。世界が白く弾け、拓真の意識は断絶する。


 バスが到着するのは十一時半。目的の停留所への到着予定時刻が二時間半後だから、昼食時間と重なる。空腹は感じていないが、胃の中の隙間が大きい状態でバスに揺られると気分が悪くなりそうだ。ため息とともにスポーツバッグの持ち手を握り直し、駅ビルへ向かう。

 拓真は今朝アパートの自室を引き払い、大学に退学届を提出した。入学時は親に手伝ってもらった二つの手続きを、大学を自主退学して実家に帰る今日は全て一人でこなした。まごつくに違いないと覚悟していたが、伝えるべきことを伝え、それに対する相手の言葉に相槌を打ち、指示に従っているうちに、いつの間にかリストの最後までチェックマークがついていた。考えていたよりもはるかに他愛なかった。

 ただ、表出こそしていないが、疲労感が蓄積されている自覚はある。それを抑え留めておくためにも食事はとっておきたい。

 拓真は大学一年生を途中で終えることとなった今日に至るまで、一人で飲食店で食事をした経験が一度もない。

 順番待ちが発生している場合は自分の番が来るまで待ち、応対した従業員に何人連れかを伝え、案内された席に着き、セルフサービスの水などは自らの手で用意し、メニューにある料理の中から食べたいと思うものを店員に伝え、やがて運ばれてきたものを食べ、伝票に記載された料金をレジで支払って店を去る。

 言語化すれば手続きは単純だ。常識にのっとって礼儀正しく振る舞いさえすれば、一人で食事をする人間を見ても誰もなんとも思わない。頭では理解していたが、どうしても足が向かなかった。

 親元で暮らしていた高校生までは、無理に一人で食べに行く必要がないのも理由の一つだった。一人暮らしを始めてからも、もっぱらコンビニなどで買った商品で賄ってきた。恐怖や不安を伴うほど抵抗感が強いわけではないにもかかわらず、初体験は先延ばしにされ続けた。

 一年にも満たなかった一人暮らしを終える今日という日も、その方針を変えるつもりはなかった。しかし、いくら探してもコンビニが一軒も見つからない。歩き疲れて足を止めると、目の前に駅ビル構内の案内図があった。確認すると、飲食店ばかりが出展したフロアがある。気乗りはしなかったが、エスカレーターで上階へと移動する。

 フロアの半分にレストラン、もう半分にラーメン店が固まっている。拓真は後者の中から選ぶことにした。レストランのエリアの方が客で賑わっていたのが理由の一つ。もう一つは、ラーメンのエリアの店は注文形式がどれも食券方式だったからだ。

 なるべく人と関わり合いたくない。空間の人口密度は低ければ低いほど望ましいし、可能な限りしゃべりたくない。拓真はもともとそんな考えを持っていて、退学届を提出した今日はその気分が極限まで強化されていた。

 入店には勇気を要した。結果的に、食べる店を決めかねてエリアを歩き回る優柔不断な人間に拓真はなった。エリアは思っていたよりも狭く、一巡するまでにそう時間はかからなかった。魅力的だと感じる店は一軒もなかった。もともと食欲があるわけではないうえ、人がいる場所に行きたくない気持ちが強いのだから、当然の結果といえる。

 ここまで来て他の食事場所を探すのは馬鹿らしい。決断に時間をかけすぎてバスに乗り遅れるのはもっと馬鹿らしい。拓真はしょうゆラーメンの店で食券を購入して中に入る。

 どうってことないな。スツールに着座し、ひと息ついての拓真の率直な感想だ。

 当たり前だ。応対に出た従業員に食券を渡し、案内された席に座る、ただそれだけのステップ。やろうと思えば幼稚園児でも難なくやってのけられる。案ずるよりも生むがやすし。本当にそのとおりだ。

 僕は今までに何度、これと似たような経験をしてきたのだろう。

 案ずるよりも生むがやすし。この教訓を念頭に置いていた行動していたなら、様々な悲劇を回避できたはずだ。大学の自主退学だって、しなくても済んだかもしれない。もしかすると、異星人に誘拐されて、奴隷として強制労働させられるなどという目に遭わされることも――。

「うっ……」

 こめかみを刺すような痛みに襲われ、その部位を右手で押さえて俯く。痛みは一瞬だったが、叫ばなかったのが不思議なくらい強烈だった。

 いくら悔やんだところで過去は改変できない。思い出したくない思い出を思い返すのは、空腹のまま二時間半バスに揺られるよりもはるかに有害だ。食べるのに専念しよう。そう心に決めた。

 やがて注文の品が運ばれてきた。卵の黄身が少し褪せたような色合いの、縮れていない細麺。ほどほどに澄んだ褐色のスープ。トッピングは、チャーシュー、メンマ、もやし。安く食べられるごく普通のしょうゆラーメン、という印象の見た目だ。

 匂いを嗅いだことでようやく食欲が湧いてきた。さっそく割り箸を割り、一口分には少し少ない量の麺をすすり上げる。咀嚼し、口の中が空になるとともに拓真は凍りつく。

 ま、まずい……。

 麺にはコシがなく、スープはほのかに生臭く、もやしはしなびている。全ての要素に決して看過できない欠点があり、それらが重なることで総合点は大幅なマイナスとなっている。

 遅まきながら、正午の半時間前という時間帯を考慮しても、店内に客が少ないことに気がつく。普段から流行っていない店なのだろう。その原因は、十中八九ラーメンの味のクオリティにあるに違いない。

 拓真は箸をテーブルに置く。肩が小刻みに震え出す。

 大学を退学した日に、まずいラーメンを食べる。こんな仕打ち、あんまりだ。神も仏もあったものじゃない。いくらなんでも、こんな目に遭わされるのは。

 拓真は泣き出した。カウンター越しに、男性従業員が呆気にとられたような顔で彼を見つめている。

 迷惑に思っているのだろう。頭がおかしいやつだと思っているのだろう。従業員はきっと僕になにも与えてくれない。温かな慰撫の言葉も、涙を拭うハンカチも、理由は分からないなりに同情を表明する眼差しすらも。

 そう思うとますます悲しくなる。涙の量も増す。もはや視界は白くぼやけ、なに一つ明瞭に捉えることはできない。

 誰からも見捨てられて、僕は死ぬんだ。きっとそうだ。


 拓真は布団をはねのけて上体を起こした。

 汗だくだった。

 無理もない。悪夢を見ていたのだから。

 内容は? 説明しようと思えばできるが、したくない。長いし、複雑だし、おぞましい。ようするに最悪だった。

 部屋はまだ真っ暗だ。真夜中らしい。長々と悪夢を見せられ、朝を迎えたことで意識が解放されたのだと思ったが、違ったようだ。

 二度寝を試みても、眠れないまま朝を迎えることになりそうだ。ただ眠れないだけなら耐えられるが、今夜は悪夢の余韻を色濃く引きずっている。

 嫌だなぁ。怖いなぁ。

 そう思いながら、枕元の置き時計を確認しようと首を回すと、「やあ」とばかりに姉が片手を上げた。闇に溶け込むような黒一色のパジャマ姿で、拓真の隣に胡坐をかいて、見下すような、面白がるような、軽薄なにやにや笑いを満面にたたえている。

 彼の布団に接して姉の布団が敷かれているのを見て、思い出した。今日は両親の十二回目の結婚記念日で、二人で沖縄に泊りがけの旅行に出かけたのだ。

 家を空けているあいだ、子どもたちを叔父夫婦の家に預けるという話も出たが、二人ともまだ小学生とはいえ、もう四年生と五年生。拓真は不安を遠回しに訴えたが、姉の強い希望もあり、きょうだいは留守番をすることになったのだ。

 姉といっしょにいるあいだは愉快な気持ちでいられたが、消灯時間を迎え、それぞれの自室に引き取ったのを境に、拓真は諸々のネガティブな感情に苛まれ始めた。

 夜が怖かった。二人しかいない家の中で夜を過ごすことが。

 姉にもっと近くにいてほしかった。

 眠れそうになかった。眠りたいような、眠りたくないような。どちらにせよ、姉が隣にいないのは嫌だ。こんな寂しさや心細さ、きょうだいが別々の部屋で寝ることになった小学一年生の春でさえも催さなかったのに。

 掛け布団を律儀に顎の下まで被って天井を睨みながら、何度姉に思いを訴えようと思ったか分からない。

 ただ、それは男らしくないと思った。両親が南国の地へと旅立ってからというもの、拓真は雄々しさというものを妙に意識していた。

 行動できずに時間を空費しているうちに、消灯時間まで散々はしゃぎ回った疲れが出たらしく、いつの間にか眠ってしまった。そして長くおぞましい悪夢を体験し、目覚めた。

 姉は立ち上がって部屋の明かりを点けた。明るい中で改めて注視した彼女の顔には、相変わらずにやにや笑いが浮かんでいる。その姉らしい能天気さと底知れなさに、拓真の双眸は潤いを帯びる。彼女は「ん?」というふうに目を丸くして軽く顎を突き出した。そのしぐさも実に姉らしくて、思わず泣いてしまった。

 シーツがこすれる音が立った。姉が体を寄せてきたのだ。放散される存在感と体臭が色濃くなった。彼女は気味が悪くなるくらいに優しい手つきで弟の頭を撫でながら、

「拓真、どうしたの? 汗だくでうんうん唸っていたかと思ったらがばって跳ね起きて、あたしの顔を見たと思ったら急に泣き出して。情緒不安定で怖いんだけど。なにか悪いものでも食べた?」

「……なんで」

「は? なに?」

「なんで、姉さんは、僕の、部屋に、いるの?」

 拓真は洟をすすり上げながら、途切れ途切れに言葉を紡いでいく。涙にぼやけた視界の中央で、姉が露出する歯の面積を意識的に広げたのが分かった。

「壁越しに唸る声が聞こえてきて、部屋を覗いてみたら愉快なことになっていたから、布団を持ってきて間近から見物していたの。星空を眺めるよりもずっと面白いね、弟の生態を観察するのって」

「もっと興味深い話があるから、聞いてくれる? 僕にとっては面白くはないけど」

「夢を見たの?」

「悪夢を……」

「そりゃそうだよね。汗だらだらかいていたんだから、いい夢のはずがない」

「話してもいい?」

「いいよ。夜も長いしね。最初から最後まで話しちゃいなよ」

 姉は頭を撫でるのをやめ、弟の顔をじっと見つめる。話せと催促しているのだ。肉体的なスキンシップがなくなったのを残念に思ったが、話がしたい欲求はそれを上回っている。

 拓真は語った。ラガヌム星人を名乗る異形に拉致され、奴隷としてキップル処理の労働を強制された苦難の数十日間の模様を。

 途中、辻褄が合わないな、矛盾しているな、と思うことも何回かあったが、細かいことは全て無視して話を先へ、先へと進めた。


「へえ、そんなことがあったんだ。なるほどねぇ」

 姉は空とぼけたような顔つきで何度も頷く。まるで弟が語った物語の主人公が、弟自身ではなく遠い国で暮らす赤の他人であるかのようだ。

「姉さん、なんでそんな反応なの。僕、大変だったんだよ」

「それは分かってる。こう見えて話はちゃんと聞いていたから。でも、そんなに大変なのによく心を保てたよね。精神の安定を」

「たぶん、ラガヌム星人は作り物だって、意識の隅では理解していたんだと思う」

「根拠はなによ、根拠は。常識的に考えて宇宙人なんて存在しないからということ?」

「そうじゃなくて――スケッチブック」

「スケブ?」

「姉ちゃんがいつも持っているやつ。そこに描いてあったでしょ、ラガヌム星人。あれを見た影響で見た夢なのかな、と思って」

「宇宙人の絵なんて描いてたかなぁ。覚えてないんだけど」

「見たら分かるよ。絶対に描いてた。説明書きもあったよ。名前とか、そういういろんな情報が。確認してくれば」

「嫌。今は拓真と話がしたい気分なのに」

「とにかく、描いていたのは事実だから。あんなインパクトがある絵、忘れるわけがないし、見間違えるはずがないよ。……異星人の絵だけじゃなくて」

「だけじゃなくて?」

 拓真は姉が異形の触手によって凌辱される絵に言及しようとした。しかし、いざ口にしようとしたとたん、本当にそんな絵を見たのか自信を持てなくなった。姉がどのような目に遭っている絵なのかを説明するのが恥ずかしくもある。

 この話題はこれ以上掘り下げない方がいい。拓真は苦笑いで頭を振り、黙ることで意思表示をした。

「話をまとめると、悪夢だったから夢でよかった、めでたしめでたし、ということね。めでたいついでに、夜食食べない? 話を聞いていたらおなか空いてきちゃった」

「僕も食べたい」

 きょうだいは片方の口角を少し持ち上げた顔を見合わせる。

 就寝時間を過ぎているのに食事をとるというのは、野中家で定められたルールから逸脱する行為だが、姉は隙を見てはルールを破ることを密かな生きがいにしている。臆病な拓真がルールを破るのは、決まって姉に唆されたときだ。今は野中家における法の番人たる両親は不在だが、それでもやはり破るのには快感を覚える。だからこそ、やりたい。だから、やろう。そんな思いが息ぴったりに交差したアイコンタクトだった。

 両親が不在のあいだ、家にあるものは自由に食べていいと言い渡されている。必要であれば使うようにと、五千円の小遣いももらっている。二十四時間営業のコンビニは開いているが、二人はまずは食品庫を漁る。

 選ばれたのは、チキンラーメン。料理は作れないが湯は沸かせる二人には誂え向きの一品だ。

「あたし、ぶっちゃけ、ラーメンってそんなに好きじゃないんだよね」

 湯を器に注いでから三分ほどが経ち、姉が割り箸を割りながらおもむろに呟いた。麺を過剰気味に箸で掴み、口まで引き上げようとしていた拓真は、手を止めて振り向いた。姉は偶然見つけた懐かしい思い出の品でも眺めるように、紅茶色の液体がたたえられた麺入りの器を見下ろしている。

「姉さん、嫌いだったんだ。今まで普通に食べてた気がするけど」

「味は好きだよ。味は好きなんだけど、ラーメンの――というか、麺が嫌って言った方がいいのかもしれない」

「どういうこと?」

「麺ってさ、すすって食べるじゃん? 音が立つし、汁が飛び散るし、結構汚いんだよね。だから、世間で言われているほどいいものじゃないなって」

 弟を横目に一瞥して割り箸をとると、反対の手で髪の毛を耳にかけてから、わざとのように音を立てて豪快にすすり上げた。器の液体から一滴分の雫が跳ね、弧を描いて拓真の器に飛び込み、一体化した。

「ね? 言ったとおりでしょ?」

 弟に微笑みかけ、もう一度音を立ててすすった。


 姉が絵を描くようになったきっかけはなんなのだろう?

 拓真の胸にずっとあった疑問だ。長らく解消されずにいるのは、切り出すタイミングを掴めなかったからに他ならない。

 拓真は、自身の芸術大学入学が決まったのをよい機会だと捉えた。一学年上の姉は、関西にある芸術大学に入学を決め、今は一人暮らしをしている。言うまでもなく、絵を描く技術を学ぶための学科が設置された芸術大学に。

 離れ離れで暮らすようになって以来、姉と野中家の三人は疎遠になっていた。入学当初こそ母と頻繁に連絡を取り合っていたが、時間が経つにつれて間遠くなっていったようだ。

 姉が望んだのか、両親が望んだのか、離れて暮らすようになるとどんな家族でも自然とそうなるものなのかは、なんとも言えない。父が「あいつは必要不可欠な連絡を怠るから困りものだ」という意味の愚痴をこぼしていたのを聞いたことがあるので、姉が家族から距離を置こうとしているのかもしれない、とも思う。ただ、父は几帳面で融通がきかない性格だから、彼が定義する「必要不可欠」が一般の感覚とはずれている可能性もあるため、決めつけるのは危険だ。

 疎遠になったのは弟との関係もそうだ。かけてくるのは決まって姉からで、一週間に一回程度。用件も、近況を伝え、尋ねるだけのごく簡単なもの。話の流れによっては多少の脱線もあるが、長くても十分ほどで彼女の方から通話を終わらせる。なにか用事があって長電話はできないからでも、弟と長話をするのが苦痛だからでもなく、話す話題も特にないから切るというふうに。

 姉から近況を教えられた返礼として自らの近況を報告し、それに続く姉の他愛ない雑談に耳を傾け、彼女の「そろそろ切るね」の言葉に文句一つ言わずに応じる。それが通話の基本的な流れだ。姉との関係がもともとそうだし、電話をかけるのが姉からということもあり、主導権を握っているのは完全に彼女。拓真は圧迫感とはまた違う力に縛られて、あらかじめ規定されたコースを歩くことしかできない。

 彼はそのころにはすでに小説家を志していたから、姉に訊きたいことはたくさんあった。学校も学科も違うとはいえ、芸大のキャンパスはどんな雰囲気なのか。具体的にどんなことを学ぶのか。同級生は、教員は、どんな人たちなのか。親元でしか暮らしたことがない身としては、一人暮らしの模様も気になる。

 しかし、積極果敢に尋ねる勇気を持てない。

 姉は一風変わった性格で、協調性に欠けるが、したさかさを兼ね備えている。トラブルを起こすことはあっても、一方的に圧倒的な被害者になることはまずない。電話越しに声を聞いたかぎり、悩みごとなどを抱えているようではなかった。根掘り葉掘り尋ねたとしても、世間知らずの弟の精神状態をどん底に突き落とすような事実が出てくるとは思えない。

 それなのに怖かった。質問したいことはたくさんあるが、恐怖が上回った。もどかしさを抱えながらも、姉が自発的に発信した狭く浅い断片的な情報で我慢するしかなかった。

 姉が、話したいことがあるが話せない気配を醸し出していたのであれば、それがきっかけになったかもしれない。しかし姉は、平均で十日に一回未満、一回あたり十分以下の、当たり障りのないやりとりで満足しているようだ。

 芸術大学入学試験の合格を絶好の機会だと拓真は捉えた。両親に確認をとったところ、その事実はまだ誰も姉には伝えていないそうだ。自分から連絡をとりたいと告げると、父は息子が珍しく積極性を発揮したことを歓迎し、誰かがいずれすることだ、それが拓真でももちろん構わない、と母は答えた。大げさかもしれないが、両親から背中を押された気がして気持ちが昂った。

 いつも姉がかけてくる夜の十時過ぎ、拓真は久しぶりに自分から彼女に電話をかけた。予想に反してワンコールで繋がったため、自らの胸の高鳴りを聴く暇さえなかった。

「拓真。どうしたの、こんな時間に。まさか、親が倒れたとかじゃないよね」

 声は迷惑そうではない。むしろほのかに上擦っている。機嫌がいいからこその冗談らしい。

「親は両方とも無事だよ。姉さんにちょっと話したいことがあったから、かけたんだ」

「ほんと? 絶対そうだと思うじゃん、夜も遅いし」

「姉さんが僕にかけてくるときは、いつもこのくらいの時間帯でしょ。もう少し遅い日もあったよね。日付が変わるまではかけてもオッケーとか、独自のルールを押しつけて」

「そうだっけ。いちいち覚えてないな。で、拓真はあたしになんの用?」

「うん。実は、大学に無事合格して」

「おお」という姉の感嘆の声。芸術大学であることを伝えると再び「おお」と漏らし、大学名と学科名を伝えると「おお……」と余韻を残すような三度目の「おお」を口にした。

「やったじゃん。おめでとう。入学祝をしなきゃ、だね。あたしが合格したときはしてもらった記憶はないけど」

「あ……そうだったね。じゃあさ、今度会ったときに、お互いに一回ずつ食事を奢り合うよ。春休みとかに」

「いいね。でも、なんか新鮮。あんたっていつもやってもらってばかりだから、あんたの方からなにかしようって提案してくるのは。電話してきたのだって、あたしが一人暮らしをするようになってからは初めてじゃないの」

 気恥ずかしさを感じながらも「そうだね」と同意し、本題を切り出す。

「実はまだ用があるんだ。学校は違うけど、せっかく同じ芸大に入ったんだし、訊いてみようかなって」

「なに、もったいぶった言い方して。訊きづらいこと?」

「うーん、どうなんだろう。でも、前々からずっと気になっていたことだから」

 こめかみをかいて最後のためらいを消し、本題に入る。

「姉さんは、絵を描く技術を学ぶために芸大に入学したんだよね」

「そうだよ。子どものころから絵を描いていて、好きだったからね。家族でテレビを観ているときでも普通にスケッチブックを広げるとかしてたし、ときどき描いたものを見せてあげていたよね。それがどうかしたの?」

「姉さんが絵を描くようになったきっかけって、なに?」

 反射的になにか口にしかけたような気配がスマホ越しに伝わってきた。しかし、姉は言葉を呑み込んだ。拓真は少し緊張を感じながらも説明する。

「僕の感覚では、姉さんって突然絵を描き始めた印象があるんだよ。姉さんは確かに、子どものころから漫画とかアニメとかにはよく接していたけど、凄まじく熱中していたわけじゃなくて、普通の漫画好き、アニメ好きっていう感じだった。自分でなにかを創ろうとしたことだって、なかったよね。願望を口にすることもなかったし。うちの親はそういうエンタメとかには全然興味ないでしょ。父さんは価値観が古いから、僕たちが漫画を読んでいるのを見ると『もっとためになる本を読め』とか口出しをしてきて、むしろ嫌っていた。ようするに、親が好きだからその影響を受けて自分も、ということじゃない。じゃあなにがきっかけだったんだろう、僕の知らないところでなにか劇的な、価値観や人生が変わるくらいの出来事や出会いがあったのかもしれない、もしそうならぜひ知りたいなって思って。姉さんって、なんでも平気で口にするように見えるけど、秘密主義っていうか、ミステリアスっていうか、なんだかんだガードが堅いから」

「秘密主義って、なんか大げさ」

 姉は噴き出した。確かに、知らず知らずのうちに仰々しい話し方になっていたかもしれないと、込み上げてきた照れくささに拓真は口をつぐむ。彼女が笑っていた時間は数秒に過ぎなかった。

「そんなに気になるんだ。別に隠すようなことじゃないし、話してあげるよ」

「きっかけがあるんだよね」

「あるよ。あるにはある。……このことはあんたと直接話したことはなかったけど、あたしってアスペルガーでしょ」

「うん、そうだね」

「世間でのアスペルガーのイメージって、変人なんだよ。ほら、よく言うでしょ。自分の理解できないことを言ったりやったりする人間を指して、アスペ、アスペって。そう言われる人間ってたいてい、単に空気読めないだけのアホなんだけど。……いきなり話が逸れたから戻すけど、あたしは昔からずっと、周りの人間から変人扱いされてきた。自分ではそうと思っていなくても、言われ続けるうちに、やっぱりそうなのかなって、だんだん思うようになるものでしょ。それに、変人がさも悪いみたいに言う周りの人間に対する反発心もある。だからあたしはいつしか、変人として生きてやろうじゃないかって決意した。開き直ったって言い換えてもいいかもしれない。自然体に生きていたのが、みんなとは違う振る舞いをあえてするようになったのは、その決意のあとから。でも、あたしはもともと精神構造が人とは少し違っている人間だから、なにが普通でなにが変なのかの認識が曖昧なところがあって。だから、今こうして振り返ってみて気がついたことだけど、あえて変なことを言ったりやったりすることは案外少なくて、本当はするべきじゃないんだな、控える方が正しいんだなって、周りの反応を見て気がついたとしても、そうするのをやめない、みたいな形が多かったように思う。……一気にたくさんしゃべっちゃったけど、ついてきてくれてる?」

「うん、理解できてる。ようするに、周りの意見や評価は気にせずに自分がやりたいことを、ということだよね」

「そういうこと。拓真の言い方はちょっとかっこよすぎる気もするけどね。もう分かっていると思うけど、そのやりたいことというのが絵を描くことだったの。スケッチブック、拓真は何度も見ただろうから、どんなものを描いているのかは把握しているよね」

「無機物と生き物が合体した生命体、みたいなのが多かったよね。あとは、ちょっと渋い感じの中年男性」

「おじさんは単に趣味。ああいう孤高の人って感じの、寡黙で、哲学を持っていそうな男の人がね」

 姉は少し照れたように短く笑った。

「無機物と生物のキメラ、あれはもともと、ああいうグロテスクなデザインの架空の生き物が好きだったの。でも、そういう生物って頻繁には登場しないよね。キメラっていう設定の生命体自体は結構出てくる印象だけど、デザイン的にはデフォルメが効いていて、おぞましさが去勢されちゃってる。少なくとも、あたしたちがよく読んでいる少年漫画はそういうのばっかりでしょ。だったら自分で描いてやろうって思ったのがそもそもの動機。自分が楽しめればそれでよくて、クオリティなんて最初から求めていないから、絵が下手くそでも気軽に始められたわけ。小学、何年生だったかな。あたしですらはっきり覚えていないんだから、拓真が『いつの間にか』っていう印象を持ったのも当然だよね。うん、無理もないと思う。家でスケッチブックを広げて描いたように、学校でもノートの余白とかに描いていたんだよ。そうしたら、それを見たクラスの男子女子どもが、『野中がキモい絵を描いているぞ』って囃し立てるわけ。最初はあたしが絵を描いていること自体が驚きで、意外で、からかいの種にしてやろうっていう気持ちだったんだろうけど、そう時間が経たないうちに、絵の気持ち悪さばかり指摘してくるようになった。素人だし、客観的にはもちろん下手くそだと思うけど、絵を描いている人間を揶揄するときに使われがちな『下手』っていう罵り言葉すらもめったに使われなくて、とにかくキモい、キモいの大合唱で。だけど、こっちは変人上等ってすでに覚悟を決めているから、怯むことなんて全然なくて。むしろ、そこまで言うならもっと不気味なものを描いてやろうじゃないかっていう、捻くれた気持ちになって。実は普通の絵とかも普通に描いていたんだけど、グロテスクな絵ばかり描くようになった。ムキになったっていう自覚は当時は全然なくて、ただ自分が好きなものを好きなように描いているだけのつもりだったんだけど、こうして振り返ってみると感情的だよね。小学生なんて、いくら大人ぶっていようがガキだなって思う」

 今度は苦笑いをこぼした。すぐに素の声音に戻ったのは前回と同じだ。

「始めたときは『下手でもいい』だったけど、やっぱり描いているうちに巧くなりたいって思うんだよね。ケチをつけてくる連中を見返してやろう、じゃなくて、純粋に巧い絵が描きたくなるの。将来のことを考えたときに、広い意味での絵描きを選択肢として意識するようになって、他に情熱を傾けられるようなものもないし、目指してもいいのかなって思った。もちろん、芸術家全般が食べていくのが難しい職業なのは分かっているよ。父親からも言われたしね。でも、あたしはその道を目指したかったから、芸大に行きたい、絵を描くテクニックを学びたい、その一点張り。あたしはずっとふらふら生きていたから、父親としては、打ち込めるものがあるならその道に進んだ方がいいっていう判断だったんだろうね。納得はしていないけど、なんの目標も持たずに生きるよりはましだろうっていう。あの父親にしてはあっさり許可が下りて、今は夢を叶えるために精いっぱい勉強している。……そんなところかな」

 拓真は無言で何度も頷いていた。彼女の話はとても分かりやすかった。周りの大多数とは違う自分を意識しながら生きてきて、ふとしたきっかけで違う部分を武器にしようと思い立ち、夢が見つかる。映画化されたサクセスストーリーの序盤を観ているかのよう。筋道が通りすぎていて、少し怖いくらいだ。

「――なんて、あたしがありのままの真実を話したとでも思った?」

 拓真は思わず「え?」という声を漏らした。

「嘘だよ。長々と語ったのは、全て嘘。真実をありのままに語っているように感じたでしょ? でも、それは真実らしく聞こえるように話したからであって、本当は真実なんかじゃないからね。騙された拓真が悪い――いや、まんまと騙しおおせたあたしが凄いのかも」

「……どうして。どうして、姉さんは嘘なんかを?」

 姉は答えない。にやにや笑いを浮かべた彼女の顔がありありと想像できる。

「もしかして、話してくれたことは全て嘘なの?」

「そうだよ。あたしはアスペルガーじゃないし、絵を描き始めた動機もキメラへの愛なんかじゃない。そもそも、芸術大学に通っているっていうのが嘘だからね。ていうか絵を描いていること自体、嘘だし。ぶっちゃけ、あたしがあんたの姉っていうのも嘘だから」

 姉の残酷な澄んだ笑い声が拓真の聴覚を満たす。

 弟は懸命に声を絞り出す。震える声で言葉を紡ぐ。

「……分からない。分からないよ、姉さん。あれも嘘、これも嘘だと言うなら、なにが真実なの? 教えてよ。……怖いよ」

「じゃあ逆に訊くけど、拓真はどうして小説家になりたいと思ったの?」

 彼は再び「え?」と思った。

『どうして小説家になりたいと思ったの?』

 少し考えてみたが、なにも浮かばない。ただ、さすがに、なんの理由もなく志したわけではないはずだ。不意打ちで尋ねられたから戸惑ってしまっただけで。

 気持ちを最低限整えるような数秒の間を挟み、彼は過去を遡る。神経を研ぎ澄ませ、慎重に慎重を期して手探りをしながら。

 不意に甦ったのは、中学一年生のときの記憶。

 暑い六月だった。自転車を盗まれ、その自転車を引きとって帰宅する道中に偶然姉と出くわし、立ち寄った公園のベンチでアイスを食べながら、拓真は不条理で不合理で不平等なこの世界を嘆いてみせた。

 きっかけはあの日だった。

 嘆きの言葉を重ねるかたわら、拓真は腹の中で、不条理や不合理や不平等と戦う人物をフィクション形式で描くことで、この世界の不条理や不合理や不平等と戦っていきたいと願ったのだった。

「でもね、拓真」

 電話越しの姉の声はとても遠く感じられる。発音は明瞭なのに、はるか遠方から発せられているかのようだ。さながら、何億光年も隔たった未知の惑星の住人から送られてくるかのような。

「答えはもう出ているの。戦ってみるまでもなく、結論は出ている。復唱してみて」


『あのね、拓真。この世界がなぜ、不条理で、不合理で、不平等なのかは、永遠の謎だよ。全人類が総出で地球が滅びるまで探したって、絶対に見つかりっこない。だって、世界はそういうふうにできているんだから』


「この世界が不条理で不合理で不平等である原因は、永遠の謎。絶対に見つからない。なぜなら、そういうふうにできているから」

 つまりどういうことか、分かる? 姉が無言で問いかけてくる。自分のものではないかのように拓真の唇が動いて返答する。

「この世界と戦う者は必ず敗北する……?」

「そのとおり!」

 急に大声になった。今にも拍手を打ち鳴らさんばかりの上機嫌な声。

「あたしは自由奔放な変人。拓真は真面目で大人しい優等生。世界に従順なのは一見、拓真の方に思えるかもしれないけど、違うんだな。あたしは規則とか決まりごとを無視しているけど、ただ自分の欲望に忠実に振る舞っているだけで、世界そのものに反抗しているわけじゃない。逆に拓真は、ルールは厳守するいい子ちゃんだけど、内心ではこれが納得いかない、あれが納得いかないって、四六時中頭の中で想念を弄んでいる。拓真自身はそう認識していないかもしれないけど、それ、世界に対する立派な反逆だよ。やり方が穏やかだからそう見えないだけで、戦っているのと同じだから。つまり、拓真、残念だけどあなたは――」

 電話で会話していたはずの姉が、いつの間にか隣にいる。素っ裸で、背後から異形に触手で絡みつかれ、体のあちこちをいじられている。左手首の深く抉れた傷にも触手は刺激を加える。彼女は痛そうに顔を歪めるどころか、さも心地よさそうに、さも満足そうに口元を緩めている。その表情を維持して、彼女は弟に人差し指を突きつける。

「すでに敗北しているの! んー、残念!」


 視界がラガヌム星人に連れてこられた部屋のように青白くなる。青白さは急速に意識を染め上げていく。

 染まりきる寸前、世界に向かってぶつけるように拓真は叫ぶ。

「分かってるよ。そんなの、とっくの昔から分かってる。でも、でも、僕の力ではどうにもならなかったんだ」


 ――そして彼は、ビルを背に、頭を下にして、地上へと墜落する現在に戻ってくる。


 この世界で起きる事象に意味はない。ゆえに対策は不可能。そんな世界に抗ったから、拓真は死のうとしている。

 結論は出た。ままならない人生も、異形に使役された記憶も、全てを赦した。今はとても安らかな気持ちだ。

 飛び降りてから初めて、拓真は地上を見下ろす。

 地表から黄色い触手――異形のそれと同じようなものが拓真に向かって伸び、彼の体に絡みついていた。

 重力とは触手に引っ張られる力なのだ、と彼は理解する。

 ラガヌム星での日々が甦る。

 あの惑星で生活しているあいだ、拓真は奴隷だった。なす術はなかった。仮に抗っていたとしても、最終的には屈服させられていただろう。ようするに重力、というわけだ。

 拓真は笑みさえ浮かべて目を瞑る。

 次の瞬間、青年の体はコンクリートの地面に激しく衝突する。飛び散った肉片や血は瞬時に誰にも触れることができないキューブへと変換され、宇宙の果てを目指して四方八方へと飛んでいく。

 あとはキップルの山脈のような闇が広がるばかり。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ