前編
野中拓真は自身の誕生日の四日後の九月十九日の夕刻、十二階建ての雑居ビルの七階から飛び降りた。七階にあるラーメン店で、夜型の彼にとっての朝食をとろうとしていたはずが、そうしていた。計画性のない、衝動的な飛び降りだった。
頭を下にして地上へと墜落しながら、拓真は自分が飛び降りた動機についての考察を開始する。
真っ先に頭に浮かんだのは、フェンスの上から跳ぶ直前に見た『百福麺店』という看板の文言だった。
拓真は麺料理が好きだ。好物はなにかと問われれば、寿司、焼肉、チャーハンなどとともに、ラーメンや焼きそばなどの料理名が泡のように浮かんだだろう。
もっとも、大学進学を機に県外で一人暮らしを始めて以来、食事の大半をカップ焼きそばに頼るようになったのは、「好きだから」はむしろ副因。一番の理由は、味が好みで、なおかつ手軽に食べられる食品の中で唯一、長期間の保存がきくからだ。
入学からわずか二か月後には大学に行かなくなっていた。登校のみならず、外出、買い物、入浴、着替え、さらには食事。なにもかもが億劫に感じられるようになり、アパートの自室にひきこもってインターネットで時間をつぶし、眠くなるか疲れるかしたら眠る日々を重ねた。就寝時刻は日を追うごとに先延ばしにされ、知らず知らずのうちに夜型の生活スタイルが定着していた。
活動しているのが昼間だろうが夜間だろうが、大学に通っていようが通っていなかろうが、胃袋は空腹を訴える。
拓真が暮らすアパートは街中にあるが、徒歩十五分圏内に食料品を買える店は一軒しかない。飲食店であれば、『百福麺店』、チェーンのカレー屋、個人経営の喫茶店の三軒があるが、極力人と関わり合いたくないし、部屋にこもっていたい。買い溜めしてある食料が切れた場合、調達先は実質的に、徒歩約十分の場所にあるコンビニ一択となる。
その店が弁当のために割いているスペースはそう広くない。スーパーマーケットで売られているような総菜が二品ほどに、残る空白をしなびたサラダ、白米、申し訳程度の漬物によって埋められた弁当は、あまり美味しくない。なおかつ賞味期限が短いという、買い溜め派からすれば捨て置けないデメリットがある。
拓真はたいていの場合、弁当ではなくカップ焼きそばを買う。ラーメンではなく焼きそばなのは、塩味の焼きそばの美味しさを発見したからでもあるし、ラーメンが食べたくなったなら『百福麺店』に行けば済む話だからでもある。
拓真にとって塩味の焼きそばは、やや誇張して表現するなら、遠い異国の商人がもたらした珍奇な大衆料理に等しい。
彼が子どものころ、両親が長時間家を空けるさいに、「お昼はお店で買って食べて、残りはお小遣いにして」と、千円札をダイニングテーブルに置いておくことがたまにあった。拓真が選ぶのはたいてい、コンビニ弁当かカップラーメン。カップ焼きそばを買うこともなくはなかったが、そのさいにはもっぱらソース味を選んだ。
塩味の焼きそばは、給食や外食のさいに何度か食べたことはあるが、母はその味の焼きそばは作らない。保守的な拓真は慣れ親しんだ味を好む傾向があり、子ども時代にソース焼きそばばかり選んできた理由はそれだった。しかし、大学生になって一人暮らしを始めてからたまに買うようになったのを機に、塩味にはまった。ソース味のように食後口腔に粘り気と匂いが残る感じが殆どなく、十三時間眠った直後でもさっぱりと食べられるのが気に入ったのだ。
拓真にとって夜の始まりはポジティブな時間帯だ。睡眠によって意識が断絶したことで気持ちがリセットされるからだ。もちろん、自分が置かれている状況はなに一つ変わっていないのだが、気分がリフレッシュされた直後であれば、しばらくのあいだは暗澹たる現実とは無縁で呼吸ができる。
ただし、快い気分は決して長続きしない。
世界にとっての朝、彼にとっての就寝時間が近づくのに足並みを揃えて、彼の精神状態は悪化する。長引くひきこもりがちな生活のせいで体力は低下しているから、ベッドに寝ころがってスマホをいじっているだけでも疲れてくる。一日中スマホをいじっていれば当然、飽きる。スマホの充電だって無限ではない。彼は充電中のスマホはいじらないようにしているから、することがなくなる。考えごとでもするしかない。置かれている状況が状況だけに、議題がなんであれ心は次第に暗くなる。
今は九月のなかばで、後期日程はすでに始まっている。後期の授業料は支払い済みだ。捻出したのは、彼の両親。拓真は一銭も関与していない。
前期は欠席がかなり多かった。この調子で全日程が消化されれば、彼は修得必須の単位を落とす。この事実を当然把握している大学側は、拓真の両親に連絡をした。彼が盆に帰省したさいに家族会議が開かれた。
『拓真、お前は大学を卒業する気があるのか? お前が「行きたい」と望んで入学した大学だろう。「小説を書く技術を学びたいから芸大に行きたい」とお前が言ったことを、父さんはちゃんと覚えているぞ。言うまでもないことだが、大学に通うのもタダじゃない。お前が通う芸大は私立だから授業料が高いんだ。親として、子どもの将来のために金を出すのは惜しまないが、うちはそう経済的に余裕があるわけじゃないから、四年分しか出せない。自力で稼ぐという手もあるが、アルバイト経験のないお前が、学業のかたわら学費を稼ぐのは難しいんじゃないか。絶対に無理だと言うつもりはないが、非現実的なのは事実だ。お前だって、せっかく第一志望の芸大に入学したんだから、卒業したいだろう? だったら、今後は真面目に授業に出席しなさい。約束してくれるなら、後期の授業料は父さんが責任を持って出すが、約束できないなら大学は今すぐに辞めてもらう。拓真、お前はどうしたい?』
『……行くよ。夏休み明けからは真面目に授業を受けるって約束する』
取り決めを交わしたのに、改善できていない。それどころか、前はときどき出席していたのが、今ではまったくできていないのだから、悪化している。
今度もきっと学校側から両親に連絡がいくだろう。そうなれば絶対にまた家族会議だ。冬期休暇期間まではまだ間があるから、両親が拓真のアパートまで足を運ぶのだろう。
買い置きの塩味のカップ焼きそばが壁際に積み上げられた、奇妙に片づいた部屋で、今年八月以来、約一か月ぶりとなる家族会議が開催される。二度目のそれは、雰囲気はあのとき以上に重苦しく、暗澹たるものになるに違いない。
内容は、おそらく八月の焼き直しだ。出席しないなら大学を辞めろ。辞めたくないなら出席しろ。
僕はどう答えればいい? 拓真は顔をしかめて自問する。
大学にはもう行きたくない。学校という場に関わるのはもう懲り懲りだ。
では大学を自主退学したとして、僕はどうなる? 父はどうしろと命じる?
お前には働く能力がないという意味のことを、前回の家族会議で父は言っていた。だからといって、学費を出す経済的余裕は両親にはない。拓真はそもそも、環境を変えてまで勉学に励みたい願望はない。
就職でも進学でもない。そうは言っても、なにもせずにぶらぶらさせておくのをよしとしないのは、父の言動からは明らかだ。だとすれば第四の道は、
「座敷牢……」
ずっと学校が嫌いだった。
中学二年生のときはクラスになじめず、さらにはいじめを受けたことで不登校がちになり、母に付き添われて心療内科のカウンセリングを受けた。
心療内科医は拓真の心構え、両親の対応、どちらも責めなかったが、ためになるアドヴァイスも送らなかった。カウンセリングを受けに来ただけでも進歩、といったような、能天気と紙一重のポジティブな発言が多かった。大学生になった拓真であれば、「そりゃあ、あんたたちはそれで金儲けをしているんだから、何回何十回と来院して、効果があるかも分からない治療薬のために金を捨ててほしいだろうね」という趣旨の皮肉を胸中で吐き捨てただろう。
いつ来ても診察待ちの患者で待合室は混雑して、行列ができた飲食店よりも長く待たされる。やっと自分の番になったかと思うと、上面を撫でるようなやりとりを十分ほど交わしただけで、「今週も同じお薬をお出ししますので、また来週同じ時間にお越しください」。処方される「緊張を和らげてくれる薬」は服用すると眠気に襲われ、夕食後から入浴までの二時間、彼はベッドの上でうつらうつらしながら過ごすことを余儀なくされる。
学校を休みがちな件に対する両親の危機感は、当時の拓真が考えていた以上に高かったらしい。息子の中学校卒業後の進路として、父は「こんな学校はどうだ」とパンフレットを差し出した。山奥にある全寮制の高校。ただ資料を取り寄せるだけではなく入念に調べてもいたようで、学校の特色について自らの口で滔々と説明した。パンフレットの内容は詳細で充実していた。
しかし、その殆どが拓真の関心の網目をすり抜けた。全寮制という、もっとも大きな特徴に意識が釘づけになったからだ。
息子は私たちの手には負えない、厄介払いをしたい、一家のお荷物だ、迷惑だ、視界に入れたくない、学費だけは出すから遠く離れた土地で好き勝手にやってくれ、私たちはもうお前のことなんて知らない――。
そんな両親の内心が見え透いた気がして、動揺してしまった。
夏休みを利用して、クルマで二時間半かけて問題の高校に見学に行った。学び舎は本当に山の中にあった。周囲に人家や商業施設、公共交通機関の乗り場などはいっさい存在しない、という環境。
嫌になっても逃げられないじゃないか、と思った。パンフレットによると寮は相部屋だそうだから、学校に行きたくなくなったとしても、自室にこもるという対抗手段はとれない。つまり、逃げ場がない。
寮や校舎は新しくて清潔感があるが、どこか圧迫感を覚える。物理的に決して狭いわけではないが、ゆとりがあまり感じられない。
真面目そうな生徒が多いのが少し以外だったが、一人一人に個性はあまり感じられない。施設の案内は在校生が受け持つことになっていて、野中家を担当した男子生徒は、顔立ちは幼いが大人びた口のきき方をした。少しでも誤解の余地の与えるような発言をすると、すぐに作り笑いと「あ、すみません」で取り繕った。
とてもじゃないけど無理だ、と拓真は思った。
男子生徒は拓真と五歳も年齢差がないのに、老成した受け答えができている。この全寮制の高校で教育を受ければ誰でもこうなれる、とは彼には思えない。むしろその逆、とてもじゃないけど無理だ、と。
案内役の男子生徒を含む四人で昼食をとったさいに、男子生徒が拓真の両親相手に無難に雑談をこなしたことで、「とてもじゃないけど無理だ」という思いは強化された。
昼食がカレーライスなのも、ささやかだが拓真の心を陰らせる一因となった。好物に挙げる人間が多い人気料理ということで、見学の日のメインに抜擢されたのだろうが、拓真はあいにく好きではない。
ただしカレー味自体が嫌いなわけではなくて、カレーうどんなら普通に食べられる。野中家で作るカレーうどんは、何回かカレーライスとして食べたあと、残りわずかになったルウを転用する。ようするに何度も煮込んでいる。拓真は作りたてのカレーが苦手なのだ。
心身ともに大人な二人の大人と、精神的に大人な一人の子どもは、さも楽しそうに無駄話をしながら、さも美味しそうにカレーライスをぱくついている。
親元を離れて、ストイックな生活を送りながら学業に励めば、好き嫌いなどというちっぽけなこだわりは消滅するのだろうか?
だとしても、嫌だ。牢屋みたいな山奥の全寮制の高校になんて、行きたくない。
僕はカレーうどんをすすっていたいんだ。たとえ食べるのが僕一人だとしても。惨めな気持ちは免れないのだとしても、嫌いなものを口に入れたくない!
なぜって、無理をしてなにかをし続けることの方が、ずっとずっと惨めだから。
拓真の母はよく中華そばを作る。黄色く縮れた中華麺、鶏ガラスープ。入れる食材は日によって変わる。欠かさずに使われるのは豚バラ肉で、他には白菜、もやし、にんじん、じゃがいも。少し頻度が落ちて、油揚げ、かまぼこ、キャベツ、たまねぎ。
様々な食材のうま味成分が溶け出したスープは、塩分の摂りすぎに目をつぶってでも飲み干したくなる。なにより、ボリュームたっぷりで食べ応えがあるのがいい。食材をかなり自由に運用できるという意味で、経済的にも重宝する料理の一つなのだろう。自己主張をあまりしない純朴な子どもだった拓真は、母が具だくさんの中華そばをよく作るのは、自分の内心を読みとってくれるからだと長らく思い込んでいた。
中華そばは毎回美味しく楽しく賞味したが、まずく感じられたことが一度だけある。中学二年生の始業式を終えたあとの昼食で出たそれがそうだった。
対人コミュニケーション能力が低い拓真は、新学期を迎えるたびにプレッシャーを感じてきた。
友だちを作るのは端から諦めている。ただ、休み時間に雑談を交わし、グループ分けのさいにはお情けも込みでグループに誘ってくれる、程度の関係のクラスメイトを二・三人確保しておきたい。周囲から浮かないために。不良グループから迫害の対象に抜擢されないように。
拓真は受動的で、自分からは他の生徒にまず話しかけない。授業中に必要に駆られるなどして、席が近い同性の生徒と何回か言葉を交わすうちに、相手が拓真の人畜無害な性質を読み取る。それを好もしく思った相手の方から積極的に話しかけてくるようになり、それに対して拓真がガードを緩めることで両者の関係が深まる。
拓真からすれば、「クラスの友だち」候補の大まかな性質を事前に把握しておくことと、いつ話しかけられても慌てずに対応できる心構え、この二つが重要になってくる。
しかし、まさか、不良グループに属する生徒から話しかけられるとは思ってもみなかった。
そのKという男子生徒は、校則で禁じられているにもかかわらず頭髪を金色に染めていた。拓真はその鮮やかな色合いに、ライオンのたてがみを連想した。両の耳朶には血色のピアスが填め込まれ、毒々しい存在感を放っている。
どんな言葉をかけられたかは覚えていない。予想外の人間からいきなり話しかけられてパニックに陥り、内容が頭から飛んでしまったのだ。
ニックネーム、所属している部活動、趣味。他愛ない質問ばかりだったのだろうが、言葉を返すことさえままならない。最初はフレンドリーだったKの態度に、次第にいら立ちが滲み始めたのを拓真は見逃さなかった。Kが最後に掃き捨てた言葉は一言一句狂いなく覚えている。
「なんだよ、こいつ。人が親切に話しかけてやってんのに、無視かよ。ふざけやがって」
間違えた……。
帰り道、拓真の脳内はその一語で埋め尽くされた。臆病で慎重な性格、事前に入念に対策を立てることで困難に対処しようとする彼は、不意打ちに弱い。パニックを起こすのは不可避だったにせよ、もう少し速やかに態勢を立て直せなかったのか。
確かにKは、一年生のときは別のクラスだった拓真でも存在を認知している、名の知れた不良生徒だ。「日光が当たると茶色く見えるだけ」という言い訳を用意して、髪の毛をその色に染める生徒は何人かいたが、鮮やかな金色に染めているのはK一人。体格も大柄で、見た目も威圧感がある。
しかし、話しかけてきた当初のKの雰囲を思い返してみたかぎり、拓真を虐げてやろうと決めつけていたわけではないようだった。その事実を見抜いて、いい意味で大胆に立ち回っていれば、悲劇は回避できていたかもしれない。
僕はどうして、人とコミュニケーションをとるのがこうも下手くそなんだろう……。
反省と後悔の終わりの見えない羅列は、帰宅後、昼食を食べているあいだも続いた。母は昼食を出すと自室に引っ込んだので、ダイニングにいるのは拓真一人。力なく麺をすする音が、静寂に包まれた場をいっそう寂しくさせる。その雰囲気に引きずられて、未来に対する不安が徐々に勢力を拡大していく。
今日の一件で僕はきっとKに目をつけられた。きっと、ことあるごとに僕をからかってくる。屈辱的な言葉を嫌というほどかけてくる。初めて暴力を振るわれる記念日は、ゴールデンウィークに入る前? それとも、あと? いずれにせよ確定的な未来だ。
地獄だ。これから僕を待っているのは地獄のような日々だ。
「……嫌だ」
とうとう箸の動きが止まり、拓真は蚊の鳴くような声で呟く。
行きたくない。学校になんて行きたくないよ……。
実際に学校には行かない、という発想はまだなかった。人生で初めて、正当な理由もないのに学校に行かなくなる日が来るとは、そのときは思ってもみなかった。
弱々しい箸づかいで中華麺をすすりながら、行きたくない、行きたくないと心の中でくり返す。
丼の中が空になると、姉さんは上手く乗り切ったのだろうか、という思いが頭に浮かんだ。
姉は拓真の一つ上で、同じ学校に通っている。だからもう放課後を迎えているはずだが、すでに帰宅して昼食も済ませたのか。それとも、友人たちとともに外で過ごしているのか。
思春期を迎えると、きょうだい仲が疎遠になるのは免れないが、野中家の二人も例外ではなかった。
野中拓真はアスペルガーではない、と心療内科医は断言した。
不登校に陥った拓真は母に心療内科に連れていかれ、診察を受けた。
まさか古い小説に出てくる精神病院のように非人間的な扱いを受けるとは思わなかったが、待合室で突然喚き出す人間の一人や二人くらいいるだろう、程度の偏見を彼は抱いていた。しかし、実際に訪れてみてもそんな人間は一人もいない。右を見れば背筋を伸ばしてスマホを操作している若い女性、左を向けば腕組みをして目をつむっている小柄な中年男性。咳を連発する老人や泣き喚く子どもが不在な分、一般の病院や歯科病院などよりも静かなくらいだ。
BGMとして流れているのはクラシック音楽。そちら方面に詳しくない拓真には曲名も作曲者名も分からない。暇を持てした昼下がりに、仕方なくスウィッチを入れたラジオから流れてくる、眠気を誘う音楽に曲調がよく似ている。
クラシック音楽には、おかしくなりかけている人間の心を頑丈な鎖で繋ぎ止める効果がある。それゆえに、ここにいる人たちは毒気を抜かれたように大人しくて、僕は学校に行かないことを父からどんなに厳しく責められても家庭内暴力を犯さないのかもしれない。そう考えたのが、精神疾患に対して拓真が抱いた最後の偏見となった。
通院を始めて以来、息子への父の攻撃は下火になったため、拓真は週に一度の病院通いを歓迎した。待ち時間が長いのにも、中年の女性医師の毒にも薬にもならない話にも、毎回うんざりさせられたが、どちらも耐えられる苦しみであり痛みに過ぎない。
四回目か五回目の来院時に、検査をしましょう、と医師が言った。毎回ろくに話を聞いていない拓真は、唐突に感じられて狼狽した。混乱が冷めやらない中で検査が行われたため、なにを目的としたどんな検査が行われたのかさえも当日中に忘却してしまったほどだ。
母がどのタイミングで、拓真の姉がアスペルガーだと医師に伝えたのかを、拓真は把握していない。ただ、母も医師も、拓真がアスペルガーかもしれないという疑惑を胸に自分を取り扱っていたのかと思うと、もやもやした気分ではあった。
アスペルガーではないという診断に対しては、まあそうだろうな、というのが彼の率直な感想だ。不登校やひきこもりになるのは普通の人間だ、という言説があるのを拓真は知っている。ただ、それが指す「普通」の範囲は広い。不登校やひきこもりになる人間が、そうではない人間よりも少ない以上、なってしまった人間は少なからず異常なのだろう、とは思う。
しかし同時に、不登校やひきこもりとアスペルガーは異常のベクトルが違う、とも考えていた。
「死ぬためではなく、相手を威嚇するために切っている」とあっけらかんと言ってのけるリストカット、想定外の事態に直面したさいの常軌を逸した激高、社会生活を送るにあたっての初歩的なルールに対する無頓着さ。
拓真から見た姉の振る舞いは、異星人のそれ以外のなにものでもなかった。彼女の異常行動は発達障害に起因するものだと診断されるまで、姉とは一生分かり合えないと本気で思っていた。
『実はお姉ちゃん、この前病院に行ったらアスペルガー症候群って診断されてね』
当時、拓真はまだ小学生。学校から帰宅して床にランドセルを投げ出し、食品庫から菓子を選んでいたときだった。母はリビングで朝刊を読み返していたのか、家計簿をつけていたのか。「アスペルガー症候群って診断されて」以降の言葉と同じく、彼の記憶には残っていない。
姉がアスペルガー症候群――。
拓真はアスペルガーのなんたるかは知らないが、発達障害の一種だということは知っていた。野中家の成員が精神に異常を来していると診断されたのはこれが初めてだ。
スナック菓子を手に自室に戻った彼は、スマホでアスペルガー症候群について調べてみた。ウィキペディアで予習したあとで、広告が嫌というほど貼りつけられた一般向け医学系サイトを遍歴職人のように巡った。菓子はスマホを手にする前に一つつまんだきり、見向きもせずに。
小一時間は情報と格闘していただろうか。理解できたようでもあったし、理解できないままのようでもあった。
一しかなかった知識を二十や三十にしたい気持ちはあるが、百にするのは怖さがある。調査は拓真からすれば中途半端な形で打ち切りとなった。しかしその日を境に、彼の姉に対する態度には変化があった。
優しくなったのだ。
これまで不愉快に感じ、時に感情的な反応を示してきた言動に対しても、ぐっとこらえるように心がけたし、こらえられるようになった。これがきっかけとなり、どちらかと言えばマイナスだった両者の関係は明確に好転した。
同種の変化が自分の身に起ころうとしているのだ、と拓真は認識する。
僕はアスペルガーではない。だったら、なんという病気に罹患しているんだ?
通院が土曜日午後の習慣と化して初めて、医師の話を真面目に聞いた。上体を軽く乗り出して話に耳を傾けた。しかし医師は、彼の印象としてははなはだ曖昧な供述に終始し、まるではぐらかすかのようだ。
いい加減焦れてきたころ、医師はおもむろに拓真と視線を重ねてこう告げた。
「拓真くんの脳を検査した結果ですが、特に異常は認められませんでした。いたって健康な脳ですね」
帰りの車中で母と交わした会話の内容は一言も覚えていない。
一瞬にして白亜に染め上げられた脳内に浮かんだ映像は、人間の脳みそ。それは実物よりも赤みが強く、市販されている鶏もも肉のようなピンク色をしている。無数の細く真っ直ぐな麺が絡み合うようにして構成されたその塊を、神がゆっくりと振り下ろした中華包丁が無慈悲に一刀両断する。二つになった脳は内側を上に向けて横倒しになる。どちらの片割れにも、人工的に穿たれたらしき四角い穴があいている。
その空洞から、黒い煙が冷気のようにもうもうと立ち昇る。脳が真っ二つにされるまで、方形の空間を埋めていた黒煙。それが拓真を狂わせている元凶なのだろうか?
スパゲティの塊が急に崩れ、墜落する。丼にたたえられたオレンジ色のスープに沈み、油と唐辛子の香りが立ち昇る。厨房から漏れ聞こえてくる調理の音は騒々しくも活気がある。客は少ないが、その分大きく強く響くようだ。
テーブルの対岸で母が無音で麺をすすっている。検査に、あるいはその後の医師の説明に時間がかかったため、二人は久しぶりに外食していた。
拓真は丼の中身をじっと見つめる時間が長くなっている。箸が進まない。唐辛子がきいた辛いスープの中の中華麺は、脳をほどいたものにしか見えなかった。もっとも、それが食欲を減退させているのではない。
アスペルガーという答えを与えられた、姉。
答えを与えられなかった、自分。
異常は認められない? いたって健康? じゃあ、なにが僕をおかしくさせているんだ? 原因は不明ということか? つまり、治療法はない? 僕はこの世界に適応できないまま生き、死ななければならないということか?
だとすれば、僕がとるべき行動は、歩むべき進路は――。
姉の部屋にはときどき忍び込んでいた。彼女には学校があり、両親には仕事があるが、拓真は不登校でひきこもり。部屋のドアは内側から鍵をかけられない仕様になっている。
最初は箪笥を漁っていた。ブラジャー、ショーツ。それらを手にとり、匂いを嗅ぎ、物理的に広げてみせ、想像の翼も広げた。生来の臆病さが声高に待ったをかけたが、勃起した性器をこすりつけたい、乳首や割れ目が接する箇所に舌を這わせたい、着てみたい――そんな劣情に脳内は埋め尽くされていた。
何度目かの侵入のさい、ショーツの畳み方がこんがらがってしまって何分も汗だくで格闘するという事件があり、それを機に眺めるだけにした。取り返しがつかない過ちを未然に防ぐために犯行から足を洗う、ではなくて。
性欲を処理するための映像であれば、インターネットの大海へと探索に漕ぎ出せば、下着よりもはるかに刺激的なものが容易に手に入る。丸顔で目が細くお世辞にも美人とはいえない、官能的な肉体の持ち主でもない姉の下着になぜこうも欲情するのか、不可解の一言だった。
犯行がすっかり板についた初夏の午前十時過ぎ、拓真は姉の自室にn回目の侵入を果たした。姉は学校、両親は仕事で、現在野中家で呼吸する人間は彼一人しかいない。
姉の体臭が基調となった匂いが侵入者を歓待した。厚みのあるベージュ色のカーテンは閉ざされ、部屋は薄暗い。壁に手を這わせて照明を灯す。
床には書籍やファイルの類が散らばっている。姉は部屋の片づけは定期的に行う人だが、実施する頻度が低いため、実施から日にちが経つと室内は乱雑になる。見たかぎり、清掃や整理整頓が行われてからそれなりに日時が経過しているようだ。踏みつけて壊さないように注意しながら奥へ進む。
箪笥に辿り着く数歩前、拓真は見覚えのあるものを見つけた。ペン類が枯れ枝のように散らばったガラス製のローテーブルの足元に、無数に床に散らばるものの取るに足らない一つのように無造作に、それは寝かせられている。
モスグリーンの表紙のスケッチブックだ。薄暗い中、その一冊だけが淡く清廉な光をまとっているように見える。
姉は小学生のころから絵を描くのが趣味で、中学生になってからは美術部に所属した。一昨年の五月ごろに「デッサンばかりさせられて、つまらない」と夕食の席で愚痴っていたのが、彼女が美術部について言及したのを聞いた初めての機会だった。姉は飽きっぽい性格だし、協調性に欠けるから集団行動が苦手だ。嫌になって早々に辞めると弟は決めつけていたが、予想を裏切って真面目に参加しているようで、三年生になった今でもときどき部活動について話すことがある。
趣味嗜好を同じくする同級生たちに囲まれながら、生真面目に活動に取り組む姉の姿を想像するのは難しい。「姉」と「絵」、二つのキーワードを同時に意識したときに拓真の脳裏に浮上するのは、モスグリーンのスケッチブックを広げて気ままに落書きを描きつづる姿だ。鼻歌は歌わないが、今にも歌い出しそうな横顔が印象的で魅力的だった。描くのに使うのはもっぱら鉛筆。外から眺めたかぎり筆致は軽快だったが、それ以上にていねいに描いていた印象が強い。
描いているものを見せてくれることもあれば、見せてくれないこともある。堂々と盗み見が許される雰囲気ではなかったが、「見せるためにこうしているわけではないが、見たいならどうぞご自由に」というふうに、イラストが描かれたページが開かれたまま人目につく場所に放置されていることはよくあった。見せてくれなかった絵を後日あっさり見せてくれることもあって、見せる・見せないの基準は気まぐれだとしか思えない。
描かれるのは、大まかに分類すれば三パターン。
第一群は、古代ローマ風、もしくは中世ヨーロッパの貴族風の衣服を身にまとった、達観した雰囲気を醸した中年男性。タッチはいくらかデフォルメがきいているが、リアル寄り。顔立ちは端正ではなく、高貴な人間が着る服を着ていても破れ目や汚れが目立つなど、魅力的な男性を表現しようという意図はないようだ。拓真にはスケッチブックの中の男性たちが自分の父の変形、あるいは拓真自身が年齢を重ねた姿に見えることもあった。
第二群は、ペンや消しゴム、フライパンやマイバッグなどの身近な品々のスケッチ。全体に占める割合はそう多くはなく、どれも簡潔に描かれている。
第三群は、体の一部分が無機物となった生物。生物の中には人間も含まれていて、無機物化した動物は、第一群で描かれる中年男性とは違い、無表情だが瞳だけが異様な輝きを放っている。下半身が三脚になったオランウータン、蹄がホッチキスを何重にも重ねたような形になったヘラジカ、胸部から樹枝にも刀にも見える巨大な突起物がせり出したホッキョクグマ。
中学生にしてはクオリティが高いと感じる。ただ、好き嫌いが分かれる絵柄なのは間違いない。デッサンは巧みだし、男性を無理に美形に描かないところは好もしく感じるが、無機物と組み合わせるのは悪趣味で好きになれない。それらの異形を細部までじっくりと眺めていると、生野菜をドレッシングなしで食べたときのような不快感が喉の奥の奥からせり上がってくる。
姉の絵を最後に見たのはいつだっただろう? もう久しくお目にかかっていない。
スケッチブックを取り上げ、ページをランダムに開いてみる。右半分がまっさらで、左半分に鉛筆によってイラストが描かれている。
シルエットは人間に見える。頭部はいくらか肥大化していて、髪の毛が一本も生えていない。額の上の突起は、頭蓋骨の一部が皮膚ごと前方に突出したことによってできた角と推察される。先端は丸みを帯びていて鋭さがない。双眸は東洋人のように小さく、黒目が占める領域が広い。口、胸、腰のくびれから足首にかけて、以上の三か所に布らしきものを巻きつけている。剥き出しの肩は人間そっくりだが、土星の輪を思わせるリングが填まった二の腕から先は、イソギンチャクあるいはクラゲのような触手の束になっている。上から三枚目、下半身を覆う布のようなものの下から覗く足は小さな立方体で、黒く細い紐が幾重にも無造作に巻きつけてある。
拓真は絵から目が離せない。
グロテスクな絵だ。おぞましいし、歪んでいる。今すぐにスケッチブックを投げ捨てたいくらいなのに、凝視をやめられない。
拓真が記憶するかぎり、姉はこの種の異形を形に残したことがなかった。動物と無機物の融合体は、二つが作為的に組み合わされて一体と化しているが、異形はもともと一体。しかし受ける印象は、融合体よりもはるかに歪かつ、はるかにグロテスクだ。
元ネタはなんなのだろう? 異形はこの世界にいる生物のなにものにも似ていない。大まかな姿形は人間だが、顔、手、足、それらが人間のものとはかけ離れているせいで、人間の亜種だと認定するには抵抗感を覚える。
紙に穴があくくらい入念に観察しながら考察したが、真実の光は射さない。
拓真はこれまで、姉は「普通」から外れた人間だからグロテスクな絵を描くのだと決めつけ、それ以上の思案を放棄していた。しかし今となっては、その怠慢が悔やまれてならない。
姉は普通から外れた人間なのは確かだが、送っているのは普通の暮らし。そんな人間が、多少入り組んだ空想を弄んだだけで、こんなにも異様な生命体を描き出せるはずがない。実際にこれと同じフォルムの異形と遭遇して、スケッチをしたと解釈した方がまだしっくりくる。
不意に気配を感じた。全神経が後方に惹きつけられる。ぎぃ、と戸口の床板が軋む。
いる。
いつの間にか帰っている。家族が。
まったく気がつかなかった。ただ帰宅しただけではなくてこの部屋まで来たということは、
「拓真、あたしの部屋でなにやってんの?」
声と振動に拓真は目を覚ました。それが悪夢から脱した瞬間でもあった。
視界の中央には見知らぬ少女の顔が大写しになっている。先ほどまで見ていた悪夢に出てきた女の子に似ている。目覚めた瞬間に悪夢の内容をきれいに忘れてしまったにもかかわらず、そう思う。太めの眉は吊り上がり、険しい表情を作っている。もっとも、悪夢から解放されて安堵している拓真の心には響かない。
「もしかして君、××小四年生の野中拓真くん?」
頷くと、少女の顔から緊張が抜け落ちた。
「よかった、行方不明じゃなくて。点呼したのに野中くんだけ返事がなくて、むちゃくちゃ焦ったんだけど、寝ていただけだったんだね。もう用は済んだから、ごゆっくり」
少女は蝶々のように手を振って去っていった。上体を半分起こし、遠ざかる背中を目で追うともなく追っているうちに、自らが置かれた状況を完璧に思い出した。
小学校は夏休み期間に入り、拓真が暮らすT市主催のキャンプが開催された。小学四年生の拓真は姉とともに参加することになった。キャンプ地に選ばれたのは、県南の海岸近くの山中にある大規模宿泊施設。計画されたイベントは、海水浴、バーベキュー、花火大会など。運営は少数の大人と中学生に任され、彼を起こした少女も運営に携わる一人だ。
一行はすでに宿泊施設内に移動を完了している。素朴なデザインのベッドが整然と並べられた空間では、小学生の少年たちが浮かれ、騒いでいる。総勢は二十名ほど。建物の出入口前のささやかなロビーで、運営を担う大人と立ち話をしている先ほどの少女を除けば、みな男子ばかり。女子も同数ほど参加しているが、寝る場所は当然別。姉を含む女子一行は、拓真がいる建物近くの別の建物内にいるはずだ。
拓真は孤独感を強く覚えた。
彼には友だちと呼べる人間がいない。少なくとも、いっしょにキャンプに参加するくらいに親しい友だちは。彼と同じ学校の男子は何人か参加しているようだが、いずれもクラスや学年が違う。誰もが親しい人間を誘って参加しているらしく、普段から親しい人間たちと寄り固まって、普段どおりに交流することで満足し、完結している。親しくない人間には見向きすらしていない。
拓真は話しかける勇気を持てない。持てたとして、学校、学年、クラスが違う人間相手にどんな話題を選べばいいのか。どんなふうに話を展開していけばいいのか。
人付き合いが苦手な自覚はある。孤立し、孤独感に苛まれる展開は事前に想像がついていた。それでもキャンプに参加することにしたのは、姉もいっしょだったからだが、男女の違いから別行動が多くなることまでは考えていなかった。
仮に事前に気がついていたとしても、不参加という選択肢を選べたかは怪しい。キャンプへの参加は、「対人コミュニケーション能力を養う」という名目のもとに、父が決めたことだ。
昭和生まれで地方公務員の父は、旧弊で保守的な性格で、パートナーや子どもに普通であってほしい、常識的であってほしいと願っている。他人様に多少迷惑をかけてでも己の個性を伸ばせ、ではなくて。
親の立場になれば誰しも、我が子は「普通」であってほしいと大なり小なり願うものだが、拓真の父の問題点は、根性論や精神論に基づく治療法に固執することにあった。
このころの拓真はまだ普通に学校に通っていたが、対人コミュニケーション能力や社交力に難があることは、ともに暮らす中で、あるいは妻や教師から報告を受けて把握していたのだろう。さらには、弟ほど深刻ではないし、ベクトルも異なっているが、大ざっぱに言えば同じ問題を姉も抱えているという認識だったらしい。
姉は自分が興味のないものには徹底的に無関心なだけだ。興味を持ったものに関連があるなら、赤の他人だろうが年齢差が親子ほどだろうが平気で話しかけて、逆に保護者である母をはらはらさせるなど、特定の条件下ではむしろ人並み以上に積極的に振る舞う。
ただ、父は心の病に対する理解が不充分だ。過去に「あがり症は気持ちの問題だ」と断言し、息子を絶望の淵に突き落とした前科もある。
二人の我が子が抱えている課題を克服するために、年齢が近い者たちと二泊三日の集団生活をさせることを父は思いついた。
頑固な父の決定に逆らえば面倒なことになる。多少気乗りがしない程度なら、言いつけに従った方が得策だ。
キャンプに関して、拓真はそのセオリーに逆らわない対応をとった。
姉は拓真や母とは違い、父相手にも徹底抗戦するが、キャンプのどこにどう惹かれたのか、あっさりと参加の意思を示した。姉が行くなら、ということで、気乗りがしない気持ちは消えた。
しかし、初日の夜を迎えた今、拓真は己の判断を死ぬほど後悔している。
食事も入浴も流れるように片づいた。少女は去り、部屋は消灯される。同じ部屋で寝るらしい大人の一人に注意されても騒がしいままだった少年たちは、闇の到来とともにスウィッチを切られた機械のように大人しくなった。それでもしばらくは、咳払いの音、寝返りを打つ音、秘密裏に隣の者とささやきを交わしているらしい者が思わずこぼした笑声、などが断続的に聞こえていたが、やがてそれもやむ。外では夏の虫が秋の虫のように静かに鳴いている。
他者と交流する必要がなくなったことで、心の負担は軽減された。ただ、拓真にはもう一つの懸念がある。消灯後のトイレがそれだ。
全般的に不安症気味な彼は、授業中に小用を足したくなったらどうしよう、食事中にトイレに行くのは下品だ、などの思いから、こまめに排泄する習慣がついている。自己分析によればその影響で、いささか頻尿のきらいがあった。緊張を強いられたときはその傾向が顕著になるうえに、今は夏場。様々な屋外活動でたっぷり汗をかき、補うために多量の水分を摂取しているから、夜中に目覚めてしまうのは確実に思われた。
予感は的中し、拓真は夜中の三時に眠りから覚めた。起床時間まで尿意を我慢するのは、どうやら難しそうだ。宿泊施設は大型の小屋のようなもので、トイレは少し離れた場所に独立して建っている。暗いし、怖いが、選択肢は一つしかない。
屋外は暑くも涼しくもなかった。この時期だと夜間でも蒸し暑いはずだが、山の中は例外が適用されるらしい。未舗装の路面をスニーカーの靴底が踏んでは離れることがくり返される。鳴いている虫はいない。夜に鳴く虫も真夜中には眠るものなのだろうか?
怖くない、と言ってしまえば嘘になる。臆病な拓真が夜を、闇を、無人を、怖がらないはずがない。
道の両脇の草むらから、人間に危害を加えるのをためらわない、なんらかの存在が今にも飛び出してきそうな気がする。出てきたばかりの施設のかたわらに生えた大樹の梢では、滑空能力を持つ怪物が拓真の一挙手一投足を監視していて、隙を見せた瞬間に猛然と飛びかかってきそうだ。
怖かった。恐怖から逃れられるものなら逃れたい。ただ、怯えながらも前進している。叫ぶことも立ちすくむこともなく、目的を遂行できるだけの落ち着きを堅持している。
不意に、姉のことが頭を過ぎった。
姉さんは上手くやれているだろうか。ただでさえ人付き合いが苦手なのに。僕と違ってただ孤独なだけじゃなくて、他人に疎ましがられるようなことを言ったりしたりしてしまう人なのに。
トイレに寄ったあとで、姉さんに会いに行ってみようか? 浮かんだ考えは、靴底が大地を踏みしめるたびに少しずつ膨らんでいく。
入口から見たトイレの中は真っ暗だ。気体状の闇を敷き詰めたかのような深く濃密な暗黒。星明りが届いていない分、外よりも暗い。
拓真はおもむろに、女子たちが泊っている建物の方を向いた。
そして目撃した。
建物の正面玄関の背にして、異形の怪物が佇んでいる。フォルムは人間に見えたが、背丈はおよそ三メートル。角のような突起が額から飛び出していて、手が触手の束になっていて、足が立方体。小さな黒目が見つめているのは、拓真。
ごとり、と音が立った。異形が彼に向かって一歩足を踏み出したのだ。ごとり、ごとり、ごとり――近づいてくる。
「拓真っ!?」
異形の背後でドアが開く音がした。
「お待たせしました」
現れたのは、口ひげを生やした男。少ししわがれた声なのに瑞々しさが感じられる。
拓真はおずおずと男の顔を見返す。老けた二十代にも見えるし、若作りをした五十代にも見える。口ひげの偉人は無数にいるのに、拓真はなぜかスターリンを連想した。
「移動しようか。開放的で話しやすい場所があるから」
スターリンはいくつものテーブルセットが置かれた部屋へと拓真を導いた。パーティションの類は設置されておらず、他のテーブルに人の姿はない。拓真は胸を撫で下ろしたが、二人きりという状況はむしろ話しづらいとすぐに気がつき、冷や汗が噴き出した。窓外では太陽が灼熱をばら撒いている。
山奥の全寮制の高校の次に、父が見つけてきた学校だった。不登校でひきこもりの息子を厄介払いしようとしているのではないか、という疑惑から、父に対する拓真の不信感はかつてないほど高まっていた。
反抗の意思を示すために、渡されたパンフレットはろくに目を通さずに捨てた。だから学校のことは、「〇〇学園」という校名であることしか把握していなかった。この学校に行きたくないという意思表示はちゃんとしたのだが、学園について知悉していないのが仇となり、「具体的にどこが気に入らないんだ」という父の反論に唇を閉ざした。結果、親に学園まで連れてこられた。
学園に入園するための最後の関門は入園試験だが、最初の関門として、入園希望者とその保護者に面談が行われる。学園側は学生のやる気を重視している、と父は説明していた。
じゃあ僕は不合格だな、と拓真は思う。
どんな学校なのかは知らないけど、父さんが選んだのだから、前の全寮制みたいに特殊なところなんだろう。そういうのはうんざりなんだよ。まだ二回目だけど、もううんざりだ。僕はそういう特殊な学校に押しつけないと手に負えない人間なのかよ。一回不登校になっただけで「普通」失格なのかよ。そんなの、おかしいだろ。
面談の予約は事前にしていたはずなのに、応対した教員に「ちょっとこちらの都合がつかないので」と待たされる羽目になった。案内されたのは、職員室。出入口の近くに、一応来客向けらしい古びたソファが置かれていて、三人はそこに窮屈に腰かけた。
「随分といい加減な学校だな」
渋面を作った父が母に向かって小声で言い、母は苦笑いで首肯する。まず間違いなく怒り出すので口には出さなかったが、帰りたいと拓真は思った。両親は断続的に学園側の対応を非難する言葉を交わしていたが、やがて黙ってスマホをいじり始めた。
忙しそうにしている人間は一人もいないのに、教員は頻繁に部屋を出入りする。誰一人として野中家の三人には注目しない。スマホをいじっていない拓真は彼らをある程度深く観察できたが、一瞥を投げてくる者さえめったにいない。
僕たちはこの場所にいてはいけない人間なのでは? そんな思いさえ、拓真の胸を断続的に過ぎる。
「野中さんですね?」
やがて幸薄そうな細面の中年女性が声をかけてきた。親と子の面談が別々に行われることを拓真はこのとき初めて知り、彼だけがその場で待たされることになった。
ドアの向こうに拓真が不在の三人が消え、閉まる。部屋にいる全ての人間が一瞬だけ動きを止め、再び動き出した。
一人になったとたん、教員たちの注目が集まり出したように感じられる。顔の角度が俯き気味で、対象の姿が視界に映っていないからそう感じるのかもしれない。さりとて、顔を上げようとは思わない。
これではまるで教室と同じじゃないか。いじりとか、嫌がらせとか、いじめとか、そんなことは絶対にしないはずの大人しかこの場にはいないのに、こんなことが……。
客観時間でもかなり長かったと思われるが、体感時間は果てしなく長かった。終わりがないのでは、と本気で錯覚する瞬間さえ何度もあった。
そして、スターリン。
「野中くんは社会科が得意なんだね。だったら三国志には興味ある? ゲームとか、漫画とか、三国志を題材にしたものはたくさんあるけど」
今日の昼食や出身地など、いくつかの当たり障りのない質問をジャブのように投げかけたあと、スターリンはそう問うてきた。唐突に感じられて拓真は狼狽し、直後に別の意味から狼狽してしまった。
拓真は面談の開始を待っているあいだ、職員から問診票を渡された。暇つぶしにちょうどいいと、生真面目に全ての空欄を埋めたが、その中に「得意な教科はなんですか?」という設問があった。得意というよりも好きという方が近いが、得手不得手を把握するのが目的ではないのは他の設問を見れば一目瞭然、差し支えないと判断して「社会」と記入していたのだ。
何十分かぶりに冷や汗が拓真の肌を伝う。わざわざ質問をするくらいなのだから、面談で取り上げるのは考えてみれば当たり前のことなのに、深く考えずに答えてしまった。その結果、返答に窮してしまって、気まずくなって――最悪だ。
「水滸伝はどう? それとも日本史の方が詳しい? 日本の戦国時代はよくソーシャルゲームの題材になっているよね。俺はゲームはやらないけど、本当に戦国ものは多いよ。食傷気味っていうか。武将の女性化とか、うわっと思うようなものもあって――」
三国志にも水滸伝にも日本の戦国時代にも、拓真は詳しくない。三国志に言及したさい、スターリンは何々の戦い、という言葉を三つほど挙げたが、拓真にはどれもちんぷんかんぷんだった。どの国とどの国が戦ったのかも、どんな武将がどのような活躍を見せたのかも、戦いの結果どのような変化が当事国や地域に起きたのかも。
やがてスターリンは沈黙した。明らかに、拓真の社会科に関する知識と情熱の乏しさに気がついたことによる沈黙だ。気まずい時間がまだまだ続いていくのかと思うと、拓真は叫びたい気持ちになる。
しかし、スターリンは拓真が考えていた以上に素早く、なおかつ思いがけない、次なる一手を打った。
「お父さんは、野中くんに厳しいの?」
その質問には、俯きっぱなしだった顔を持ち上げさせる力があった。スターリンは心細そうな、困ったような、同情してみせるような、複雑怪奇な表情を拓真に向けている。
「こうしろ、ああしろって、命令するような言い方をするのかな。頭ごなしに。野中くんはあまりしたくないことを、無理矢理させようとするのかな」
拓真は泣きそうになった。
カウンセリングも別々に行うくらいだから、両親にも拓真とは別の問診票が渡されていて、その解答を踏まえての問いかけだったのかもしれない。そう考えたのはあとになってのことで、当時の拓真は、答えられる質問は答えなければという思いのもとに、首を縦に振った。込み上げてきた感情が、待たされた苦い時間も、質問にまごついたことも、きれいに拭い去っていた。
以降の記憶はほぼ残っていない。ただ、スターリンが懐に深く入り込んでくるような質問をしなくなり、当たり障りのない言葉ばかり並べたような印象がある。記憶の正しさを信じるなら、スターリン、というよりも学園側にとってはその質問こそがもっとも重要で、拓真から回答を得られた時点であとは消化試合のようなものだったのかもしれない。
「拓真」
呼びかけられて我に返り、振り向くと、いつの間にかテーブルのかたわらに彼の両親が並んで立っていた。
一目見た瞬間、息を呑んだ。
―――――
☆ひみつメモ☆
名前 ラガヌム星人
目的 地球人をさらう。強制労働をさせるため。
外見 人型。地球人よりも大きく、その姿は
―――――
「なんだ、これ……」
破れたメモ用紙を片手に拓真は呟いた。
筆圧が弱いが弱すぎず、直線的なのに柔らかなこの筆致は、姉が書いたもので間違いない。
ただ、なぜ、拓真が暮らすアパートに置かれているのか。施錠したはずの室内の、ベッドのヘッドボードの上に。姉に部屋の合鍵は渡していないのに……。
なんらかの方法で侵入を果たしたとして、姉さんが僕になんの用だというんだ?
不登校を経験して以来人嫌いが加速し、家族ですら最小限のコミュニケーションしかとらなくなった僕。
対するは、生まれつきの変人で、自分が興味のある人物事象にしか興味を示さない姉さん。弟は単なる家族の一人、歳が近い年下の同居人として認識し、付き合ってきた姉さん。
そんな二人が、こんな特殊な形で交わるなんて。
姉が姉らしく気まぐれを起こしたわけではないなら。なにか明確な理由があるのだとすれば。
「……小説?」
小説家を志す弟のために、創作に役立ちそうなアイディアをメモに残したのでは?
拓真が入学したのは、芸術大学。選択したのは、文芸学部の創作文芸学科。小説を書くノウハウを学びたかったから、その大学の、その学部の、その学科を選んだ。
進路に関しては、両親と何度も意見を交わしているし、夕食の席などの家族が勢揃いする場でも話題に上っている。だから当然、姉もその事実を知っている。
『僕、芸大に行きたいんだ。創作文芸学科っていう、小説の書き方を学べる学科があるから、そこに入りたくて』
『ああ、そうなんだ』
姉とそんな会話をした覚えがある。
『大学、合格したよ。第一志望の、ほら、創作文芸学科がある芸大。来年からも僕も芸大生だ』
『ああ、そうなんだ。よかったね』
そんなやりとりを交わした記憶もある。
姉は興味のない話題のときは非人間的なそっけなさを示すが、弟と話をする場合は、短いが人間味のあるやりとりになることが多かった。したがって、容量の限られた脳髄が、節約のために末端の情報を独断でカットしたが、実際にはもっと多くの言葉をキャッチボールした可能性が高い。
姉は一年早く芸術大学に入学した。絵を描く技術を学ぶために大阪の芸術大学に通っている。絵も小説も芸術という大カテゴリに属する遠縁の関係。姉にとって多少なりとも興味がある話題のはずだ。
これまで試みは未遂、あるいは失敗に終わってきたが、このメモを媒介にして姉さんと芸術談義を交わせないだろうか?
具体的な方策について思案を巡らせ始めて早々、拓真は足止めを余儀なくされた。
待ったをかけたのは、メモに記された「ラガヌム星人」という六文字。
外見についての説明書きは、紙が破れていて読むことができないが、拓真は「星人」という言葉から触手を連想した。
姉がかつてスケッチブックに描いていた絵の中に、両腕が触手になった異形があった。
「もしかして、あれがラガヌム星人……?」
なぜかは分からない。なぜかは分からないが、スケッチブックに描かれていたラガヌム星人を見たことが、僕が小説家を志したきっかけだったのでは、と拓真は思った。
直後、背後から気配を感じた。
汗腺という汗腺から汗が噴出した。首から上だけを回して振り向く。
戸口に異形が佇んでいる。既視感を覚えるような、純然たる未知に遭遇したかのような、名状しがたい感覚が拓真を包む。異形は音割れをした声で言った。
「拓真、あんた、こんなところでなにやってんの?」
姉の部屋に無断で入っても叱られることはなかった。少なくとも、拓真が小学四年生になるまでは。
小学三年生の秋の午後、姉の部屋に足を運んだ彼は、椅子に座って携帯ゲーム機で遊ぶ姉の背後にぴたりと寄り添った。
言葉を交わすのが目的ではない。会話はむしろ必要最小限に留めて、姉がプレイするゲームを見物する。彼女は一学年上のため貰う小遣いの額が多く、きょうだい共通で愛好しているゲームのシリーズの最新作を、弟に先んじて購入していたのだ。
姉は「気になるんだったら見てもいいよ」などと、弟を思いやる言葉を自分からかける人ではない。希望したのは拓真からで、姉は渋々といった様子で許可した。おそらく冗談だったのだろうが、「少しでもうるさくしたら即刻追い出す」という意味の警告を事前に受けていたので、彼は新作ゲームを楽しみにする気持ちが揺らぐくらいに緊張していた。
緊張の源泉は、その警告にもとづくものではなかったと、二人の時間が始まって間もなく拓真は知ることになる。
見学を始めた当初は、ゲームの世界観を小学三年生相応の純真さでただ楽しんだ。熱がひと段落したころに、彼は不意に、無防備な姉の背後に立つという現状を客観視した。それを境に、水が高い場所から低い場所へと流れていくように、意識は彼女へと吸い寄せられた。産毛が生えた白いうなじ。シャンプーの残り香が混じった唯一無二の髪の毛の匂い。画面をより深く見つめようと体勢を変えた拍子に体が触れ合ったさいの肌の感触。
二人きりの時間がいつ終わったかの記憶は痕跡すらも残っていない。ただ、姉が弟を追い出すという形ではなかったのは確かだ。
彼が同じゲームソフトを買うまでには大分間があいたが、姉がプレイするゲームを肩越しに見学したのは、その日の一度きりだった。拓真が姉に近づきたさを感じたからでもあるが、姉が弟と距離を置くようになったのが大きかった。
愛想を尽かすようなきっかけがあったわけではない。ひとえに、彼女の体の不可抗力的な成長に伴う不可抗力的な心の変化のせいだ。
ダイニングテーブルのきょうだいの自席は向かい合わせで、膨らみつつある姉の胸を自ずと視界に入れられる位置関係にある。拓真は箸を緩慢に動かしながら、体験し慣れていない官能に戸惑いながらも浸っていた。見たかった。触れたかった。舐めたかった。
新作ゲームのプレイを見学したような機会があれば。そう頭の片隅で常に願い続けた。もっとも、心の底から強く願ったわけではなく、不可能を前提に夢見ていた。
思春期に入った姉は、ゲームで遊ばなくなった代わりに絵を描くようになった。
最初はチラシの裏だった。リビングの炬燵の上に置いてあった、紙の端に慎ましやかに描かれた端正なクラゲのイラストを見て、キッチンで調理をしている母に「これ、誰が描いたの?」と拓真は問うた。学年までは覚えていないが小学生のころのことで、
『お姉ちゃん、最近チラシの裏とかにちょこちょこ描いているみたいよ。なかなか巧いよね、そのイラスト』
というのが母の返答だった。
姉はやがて家族の前でスケッチブックを広げるようになった。紙面を見つめる顔つき、ペンを動かす手、どちらもお遊びとは思えない真剣さだ。そこはかとなく接近を拒む雰囲気を漂わせていたが、話しかけても姉は怒らない、むしろ彼女もそれを望んでいるのが伝わってくることもしばしばあった。
その場合、拓真はためらいなく姉に近づいた。「なにを描いているの?」と無邪気に尋ねることもあれば、無言で肩越しに覗き込むこともあった。どちらを選ぶのかは、姉の機嫌、自分自身の気持ち、周囲の状況などを考慮して総合的に判断した。ゲームを見学したときのように、極限まで接近する口実をなかなか見つけられないのが残念だったが、不定期ながらも交流を持てると分かったのは喜ばしい収穫だった。
姉は描いたものを無言で見せるか、モチーフについて簡単に説明するだけ。拓真も深く追求はしない。浅く、短く、きょうだいの交流は幕を下ろすのを常にしていた。
姉さんが絵を描くようになったきっかけはなんなのだろう?
いつからかそんな疑問が拓真の胸に芽生えていた。
姉は普通ではない。異常なものを抱えている。その認識は、拓真の中でずっと昔からあった。
具体的にいつからそう思い始めたのか、思い始めたきっかけはなんだったのかは明言できない。拓真が生まれたときから姉は身近な場所にいた。ふと気がつくと姉の新事実を発見していた、という瞬間の積み重ねだった。
姉の異常性に関する最古の記憶は、冷蔵庫のドアに所狭しと貼りつけられたシールから始まる。
喚く声がする。野中家の人間は「奥の部屋」と呼んでいる、拓真が幼稚園のころに亡くなった父方の祖母の自室だった一室からだ。父方の祖母は最終的に入院先の病院で息を引き取ったが、長らく自宅で療養していた。
拓真はまだ幼かったため、生前の祖母にまつわる記憶は殆どない。
衛生状態の維持と看護の利便性のためだろう、奥の部屋のドアが開け放たれている時間は長かった。覗くチャンスはいくらでもあったのだが、実行に移した機会は数えるほどしかない。死や病気や高齢者といったものに対する好奇心は年齢相応にあったが、恐怖がそれに勝ったのだ。
葬儀の記憶すらも断片的にしか残っていない。覚えているのは、いよいよ出棺となったときに、眼球の奥の奥に秘められていた涙が滲み出し、こぼれ落ちそうになったこと。骨が焼き上がるまでが長くて、死ぬほど退屈だったこと。
あとになって、死因は癌だったと聞いた。骨にまで転移して手の施しようがなく、患者の苦しみは想像を絶していたという。
拓真にとって父方の祖母は謎の人で、赤の他人が同居していた感覚に近い。彼女が暮らしていた部屋は、使用者が不在となってからも彼は近づきがたさを拭えなかった。年末、家族全員が分担して各部屋を掃除するさいにも、彼はトイレよりもその場所を掃除するのを嫌がった。
祖母の死から日が経つにつれて、奥の部屋には物が置かれるようになった。内訳は、今すぐには使わないが保管しておきたいものや、置き場所に困ったものなど。わずかばかりの思い出の品を残して私物は処分され、遺影と位牌はリビングの仏壇に移動した。やがて奥の部屋から祖母の残り香は一掃され、平凡な物置部屋へとモデルチェンジを果たした。
拓真は奥の部屋に恐怖を感じなくなったが、近づきがたさは消えなかった。家族は消そうとしても消えない瘴気の存在感を薄めるために、次から次へと物を置いているのだ。冗談半分本気半分でそう思った。
そんないわくつきの部屋から聞こえてきたのは、地獄の底から響いてくるかのような甲高くおぞましい声。
喉が渇き、二階の自室からキッチンまで下りてきていた拓真は、心身ともに硬直した。末期癌に侵された祖母が悲鳴を上げたのだと思った。彼女の死後からはすでに丸三年が経過している。そんなはずはないと頭では理解しているのに、恐怖に全身が強張り、冷蔵庫のドアに正対した顔を動かせない。
銀色の巨大なドアには、シールや小型のマグネットなどが直に貼りつけられている。水道修理業者のステッカー、きょうだい揃って好きなアニメキャラクターのシール、『〇〇町の大叔父さんの体調が思わしくないって電話があったから、様子を見に行ってくる。七時までに戻らないようならカップラーメンでも食べておいて』という母が残したメモ書き。一か月以上も前に執筆されたものだが、剥がすのを忘れて放置されているのだ。
もう一度声が聞こえた。今度は発声したのが誰かが分かった。姉だ。
堰を切ったように様々な情報や記憶が拓真の脳に流れ込んできた。一階に下りるまで彼は自室でゲームをしていたが、ドア越しに父が階段を下りる足音を聞いたこと。悲鳴になかばかき消されているが、父が姉に呼びかけている声が聴き取れること。人声以外にも、姉が立てているらしき床を踏み鳴らす音も。
普通や当たり前を美徳とする父と、風変わりな性格の姉は、たびたび衝突した。拓真が学校を休む日が目に見えて増えるまで、野中家における騒動の原因の大半は、父と娘の対立が占めるといっても過言ではなかった。
衝突はいつも、姉が当たり前のことを当たり前にこなせないことに対して、父が苦言を呈することから始まる。
父は神経質で完璧主義的なところがあり、注意される側からすれば煩わしく、不愉快に感じることが多い。とはいえ、謝罪し、改善を約束しさえすれば、比較的簡単に怒りは静まる。拓真なら平穏を取り戻すのを優先させただろう。
しかし、姉は頑として非を認めないし、正そうともしない。彼女の独特の正義感の持ち主で、絶対に己を曲げない人だ。
頑固なのは父も同じだから、必然に諍いが勃発する。穏やかに反論を述べるという形の反抗であればその事態は回避できたかもしれないが、姉はいつだって感情を爆発させる。この二人の組み合わせだと、ささいな過失を注意した・されただけで大騒動に発展する。
しかし、今回はあまりにも激しすぎる。姉が悪魔のような声を撒き散らしている。父も腹の底から発した声で言葉をぶつけているが、それすらも埋没するような大音声。
どう考えても、なにか決定的なことが起きたとしか思えない。
そのなにかがなんなのかを確かめるために、今すぐにでも脱兎のごとく部屋に飛び込んでいきたいのに、拓真は色褪せた水道修理業者のステッカーから目を離せずにいる。鼓動は激しく、体は熱く、しかし動けない。
突然、床が小刻みに連続して踏み鳴らされた。足の裏に微震を感じ、拓真はようやく金縛りから解放された。ダイニングと廊下を仕切るドアを振り向く。
そのドアに向かって、突進するかのような勢いで足音が接近したかと思うと、それにも勝る勢いで開け放たれた。現れたのは、姉。細い目を限界まで見開き、眼差しを拓真へと注いでいる。台風の中を歩いてきたように頭髪が乱れ、頬は涙に濡れている。
そこまで観察を終えたところで、きょうだいの視線は重なった。拓真は恐怖も怒りも悲しみも覚えなかった。突然の事態に理解が追いつかないのだ。
先に変化が現れたのは姉だった。見る見る表情が歪んでいき、変化が止まったと思ったときには、上下の歯をきつく噛みしめ、眉尻と目尻を吊り上げるという表情に変わっている。怒り、もどかしさ、憎しみ。行き場のない感情に突き動かされて、右手で髪の毛をかきむしる。さらには左の手首。
その部位からしたたるものを認めて、拓真は我に返って息を呑んだ。姉の左手首は、食われ始めて間もない草食動物の腹部のように皮膚が破れて肉の赤が露出し、それよりも鮮やかな赤が断続的に床にしたたっている。
姉は真っ赤に染まった右手を左手首から離し、姉は弟を目がけて突進した。走行の様態は競歩のそれに酷似している。拓真は恐怖を感じたが、彼女の双眸が弟を捉えていないことに気がついた瞬間、その感情は魔法をかけたように跡形もなく消滅した。
すれ違った拍子に肩と肩がぶつかる。衝撃はさほど強くなかったが、拓真は腰が抜けたようにその場に尻もちをついてしまった。拓真との接触を境に足音は加速し、あっという間に遠ざかる。風を感じて振り向くと、勝手口のドアが開け放たれている。外履きのスリッパが二足用意されているが、ピンクと水色、どちらも三和土で斜めになっている。
入り込んできた風がキッチンに滞留する空気をかき乱したらしく、食べ物の匂いが拓真の鼻孔に届いた。匂いを辿ると、まな板が出しっぱなしになっていて、その上に中華麺が散乱している。何羽もの鳥に寄って集ってつつかれたかのように乱雑で汚らしい。姉が用意していたものだろう。
姉はえり好みが激しい。食に関してもそうで、特に野菜の中で食べられるのは、一部の柔らかで苦くない葉野菜とトマトくらい。拓真は煮込む時間が短いカレーが嫌いだが、姉は「野菜のエキスが溶け込んだルウが気持ち悪い」という独特の理由を述べて、肉しか入っていないカレーを作るように母に要求したこともある。姉に甘い母は多少の融通はきかせるが、父はそれが気に食わず、「母さんが作った料理に文句を言うんじゃない」と決まって不快感を示した。外食に行ったさいに、食べられない野菜が入っていないか否かの判断に迷って注文がなかなか決まらず、父が「決めるのが遅い」と苦言を呈し、店内にいる他の客の迷惑も顧みずに激しく言い合いをしたこともあった。
子ども時代の姉は、妥協してもらうところは妥協してもらい、妥協するところは妥協して、騙し騙し「普通」の食生活を送ってきた。しかし、家庭科の授業で手料理を作ったのが自信になったらしく、お気に召さない食事が出された日には、自分が食べるものは自分で作るようになった。
姉が作る料理は主に二パターンに分かれる。一つは、加熱した肉加工食品を卵でとじて白米にのせただけの、シンプルな丼物。一つは、中華麺を食べられる野菜や肉加工食品といっしょに、あるいは麺単独で蒸すか炒めるかして、好みの調味料で味つけをした麺料理。
偏食とレパートリーの少なさ、ありあわせのもので作るという制約があるため、いつも麺か丼を食べているように拓真は感じる。しかし、本人はまったく苦にしていないし気にしてもいないようで、
『またそれを食べているの? この炒め物、たまねぎをのけたらあなたが食べられるものばかりだから、そうしなさいよ。同じものばかりだと飽きるでしょう』
などと母からすすめられても、馬耳東風、鼻歌を歌いながら一人分の食事の準備を淡々と進めた。
拓真は立ち上がって俎上の惨状を見下ろす。麺はプラスティック製の板いっぱいに広がっているだけではなく、叩きつぶされている。姉は基本的に面倒くさがりだから、手短に済ませられる料理しか作らない。まな板の上に出したということは、なにかしらの加工を施すつもりだったのだろうが、荒々しいやり方で調理するつもりだったとは思えない。
父と言い争っていたようだけど、食事関係で揉めたのだろうか? 中華麺が調理以外の目的で加工されたのは、父と衝突したのが原因? だったら、二人はなぜ奥の部屋に移動したんだ? 手首に酷い怪我していたようだが、あれはどういういきさつで負ったものなんだ?
――手首の怪我。
思い出したとたん、映像が鮮明に甦った。あの肉の抉れ具合――超小型の肉食獣が食い散らかしたような、本来は浅かった傷口に棒を突っ込んで乱暴にかき混ぜたような。断面の歪さがいかにもリアルで、それでいて滲み出した血の赤の鮮やかさは非現実的で、非現実的な力が現実感のある非現実を演出したかのようだった。
とても人間の仕業だとは思えない。人間の仕業だと信じたくない気持ちもある。
しかし、残念ながら、姉がやったことで間違いない。赤く染まった右手の指先が動かぬ証拠だ。
自傷。
リストカットという言葉とその意味はもちろん知っている。よく言われている「生きている実感を得るため」という言い分には理解も共感もできないが、死ぬのが目的でやっている人間は少ない、という情報は知識として頭の中に入っている。
ただ、自分が住む世界とは遠く隔たった世界の出来事だと思っていた。戦争や殺人、ドラッグやレイプといった領域に属する、ごく普通に、まっとうに生きていれば、決して縁のないものだと。
しかし、現実だった。
自傷。生で見たその傷は、想像に描いていたよりもはるかにグロテスクでおぞましかった。百歩譲って、勇気を振り絞ってカッターナイフで手首に線を引くだけなら、臆病な拓真にだってできなくはないだろう。ただ、あんなにも深く、血がしたたるほど傷つけるとなると……。
姉さんだからこそできた? それとも、姉さんはそれほどまでに追い詰められていたと考えるべき?
不意に足音が近づいてきた。勝手口ではなく、奥の部屋の方角から。
振り向いた拓真が見たのは、リビングと廊下の境界線上に佇む父の姿。憤怒の形相で、乱れたグレイの頭髪を掌で撫でつけるようにして、神経質な手つきで整えている。静かにぎらついている、とでも形容するべき瞳は、息子を凝視している。ほどなくまな板の上へと滑るように移動したが、すぐに戻ってきた。これでも精いっぱい自制しましたよ、とでも言いたげな小さなため息を挟み、
「悪いけど拓真、その作りかけの料理を片づけておいてくれるか。あいつがわざと汚くして、もう食べるのは無理だから、食材は全部捨てて、道具はちゃんと元の場所に片づけて。……まったく、あいつは余計な仕事ばかり増やす」
父はぶつぶつと呟きながら踵を返す。奥の部屋に戻るのかと思いきや、廊下を反対方向に進んで階段を上がっていく。階上にはきょうだいではなく両親の私室もある。
姉さんは父さんに酷い目に遭わせられたんだ――遠ざかる背中を睨みながら拓真は確信する。
片づけをしろ、だって? それはする。完璧にしてみせる。でも、あんたの意見に賛成したから言うことを聞くんじゃない。
姉さんは、小さいころからずっと僕の遊び相手になってくれた。言動が独特で、時に困惑させられ、時に傷つけられ、時にいら立たされてきたけど、それでも好感度は高い水準を保ってきた。大喧嘩なんて一度もしたことがない。
対するあんたは、自分が正しいと信じることをお前たちもしろと、僕や姉さんに一方的に命じるだけ。姉さんの個性を矯正しようとした。普通ではない部分に理解を示そうとしなかった。姉さんの人格に歩み寄ろうとしなかった。
僕は好きなのは父さんでも母さんでもなくて、姉さんだ。
姉さんは基本的には自分のことばかり、めったなことでは他人を助けない人だけど、でもそれは、困っている姉さんを助けてなくてもいい理由にはならない。
姉さんは確かに積極的に僕を救ってくれなかったけど、姉さんの言葉や行動が結果的に僕の助けになったことは多々あった。普通ではない自分を捨てる気がさらさらない姉さんは、普通に倣うことに長けた僕と比べて、父さんから目の敵にされやすかった。姉さんが目立ったからこそ、僕がぼろを出したときも見逃されたり、小さな罰で済んだりした場合も少なくない。間接的には、数えきれないくらい姉さんに助けられてきた。姉さん以上の恩人に、今後の人生で出会うことはないと思う。
姉さんにお返しをするときは、今だ。
これからは僕が姉さんを守るんだ。
「――追わないと」
父の登場で忘れかけていたが、姉は家を飛び出したのだった。すぐにでも追いかけたかったが、命令を擲ってまで行動に移るのはためらいを覚える。決意したあとでも、やはり父は恐ろしかった。
父と戦い続けている姉さんに比べて、僕は……。
込み上げてくる情けなさにも負けず、拓真は動き出す。まな板の上の中華麺に触れるのにためらいはなかった。ごみ箱に捨てるだけだから簡単だと高を括っていたが、思いのほか掴みにくい。質感自体は、指で強く押せばくっつくようなほのかな粘り気があるが、なぜか水に濡れているのと、ちぎれて短くなっているものが多いせいで、水中の小魚のように滑って指をすり抜ける。まったく予想しなかった形での足踏みだ。
「早くしないと、姉さんが、姉さんが……」
焦れば焦るほど、滑り、すり抜け、こぼれる。それがさらに焦りを高まな板の上はますます汚らしく散らかっていく。掴み損ねた麺はまな板ではなく床の上に落ちる。そのたびに、姉の命の残量が減っていく気がする。地面に落ちた麺は拾おうとしない。作業を中断して姉を追いかけることもない。ただただまな板の上のものを拾おうとする。すり抜ける。
「姉さんが、姉さんが……」
命が減っていく。視野狭窄に陥った拓真の目の前で。なす術はあるのに手は打たないまま。
「姉さんが……」
――そして、二階から戻ってきた父が戸口から拓真を睨みつける。
雰囲気が明らかにおかしかった。
殺気立っているのだ。
下手なことをしたり言ったりしたとたん、陰鬱な沈黙に沈んでいたのが一転、血相を変えて怒鳴り声を上げそうな気配を色濃く漂わせている。父、母、ともにそうだ。父は体が大きく、もともと不愛想に見える顔の造作をしているから、より威圧感がある。尋ねてみるまでもなく不機嫌だと分かる。
帰りの車中は陰惨の一言だった。
狭い密室に流れる音は、カーラジオから聞こえてくる男女のパーソナリティの声のみ。日本語でしゃべっているはずなのに、数十年も昔に外国で録音された、肩肘張らない対談の模様を流しているように拓真には感じられる。それなりの音量は出ているが、彼の意識に及ぼす影響はないに等しい。ちょっと手を伸ばせばオフにできるのにしないのだから、両親も息子と同じなのだろう。
拓真の姉を除く野中家の三人は、彼が来春から通うことになるかもしれない学園の面談を終えたばかりだ。拓真、両親、それぞれが異なる教員を相手に面談を行った。
拓真は顔がスターリンに似た男性教員の言葉に心を揺さぶられる場面もあったが、学園で学びたい意欲が湧くことは最後までなかった。幼稚園のころからずっと感じてきた集団生活に対する息苦しさと、中学二年生のときに不登校にまで追い詰められたトラウマは、一人の凡庸な教員の力で駆除できるほど柔ではなかった。むしろ、教員ごときの言葉に心を動かされた悔しさと、それに起因する反発心を生み、進路の選択肢から学園を除外したい気持ちでいっぱいだった。
一方の両親の面談については、合流を果たしてからも詳細については一言も聞かされていないが、二人がまとう空気から、教員との対話が彼らにとって不愉快なものだったのは明らかだ。
詳細を尋ねるのがはばかられる雰囲気が車内には蔓延している。そうでなくても拓真は、両親を含む他人に、積極的になにかを求めてこなかった人間だ。
車窓越しに景色を眺めながら、真実に繋がる道を模索しているうちに、スターリンから「父親は拓真に対して強圧的か」という趣旨の質問をされたことを思い出した。
学園の教員は、少なくとも拓真と彼の両親との面談を受け持った教員は、彼が不登校だったことを、両親からの申告によって当然把握している。のみならず、それに関連する情報――すなわち、彼が大人しく内向的で非社交的な性格であること、個性的で手がかかる姉がいることとその姉との関係、息子に対して両親がどのような教育方針で臨んできたか、拓真がこれまでに経験してきた学校がらみの体験なども、同じく両親から聞いているはずだ。教員はその情報をもとに、両親に対してさらなる質問を重ねたり、指導者として意見したりしたに違いない。
推察するに、両親との面談を担当した教員からの意見や指摘は、息子への両親の対応を非難するものだったのだろう。不登校の根本の原因はあなたたちの教育方針の誤りにある、といった類の言葉を浴びせられたのだろう。
具体的にどういった言い回しが用いられたのか。真正面から手厳しく糾弾されたのか、遠回しに否定的な言葉を並べられたのか。問題がある、間違っている、そうするべきではなかったと指摘された両親の方針や言動はなんだったのか。
全ては闇の中だが、教員の言葉に両親が不快感を抱いたという推理は間違っていない、と拓真は確信する。
不登校などの、学校生活に躓いた少年少女を受け入れている学校だから、拓真のような人間に対する理解力は高いと見ていいだろう。親から簡単な聞き取り調査をしただけで、問題の大まかな原因は速やかに把握できるに違いない。
そのような能力を持つ教職員からの言葉は、両親にとって耳が痛いものばかりだったはずだ。あちらが言っていることは正しい。自分たちの行いは誤りだった。心からそう感じた場面は一度や二度ではなかっただろう。
しかし過ちを認めたからといって、自らの過去の行いは今さら変更できない。取り戻せないし、やり直せない。
今となってはどうにもできない過去を責められることへの反発。ぶつけられたのが正論で、反論できないからこその反発。そちら方面の知識が豊富、問題を抱えた子どもの親と面談した経験が豊富とはいえ、所詮は数十分間聞き取りをしただけ。的の中心を外した指摘も中にはあっただろう。それに対する反発。教員は物知り顔で息子について、自分が一番の理解者であるかのように語った。あたかも自分こそが野中拓真の生みの親、育ての親であるかのように。それに対する反発。自力では改善が困難な障害と、両親なりに全力で戦ってきた。時には不承不承折り合いをつけることもあった。心から望んだわけではなく、あくまでも妥協。それにもかかわらず、「息子が不登校」という厳然たる事実を人質に、両親に全面的に非があると断罪されたこと。それに対する反発。反論したいことは数あるが、自分に非があるのは事実だと認めていて、罪悪感を覚えていて、そのせいで物申すのを断念せざるを得なかった。それに対する反発。
両親が内に秘めていると想定される負の感情に含まれる成分の数は膨大で、それらが複雑に絡み合っているゆえに濃厚かつ深みがあり、拓真は圧倒された。触れるのが恐ろしかった。臆病な彼は、怒りという感情を前にすると萎縮してしまう。それが、たとえ家族が抱く怒りだとしても。例外もないわけではないが、今はそれが適用される状況ではない。
僕が悪いんだ。
そんな思いさえ間歇的に脳裏にちらつき、重苦しさと息苦しさは加速する。
「拓真」
父の声が意識を現実に引き戻す。不機嫌な声。ただ名前を呼ばれただけなのに、責められているかのような。
「ラーメン、食べるか。どうする」
面談の開始時間が十二時半という中途半端な時間帯、終わる時刻が二時近くになるのを踏まえて、三人は面談前にサービスエリアでパンとコーヒーの軽い食事をとっている。ただ、それだけでは夕食まで持たないということで、面談が終わったあとでラーメンを食べる予定になっていた。
ただ、少食の母は「私はパンだけで充分、無理にはいらない」と難色を示していた。拓真も、己の人生を左右するかもしれない面談を前にしているから、食事のことを考えるだけの心のゆとりはない。面談が終わったあとのことは終わってから考えたかったが、自分が信じる「普通」を信じて疑わない父は我を通すことに固執する人だし、明確な意思表示を求めているようだったので、予定に同意したのだ。
三人が乗ったクルマは信号待ちで停車している。聞こえるのはエンジン音ばかり。より重苦しさと息苦しさを増した空間で、どう答えるべきかを考える。
いや、考えてみるまでもない。
こんな雰囲気の中で食事だなんて、小遣いをくれるのだとしても嫌だ。空腹だったなら妥協したかもしれないが、胃袋は食事をとりたいと訴えてはいないのだから。
「いらない。食べたくない。早く家に帰ろうよ」
口を閉じた瞬間に到来した深い沈黙は印象深い。絶対にそんなはずはないのだが、エンジン音さえ止まっていたように拓真は感じた。
運転席の父は前方を見据えたまま息子に問いをぶつけた。顔を直接はもちろん、バックミラー越しにも見ようとは思わない。それでも拓真には、父が不満の色を彼なりに目いっぱい抑えた、ふてくされたような無表情を浮かべているのが手に取るように分かった。沈黙に含まれるノイズのようなものがその情報を伝達したのだ。
父は空腹でラーメンが食べたかったから不機嫌になったのではない。一度は承認された計画に否を突きつけられたのが不満なのだ。
以後、車内で会話らしい会話が発生した記憶は残っていない。ラーメン屋に立ち寄った覚えも同じくない。
あの強情な父が、なぜ息子の意見を受け入れたのか。言い争いをする工程すら挟まずに、気味が悪いくらいあっさりと白旗を挙げたのはなぜなのか。
推察するに、不機嫌だったからだ。面談で教員から言われたことに気を悪くし、機嫌を損ねていたからだ。人は機嫌が悪いとき、感情の操り人形になってあらゆる物事に反発するのではなく、反発するだけの気力すら捻出できないゆえに大人しくなるものだと、拓真は経験から知っている。
だからと言って、父に対する同情の念は微塵も湧かない。同情するべきだ、同情しなければ、という方向に気持ちを誘導しようとも思わない。
あんたは息子の教育に失敗した。親の教育失敗を指摘するのがあの学園の教員の仕事だから、「あなたたちは間違っている」と教員は言っただけ。それなのに、機嫌を損ねて、ふてくされて、帰りの車内の空気を悪くしている。諸悪の根源は僕だと言いたげな態度をとっている。
ふざけるなよ、と言いたい。ガキじゃあるまいし。自業自得だろう。不機嫌になりたいなら、自分一人で勝手になっていろよ。他人を巻き込むな。迷惑なんだよ。姉さんには身勝手だ、人の気持ちを考えろ、とかなんとか口酸っぱく言うけど、あんたの方がよっぽど身勝手じゃないか。人の気持ちを考えていないじゃないか。
うんざりだ。あんたにはなにもかもうんざりだ。
父に反発心を抱いたことはこれまでにも数ある。しかし、姉が絡まない問題にもかかわらず、これほどまでに強い反発心を抱いたことは今までに一度もなかった。
父は正しい。不条理な意見だと感じても、不合理な指摘だと思っても、注意を受けた側である拓真が精神的に未熟だから、社会経験が浅いから、あるいは感情的になって理性の働きが一時的に衰えているから、正しさを理解できないだけで。
父から厳しい言葉をかけられて、しばらく経ってから振り返るたびに、そんなふうに反省し、幼稚な自分に嫌悪してきた。
しかしこの一件を機に、拓真は従来の考えを捨て去る。
僕は悪くない。僕は被害者で、父が加害者なんだ。
その気持ちを言葉には変換できなかった。思い切った行動をとるには莫大な勇気を要する雰囲気に場は支配されていたし、拓真は生来の臆病で非社交的な性格に祟られて、自分の気持ちを言葉で伝える能力が平均的な水準に達していない。それは親が相手だとしても例外ではない。だから、言えなかった。
拓真は頬杖をつき、父を模倣するようにふてくされた顔を作って、窓外を流れる景色を眺める。片側二車線の高速道路。心を一ミリも動かされない、特筆するべきところのないつまらない景色。
僕は悪くない。それなのに、なんで僕が不愉快な目に遭わなければいけないんだ? おかしいだろ。悪いのはあんたの方だろうが。僕は悪くない。僕は悪くないんだ――。
僕は悪くないのに。
心に浮かぶ言葉はそればかりだ。
左右は田んぼか畑のどちらかで、点在する古い民家がアクセントとなった田舎道。畑に使われた肥料の、おそらくは動物の糞に由来する、鼻粘膜や衣服に染みつきそうな悪臭がただただ不愉快だ。高く昇った太陽から降り注ぐ光線はいささか暖かすぎる。唯一の慰めは、人気がなくて静かでのどかな環境なことだが、惨めな気持ちを打ち消すには力不足だ。
報せを受けた瞬間のハンマーで殴られたようなショックがいまだに冷めやらない。情けないと思う。しかしそれを上回る激しさで、自らが巻き込まれた不条理な事態に憤ってもいる。納得がいかなかった。その思いが、僕は悪くないのに――という果てのない叫びに結びついている。
「学校の人から」と母から告げられて家電に出て、拓真は自分が人生で初めて明確な犯罪に巻き込まれたと知った。彼が通学に使っている自転車が畦道に放置されている、と教員が報せたのだ。彼の自宅からは徒歩約十五分、通っている中学校からは約十分の場所だという。
発見されたのは、今朝。第一発見者は、畦道に接する田んぼの所有者の六十代の男性。車体に貼られていたステッカーから、近所の公立中学校に所属する学生の所有物だと、自転車に挿しっぱなしになっていたキーホルダーに記入されていた個人情報から、所有者の名前が野中拓真だと、それぞれ判明。発見者が中学校に連絡したという。
野中家の庭先に停めてあった彼の愛車を無断で利用し、乗り捨てた者がいるのだ。
報告を聞いて、拓真は教員とまだ話し中にもかかわらず呆然としてしまった。彼にとって窃盗行為は縁のない犯罪だったからだ。加害者、被害者、目撃者、いずれの立場にも彼は立ったことがなかった。
ある程度の年齢になると、生まれてからずっと無縁だった行為とは一生無縁なままだと、人は無意識に思い込む。拓真も例外ではなく、「まさか自分が」という思いばかりが胸の中に現れては消え、消えては現れた。
「犯人はたまたま鍵が挿したままの自転車を見かけて、軽い気持ちで盗んだんでしょうね。自転車が見つかった畦道をずっと真っ直ぐに進めば駅があるから、そちら方面に用がある人間が、ばれならいなら楽をしてやろう、くらいの軽い気持ちで」
受話器越しに聞こえる沈黙に同情したらしく、女性教員は慰めるようにそんな言葉をかけた。ショックのせいで犯人側の事情など考えもしなかった彼は、彼女の個人的な見解を盲目的に現実として受け入れた。
自転車を盗むという、拓真からすれば非現実的な行為を働いたくせに、行動様態やそこからうかがえる心理はやけに現実的で、そのギャップが気持ち悪かった。駅前まで行くのに楽をしたいという犯行動機もそうだし、盗品を堂々と目につく場所に停めておくという対応も。隠蔽するのが面倒くさかったのか、せめてもの罪滅ぼしにと被害者が見つけやすいように配慮したのか。どちらにせよ、人間くさい動機からの選択なのは間違いない。
「僕は悪くない」と連呼したところで、被害に遭った現実、所有者として責任をもって事後処理に参加しなければならない現実、どちらも動かせない。
被害者を思いやる態度から一転、女性教員は「発見者は、邪魔になるから早く引きとってほしいと言っている」と警告してきたので、「分かりました」と答えた。母がすかさず「なんの電話?」と確認をとってきたので、「僕が落とした私物が学校に届けられたから、とりに行ってくる」と嘘をついた。
「僕は悪くない」と心から確信しているなら、心の中で何十回と復唱する必要はない。「鍵を挿しっぱなしにした僕も悪い」という思いが、ずっと心の端に引っかかっている。
所有者の拓真にも過失があるのだとしても、加害者が免罪される理由にはならない。加害者は罪に問われて然るべき真似をした。いくら自分に言い聞かせても、引っかかりは消えない。消えてくれない。
僕は悪くないのに、どうしてこんなにも苦しまなければいけないんだ?
世界に問いかけるつもりで叫んだ。しかし声にはならず、心の中で響いただけだった。ボリュームだってそう大きくない。おずおずとした調子だし、震えてもいた。
この謎の正答はこの世界に存在するのだろうか?
僕の自転車を盗んだ人間は絶対に解き明かせない。被害者の僕に同情して、慰めて労わるふりをしたけど、その実、自分がするべき仕事をしただけの女性教員も右に同じだ。普通を生き、普通を愛する父も。その父のパートナーである母も。
可能性があるとすれば、それはおそらく――。
空色の自転車は畦道の片隅にぽつんと置かれていた。試乗してみると、報告どおりちゃんと走る。しかし、風を切ってここではないどこかに向かうには気持ちがあまりにも沈みすぎていて、押して歩くことにする。畦道は狭く、たびたび脱線して田畑に車輪がめり込んだ。深く埋まっているわけでもないのに、ぬかるんだ土から車輪を救出するのにはいちいち苦労させられた。
僕は悪くない、という呟きは、どうして僕が、にいつの間にか変わっていた。
「おっ」
商店がまばらに建ち並ぶ通りに入ってすぐ、歩道の前方から歩いてくる人物が発声した。明らかに拓真に宛てた声だ。俯き、考えごとをしながら歩いていた彼は、肩が跳び上がりすぎて外れるかと思うくらい驚いた。顔を上げると、姉がサンダルを鳴らしながら歩み寄ってくるのが見えた。
「どしたの、拓真。パンクでもした?」
姉は自転車のかごをばしばしと叩きながら問う。
普段街中で偶然会ったときは、挨拶どころか目を合わせようとさえしない姉が、この対応。弟を心配したからではないかもしれないが、少なくとも異変には気がついた。込み上げてくるものがあり、彼は首を振っての意思表示さえままならない。
「なに黙ってるの。パンクじゃないんだったら、財布盗まれた? 落とした? ……いや、マジでなんなん?」
「……盗まれた」
「財布を? 誰? 誰にやられたの?」
「自転車」
「は? 押してるじゃん、今まさに」
説明した。話し出した瞬間は長くなりそうだと感じたが、案に相違してコンパクトにまとめられた。彼には手に余る心理描写のいっさいを省いたのが功を奏したのだ。
姉はアスファルトの地面を靴先でいじり回したり、遠くを眺めたりと、集中力を欠いたような態度を見せながらも、熱心に相槌を打ちながら話を聞いてくれた。
「おっけ。じゃあ拓真、アイス食べよう。買うのはコンビニでいい?」
「え? ……なんで?」
「あたしが食べたいから」
自転車盗難の件はもう終わったのだろうか? それとも、慰めようとしてくれている? 拓真は戸惑いながらも首肯する。
「じゃあ、行こう。あたしの奢りね。拓真、話長いからもう汗だらだらなんだけど」
「長くないって。そもそも汗かいてないし」
「かいてもおかしくないくらい暑いってこと」
コンビニでそれぞれ好きなアイスを選び、店の目と鼻の先にある児童公園のベンチに並んで腰かける。拓真が先に座ると、姉は体が密着するくらい近くに腰を下ろし、さらには体重をかけてきた。横にずれると、すかさず間隙を埋めてくる。端まで追い詰められたので抗議の声を上げると、肩で思いきり突かれてベンチから落ちてしまった。
姉はいたずらっぽく白い歯を見せ、弟が落ちたのとは反対の端まで移動し、カップのチョコミントアイスのひと匙目を口に入れて「冷たっ」と言った。拓真は首を傾げて座り直し、モナカアイスの封を破る。姉がまた距離を詰めてきたので身構えたが、黙々とアイスを頬張るだけなので、彼は安心して自分の分を食べ始めた。
公園は二人を除けば無人だ。ベンチと出入口の距離が近く、街路樹が等間隔に植わった歩道や片側一車線の車道が、まるで公園の一部のようだ。車両、人間、どちらの通行もまばらだが、寂しさは感じない。
「拓真、もう一回説明してよ。自転車が盗まれた件について」
姉がおもむろに呟いたとき、チョコミントの器の中身は半分以下に減っていた。要求が唐突なこと、供述をくり返す意味が掴めないこと。二つの不可解に困惑し、思わずまじまじと横顔を見つめていると、木のスプーンを鼻先に突きつけられた。チョコミントの甘さが香った。その向こう側には、少し眉根を寄せた姉の顔がある。
「死にそうな顔してたでしょ。『なんか、盗まれていたみたい』って言って、へらへら笑って終わりじゃなくて。あたしになにか伝え忘れていることあるんじゃないの? 違うかな」
自分の気持ちだ、と拓真は気がつく。表現するのが難しく、話を長引かせたくなくて省いた心理描写、それを教えろと暗に要求しているのだ。
「言いたくないなら別にいいよ。いつものことだし、別にあたしはなにも困らないから。アイスを食べて家に帰る、それで大満足。でも、拓真は本当にそれでいいの?」
スプーンが引っ込む。カップと弟を交互に見ながらアイスを口に運んでは咀嚼する。にやにやと笑っている。弟の内心を掌握していることをうかがわせる顔だ。
モナカアイスを食べるのを中断し、改めて事件について説明する。女性教員の「早く引きとるように言われている」発言に失望したこと。母に「自転車が盗まれた」と言えなかった悔しさ。道中の惨めな気持ち。僕は悪くない、なんで僕がこんな目に、という心の叫び。
上手く説明できた手応えはない。心理描写をするにはしたが、お世辞にも巧みとは言えなかった。悔しさやもどかしさはあったが、しかし同時に、ある種の達成感も覚えている。気持ちが梅雨晴れの空のように晴れ渡ったわけではないが、言ってよかったと素直に思えた。彼が話しているあいだ、姉は相槌すら打たなかったが、その対応がかえってよかった気がする。
「まとめちゃうとようするに、どこがどんなふうにとか、上手くは言えないけど、とにかく全体的に納得がいかない、みたいな感じ?」
「そうそう、そんな感じ。被害者なのに損ばかりしている気がして、それがなんかもやもやして」
「被害者だから損するのは当たり前じゃない?」
「そうじゃなくて。だってさ、自分一人が歩いて自転車をとりに行くとか、その前の『早くとりに来いって言ってる』って、本当に発見した人が言ったのかどうか分からないけど、急かされるとか。被害を受けてショックなのに、まだ立ち直れていないのに、次から次へと、まるで僕にも非があるみたいに。いや、もちろん、鍵を挿しっぱなしにしていた僕も悪いよ。自覚はあるし、責任逃れをするつもりはない。でも、なんて言うか、そういうことじゃなくて……」
「そうだよね。納得いかないよね。あたしと違ってまっとうに生きているのに、不公平だよね」
姉は薄ら笑いを弟に向け、カップの底で液化したアイスをわざとのように音を立ててすすった。蓋をしてスプーンを閉じ込め、足元に置いたレジ袋を目がけて放る。縁に当たって地面にこぼれたが、入れ直そうとはせずに、ブルージーンズのポケットからスマホを取り出して触り始める。
拓真はむっとした。言葉では同情してくれているが、心では違うと感じたからだ。ただ、過ぎ去ったことにいつまでもこだわり続ける弟の姿勢を馬鹿にしている、というわけではないらしいのが伝わってきて、感情をストレートにぶつけるのはやり過ぎだと感じた。人生の先輩としてなにかアドヴァイスを送ってくれればいいのに、という思いが湧いたが、姉にそれをやるつもりは毛頭なさそうだ。
アイスを食べるあいだのBGM代わりとして、弟に話をするように命じただけなのだろうか? 「もう一度話してみろ」と要求したのは、アイスがまだ食べ終わっていなかったから、食べ終わるまでなにかしゃべっていろという意味?
いや、違う。拓真は心の中で頭を振った。
話を聞くのはアイスを食べるあいだだけのつもりなら、姉さんはもう食べ終わっているのだから、「じゃあね」と手を振って公園を去っているはずだ。でも実際の姉さんは、スマホをいじっている。スマホを操作するならアイスを食べながらでもできたのに、取り出したのはアイスを食べ終わってからだった。
袋越しに、モナカの生地に包まれたアイスが刻々と溶けていくのを実感しながら、拓真は自分が真に求めているものについて思案を巡らせた。
答えを見つけたのは、自転車盗難騒動に巻き込まれているあいだ、胸に浮沈した思いは常に疑問形だった、という発見がきかっけだった。
「僕がっていうか、人間がって言った方がいいかもしれないけど……」
「どうした、どうした? 急に壮大なことを言い出して。噴き出しかけたんだけど」
姉の注目が弟へと差し替えられた。口元はそこはかとなく愉快そうだ。茶化すような言葉を返されたが、不快感はまったくない。むしろ話しやすくなった。
「なんで、こんな不条理な目に遭わなくちゃいけないのかな。悪いことをしたから罰が下る、いいことをしたからいいことが返ってくる、じゃなくて。なんて言うか、むちゃくちゃだよ。不合理だ。絶対に正反対の結果が出るようになっているんじゃないかって思うこともあるよ。自分で言うのもなんだけど、僕、結構真面目に生きているよ? それなのに、損ばかりしている。周りを見ていると、いい加減なことをしているやつばかりだけど、そういうやつに限って得をしていて。不公平だって思うよ」
「それって、もしかしてあたしのこと?」
「違うよ。僕が言っているのは、もっともっと狡いことをしているやつのこと。姉さんは確かにいい加減かもしれないけど、いい意味でのいい加減でしょ」
「なにそれ。褒められているんだか、けなされているんだか」
「姉さんは得もしているけど、損もしているよね。でも、それは当り前だろ。だって、そういう生き方をしているんだから。得られるものも大きいけど、損する場合もたくさんありますよっていう、そういう生き方を。
でも、僕はそうじゃない。痛い思いはしたくないんだよ。だけど、得ばかりしたいっていうわがままを押し通したいわけでもなくて。プラスがないけどマイナスもない平坦な生き方、とでも言えばいいのかな。でも、全然結果に繋がっていない。努力不足じゃなくて――いや、それもあるかもしれないけど、そんなことはまったく無関係に、最初から無理なんじゃないかなって。世の中がそういう仕組みになっているから、いくら努力しても不可能、みたいな」
話が大げさになってきていると拓真は感じている。あくまでも自転車盗難とその周辺について語るだけで、世の中や生き方といった領域にまで話を拡大するつもりはなかったのに。
しかし、やめられなかった。語るのが爽快だとか、沈黙したくないとかではなくて、止まらない。なにを言いたいのかも、どんな結論に向かっているのかも、語っている拓真自身が把握しきれていない。ただ、意思をなかば無視して口舌が動いて言葉を発信し続けるから、不安感とも高揚感ともつかない、拓真の辞書には登録されていない感情を抱きながらも、現状を是認している。
しかし、さすがに散漫すぎたようで、
「ループしてるね。さっきから同じことばっか言ってる」
弁舌に陰りが見えたところで、苦笑混じりの言葉が割って入った。物腰穏やかな微笑を含んだ、不快感を抱く余地のない苦笑だ。
「ちょっと前に、拓真が感じているのは『上手く言えないけど納得できない感じ』じゃないかってあたしは指摘したよね。あんたはその『上手く言えない感じ』をなんとか言葉にしようとしているけど、現状では上手くいっていない。でも、上手く言えないだけで、納得できない気持ちがあるのは確か。それでおっけー?」
「そうだね。納得いっていないよ」
「それは分かったから、そこからどうしたいか、自分の胸に手を当ててみようよ。納得がいきません、じゃあそれでどうしたいのかな、拓真は。文句を言っても始まらないから、しょうがないって受け入れる? 納得できないものは納得できないから、徹底抗戦する? もうそんな思いを味わうのは嫌だから、逃げて遠ざかりたい? この中だったらどれ?」
脅迫的にではなく、ぐずる我が子の本心を訊き出そうとする母親の穏やかさと我慢強さで、姉は問うた。
拓真は「徹底抗戦」という言葉に頷きかけたが、思い留まった。「納得がいかない」という思いを軸に会話を展開しているので騙されかけていたが、対象に抱いている感情はそう攻撃的なわけではない。だからと言って、逃げようと考えるほど弱気ではない。素直に受け入れる気があるなら、そもそも姉に胸中を吐露していなかった。
「全部違うよ。三つのうちのどれでもない。僕はただ――」
「ただ?」
「なぜ世の中が不条理で、不合理で、不平等なのか、それが知りたいんだ。知ったあとでどうしたいのかは、今はまだ分からないけど、とにかくまずは知りたいって思う」
「……なるほどね」
ふぅ、という微かな声を伴ったため息。姉は体ごと膝を弟に向け、視線を合わせてきた。穏やかだが、なにかを無理なく抑え込んでいるのがうかがえる顔つき。抑圧しているのは言葉なのか、感情なのか、それとも――。
もったいぶって、焦らして、焦らして、焦らした挙げ句に話し始めるような気がしていた。しかし予想を裏切り、向き直ってわずか二秒で姉は口を開いた。
「あのね、拓真。この世界がなぜ、不条理で、不合理で、不平等なのかは、永遠の謎だよ。全人類が総出で、地球が滅びるまで探したとしても、絶対に見つかりっこない。だって、世界はそういうふうにできているんだから」
「え……」
拓真は絶句してしまう。
口にされた意見自体も、中学生になったばかりの彼には衝撃的だ。しかしそれ以上に、諦めきったような物言いに動揺してしまった。
誰にとってもそうであるように、拓真少年にとっても、なにかを断念するというのは基本的には恐ろしく、悲しく、にわかには受け入れがたいことだ。なおかつ、姉はなにかを真剣に諦める姿を見せたことがない人だからでもある。
「ショックを受けているみたいだけど、言っている意味は理解できたよね? 拓真はたぶん、広い意味での攻略法、ようするに不条理と不合理と不平等をいかに上手く乗りこなせるかを知りたいんだろうけど、そんなものはないよ。残念ながらない。嫌だとしてもないものはないから、苦しむしかないよね。世界はそういうふうにできているんだから、諦めて受け入れるしかない」
「でも、でも……」
「でも、なに?」
「上手くやっている人はたくさんいるよ。見えないところでは苦しんでいるのかもしれないけど、少なくとも僕なんかよりはずっと」
「たとえば?」
「たとえば――父さんとか」
「ああ、父親? 上手くっていうか、あの人はまあ、上手くいっていると思い込んでいるだけじゃないかな」
「思い込んでいるって……」
「そう見えるけど、本当は全然上手くやれてなんかいないってこと。本人が自分も周りも洗脳しちゃっているから、本人も周りもそういうふうに感じているだけであって。もちろん、個人によって世界に対する適応力とか、その他諸々の能力に差があるから、ある程度なんとかなっている人はいると思うよ。億万長者とか、海外で活躍しているスポーツ選手とか、毎日テレビで見るようなタレントとかは、きっと上手くやれているグループに属するんじゃないかな。でも、そういう人たちだって決して完璧じゃない。それなりに上手くやれたとしても、不条理と不合理と不平等を根本的にどうにかすることなんて絶対にできない。何度もしつこく言うように、この世界はそういうふうにできているんだから」
洗脳という単語が出てきたあたりから、拓真の心は次第に姉の発言を疑い始めた。しかしそれに足並みを揃えて、「不条理と不合理と不平等にはどう足掻いても太刀打ちできない」という考えのおぞましさに、一方的に心を蹂躙されてもいた。相反しているが、しかし確かに、二つの心境の変化は同時に進行していた。
ようするに拓真は、認めがたいし認めたくないが、心のもっとも正直な部分ではそれが真実なのだと確信していたわけだ。
「……どうすれば。僕はどうすれば、この世界で上手くやっていけるの? それは絶対に不可能なことなの?」
彼は弱々しい声ですがりつく。「あなたは末期癌に罹患しています。余命は一か月です。治療法はありません」と告げられたあと、何十秒間かの茫然自失を経て、患者が医師の両肩をむんずと掴み、揺さぶりながら「助かる方法はないのか」と裏返った声で問い質すように。
「無理だって言ったばかりじゃん。聞いてなかったの? まあ、気持ちは分かるけど」
血の繋がりがあるだけあって、姉の対応は医師よりも格段に温かい。
「根本的な解決は無理だけど、自分で自分を慰める方法なら教えてあげるよ。拓真は神様って、分かる?」
「もちろん。全知全能で、この世界を創った、あの神様でしょ」
「そうそう。神様って実は、自分から『私は神です』って名乗ったわけじゃないんだよね。人間が勝手に神様っていう名前をつけただけであって。だってほら、名前があった方がなにかと便利だし、本当にいるって感じがするでしょ。考えてもみてよ。お祈りをするたびに、『天にまします、全知全能の、偉大で立派な……』とかなんとか長々と唱えていたら、ムードもなにもあったものじゃないよね。親しみだって湧きにくいし」
「ようするに、どういうこと?」
「この世界を支配する不条理と不合理と不平等に名前をつければいい。ていうか、あたしはもうすでに命名済みだから、それを拓真も使いなよ」
姉は弟に体を近づける。ハグし、耳元に唇を近づけ、
「……ラガヌム」
「え?」
姉が不敵に微笑んだ気がした。唇を拓真の耳に押し当て、再びささやく。
「ラガヌム星人……」