市場へ!
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その日の朝、プティラが朝食をひとりで食べに来た。彼女の中で大きな葛藤があったのだろう。それはダイが恒例の「行ってきまーす」と叫んでしばらく後のことだった。
リルラは本当に驚いたのだ。いや、昨日からひとりで食堂へやっては来ているのだが、いつもなら、リルラがダイの朝食の片付けを終え、その後プティラの朝食を準備し、それでも出てこないプティラを迎えに行っていたのだから。
あのちょっと美味しそうな茶色のウサギが良かったのだろうか。もちろん、食べる気はさらさらない。ちょっと、調理方法などを考えてしまうだけで……。
そのウサギはマティと呼ばれ、昨日は一日中ずっとプティラが抱っこしていたものだ。
「お、お、おはようござ、い、ます」
今朝はプティラの茶色い瞳とリルラの黒い瞳がちゃんと合う。
「おはようございます」
内心驚いてはいたが、リルラはプティラを驚かさないように、優しく挨拶を返した。
「朝食の後、人通りの少ない時間を狙って、市場へ向かいましょうね」
プティラが「はいっ」と元気に答えた。
そのプティラの返事を聞いたリルラは、ウサギの匂いがプンプンするプティラを、しっかり護り抜こうと心に決めた。
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さて、帽子で耳を隠し、市場へと勇み出たのは良かったが、リルラさんからまったく離れられなかった。リルラさんの背中にくっつき、及び腰で歩く姿は、きっとみっともなかっただろう。リルラさんも恥ずかしいかもしれない。ビクビク周りを見回しながら、「リルラさん……」と声を掛けると、「どうされましたか?」と、振り返らずに答えてくれた。
「ごめんなさい……」
「大丈夫ですよ。プティラ様は頑張っておられます。もうすぐ果物屋ですから」
「美味しいりんご、ありますか?」
「ありますよ」
そんな会話をリルラさんの背中として、また周りをきょろきょろ見回した。
なんとなく、不思議そうな表情のオオカミたちがいる。
ふと、何かに気付いたように、匂いを嗅ぐオオカミたちがいる。
「ウサギがあるの?」と言う声が聞こえる。見なければ良かった。そこにはたくさんのお肉が並んであった。切り身になっているから、何の肉かは分からないけど。
「いや、さすがに家畜でもまだ出せないよ」と肉屋が言う。
じゃあ、もう少ししたら、あそこにウサギの肉が並ぶの?
そう思うと、胸の奥が凍り付きそうで、吐きそうだった。『家畜』の扱いは草食動物もちゃんと理解している。絶対に人化しない獣を自分たちで食べるために育てる。経営者だっている。私がここに嫁いだから、その経営が成り立たなくなるのも良くない。
もちろん、肉食獣に食べるなとは言えない。
彼らが私に肉を食べろと言わないのと同じ。
野生のウサギが食べられないようにするだけで、精一杯。
目が回りそうだった。
「プティラ様、着きましたよ」
リルラさんの声が聞こえなかったら、しゃがみ込んでいたかもしれない。
ほっと息をついて、リルラさんの背中の後ろから、店主のオオカミに尋ねた。
「美味しいりんご、探してます」
「どれも美味しいです」
目も合わせない私の態度に不機嫌な声が届く。だから、説明のできない私に代わり、リルラさんが説明する。
「ウサギのお姫様なの。肉屋の前も通っているでしょう? だから、ちょっと怖がってて」
「あぁ、どうりで匂うと思った。悪いな、事情も知らずに、不機嫌な態度取っちまったよ」
そう言った店主がにかっと笑う。
「この国はそっちと違って、肉屋が多いだろう?」
歯が……光った。
思わずリルラさんの背中を掴む手に力が入る。
「自分で……選びたいの、です……でも……」
オオカミの店主がしばらく黙り、答えを見つけたように、目を輝かせた。まるで、獲物を捕捉したように。
「今までの草食姫さんの中では一番勇気がある姫君だな。よし、何個か見繕ってから、俺は隠れておくから、選べば良いさ」
「ありがとう」
リルラさんが朗らかに言った後、「あ、あ、ありがとう、ございま、す」と私の声がたどたどしく喉から出てきた。
果物屋はけらけら笑いながら、赤く甘い匂いのするりんごを4つほど籠に入れ、リルラさんに渡し、そのまま宣言通り店の奥に入ってくれた。
店主の選んだりんごはどれも美味しそうで、とても良い匂いがした。何度も匂って、一番美味しそうな色と艶を探し、見比べ、なんとか一つ選んだ。
すでに立つことすら儘ならず、しゃがみ込んでしまっていたから、リルラさんが一緒にしゃがんで選ぶのも手伝ってくれ、私だけが目立たないようにしてくれる。
リルラさんは本当に優しい。あの果物屋も優しい。あの最後の一言さえなければ……。
「しばらくは家畜のウサギも我慢だなぁ、姫さんの顔がちらついてしまうよ」
しばらくしたら、食べるんだ……。
だから、お屋敷に戻るともうどんな気力も残っていなかった。
本当は、りんごのお菓子も作りたかったのに。
お菓子が無理でも、ちゃんと自分で切って、お皿に盛るくらいはしたかったのに。
何も出来なかった。
屋敷の入り口でへなへなと崩れ落ちると、リルラさんが「よく頑張りました」とひょいと私を担ぎ、やっぱりベッドにコロンと転がされた。
「りんごはちゃんとダイ様にお渡ししておきますから。お食事は……こちらの方がよろしいかしらね」
肯くしかできなかった。だって、動けないんだもの。
リルラさんが出て行くと、今度は睡魔が襲ってきて、マティがお腹にぴょんと飛び乗ってくるまで、意識を失うようにぐっすり眠ってしまっていた。
でも、久し振りにぐっすり眠ったおかげで、なんとなく体はすっきりしている。お腹の上のマティが私を見つめて、鼻をひくひくさせた。
「あ、ご飯がまだなのね」
そう思って、扉の方を見つめると、空っぽのマティのお皿と、料理を載せた私のお皿が、扉の傍にあるテーブルに置いてあった。体を起こして、マティを抱き上げる。
「リルラさんにもらったのね、良かった」
マティって満月に人になったりしないのかしら。
まだ小さな体だから、一年経っていないと思うのだけど……。
そんな時に、ダイ様の声が聞こえてきた。
「プティラ、りんごありがとう。とっても美味しかった。えっと……ウサギの子が元気になったら、お庭で遊ばせてあげたら良いから。庭は他のオオカミは入ってこない場所だから、ね? リルラさんにも伝えておくね」
あれ?
ひとつも怖くない。
それどころか、喜んでくれたことが嬉しい。
「マティ、ダイ様が『ありがとう』って言ってくださいましたよ」
抱き上げたマティが、鼻をヒクヒクさせて、不思議そうに私を見下ろしていた。
ありがとうの言葉が、こんなに嬉しいだなんて。
マティ、どうしましょう。
そう思い、マティを抱きしめた。