ウサギはまだその恋に気付かない
朝ごはんの後、リルラさんの隣で一緒にジャガイモの皮をむく。
花嫁修業のようなもの。美味しい物をたくさん作りたい。
朝、リルラさんに頼み込んだのだ。「昨夜、ダイ様に助けてもらったから、美味しい物を作りたい」と。ほんの少しだけ、不思議そうにしたリルラさんだったが、「よかったですね」とすぐに私の要求を了承してくれた。
ナイフで器用にジャガイモの皮を剥くリルラさんと違い、私はピーラーで剥いていく。そして、溜息。昨夜を思い出すと、溜息が出るのだ。
「リルラさん……」
リルラさんが手を止めて私を見つめる。
昨夜はダイ様のお腹で眠ってしまったのだ。ふかふかしていて、息づかいがゆったりとしていて、やっぱりふかふか温かくて。
恐ろしい夜だった。それなのに、思い出すのは柔らかなダイ様のお腹の毛皮。
外だったのに、全然寒くなくて。
「どうされたのです?」
自分で話しかけたくせに、尋ね返されるとぶんぶん頭を振ってしまう。
「何もないです」
急に恥ずかしくなって、ジャガイモと向き合う。
今日は肉なしコロッケ。
リルラさんが一緒に作りましょうと言ってくれたのだ。
肉なしコロッケなら大丈夫。
昨夜、満月を探しに外に出た。
恐ろしいオオカミに出会った。ダイ様のお兄様だったけど。
ダイ様が助けてくれた。
怒られても仕方のない行動だったのに、ダイ様はまったく怒らなくて、それなのに、ずっと自分の姿が「怖くないか」と気遣ってくれて。
溜息が出てしまう。
「プティラ様、集中してくださいませ。お怪我なさいますよ」
「あ、すみません」
はっとしてジャガイモに集中する。リルラさんはもう5つも皮を剥いている。私はまだ一つ目。
「それが剥けたら、茹でますからね」
「はい」
慌てて手を動かす。
ダイ様は昨夜、動けない私を眺め、ほんの少し逡巡した後、「じゃあ、動けるまで僕も一緒にいるけど、……本当にプティラは怖くない? オオカミだけど……」
と申し訳なさそうにしていた。
オオカミだけど、ダイ様は怖くなかったし、ここでひとりになってしまう方が、よほど怖かったから、選択肢なんてなかったのだ。頭の中は「行かないで」でいっぱいだった。だから、怖くないの?の質問に思い切り肯いた。
オオカミだから表情は分かりにくいけれど、なんだか優しく微笑まれたような気がした。
そして、……。
昨夜は全然緊張しなかったのに、どうして今になって、こんなになるんだろう。
たくさんお喋りできたのに、今朝は、ダイ様のすぐ近くの斜め前の椅子に座れたのに、その後の『行ってらっしゃいませ』の時は、目を合わせられなかった。
俯いたまま、はじめての「行ってらっしゃいませ」を言う。言葉が震える。怖くないはずなのに。
ダイ様の声が頭の上から静かに降ってきた。
「ありがとう、プティラ。行ってきます」
三度目の穏やかな『ありがとう』は、とても恥ずかしかった。
満月の夜にウサギが人になることや、マティが人にならないかと思って、外に出たことや、最近、人化しない子が増えてきていることや。
もう、ダイ様が怖くないことも、絶対に食べられないと思っていることも伝えられたし、お見送りがしたいから、ほんの少し待って欲しいことも伝えられたのに。
『おかえりなさいませ』はどうしたらいいのだろう。
「プティラ様、そのお芋をお鍋に入れてくださいね」
「あ、ごめんなさい」
握ったままのジャガイモを慌ててお鍋に入れる。
「プティラ様、お鍋の番できますか? 吹き零れないようにしっかり見ておいて欲しいのですけれど」
確かめられて、肯いた。
「じゃあ、私はお洗濯をしてきますから、くれぐれもぼんやりしないようにしてくださいね。ほんとうに。危ないですからね」
念を押されて、「はい」と気合いを入れた。
集中してしっかりとお鍋に沈むジャガイモを見ていた。
小さな泡が、ぷくぷくジャガイモにくっつきだして、大きな泡に変わっていく。
水面がゆらゆら揺れて、大きな泡がたくさん上ってきたら、この長いお箸でジャガイモを突く。
すぽっと刺さったら、火を止める。
お鍋は熱いから、とにかくそこまで見守っておいて、とリルラさんには言われている。
火を止める。火を止める。
呪文のように繰り返す。
お芋が泡に転がされて、お鍋の中で動き出す。そろそろかなぁとお箸を刺してみるけれど、まだ刺さらずに、お芋が逃げた。
お喋りをしていると、ダイ様のお顔がどんどん近づいてきて、黒い冷たいお鼻が頬に当たった。
お腹は温かいのに、お鼻はとても冷たい。毛皮に覆われているお顔はマティみたい。
そして、その鼻を撫でると、ダイ様が私の頬をペロッとした。
……昨夜はなんとも思ってなかったのに……。
転がったお芋を見つめながら、もう一度つつく。
まだ刺さらないけど、ほんの少し穴が開く。あと少し。
あれは、……違う……と思う。
考えないように努めなくちゃ。
火を止める、火を止める。
そう、今、私は大事な仕事の最中なのよ。熱いお鍋をひっくり返さないよう、吹き零さないように番をしているんだから。
火を止める。火を止める。
違う……けど、違うの?
お芋を突っつく。
怖いのか恥ずかしいのか、何が違うのかさえ分からなくなってきた。
あれは、何?
刺さった。
火を止めると、リルラさんが戻ってきていて、「良くできました」と笑いながら、褒めてくれた。




