32-3 取り戻した温度
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「……消えた?」
巨大な炎が視界を埋め尽くしていたはずだった。もう駄目だと思っていたというのに、突如としてコガネの目の前から紫苑は掻き消えていた。
安堵より困惑が先に来たコガネは思わず腕の中のミケと顔を見合わせる。言葉は通じないが今はこれまでで一番心が通じ合ったような気がした。
「紫苑は魔法陣を人間に広めていたし、たまたま誰かが召喚したのか? ……いや、なんでもいい!」
「み!」
考えるのは後だ。今はそれよりも大事なことがある。
コガネの腕から床に飛び降りたミケが走り出し、その小さな背中をコガネは追いかけた。破壊された扉をくぐり抜けた先、更に前方にあった扉を開けた向こう側にあったのは大きな檻と、そしてその中で何とか脱出しようと鉄格子に拳を叩き付ける愁の姿だった。
「コガネ! ミケ先輩!」
「見つけたっ!! すぐに助けます!」
愁に駆け寄ったコガネはすぐに檻に触れて術の解析に入る。すると二度と此処から出す気が無いかと思う程に強固な術が何重にも掛けられているのが分かる。普通に強行突破するならどんなに力の強い悪魔でも苦労するだろう。
しかしそれがどうした。一体コガネが何千年悪魔をやっていると思うのか。戦うことを厭い、魔界の隅でひっそりと知識を溜めて生き続けて来た彼に解けない術などない。
コガネはそっと唇を舐め、あまり彼らしくない強気な笑みを浮かべた。
「コガネ、解けそうか」
「当然……こんな術、僕に掛かればどうってことないです!」
□ □ □ □ □ □
「予定とは少し違ったが……これで紫苑をおびき寄せることが出来た訳だ」
愁と武器を打ち合いながらもちらりと斜め後方を一瞥した櫟が薄く笑った。召喚の疲労で膝を付く千理の前に、同じく対悪魔用の銃弾を撃ち込まれて膝を付いている紫苑の姿がある。
障害は無くなった。これでコガネの方は安泰だと息を吐いた英二だったが、すぐに紫苑が立ち上がって動き出すのを見て再び銃口を向けた。
「こちらは任せてくれたまえ」
しかし英二が引き金を引く直前、目の前に割り込んできた怪物を見て彼は腕を下ろす。誰にも目もくれずにすぐさま部屋から出て行こうとした紫苑は、しかし目の前に振り下ろされた巨大な爪を見て咄嗟に後ろに飛んだ。
「貴様……! 邪魔するな!!」
「悪いがそうはいかない。お前の足止めをするのが私の役目だからな。我が僕よ、行け!」
金の目を光らせた或真が右手を振り上げると二体の怪物は息を合わせるようにして紫苑に飛び掛かった。紫苑もそれを躱し反撃するものの、この部屋から出て行こうという焦りが強く、また食らった銃弾の所為で力が出し辛い。
「或真! 無理はするなよ!」
「はは! それは断言しかねるな。何せこの呪われた力を友の為に揮うことができるのだ! 今無理をせずにいつするのだ!」
怪物が反撃を食らえば当然或真にも負担が掛かる。痛む右目を押さえながらも笑った彼は自分を鼓舞するように声を張り上げて怪物達に指示を出し続けた。
これはなるべく早く片を付けなければと英二は冷静に周囲を見る。力が弱まったからかそれとも意識を割く余裕が無いからか先程よりかは魔獣の数は減っている。が、それでも数匹が今にも喉元を引き裂こうと襲いかかって来るし、櫟は依然として愁と交戦中だ。千理を守りながら櫟の援護までするともう手一杯だ。現状を打開するような行動を起こすことは難しい。
しかしこのままではジリ貧だ。銃弾だって限りがあるし櫟も病み上がりだ。早めに状況を変えなければこちらが負ける。どうすれば。
「……英二さん、要は愁に怪我させずに隙を作ればいいんですよね? 私に任せて下さい」
「は? 千理お前、何をするつもりだ」
「魂が違っても体は愁だ。だったら」
英二が厳しい表情で考え込んでいると、背後に庇っていた千理がそう言って立ち上がった。そして櫟達が交戦する方へと近付いて行くので彼は慌ててそれを制止した。
「危ねえだろ! それ以上近付くな!」
「分かってます! あと英二さんはこっち来ないで下さい!」
「はあ!?」
「紫苑は今まで死体に別の魂を入れて殺戮を繰り返していた。だからこうなる可能性だって考えてたんですよ!」
戦えないからって舐めるなと、千理は数時間前に買ってポケットに入れっぱなしにしていた小瓶を手に取った。本当は出発前に霊研で櫟達に渡すつもりだったそれを彼女は思い切り振り被る。園芸店で買った、その瓶を。
「櫟さん避けて下さい!」
「!」
声を張り上げ間髪入れずに小瓶を投げる。咄嗟に櫟は横に飛び退き、そして愁の足元に思い切り小瓶が叩き付けられた。
次の瞬間、瓶が割れて中身が溢れる。液体でも気体でもない、ぶわっと勢いよく飛散したその粉が愁の顔と体に飛び散ったその瞬間、それを見た英二は言いようもない寒気に襲われた。
そして直後――愁は突如大きく咳き込みくしゃみを始めたのだ。
「ま、まさかそれ」
「園芸店で買ってきた受粉用の花粉です」
「お前は人の心が無いのか!?」
「これは花の花粉なのでまだ大丈夫です。最終手段でスギ花粉も用意してますけど」
「鬼か」
確かに一滴の血も流れずに愁の動きを止めることが出来る手段だが……いやそれでも多少の怪我の方が余程ましだろうと英二は思わず身震いをした。
「いや、何の花粉であろうとこんな粉が目や鼻に入った時点でこうなるだろうけどね……」
目の前で起きている悲惨な光景に櫟はこんな状況にも関わらず苦笑いが出た。花粉症ではなく直撃を食らっていない櫟ですら目が痒い。しかし勿論こんな隙を見逃すはずもなく、櫟は片腕で鼻と口を覆ってすぐに愁に近付いた。
刀すら放り出して咳き込んでいる愁の額に手を伸ばす。先程までの激しい攻防は何だったのかと思うほどにあっさり届いた手は光を放ち、次の瞬間には力の抜けた体が床に崩れ落ちた。
「愁!」
千理はすぐに彼の元へと掛け出し酷く重たい体を抱える。この一年近く、ずっと探していた愁の体だ。思わず千理の目に涙が浮かぶ。
「これで形勢逆転だよ、紫苑」
「舐めた口を聞く。貴様らが束になろうと私には関係――!」
櫟が薙刀を紫苑に向ける。ケルベロスの攻撃を避けて飛び上がった紫苑はその目を鋭くして櫟を睨み付ける。が、急に言葉を止めた彼女は弾かれるように後方を振り返った。
その様子を見て遅れて櫟も気付く。その僅か一秒後、視線の先にあった壁をすり抜けて半透明の男が部屋の中へ入ってきたのだ。
「萩!」
紫苑の声を意に介さず愁が彼女の前をあっという間に横切る。広い部屋の中を真っ直ぐに飛び、他には全く目を向けることなく彼は自分の体目がけて一気に飛び込んだ。
それを追いかけるように紫苑がすぐさま手を伸ばす。しかし霊体は完全に姿を消し、その代わりに抜け殻になっていた体がぴくりと動き出した。
「愁……!?」
ずっしりと重かった体が僅かに軽くなったのに気が付いた千理が彼の名前を呼ぶ。しかし彼女はその直後軽く突き飛ばされて尻餅を付いた。
突き飛ばされながら、千理は彼の背後から必死の形相で手を伸ばす紫苑を見る。そして刀を拾い上げた愁が――振り向きざまにその刀を振り抜いた姿も。
「は、」
手を伸ばす。何百年も求めていた大事な大事な魂を逃がすまいとした紫苑は、しかしその手が彼に触れる直前に空を切った。いや、舞った。
「ぎ」
紫苑の体が真っ二つに切り裂かれる。上半身は吹き飛び、下半身はそのままごとりと床に落ちる。床に天井に視界が回る。そしてとうとう上半身が床に落ちると、彼女は驚いたように目を見開いたまま何もない宙を見上げた。
立ち上がれない。足が無いのだから当然だ。少し離れた場所に転がっている自分の足を視界に入れた紫苑は、何だかおかしくなってしまって笑ってしまった。
周囲から警戒するような視線を感じても紫苑は笑い続けた。あのひ弱だった萩が、手合わせをしても一瞬で片が付いてしまったあの少年が紫苑をこんな状態にしたのだ。
「は、……まさか、お前から一本取られようとはな」
「紫苑」
こんな日が来るとは思わなかったと笑う紫苑の傍に櫟が膝を付く。
見上げた先にある櫟は怒りもせず笑いもせず表情が見えない。いや、すでに視界が霞んで彼の顔が分からないだけだ。
「何だ……勝ち誇りにでも来たか」
「霊研の所長として、君の行いを許すことは絶対に出来ない。どんな理由があろうと己の目的の為に多くの人間を陥れて殺したことを、僕は決して許さない」
「……」
「だが、また生まれ変わって何のしがらみも無くなった僕ならばそれは別だ」
殆ど何も見えないはずなのに、その瞬間櫟が見慣れた笑みを浮かべたのが彼女には確かに見えた。
「君を呼び出す魔法陣を死ぬまでには完璧に覚えておくよ。だからまた少しだけ待ってはくれないかな。進んで悪事を起こさないというのなら話し相手ぐらいにはなれるよ」
「……はっ、くだらん。情けでも掛けたつもりか? 生憎私は人を殺すことを悪事などとは思っていないし、私は私の思う通りに動く」
「そうだね。萩のお願いがあったからこそ昔の君は出来るだけ人を傷付けなかったし、あの子を守ろうとした。だから今度は、少しだけ友の願いも聞いてはくれないかな」
「ずうずうしいなお前は。……仕方が無い。気分が乗れば聞いてやらないこともない」
「じゃあ君の機嫌を取る為に美しいものを沢山集めておかなければね」
切断された下半身が砂となって消えたのが分かった。もう紫苑は人間界には居られない。昨晩櫟から受けた傷や怪物から攻撃された怪我、銃弾、極め付けに体を切断されてしまえばいくら強大な力を持ってしても体を維持することなど不可能だ。
さらさらと腹が、胸が、腕が消えていく。そのまま全てが消えていくのをただ待っていた紫苑は、不意に思い出したように櫟がいるらしい場所を見上げた。
「櫟、彼奴は――立派な侍とやらに、な」
最後まで言葉を紡ぐ前に口が消える。そのまま頭が全て消え、そして……紫苑という名前の悪魔は完全に人間界から姿を消した。
「……ああ、なったよ」
誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いた櫟が立ち上がる。背を向けていた霊研の職員達を見て、そして彼はふっと笑みを浮かべた。
「今回の目的である愁と千理の奪還、及び悪魔紫苑の討伐は完了。紫苑が消えたことで魔獣も居なくなったし、もう此処に危険はない。皆、お疲れ様」
「櫟さん……」
「愁、僕達の事情に巻き込んで本当に済まなかった。こんな謝罪一つじゃ許せないとは思うけど――」
「済まない櫟さん。謝ってもらっているところ悪いがそんなことよりも先にやることがある」
「は?」
真剣な顔で愁に謝っている櫟を余所に、当の本人はそれをばっさりと切り捨てて落ちていた鞘に刀を納めた。その刀を床に置くと、彼は十ヶ月も動かしていなかった自分の体を動かして千理の前まで戻って来た。
「千理」
そして、間を置かずに愁は座り込んでいる千理を強く抱きしめた。
「は、はぁ!?」
「言っただろう。体が戻ったらまずこうすると」
混乱する千理を押さえ込むように腕に閉じ込め、そして片手で彼女の頭を強く撫でる。愁の肩越しにぽかんと口を開けた櫟とにやにやと笑っている英二の姿が見えた。それを見て恥ずかしくなった千理が解放されようと愁の腕を叩くが、一向に力が緩むことはない。
「万理がお前にこうしているのを見てずっと羨ましかった。俺は触れないのに好き勝手しやがってと思って、下手したら嫉妬で怨霊になってたかもしれん」
「……愁、流石にそれは冗談にならない」
「すまん」
「ううん……もう、何でもいいよ」
温かい、熱いくらいだ。抱きしめられている体も熱いし、顔も目の奥も、全部熱い。
千理はそっと愁の体を抱き返すと、その手のひらに温度を感じてぼろぼろと涙を零した。
あの日からこの温度は消えた。夢の中で触れた時だって体温は無かった。それが、ようやくこの手に戻って来たのだ。
「おかえり、愁」
「ああ。ただいま」