32-2 邪魔をするな
あの日の後悔を決して繰り返さない。そう心に決めて何百年も待ったというのに、一体どうすればいいのか。
少しずつ冷静さを取り戻しながら思考していた紫苑だったが、不意に俯いていた顔を上げてその目をゆっくりと細めた。外に張り巡らせてあった術が何者かに破られたのを感じ取ったのだ。
「――来たか」
櫟なら必ず来るとは思っていた。それにしても早い、また萩を連れ去ってから一晩しか経っていないというのに。
紫苑は櫟に対して複雑な思いを抱いていた。再会出来た喜び、萩を隠そうとした怒り、自分以外の人間を仲間と称して命がけで守っていたことへの寂しさ、そして彼と敵対することへのほんの少しの楽しみ。
彼の実力を高く評価しているからこそ、どこまでやれるのかと期待する気持ちもあった。
「昔から彼奴とは一度戦ってみたかったのだ。さて、お手並み拝見と行こうか」
紫苑は配下の魔獣をいくつも召喚して屋敷の中へと放り、微かに笑みを浮かべた。萩を取り返せるものなら取り返してみろ。
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「この場に掛かっていた術は解除しました」
「流石コガネだ。ありがとう」
「いえ、お役に立ててなりよりです」
術の範囲に入った人間を惑わせる結界。紫苑が作り出した強力な結界をコガネが見事に解いてみせると、周りからは安堵と感心の声が上がった。
「しかし、シオンは非常に強い悪魔なのだろう? そんな悪魔の術を消し去ることが出来るということはコガネも実は強い悪魔なのではないか?」
「違いますよ。術というのは数学と一緒です。解く為の公式を知っていればそれに当てはめてしまえば正解を導き出せる。ただそれだけなんです」
逆に式を知らずとも、強い悪魔ならば力尽くで術を破壊することもできる。だから力の強い悪魔ほど知識が薄い場合が多いのだ。
「弱い悪魔は弱いなりに小賢しくあるんです。さて、愁の魂を探さなければ」
「おう。ミケ、頼んだぞ」
「みぃ」
英二が足元に座り込む三毛猫に声を掛けると、ミケは可愛らしい声とは裏腹に堂々とした振る舞いで屋敷の中へと足を踏み入れた。その後を四人――櫟、英二、コガネ、或真が続く。
櫟は武器として借りてきた薙刀を担ぎ直すと、歩きながら他の三人を振り返った。
「一度作戦を確認するよ。僕達がするべきことは愁の魂と体、そして千理の奪還だ」
「ああ。特に千理は間違いなく愁に対する人質だ。戦えもしねえし早めに回収してえな」
「それもあるが、一番ネックになるのは間違いなく愁の魂だろう。紫苑が最も手放したくないものだからね。僕達は紫苑をおびき寄せる為に派手に暴れるから、コガネはその隙にこっそりと愁の魂に近付いてあの子を助け出してくれ」
「分かりました」
霊体である愁が逃げ出していない以上、彼を閉じ込める為の術も使用しているだろう。それを解けるのはコガネだけだ。愁の魂の気配を最もよく知っているミケが魂を探し出し、そしてコガネが彼を解放する。これだけは絶対に失敗出来なかった。
外から見ても随分広く見えた山林の中の屋敷。まったく人気のないその中を少し進んだところで、不意にミケの尻尾と耳がピンと立った。
「みー!(見つけてやったぞ、着いてこい!)」
「見つけたようです! それでは僕は此処で」
「ああ。こっちは任せろ」
素早く走り出したミケの後をコガネが追いかける。英二はそんな相棒の背中を見送って両手に拳銃を構えた。
「英二はあっちに行かなくて良かったのかな」
「馬鹿、俺の足だと邪魔になるだけだ。それに元々俺の専門は対悪魔だ。こっちでシオンを相手取るんなら選ぶまでも無い」
「そうだね。それじゃあ……或真、頼めるかな」
「任せたまえ。我が僕よ出でよ!」
或真が前に出て眼帯を外す。すると目の前にライオンに似たタテガミを持つ黒い怪物が現れ、爆音の咆吼が響き渡った。
或真が最もよく呼び出す怪物の一体はその迫力とは裏腹に大人しく主人の指示を待っている。そんな僕に向かって、或真はまるで指揮でもするかのように優雅に右腕を振り上げた。
「前方に向かって屋敷を破壊しろ! 人間を見つけたら即座に攻撃を中止して待機、いいな」
「ガウウウウ!」
再び雄叫びを上げたキマイラが動き出し、目の前の大きな扉を爪で引き裂く。紙のようにあっさりと切り裂かれた扉の残骸を踏みつけながら、怪物はどんどん前に進んでいった。
「シオン、来るなら来い! 我が怪物達が相手をしてやるぞ!」
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「千理、怪我は」
「大丈夫。昨日の怪我以外は問題ないよ」
激怒していたシオンが突然部屋から出て行った。暫く状況を飲み込めずに無言で居た二人だったが、シオンが戻って来ないのを理解するとようやく肩の力を抜いてお互いを見た。
「愁は? シオンに何もされてない?」
「ああ。不思議なんだがあの悪魔は俺がどんなに暴言を吐こうと何もして来なかった。それに俺のことを萩だとか何とか呼んで……一体どういうことなんだか」
「ああ……」
そうか、愁は当事者なのに一番状況が分かっていないのかと千理は頷く。ならばと彼女はまず櫟から聞かされた話を簡潔に愁に説明し始めた。
萩とは何者なのか。紫苑との、そして櫟との関係は。そして今の紫苑の目的が何なのか。
話を聞いていくうちに愁の表情がどんどん訝しげなものになっていく。そして千理が口を閉じると「状況は理解した」と不機嫌そうに言った。
「つまりあの悪魔は俺の前世とやらに執着していて、そいつを手に入れる為に千理に怪我をさせ、おまけに人質として攫ってきたんだな?」
「いや最終的な結論そこでいいの?」
「他に何がある。どんな事情があるにせよシオンがお前を殺すと俺に脅しを掛けたことには変わらない。……それを、俺は絶対に許さない」
「……」
「それにしても全く壊れないなこの檻」
愁が苛立ち混じりに檻を壊そうと力を使うがびくともしない。鉄格子の隙間から腕を出そうとすることさえ見えない壁に阻まれて弾かれ、彼は大きく舌を打った。
「あいつが戻って来る前に何とかしないといけない。さっきは何とか躱せたが……もし今度シオンが本気でお前を殺そうとしたら、俺は頷かない自信がない」
「愁」
「お前が殺されるくらいなら俺は他人を犠牲にする。……悪いな千理。心まで守りたいという気持ちは嘘じゃないが、それでもどうしようもなくなったら俺は」
「愁……ごめん。ごめんね」
「なんでお前が謝る」
「全部私の所為なんだ。私が迂闊な行動を取らなければ愁はこうして捕まることも無かったし、選びたくも無い選択肢を選ぶ覚悟を決めなくても良かった」
あの時、霊研で紫苑が居る場に千理が向かわなければ愁の存在は彼女にバレなかった。何も出来ない癖に霊研に向かおうとせずに朽葉家に残っていれば紫苑に捕まることもなかった。何もかも千理の所為だ。
小さな声で懺悔する親友を前にして、不機嫌そうだった愁の表情が更に悪い方向へと傾いていく。
「お前らしくないな。責任転嫁は嫌いだと言っていただろう」
「でも、考えれば考えるほど後悔ばっかりなんだ。そもそも私が紫苑を刺激しなければ愁の体が誘拐されることだって無かった。本当に全部、私の行動が愁を追い詰めたんだ」
「……」
「馬鹿だよね。戦えもしないのにしゃしゃり出て、何もしない方が全部上手く行ってた」
足手纏いどころか疫病神だ。鮮明に脳内を過ぎる記憶の一つ一つが千理の行動を否定する。愁が車に惹かれたあの日、愁が一人で帰っていればもっと早く歩いていて轢き逃げのターゲットに選ばれなかったんじゃないかとか、そもそも彼に出会わなければ――。
「ふざけるなよ」
消え入りそうな声で思わず呟いてしまった千理の言葉を掻き消す爆音が響き渡った。はっと顔を上げた彼女が見たのは、煙を上げる鉄格子とその背後にある怒りに満ちた愁の顔だった。
殺意すら窺えるその表情に、思わず千理の呼吸が止まった。
「いくら千理でも、それ以上言うのなら許さない」
「でも」
「許さないと言っているだろう。それ以上何も喋るな。千理、俺はな、今までの人生を全て自分で望んで、選んで生きてきた。誰かに遠慮するとか考えたこともない。親からは我が儘で頑固だと言われてるし実際にそうだ。自己中心的で、俺は自分の思うままに生きている」
「……」
「その所為で他人に何か言われようがどうでもいい。どうでもいいが……よりにもよってお前にそれを否定されるのは耐えられない。千理、お前は俺の七年間を全て否定するつもりか」
「そういうつもりじゃ」
「だから喋るな。聞け。千理、俺はお前が好きだ」
「……は」
「何年も前からずっとな。お前が居たから今の俺がある。もし千理に出会わなかったら、今よりもずっと頭は悪かっただろうし、剣術だってただの優越感を満たす為の道具にしかならなかった。それに止めてくれるお前が居なければ好奇心のままにあちこちに迷惑を掛けまくっていただろう」
「いやそれは大して止められて……え? 何で今?」
「すまん。本当はきちんと体が元通りになってからと思ったんだがお前があんまりにも腹が立つことを言うからつい」
「腹が立ったら告白するの??」
他人の記憶をまるまる飲み込んだ千理の脳内が愁のたった一言でストライキを起こした。嬉しいだとかいう前に困惑しか浮かんで来ない。
しかし千理の大混乱など知ったことかと愁はまだ口を動かし続ける。
「そもそもムカつくのは、萩だの前世だの、なんで俺に無関係なことで周りが勝手に騒いでそれに巻き込まれないといけないんだ」
「いや、無関係って訳じゃ」
「俺は俺でしか無いし、その萩ってやつもそいつでしかない。櫟さんやシオンが何と言おうが知らない。俺が好きなのは千理であってシオンじゃないし、仮にその前世とやらの記憶が蘇ろうが押し潰す。昔の俺なら今の俺に遠慮しろ。俺の邪魔をするやつは誰だって容赦しない。全員地面に這い蹲らせてやる」
「……それ、完全に悪役の台詞」
「当たり前だろ。俺が正義なものか」
何の躊躇いも無く堂々と言い放った愁に、千理は最早乾いた笑いしか出てこなかった。櫟の感慨も紫苑の未練も、彼にとっては塵芥でしか無いと言っているのである。紫苑と萩に対して一種の共感すら得ていた千理は何とも言えない気持ちになった。
……だが、心の中で深く安堵したのもまた事実だった。千理だって紫苑がどんな思いを抱いていようが関係ないとは言ったが、それでも「自分の方が邪魔なのではないか」とほんの僅かに燻っていた気持ちがあったのも本当だったから。
全く揺るがない愁の言葉に千理も気力が湧いてきて、ふらつく頭を押さえながら立ち上がった。鉄格子を見ると、先程煙を上げていた部分は何の損傷もない。一応試しに鍵穴にポケットに入っていた細身のボールペンを入れてみたが勿論開くことはなかった。
「これはコガネさんが必要だね」
「ああ。だが此処が何処だかも分からないからな」
「それは大丈夫、お兄様が特定してくれた。だから今頃もう此処に向かってるか、もしくはもう着いてるかもしれない」
「万理が?」
「お兄様はすごいんだから!」
「……お前らしさが戻って来たな。安心した」
「心配掛けてごめん。だから私はひとまずシオンが戻って来る前にコガネさん達と合流しようと思う。此処にいても役に立たないし、シオンに八つ当たりで殺される可能性だってある」
「分かった。……気を付けろ」
「愁もね。シオンに何を言われたって絶対に契約なんかしたら駄目だよ!」
「当然だ」
シオンが力任せに開けて僅かに開いたままになっていた扉から千理は飛び出した。時計を確認し、予定通りに出発していたら今頃もう此処へ到着しているだろうと当たりを付ける。
屋敷の中は広いし薄暗く足元が見えにくい。新しい部屋に入る度に足を止めてシオンと遭遇しないかと注意深くなりながら進んでいた千理は、四つ目の部屋に足を踏み入れたところで不意に動きを止めた。
その部屋は家具などが殆どなく、その代わりに部屋の中心部に四つの大きなガラスケースが置かれていた。長方形に長いそのケースは三つが空っぽで、そして――もう一つの中には一人の人間が目を開いたままぴくりとも動かずに横たわっている。
「三人目……!」
誘拐された三人目の少年だ。ケース越しに目の前で手を振ってみても全く反応が無い。恐らく彼は紫苑の術で石化されているのだ。右手を見てみれば薄暗い中で僅かに発光する魔法陣が見えた。
二人目の少女は逃走して死亡、一人目は……予備を用意しようとしたということは既に死んでいる可能性がある。そして四人目は。
「――愁の体がない」
まさか。
□ □ □ □ □ □
「全く……何匹居るんだこの魔獣達は!」
「魔獣っつーのは悪魔の力を使って好きに召喚できる。つまりあんだけ力の強い悪魔なら無尽蔵と言っていいな」
櫟が薙刀を振り回して魔獣を切り裂き、英二が両手の銃で一気に制圧する。或真も怪物に暴れさせて魔獣の数を減らしているものの、それでも代わる代わる現れるそれに辟易としていた。
キマイラが暴れ始めてすぐに現れた多くの魔獣。紫苑が櫟達に気付いたのは明白で、ならば徹底的に暴れてコガネから意識を逸らさせようとしていたのだが……流石にこれ以上はキリが無い。
「ならば一気に突破して紫苑の元へと辿り着くまでのこと。キマイラ! ケルベロス!」
或真の指示で新たに現れたケルベロスと共にキマイラが大きく爪を振り回す。部屋中の魔獣が一気に消えるのを確認するまでもなく或真が先陣を切って走り出した。
次に踏み入れた部屋にはまだ魔獣の姿はない。このまま先へ進もうと或真だったが、その瞬間何故か悪寒を感じて急ブレーキを掛けた。
直後、彼の眼前に銀色の線が通り抜けた。
「或真っ!」
或真の体が後ろに引かれる。その勢いにたたらを踏みながら、彼は自分と入れ替わるように目の前に立った櫟が薙刀の刃を何かと交差させているのを見た。
英二に受け止められた或真が改めて目の前の光景をはっきりと認識する。薙刀と打ち合っているのは日本刀で、そしてそれを持って櫟に向かう男の姿は……或真もよく知る男の顔だった。
「どういうことだ」
「おい、冗談じゃねーぞ愁! 何やってんだ!」
英二の声にも全く動揺を見せずに櫟と交戦している男は愁そのものだった。櫟が大きく薙刀を振るうとそれを回避する為に彼は後ろへ飛んだ。表情は変わらない。いつもの愁と同じ仏頂面のままだ。
何故愁が敵対するのか。千理を人質に取られて脅されたのかと英二が考えていると非常に不愉快な表情を浮かべた櫟が「愁じゃない」と断言した。
「魂が違う。他の被害者達と同じだ。愁の中に別の魂を入れて僕たちを殺させようとしているんだろう。僕たちが愁を殺せないことを分かっててね」
「くそっ悪趣味な……」
「僕が体に触れることが出来れば魂を成仏させることが出来る。……だが、問題はどうやって近付くかってところだ」
「来るぞ!」
刀を構えた愁が一気に近付いて来る。牽制の為に英二が銃を打つも全く怯むことなく刀を振るい、それを櫟が何とかいなす。
刀を持った愁が勝てない相手は居ない。始めて会った時に千理が言っていた言葉を思い出した櫟は苦虫を噛み潰したように眉を顰めて勢いよく薙刀を振るった。
中身は違うものの身体能力がずば抜けており、そして入っている魂も恐らく元々強い人間だ。人を斬るのに何の躊躇いも感じられない。
「っ本当に、こんな形で見たくはなかったな!」
□ □ □ □ □ □
「み!」
「この近くですか」
ミケに案内されたコガネは迷路のようになっている屋敷の中をできる限り隠密に進んでいた。今のところ妨害は一切無い。計画通り過ぎて少し怖いくらいだ。
しかし順調で悪いことなどない。はっきり会話が出来るイリスとは違うが多少ミケが何を言いたいのか分かるようになって来たコガネは、落ち着いて周囲を見回した。
此処は通路になっていていくつかの部屋に繋がっている。ミケが神経を張って愁の魂を探しているのを邪魔しないように黙っていると、不意に一つの扉の前でミケが座り込んで一鳴きした。
「此処ですね、分かりま」
「盗人、死ね」
コガネは即座にミケを抱きかかえてその場から飛び退いた。彼らが居た場所と傍の扉は破壊され、見るも無惨に粉々になって穴の空いた床の下へと落ちていく。
ほんのコンマ一秒遅かったらコガネ達がそうなっていたことを感じながら、彼は殺気を滾らせる紫の悪魔を振り返った。彼女が無言でコガネを攻撃していたら反応出来なかった。不幸中の幸いだ。
「シオン」
「同族が私の名を呼ぶな。萩の魂を手に入れる為に来たのだろう? きっちりと礼を尽くしてから魔界へ還してやる」
「!」
口を閉じた瞬間に間髪入れずに紫の炎がコガネ達に襲いかかる。鋭い刃のような衝撃波を何とか障壁で弾くものの、物量差が違い過ぎる。懐のミケを守り、更に多くの攻撃を受ければ一つ一つの障壁は確実に脆くなる。今防げたのだってシオンがコガネを侮っていたからに他ならない。
「みー!!」
「っミケ駄目だ!」
その時、ミケがコガネの胸を蹴って地面に降りた。そして毛を逆立たせて威嚇するようにシオンに向かって鳴いた。そんな三毛猫を、シオンはどうでも良さそうに見下す。
「獣が偉そうに粋がっているな。まあどうでもいい。貴様らが萩を奪うと言うのであれば……魂の一片も残さずに消し去るまでだ」
紫苑の手から炎が現れる。それは先程の比ではない大きさだ。体を覆うほどの攻撃を完全に防げるほど、コガネの力は強くない。
自分は驕っていたのかもしれない。確かに悪魔の知識は深く、多くの術はコガネの手によって解除出来る。持ち前の反射神経と動体視力でピンポイントに攻撃を防ぎ身を守ることだって出来る。――だがそれも、圧倒的な力量差の前には為す術も無い。
自分にも出来ることがあると、愁を救うことが出来ると思っていた。だというのにこのザマだ。コガネは怯えながらもなお威嚇し続けるミケを再び抱えながら、それでもまた逃げ道は無いかと必死に思考を止めなかった。
鬼頭の時のように一旦魔界へ逃げるという手はある。だがミケはどうなる。自分だけが助かるのか? この悪魔の攻撃は幽霊だって焼き尽くす。しかしコガネが死ねば愁が。
躊躇ってしまった。迷ってしまった。その間にも紫の炎はどんどんと目の前で大きくなった。
「みいい!(俺に構わず逃げろ!)」
ミケの叫びもコガネには伝わらない。伝わったとしてもコガネには選べない。そしてとうとう、紫苑の右腕が振り下ろされる。
「死ぬまで焼かれ続けろ」
「っ」
コガネが目を閉じる間もなく、紫苑はその炎を、
□ □ □ □ □ □
「っはあ、はあ……」
真っ黒な狼のような魔獣が千理の後を追いかけて来る。千理は必死に足を動かしながらも、そろそろ体力の限界を感じていた。
三人目の体が保管されていた部屋から少し進んだところで千理は待ち構えていた魔獣と遭遇した。あっという間に近付いて来た魔獣に腕を噛まれたものの必死で振り払い逃げている途中だ。
恐らく交戦しているであろう大きな音のする方へと逃げているのだが、途中で壁に阻まれたり迷ったりして中々彼らの元へは辿り着かない。
「諦めない……!」
諦めない諦めない紫苑に愁を渡してたまるか!! そう怒りを原動力に自分を奮い立たせて走り続ける。そして勢いよく目の前の扉を開けると、壁がぶち抜かれていくつもの部屋が一つになった広い空間の中で激しい音を立てながら霊研の人々が戦っているのが見えた。
「千理! 無事だったか!」
転がり込むように英二の傍まで行くと即座に彼女を追いかけ回していた魔獣が一瞬にして銃弾に撃ち抜かれて消滅した。だがまだ安心してはならない。この部屋にはそれ以上に魔獣が待ち構えており、加えて櫟と交戦している人間を見て千理の顔は苦渋に歪んだ。
「愁……」
「中身がちげえ。だから櫟が成仏させなきゃいけねえんだが……」
「うむ。中々に厳しい状況だ」
千理を守るように或真も英二の傍へ行き怪物達に指示を出す。彼の僕では愁を殺しかねないので手が出せない為、キマイラ達は魔獣を倒すことしかできない。
「あの刀が厄介だ。中々近付くのに……なあ!?」
「英二さん!?」
「あいつ……シオンがコガネの方に行ってやがる!」
誰もが手一杯になっていたその時、不意に魔法陣からコガネの危機を感じ取った英二が声を裏返らせた。まずい。非常にまずい。片目を瞑ってコガネと視覚を共有してみれば、目の前に炎を手にしたシオンの姿が見えた。
「別行動にしたのが裏目に出たか……」
「今からそちらに向かう! 場所は!?」
「分かっても間に合わねえよ! ミケを遠くに逃がしてまた魔界に逃げるのがベストだが――千理?」
焦燥を覚えながら英二が唇を噛み締めたその時、ふと傍に居た千理が徐にボールペンを取り出して左手の甲に何かを描き始めた。
円の中に細かい文字と模様。一度も休むことなく描かれていくそれに、英二は彼女のしようとしていることをすぐに理解した。
「お前、まさか」
「向こうに行く暇がないのなら、こっちに呼び出せばいい!」
千理が魔獣に噛まれた腕から伝う血を魔法陣に塗りつける。次の瞬間手からは光が溢れ、英二は反射的に銃を構え直した。
手と同じように目の前に光が集まる。その白い光の中に紫を見つけた瞬間、英二は即座に引き金を引いた。
「がっ、……き、さま」
召喚されたと同時に対悪魔用の銃弾で撃ち抜かれる。よろめきながら体を押さえて立ち上がった紫苑は、千理の手に光る魔法陣を見てその目に怒りの炎を宿した。
しかし千理はそれに一切怯むことなく、むしろ微かに笑ってみせる。
「さっき振り、シオン。召喚主は私。願いは――愁を返してもらう!」




