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霊研の探偵さま  作者: とど
四章
70/74

31 誰にも渡さない


「本当のことを言うと、僕に紫苑を止める権利は無いんだ。だって僕も……最初は愁のことを萩として見ていた。いや、今だって時々重なる。見た目も性格も全然違うのにね」


 長い長い話だった。千年の時を駆け抜けた物語はようやく終わりを迎え、その締めくくりに櫟は懺悔するようにそう口にした。


「僕も紫苑も先に魂を見るから、だからどうしても萩との記憶が過ぎってしまう。僕が生きた時を考えると本当に瞬く間に終わった時間だったのに、嫌というほど鮮明に覚えている」


 櫟が初めて萩の魂を見つけたその時、彼は絶句した。何しろその時の彼は生きているというのに霊体で、それなのに全く危機感もなく暢気に過ごしていたのだから。櫟が千理達に話しかけた最大の理由は彼が彼だったからに他ならない。萩とは全く似ても似つかないというのに、それでも刀を握るという彼の話を聞いて櫟は嬉しくなってしまった。


「紫苑には萩と愁が違うなんて言ったが真っ赤な嘘だ。確かにあの子は萩でもある」

「……櫟さん」

「分かってるよ千理。紫苑の言動を肯定する訳じゃない。いくらあの子が萩と同じ魂を持っていて僕達が同一視していようと……それで今の愁の人生を邪魔していい理由にはならないんだ」


 紫苑が櫟のように改めて愁と関係性を作っていくのなら櫟だって何も言わなかった。むしろもう一度三人で会いたいと願ったのはそういう未来を考えてのことだ。


 だが今の紫苑は歯止めが利かなくなっている。火葬場を始めとして榧木家でも事件を起こしたのは恐らく彼女だろう。以前は萩が悲しむからと必要以上に人を殺すことは無かったが、現在の彼女は進んで多くの人間を騙し死に至らしめている。そしてそれを、萩の為だと言う。

 だからこそ櫟は愁と紫苑を対面させることを拒んだ。萩の記憶の無い愁でも問答無用で連れ去ってしまいそうだったから。事実、その予想は当たってしまった。


「シオンは、本当にその萩という子のことが好きだったのね……」

「好き……という言葉が合っているかは分かりませんが、あいつは萩の魂にどうしようもない程執着しています。今度こそあの子の魂を手にいれて、永遠に萩を手に入れる為に」


 全員が息を呑んだ。現在愁の魂は文字通り紫苑の手中にある。契約こそ交わされていないものの、それだって時間の問題かもしれない。もしそうなれば、たとえ死神だって彼の魂に手を出せなくなる。


「それマズイじゃないの! すぐにシュウを取り返さないと……!」

「だが奴の行方は分からなくなっている。ミケ達も戻って来ないし調査室からも連絡はねえ。現状どうするべきか」

「……いや、時間はあるかもしれない」

「え?」

「確かに紫苑はあの子に契約を迫るだろう。でも愁がそれに応えるとは思えない。萩と同様、願いを他人に頼って、ましてや生け贄を使って叶えるような子じゃないからね」


 愁さえ頷かなければ紫苑はどうすることもできない。ならばまだ大丈夫かもしれないと言う櫟に、少し考えるようにしてからコガネが「ちょっと待って下さい」と口を挟んだ。


「ですが所長、愁の魂を手に入れるだけなら方法は彼と契約することだけではないはずです。例えば……他の人間の願いの生け贄に愁を選べばいい。そうすれば、彼の意思など関係なく愁の魂はシオンのものになる」

「!」

「いや、それはない」


 千理がはっと顔を上げる。しかしそれと同時に、櫟が即座にコガネの意見を否定した。


「何故ですか。この方法なら」

「そうだね、可能か不可能かで言えば可能だろう。でもあいつはその方法を取ることはできない。いや多分、そんな考えは頭にも無いと思う。……あの紫苑が、よりにもよって萩を他人の願いの踏み台に使うなんて絶対にありえない」

「しかし、形振り構わず手段を選ばなければ」

「確かに、可能性はゼロではないだろう。でも、それだけはしないと僕は確信している。愁を萩と同一視しているからこそ、紫苑はあの子をないがしろには出来ない。それが出来たら昔のうちにとっくに魂を手に入れてるよ」


 三人で旅をしている間、紫苑はことあるごとに萩に契約を持ちかけた。刀を握り続けられる筋力を得る、長生きする為の力を与える、萩を狙う人間全てを殺す――その全てに萩は首を縦に振らず、そして紫苑は契約を強要しなかった。

 彼女は美しいものが好きだ。そしてそれに拘り、不合理であっても自分の美学を捨てられない。萩の魂を貶めてでも手に入れることは、恐らく彼女にはできない。


「でも絶対では無いし一刻も早く助けに行くべきなのは変わらないけどね」

「そうね。……千理ちゃん、大丈夫?」

「え?」

「愁が連れて行かれたのは我々にとってもショックだが、君はその比ではあるまい」

「……大丈夫ですよ。落ち込んでいる暇はありませんし」


 心配そうに自分を見る鈴子と或真に千理は苦笑しながら首を横に振った。周囲を見れば二人だけではなく他の全員も千理を窺うように見ている。


「千理、すまない。元はと言えば僕が悪いんだ。僕が萩を守れずに先に死んで、結果的にあの子を紫苑から引き離してしまった。全てのきっかけは僕なんだ」

「櫟さん、私そういうの嫌いです。元凶は萩さんを殺した人間だ。シオンだって被害者の一人なのかもしれません。……正直、私もシオンの立場だったら、愁が殺されたら何をするか分からない」


 いくつもの目が千理を見て驚くように開かれる。紫苑を擁護するような発言をしたことが意外だったのだろう。

 櫟と紫苑、萩との関係も彼女が愁を攫った理由もはっきりした。紫苑と萩はとても親しかったのだろう。形は違えど、千理の愁のようにお互いを大切に思っていた。だから、千理も紫苑の思考を理解できてしまう。


「シオンが愁の魂を求めるのも分かります。……だけどっ!」


 不意に、千理の右手が勢いよくベッド傍のテーブルに叩き付けられた。ぎらりと鋭くなった視線で、千理は櫟を睨むように見つめる。


「たとえ誰にどんな事情があろうが愁は渡さない! 髪の毛一本だって奪われてたまるか!」


 紫苑がどれだけ重い過去を持とうが知ったことではない。千理にとって彼は萩じゃなくて愁で、絶対に譲れない人間だ。

 千理の脳内に愁と出会ってからの人生が走馬燈のように浮かび上がって来る。引っ越したばかりであちこち連れ回されたこと、勉強がからきしだった愁に根気よく家庭教師をしたこと、友人に付き合っているのかと散々聞かれてちょっと余所余所しい態度を取ってしまったことや、霊研に入って何度も守ってもらったこと。

 一つ一つ、大したことのないことやくだらない出来事が積み重なって今の二人がある。前世で死に別れ、生まれ変わってようやく再会したなんてロマンティックで悲劇的な過去なんて存在しない。だが、


「シオンがどれだけの思いで萩って子を求めようと知ったこっちゃないです! 愁は私のものだ! 体も心も絶対に奪い返します!!」

「……ふふ、そうね。愁君は千理ちゃんのものだものね」

「…………あ」


 強い剣幕で櫟に詰め寄っていた千理がふと鈴子の笑い声で我に返る。そして今自分が勢いで言った言葉を思い返し――即座に首を横に振った。


「い、いや今のは言葉の綾で」

「ただの本音じゃない」

「若いっていいな」

「うむ。本人も否定しないだろうな」

「だから、」

「大丈夫ですよ千理。皆分かっています」

「コガネさんそれ絶対分かってないやつ!」


 わあわあと言い訳をしようとする千理に皆が訳知り顔で頷いていると、唖然とした顔で千理を見ていた櫟が不意にくすっと笑った。徐々に大きくなっていく笑い声に訝しげな顔で千理が振り返ると、櫟は彼女に向かって頷いて見せる。


「そうだ、それでいい」

「櫟さん」

「君は他の事情なんて気にしないで大切な人を取り戻すことだけを考えてくれ。僕も霊研の所長として多くの人間を害する悪魔を排除する義務がある。それがたとえ友であろうともね」

「……」

「それはそうと千理。愁の体を攫ったのも紫苑だと言っていたけど……」

「ああ、それは――」


 櫟のことも気になったが、ひとまず千理は自分が気付いたことを説明することにした。

 二番目の被害者に魔法陣があったこと、そして愁が誘拐された日にあった女――紫苑から差し出された紙に、火葬場で殺された人間と同じ魔法陣が描かれていたこと。


「シオンは愁達を誘拐して魔法陣を施し、石化させて保存していた。……どうしてそんなことをしたのか想像はできますけど確証はありません」

「想像?」

「二番目の被害者がシオンに予備と呼ばれていたそうです。恐らく彼女は人間界に存在する為に保険を作っていたんだと思います」

「……なるほどな」

「エイジどういうこと?」

「例えば、俺がもし死ねば魔法陣は効力を失って、巻き添えでコガネも人間界から消える。そうならねえようにイリスにも魔法陣を描いておくっつーことだ」

「……英二、例えが悪いですよ」


 コガネが溜め息を吐く。分かりやすいと言えばそうなのだが自分が死ぬような話を娘に例題として出さないで欲しい。


「あくまで想像ですけどね。正直犯人が分かった今、理由なんてなんでもいいんです。少なくともシオンは愁の体を盗んだことを肯定していた。……或真さん、そういえばあの被害者の幽霊ってどうしてます?」

「……うむ。それなんだが」


 先程病院に行く時には千理も頭を怪我していたし櫟が重傷だったので彼女のことを忘れてしまっていたが、まだ霊研に残ってくれているだろうか。いや大人しくしている性分ではなさそうだったのでもう何処かへ居なくなってしまったかもしれない。

 ずっと監禁されていたらしいので分からないが、もしかしたら彼女は自分が閉じ込められていた場所を知っているかもしれないのだ。そう考えて最後に地下室に残っていた或真に尋ねると、彼はフル装備の割に妙に歯切れ悪く言葉を濁し、何処か気まずそうに目を逸らした。


「或真さん?」

「いや何、千理達が居なくなった後泣き出してしまってな。不憫だと少々彼女を慰めていたのだが……」

「だが?」

「……ふ、この外村或真の闇の力に近付き過ぎてしまったようでな。闇の炎に浄化され、気が付いたら満足げに笑って消えてしまった」

「……つまり、イケメンに優しくされて未練が消えて成仏してしまったと」

「ほんっとに女ったらしなんだから!」


 イリスの怒鳴り声を聞きながら千理は頭を抱えたくなった。櫟以外にもうっかり霊を成仏させる人間がいるとは思ってもみなかった。いや彼女は明らかに或真に好意を抱いていたしこうなることは予測するべきだったか。

 なってしまったものは仕方が無い。だが……重要な手がかりが文字通り消えてしまった。 


「千理、本当に済まない」

「いえ、そもそも最初に或真さんであの子を釣ったのは私ですから――ん? 電話……?」


 正直言って心の中で泣きそうになっていると、ふと千理のスマホが着信音を立てて震え始めた。こんな時に誰だ。迷惑電話だったら絶対に許さないと思いながら画面を見た千理は、そこに表示された名前を見て即座にスマホを耳に当てた。


「……お兄様」

『ごめん千理、今大丈夫か』

「大丈夫ではあるけど……」


 耳元から聞こえて来た最愛の兄の声に、しかし彼女はいつものハイテンションもなく迷うように声を出した。兄の名前を見て咄嗟に電話に出たものの、今は愁のことで頭がいっぱいだ。きっと話をしていても上の空になってしまうだろう。


『この前言ってた件だけど』

「この前?」

『お前らしくもない。言っただろう、桑原君の捜索に協力すると』

「!」

『単刀直入に言うが、彼と同じく誘拐された被害者の死体を発見した』

「……え、」

『二人目の被害者だ。金元美月さんだったかな』

「ええええ!?」


 叫んだ。思いっきり叫んだ。その所為で病室にいた全員に奇妙なものを見る目で見られているが千理に気にする余裕など欠片もない。彼女はスマホに飛びつくように両手で抱え、一言も聞き逃さないようにと強く耳に押しつけた。


「何処で!?」

『ぎりぎり県外にある山中の崖の下だ。詳しい場所は後から送ろう。一年ほど前から急に連絡が取れなくなった取引先がいると七瀬が……お前もこの前会った生徒会長が言っていてな。少し気になったから色々調べていたんだが、その家が所有していた別荘の近くで遺体が発見されたんだ。警察の管轄が違うからお前に情報が行くのは遅れるだろうと思って先に連絡したんだが』

「……」

『千理? 聞いているか』

「うん。お兄様、その連絡が取れなくなったっていう人達は? 見つかったの?」

『調べたところ本家の人間が何人も失踪しているみたいなんだが……どうにも奇妙なことに失踪届けは出されて居ないし、その人達が居なくなったことも知られないようにと家の中で箝口令が敷かれているらしい。七瀬も気にしていたから僕も色んな伝手で探ってみてようやくその情報が得られた訳だが……その結果、その本家の人間は悪魔に殺されたと零した人間が居た』

「それは、」

『これはもっと探ってみる必要があると思ってね。で、彼らが所有していた別荘なんかを爺やに調べてもらっていたら、第二の被害者が発見されたんだ』

「……」

『もう一つ奇妙な話を付け加えよう。今警察がその別荘を調べようとしているんだが……何故か誰も辿り着けないらしい。磁場が狂っているのか電子機器も誤作動が起こっているらしくてね。まるで魔法みたいだ』

「お兄様」

『何かな?』

「……ありがとう、本当にありがとう」

『お前の役に立てたかな』

「立てたどころじゃないよ。……必ず愁を取り戻して、ちゃんとお兄様に紹介するから」

『あまり危険なことはするんじゃないよ』

「必要なことはする。それじゃあ……本当に、ありがとう」


 千理の耳がスマホから離れる。ずっと皆に背を向けていた彼女が振り返ったその瞬間、櫟達は酷く驚いた顔で彼女を凝視した。

 千理の目からは、一筋の涙が零れていたのだ。


「センリ、なんで泣いて」

「お兄様がシオンの住処を見つけてくれました」

「は!?」

「ほぼ100%確実です。ただ、そこはどうにも人間が辿り着けないようになっているみたいなんです。コガネさん、そういう悪魔の術に心当たりは?」

「え? まあありますけど」

「解けますか」

「実際に見てみないと何とも言えませんが、まあ大抵のものならば」

「ならすぐに一緒に来て下さい。皆も、すぐに愁を取り戻さないと!」

「おい待て千理!」


 詰問するような口調でコガネに問いかけた千理はすぐに病室を出て行こうとする。しかしその姿に危機感を抱いた英二がすぐに彼女の腕を掴んで止める。

 咄嗟に振り解こうとした千理だったが、まったく揺るがないそれに彼女は思わず睨むように英二を見上げた。


「千理、一度落ち着け」

「私は落ち着いてます。だからすぐに愁を助けに行かないと――」

「落ち着いているんなら分かるな? 戦えないお前はそもそも助けに行く面子に入らねえって」

「……っ!」

「唯一対抗出来る或真、術の解除と身を守れるコガネ、援護射撃に俺、櫟は……動けるか分からねえが、少なくとも自衛は出来るしシオンとの交渉には必要だ。突入メンバーは以上。いつもの冷静なお前ならそう判断するはずだな?」


 静かな声で諭された千理の動きが止まる。もう勝手な行動は取らないと思い放された手はぶらりと体の横に落ち、足元には涙も零れた。


「お前は無理しすぎだ。怪我した頭だって相当痛えだろ」

「……これくらい何ともないです」

「千理ちゃん、一度深呼吸してみましょう?」


 鈴子が千理の背後に立ち、肩にブランケットを被せる。柔らかな彼女の声に無意識に従ってしまった千理は深く呼吸をしようとして……途中で嗚咽が混じりつっかえた。上手く呼吸が出来ない。


「千理ちゃん、今日は大変だったわね。殺人事件の現場を調べて、幽霊に聞き込みをして、強い悪魔と対峙して怪我もして、愁君が攫われて……だから少し休みましょう。ね?」

「っでも、愁が……」

「愁君が今の千理ちゃんを見たら、きっと辛い気持ちになると思うわ」

「――千理、君なら当然覚えているだろう。愁が霊研に入る時に言った条件のこと」


 櫟がベッドから外に出る。少し苦しそうな表情になったもののまっすぐ千理の元へ歩いて来た彼が言った言葉に、千理はすぐさま記憶の中の愁の言葉を思い出した。


「『千理が無茶をしていたら力尽くで止めてほしい』僕達はあの子との約束を守る。だから千理、愁の所へ行くのは僕達に任せてくれないか。僕ら霊研で愁を助ける。君は現場には行かないだけで、その一員であることに変わりは無い」

「……」


 千理が言葉を無くして黙り込んだ。その背をそっと擦った鈴子は、そのまま彼女を近くの椅子に座らせた。

 本当はずっといっぱいいっぱいだった。球体になった愁が連れて行かれる瞬間がずっと脳裏から離れなくて、最初は気丈に振る舞っていたものの心の中はめちゃくちゃに荒れ狂っていた。そして愁の居場所が分かった途端、今まで押し止めて来たものが一気に溢れてしまった。


「英二、イリスを家に帰すだろう。ついでに千理も送って行ってくれ」

「分かってる。俺達は明日突入でいいのか」

「明日……と言ってももう日付も変わっているからね。皆少しは休んで……午前十時に霊研に来てくれ。僕もその頃には復帰できるはずだ」

「櫟君も無理しないでね」

「今回ばかりは少しは無理しなければ行けませんね。大丈夫ですよ、どうにかします」


 ぼたぼたと涙が零れるのと同時に意識まで遠のいていく。椅子の上でぐらぐらと体が揺らいで、焦ったようなコガネの声が聞こえると同時に、彼女の意識は完全に落ちた。




    □ □ □  □ □ □




「……っ!!」


 唐突に意識が覚醒する。


 千理が目を開けると、そこは以前泊まったことのある朽葉家の一室で、隣の布団にはイリスお気に入りのウサギのぬいぐるみが転がっていた。


「今、何時」


 覚醒すると同時に昨晩の記憶を全て取り戻した千理が枕元に置かれた可愛らしい目覚まし時計に視線を向けた。長針は十二、そして短針は……九だ。


「っ、急がないと!」


 布団を撥ね除けて起き上がった千理はすぐさま部屋を飛び出し玄関に置いてあった鞄を引っ掴んで朽葉家を出た。英二達がいる様子は無かったのでもう霊研へ行っているのだろう。千理の体調に気を遣って起こさなかったのかもしれないが、のんびり寝てなど居られない。


 せめて、見送りだけでも。今から霊研に向かうとだけ櫟にメッセージを送ってとにかく走る。別荘付近は電子機器が使いにくいと言っていたので到着したら連絡を取ることも難しいかもしれない。何か今のうちに、自分にできることはないか。


「考えろ、考えろ考えろ!!」


 人目を気にせず走りながら千理が声を上げる。シオンは強い。彼女の今までの言動、情報全てを思い出して何か一つでも有利になる可能性があるものを考える。

 考えろ、あらゆるパターンを想定しろ。少しでも可能性があるものは拾え。千理は必死に頭を回転させ、そして――霊研に向かう道から少し外れた方向へと走り出した。





 千理は走る。電車を降り、霊研の最寄り駅に着いた彼女はすでに体力の限界を感じながらも足を止めなかった。


「愁……!」


 自分が行っても役には立てないかもしれない。念の為にと渡そうと思っているものだって全くいらないものかもしれない。でも1%でも愁が助かる可能性が上がるのならなんだってやってやる。




「必ず、愁を」

「そういえば貴様だったな。私の顔に平手を打ったのは」


 ぞくりと、耳元で唐突に聞こえた女の声に思わず震えた。


「……え?」

「それで腹立たしくなって貴様が出てきた病室の人間を攫ったのだった。くく……思い出した思い出した。前のやつらとは違って顔は全く好みではなかったが……それがまさか萩だったとはな。逆に貴様には感謝せねばなるまい」


 千理の体に影が落ちる。あれだけ止まらなかった足は自然と動きを止めて、無意識のうちに体は後ろを振り返る。


「礼として我が家に招待してやろう、小娘」


 見えたのは、紫。大きな翼を広げた人間とは異なる形をしたそれを持った女は、にやりと歪な笑みを浮かべて彼女の額に手を伸ばした。




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