30-2 萩
「紫苑ちょっと待って、倒れてる子供がいる」
「は? 子供だと?」
「ほら彼処!」
「あっ、こら待て! 一人で動き回るな!」
さっさと一人で駆け出した萩を紫苑が文句を言いながら追いかける。そしてその二人の姿を黙って眺めていた櫟は、その微笑ましい光景に思わず表情を緩ませた。
晴天、穏やかな風と鳥の声。こんな平和な時間は今まで人生で初めてかもしれない。
「櫟! 貴様もぼけっとしてないで来い!」
「はいはい、今行くよ」
紫苑に急かされて櫟も止めていた足を動かし始める。
それにしてもまさかこの三人、とりわけ悪魔である紫苑と共に旅をすることになるとは思わなかったと、櫟は過去を振り返りながら改めて思った。師匠は勝手に魂を持って行く悪魔を好んではいなかったし、話を聞いた自分も特にいい印象も無かったのに、と。
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「若、ともかく此処から離れましょう。追っ手が来るかもしれません」
「分かった。悪魔殿、あなたも一緒に」
「安心しろ、契約が済むまで嫌と言っても付きまとってやる」
櫟が自己紹介を終えると、ひとまず死体の群れの中からさっさと移動することになった。こんな場所で暢気に話など出来ないし、それに言った通り萩を攫ったやつらの仲間が来るかもしれないのだから。
そもそもの発端は、この少年――蓮見萩が誘拐されたところから始まる。武家の一人息子である萩が内通者によって攫われ、そしてすぐに屋敷に火が付けられたのだ。火傷を負いながらも必死で外に出た家人は待ち構えていた敵にやられ、萩の父親も果敢に戦ったものの最後には息を引き取った。そして死に際に、外で密偵の仕事をして帰って来たばかりの櫟に萩のことを託したのだ。
櫟は仕えていた主の最後の願いを叶えるべく萩を探し、そして見つけた時には背中を血塗れにした萩と――そして、随分と偉そうな態度の女悪魔が居たのである。
「若。状況を見るに、あなたは悪魔の生け贄にされそうになっていたんでしょう」
「生け贄」
「ええ。悪魔と契約する為には人間の魂を捧げる必要があります。本来は悪魔を召喚した後にあなたの魂を使ってこの悪魔と契約するつもりだったんでしょうが……どうにも犯人は手順を間違えたらしい」
人気のない森の中へ来たところで櫟は足を止め、一度萩の背中をしっかりと見せてもらう。そこにはやはり淡い光を放つ魔法陣が描かれている。
「本来魔法陣は召喚者の体に刻む必要があります。だが犯人は間違えて生け贄にするあなたにそれを施した」
「確か南蛮の書を解読したと言っていたけど」
「解読に失敗したのか、そもそも本が間違っていたのかは分かりませんが」
「……貴様、随分と悪魔について詳しいな」
櫟が悪魔召喚について説明していると、木に寄り掛かって黙っていた悪魔が口を挟んだ。ふらりと歩き出した彼女は櫟の前に立ちはだかると、威圧するように至近距離から見下ろして来る。
「それに何処か妙な気配がするような」
「気の所為だよ。悪魔について詳しいのは僕の師匠から少し聞いただけだ」
「どうだか。おいお前、萩と言ったな。こいつもお前を誘拐したとかいうやつらの仲間じゃないのか」
「彼は大丈夫ですよ」
「何故言い切れる」
「仮に彼が敵ならば正しい手順を教えているはずですし、そもそも父上から事前に話は聞いています」
「話?」
何の話だと櫟も萩を振り返った。目が合った少年は櫟ににこりと頷いてみせる。
「もし不測の事態に陥った時、僕の元へ櫟という忍びを向かわせると父上が前におっしゃっていました」
「旦那様が?」
「はい。忍びの中で最も優しく優秀な者だと」
「……僕は忍びとしては落第もいいところなんだけどな」
主君から絶大な信頼を得ていたと知った櫟は自嘲するように小声で呟いた。櫟は数多いる忍びの一人でしかなく、その中でも名を与えられることもない落ちこぼれだったというのに。
その理由は簡単だ、彼は絶対に人を殺さないと決めている。死神の一番弟子としてそれだけは決して譲れなかった。だから暗殺のような仕事は絶対に断ったし、その所為で他の忍びからは完全に舐められていた。
しかし主である彼はそうではなかったらしい。櫟なんて名前は彼に拾われた際に一度口にしただけだというのにそれを覚えていて、なおかつ彼に自分の大事な息子を託すなど。
家族以外には人に恵まれてるんだな、と櫟は一人心の中で思った。思えば以前近所に住んでいた貫禄のあるお爺さんにも「いつでも本物の孫になってくれていい」と言われていた。……その前に泥酔した父親に殴り殺されたのだが。
「何はともあれ、犯人の間違いによって悪魔の召喚者は意図せず若になりました」
「僕がこの悪魔殿を呼び出したと」
「その悪魔殿って言い方は止めろ。気味が悪い」
「ではお名前は」
「無い。ゴミ共……同族は紫だとか適当に呼んでいたが」
「そうですか。では紫苑さんとお呼びします」
「は? シオン?」
「そこに咲いている花の名前です。ほら、色も似ていますしお似合いですよ」
訝しげな顔になった悪魔に萩が木陰にひっそりと咲いている花を指し示す。自分の髪を一房手にとってちらりと見た彼女は、不満げな表情で萩を見下ろした。
「確かに色は似ているかもしれないが、こんな小さくて地味な花と私が似合いだと?」
「綺麗で可憐なところがそっくりですから」
「……」
「ふっ」
文句を言っていた悪魔の口から言葉が出てこなくなった。唖然としたような何とも言いがたい表情のまま止まった悪魔を――紫苑を見て櫟が思わず小さく笑うと、すぐさま我に返った彼女が殺しそうな勢いで睨み付けて来た。
「改めまして紫苑さん、助けて頂いてありがとうございました」
「礼はいい! とっとと願いを言え! 私と契約しろ!」
「? 願いと言われましても。助けて頂いただけで十分なので」
「他に何かあるだろ、夢とか!」
「夢……」
照れ隠しのように怒鳴り始めた紫苑にも萩は穏やかに首を傾げてみせる。暫く考え込んでいる間に徐々に冷静さを取り戻した紫苑に、櫟は警告の意味を込めて「一応言っておくけど」と少し強い口調で話しかけた。
「人を……旦那様達を生き返らせるなんて契約を持ちかけたら僕が許さないよ」
「貴様の言うことに従う義理はない。が、どの道蘇生など無理な話だ。世界征服の方が余程楽だな」
「……それならいいけど。道中調べた限り、あの犯人はどうにも君に人を生き返らせてほしかったみたいでね。やつの妻が病死して、それで悪魔を呼び出そうとした」
「愚かな人間らしい願いだな」
「本当にね。死者の魂なんてとっくに回収されてるっていうのに」
「……? 貴様、その話何処で」
「夢ありましたよ紫苑さん!」
その時ぱっと萩が顔を上げて声を上げた。途端に紫苑の意識は彼に向き、勢いよくその薄い両肩を掴んだ。
「何だ」
「僕、父上のような立派なお侍様になることが夢なんです」
「サムライ?」
「ですが僕の体はあまり強くなく、寿命もあと数年と言われました。だから諦めていたのですが」
「なんでもいい、サムライとはどうやってなるものなのだ? すぐに叶えて」
「すみません紫苑さん。この夢は僕が自分で叶えなければ意味が無いんです」
「……は?」
「なので契約はできません。ごめんなさい」
「……はあああ!??」
「どういうことだ貴様ァ!」と紫苑が萩に掴み掛かる。それを見た櫟はその光景にちょっと笑うと同時に契約すると言わなかったことに安堵した。
「まあさっきも言いましたけど、どのみち契約には魂が必要ですしね」
「あっそうでした。だったら尚更」
「貴様も余計なことを言うな!」
「僕は貴方に命を救われました。今日が命日だったはずの僕が生き延びられただけでもう十分です」
「私は! 何も! 十分ではない!! 貴様この顔がなければ今すぐ八つ裂きにしていたぞ!」
「はい。それほどの強い力を持っているのに殺さないで下さってありがとうございます」
「何なんだこいつは!!」
「ふ、あははははっ!」
「笑うな貴様は殺すぞ!」
「おっと、」
のれんに袖押し状態の二人に思わず櫟が笑い出すと、即座に鋭い針のような紫の炎が飛ばされた。櫟がそれを指先で払いのけると、それを見た紫苑が一瞬真顔に戻って「今何をした」と彼を睨み付けた。
「手なんぞで払えるものではないぞ」
「さてね」
「流石櫟、父上が言っていた通り頼りになりますね」
「お前は感心してないでさっさと願いを言え!」
「ですから言いましたが契約はしないと」
「こちらも言ったぞ。契約するまで逃がさんと」
「じゃあ契約しなければずっと一緒に居てくれるんですか? 嬉しいです」
「……うがああああ!」
紫苑が頭を抱えて叫んだ。こんなにも話が通じない会話は初めてだった。そもそも彼女はいつも願いを持っている人間としか会話したことが無いのだから当然である。
「殺す」「でもこの顔は惜しい」と紫苑の葛藤が聞こえてくる。しばらく唸ったあと、紫苑は若干据わった目で萩に向き直った。
「私は悪魔だ。これからあらゆる誘惑で貴様に契約を持ち掛けてやる。精々覚悟するといい」
「はい、これからよろしくお願いします」
「ちゃんと話を聞け!」
「紫苑、もう諦めなよ」
「貴様は馴れ馴れしく名前を呼ぶな!」
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家は焼かれて家族は死亡。そして萩は……誘拐犯だけではなく他の人間にも狙われている。そもそも誘拐犯は此処一帯の大地主であった為、この土地で再び暮らすのは得策ではない。
そういう訳で……病弱な少年、悪魔、そして人間(死神)という奇妙な組み合わせの三人は日本各地を放浪することになった。
時折働いたり誰かを助けたりして路銀を稼ぎながらののんびりとした旅だ。たまに噂を聞きつけて襲いかかってくる命知らずも居たが、櫟と紫苑の敵ではなかった。
なお紫苑は当初から普通の人間にも姿が見えるようにしていたが、その所為で背中の大きな翼も隠そうともしなかったので、一番最初に話し合うことになった議題はそれだった。
「姿消すか翼消すかどっちかにしてくれないかな。というか何でわざわざ姿を見せてるんだ?」
「この私が此処に存在しているというのに気付かず無視されるなど腹立たしいからに決まっているだろう」
「あー……成程。でも流石にこうも分かりやすく人外であることを主張されるとろくに村にも立ち寄れなくなるんだよ。知らない人間から狙われやすくもなるし、そうなると若は一瞬も心が休まらない状態で旅をすることになって、不自由な思いをすることになる」
「……」
「(あと一押しかな)若も何か言ってやって下さい」
「紫苑の翼はとても綺麗ですが初対面の人間が驚くのも分かります。こんなに綺麗なのに皆に怯えられる紫苑を見るのは僕も悲しいので――」
「仕方が無い。翼だけは消してやる」
食い気味に即答した紫苑に萩は「本当ですか? でも時々他に人が居ない時は見せて下さいね」などと付け加えてあっさりと上機嫌にさせた。
櫟は紫苑に聞こえないようにぼそっと「弱っ」と呟いたものの、耳のいい彼女には聞こえていたようですぐに追いかけられた。
余談だが、髪と目の色はそのままだったので結局奇異の目で見られることには変わりなかったが、何とか外国人で押し通した。こんな色の外国人など櫟ですら見たことがないが。
「ほら、この子だよ」
そうして旅を続ける道中で倒れている子供を見つけた萩は紫苑の制止も聞かずに近寄っていった。櫟も追いかけながらその光景を見つつ、子供にしっかりと焦点を当てた彼は僅かに眉を顰めた。
「この子……」
「怪我してる。噛み跡があるし、熊なんかに襲われたのかな」
「待って萩、いやそもそもその子供は」
「人ではないな。離れろ」
駆け寄って傍にしゃがみ込んだ萩を紫苑が子供から強引に遠ざける。続いて二人の視線が櫟に向けられたので、彼は肩を竦めて子供の傍に近付いた。
倒れているのは人間でいうとおおよそ五歳くらいに見える少年だった。質素な着物を着て体を土と血で汚した彼の頭には、よく見ないと分からないが小さな角が生えている。
「どうやら鬼の子供みたいだね。萩の言う通り恐らく野生動物か何かに襲われたんだろう。それで逃げて来てそこの崖から落ちた、ってところかな」
「早く治してあげないと」
「ならん。萩貴様、この前もそうやって善意で治したら監禁されそうになっただろうが」
「でも酷い怪我だし、それにこんな小さな子供を放っておけないよ。人間じゃないって言うなら尚更、村でお医者様に看てもらうこともできないだろうし」
「駄目だ」
「でも」
「駄目だと言っている」
「……紫苑、お願い。ね?」
取り付く島もない様子の紫苑に萩は両手を合わせて上目遣いで紫苑を見上げる。小さく首を傾げて可愛らしく頼み事をすると、途端に彼女は「ぐっ」と呻くような声を上げた。
「……仕方が無い。今回だけだぞ」
「ありがとう紫苑!」
「……取り付く島あったなー」
毎度毎度の光景を目の前で繰り広げられた櫟は呆れながら萩を子供の傍へと促す。本当に満身創痍といった状態なので驚いて攻撃されることはないだろう。仮にそんなことがあっても櫟と紫苑が許さないが。
「う、ぅ」
「大丈夫、今助けるからね」
痛みに呻く鬼の子の手を萩が握る。するとそこから微かに光が漏れ、順々に全身に広がっていく。ボロボロだった体がみるみるうちに回復していく。傷は塞がり何もなかったかのように消え、そして子供の呼吸もどんどん安定する。
これが萩の身柄が狙われる最大の理由だ。
彼は昔から他者の怪我を癒やす治癒能力を持っていた。最初にそれに気付いた彼の父親は萩が狙われることを恐れて決して他者の目のあるところで使ってはならないと強く言い含めたものの、噂は何処からか漏れて父親の懸念通りになった。
屋敷を焼かれたあの時の犯人も、最初は病気の妻を治せと屋敷に押しかけて来たらしい。が、萩が治せるのは怪我だけで結局病気は治らずに妻は亡くなった。それを逆恨みした上での生け贄だったようだ。
そしてあの男は更に最悪な事態を引き起こしてくれた。蓮見家の人間を全員殺したこともそうだが、現在進行形で櫟達を悩ませる深刻な話だ。亡くなった妻を生き返らせる為に萩を誘拐した。その噂が広まった結果……萩に死者を蘇生する力もあるという迷惑な尾ひれが付いてしまったのだ。それも萩の心臓を使うだなんて馬鹿馬鹿しい噂まで出てきた。迷惑千万だ。
「死者の蘇生なんて出来る訳がないのに」
そんなことが起これば恐らく師匠は発狂するだろう。
「全くだ」
「紫苑」
「人の業は本当に留まることを知らない。そのおかげで我ら悪魔が利を得ているのは事実だが」
萩が子供を治療しているのを見ていると、紫苑が櫟の隣に並んだ。櫟よりも少々背の高い彼女を見上げると、不機嫌を露わにして冷たい視線で鬼の子供を睨んでいた。
「あんな餓鬼一人の安い命で人が生き返るのなら今頃悪魔は商売上がったりだ。まだ悪魔が出来ると言った方が信憑性がある」
「言い方が素直じゃないなあ……妖怪とかの間では実際に萩ではなく君がその力を持っていると思われているようだけどね。彼らは君の力の強さを察することが出来るからよりそう思うんだろう」
「そちらの方が好都合だ。あれは弱い。すぐに死んでしまうから狙いが私の方が守りやすい」
「……相変わらず君は全然萩と契約できない訳だけど、あの子を諦めて別の契約者を探そうとは思わないのかな」
「一度狙った獲物を諦めろと? それに私は美しいものが好きだ。あれの顔は良い、魔界に連れ帰って飾りたいところだ。ちなみに貴様は全く好みじゃない」
「聞いてないけど」
「どのみち私の召喚主は萩だ。魔界なんて詰まらない場所に戻されても困るから守ってやっているだけ。それだけだ」
「紫苑、櫟、お待たせ」
気絶した子供を傍の木に寄り掛からせたあと萩が戻って来る。そこで会話を打ち切った紫苑は「さっさと行くぞ」と吐き捨てるように言って一人先に歩き出した。
「時間を無駄にした。早く行かないと夜までに村に辿り着けぬぞ」
「もう、またそんなことを言って。でもちゃんと待っててくれて優しいね」
「貴様が死ぬと困るだけだ」
「うん、いつも守ってくれてありがとう」
「……」
相変わらずの萩の返答に紫苑は疲れたように肩を落とし、櫟は二人を穏やかな目で眺めた。
時々襲撃はあるものの平和な日々だ。萩が形見の刀を振って訓練していたかと思えばすぐに潰れたり、紫苑が村人に一目惚れされて求婚されたり、櫟がついつい死神時代に得た知識を披露して怪しまれたり、相変わらず萩のお願いに勝てない紫苑を笑ったり。
旅をして数年が経過した。萩や櫟は背が伸びたし、紫苑も人間界に慣れてきた。穏やかな日常の中、不意に萩の寿命の減り具合を見てしまって気持ちが沈むこともあったが、それでも信じられないくらい楽しい日々だった。
「お客さん、お茶をどうぞ」
「ありがとう」
時間は有限であると櫟は知っていた。年は取るし寿命は減るし、いつか終わりはやって来る。死神の仕事をする上で嫌というほど知ったはずだった。
「がっ、なんだ、こ」
「すみませんねお客さん。……これもあの子の為なんです」
甘味処で老婆に出された茶を飲んだ瞬間苦しみ始めた櫟は、忘れていたそれをようやく思い出した。
意識はあるが動けなくなった体を、どこからともなく出て来た数人の村人によって納屋に運ばれる。それを見ることしかできない櫟はひとまず心の中で「あの二人が居なくてよかった」と呟いた。
今はたまたま櫟と二人は別行動をしていた。というのも一度この村を出立したあとに忘れ物に気付いた櫟が一人取りに戻ったのだ。普段忘れ物などしたことがないのに年だろうかと初めて二十代の大台に飛び乗った彼は暢気に考えていたのだが、しかし帰り際に少し休憩しようとした途端にこの様だ。この分では忘れ物も彼らの仕業だろう。
納屋で手足を縛られた櫟は、数人の村人達に取り囲まれる。その手には大振りの鉈が握られていた。
「お前が一緒に居たあの子供が噂の”蘇生薬”だな?」
「……なん、の、はなし」
「しらばっくれても無駄だ。俺達が聞きたいのはあの心臓の使い方だ。そのまま食べさせるのか、灰にするのか、それともそのまま遺体に埋め込むのか」
「……は、」
「何だ」
「ばか、ばかしいね。本当に。今までの家族といい勝負だ。人が生き返る訳ないじゃないか」
「……おい、片手やれ」
鉈が振り上げられ、それが櫟の右腕へと振り下ろされる。縛られた腕が頭上で嫌な音を立てて切断され、飛び散った血が顔に貼り付く。どくどくと命が失われていくように血が流れていく。
痛い。
「言え」
「人は生き返らない」
左手へ振り下ろされる。痛い。痛い痛い痛い。何度死んだって痛みには慣れない。
「いい加減にしろ!」
「人はっ、絶対に、生き返ることなんて、ない!」
右足、左足。四肢が全て切られても、櫟は訴え続けた。既に他の声など聞こえない。痛みと朦朧とする意識の中、ただただその言葉を繰り返し続ける。
「できない、人が、生き返ることはない。そんなこと誰にもできない。神様にだって出来ない――」
「ああ、そうだな」
何も聞こえなくなって混濁した意識の中で、ここ数年で聞き慣れた声だけが波紋を打った。
次の瞬間妙に視界が明るくなった。頬に風を感じ、日差しが体に降り注ぐ。はっきりとは見えない視界の中で太陽らしきものだけが眩しくて、納屋が壊されたのかと櫟は漠然と理解した。
「櫟!」
「しお、」
後頭部に手が差し込まれて頭が持ち上がる。太陽は何かの影に阻まれて、櫟は何も考えずにろくに見えない彼女を見上げた。
「萩、は」
「その萩からのお願いだ。貴様が危ない気がするから見に行ってほしいと。……もう、手遅れだったみたいだな」
そっと頭から手を外されて寝かされる。もう痛みが何かすら分からなくなって来て、櫟は呆然と微かに見える紫に向かって笑ってみせた。
「何を笑っている! くそっ、萩を呼んでもこの状態では……一か八か私の力でも流し込んで」
「いいよ紫苑、僕はもうここで死ぬ」
「ふざけるな! 貴様萩を守るという役目はどうした!」
「あとは君に任せるよ。君以上に信頼できるやつは居ないから」
痛みが無くなるにつれて逆に話すのは楽になる。だから今のうちに、言いたいことは言っておかなければ。
腕を持ち上げようとしてその先に何もないことに気付いた櫟は、苦笑しながらその腕を下ろした。
「言ってなかったけど、僕はずっとこの世を生きている。死んで生まれ変わってを繰り返して、その記憶を全部覚えてる。死神が匙を投げた筋金入りだ」
「櫟、何を」
「だから僕はこの人生の記憶も忘れない。再び生まれ変わっても、その次も。だから紫苑――もう一度、君達に会える」
悪魔は不死だ。萩は普通の人間だが、記憶が無くたって再び三人で会うことが出来たのなら。それを考えれば、死ぬことにすら希望を持てる。
そろそろ口を動かす力も無くなってきた。櫟は最後に全力を振り絞って必死に声を出した。
「だから、また会ったとき、には……今度は、友に、なって」
「馬鹿か貴様は。……今度も、だ」
「は、はは……そっか。今までの人生、の、中で、この数年が……いちばん、」
幸せだった。最後まで言い終えることが出来たのかすら分からず、櫟の魂は体から離れた。
□ □ □ □ □ □
「師匠、ただいま。……師匠?」
そうして、あまりにも見慣れたその場所に櫟は立っていた。今回の彼はいつもとは違いかなり浮き足立っている自覚があった。初めて二十歳を越えたこともそうだが、何より師匠に話したい土産話が沢山あるのだ。
だがいつも迎えてくれるはずの師匠の姿が見えなかった。不思議に思いながらもあちこちを探していると、暫くして今にも人間界へ下りようとしている慌ただしい様子の彼を見つけた。
「師匠、何かありました?」
「イチイ! ちょうどいいところに。お前も来てくれ。今人間界で大量の人間が一瞬で殺されて大変なんだ」
「人間が大量に殺された?」
「ああ、被害が大きくてまだ細かいことは分かっていないが、どうやら悪魔が関係しているらしい」
ぞわ、と鳥肌が立ったような感覚がした。
「……すぐに行きます」
イチイはすぐに大鎌を取り出すと師匠に続いて人間界へと飛び降りた。恐らく見慣れた場所に辿り着くと思った彼だったが、しかし予想とは裏腹に目的地は全く見覚えの無い場所だった。
当然だ。見渡す限り一帯、草一つない更地が広がっていたのだから。
「辺り一帯、悪魔に寄る攻撃で全て消し飛んだらしい。無事そうな魂は即刻回収、衝撃でバラバラになった魂はひとまず全て回収して順に修復していく。一欠片も残さないように頼むよ」
師匠はイチイにそう言うとすぐに飛び回って手当たり次第魂を集め始めた。イチイもそれに続いて動き始めるが、不意に何かが視線を遮ったのを感じて手を止める。
「これは」
ふわふわと綿毛のように自由に浮かぶ魂の欠片。その一片を掴み取ったイチイはそれを見て思わず絶句した。少ない寿命に気を揉んで、ずっと見ていた魂の一片だ。
「そっか。そうだよね……死んだのか」
櫟に続いて萩まで死んだのかと櫟は魂の欠片を握りしめた。だから紫苑はこれほどまでの力を使ったのだ。あの子が死んだから、もう誰を巻き込んでも構わなかったから。もしかしたら紫苑が櫟の元に居る時に殺されたのかもしれない。自分の所為なのかもしれないと、イチイは酷く苦い表情を浮かべた。
「……必ず魂は修復する」
もう一度萩の魂を生まれ変わらせて、そうして再び三人で出会う。イチイはそう決心して、残りの魂を集める為に全力で鎌を振るった。
再び三人が顔を会わせたその時、最悪な事態になっていることをこの時の彼は知らない。




