30-1 死神の弟子
櫟、と後に呼ばれるようになる彼の最初の記憶はもう殆ど曖昧だ。かろうじて覚えていることと言えば、六歳になったその日に守り神の生け贄として湖に沈められたことぐらいである。
「これで神様もお怒りを鎮めて下さる」
両手足を縛られた少年は父親のそんな言葉を聞きながら溺れ死んだ。苦しくて苦しくて藻掻くことすらできずに、そしていつしか何も考えられなくなった。
「――ああ、可哀想に。まだ小さな子供じゃないか」
「……かみさま」
どれほどの時間が経ったのだろうか。次に続いた記憶は見知らぬ優しい男が彼に向かって哀れむような顔をしているものだった。
お前は死んだら神の元へ行くのだと父親に言われた少年はその人物は神なのだろうと思い、無意識のうちに頭を垂れていた。
神らしきその男は下げられた少年の頭に手を置く。押さえつけるでもなく優しく撫でられた少年が顔を上げると、その人物は酷く穏やかな微笑みを浮かべていた。
「来世ではもっと長く生きられるように願っているよ」
その声と心地の良い手の感覚に徐々に瞼が落ちる。日向で微睡むような気持ちの良さを覚えながら、少年の意識はゆっくりと落ちていった。
「ああ、またこんなに小さい時に。確かこの子は前の時もそうだったような」
「かみさま」
「またこの子か。今度は八歳……せめて二桁ぐらいは生きられないだろうか」
「神様」
「……何でだ、そこそこ地位のある所の子に生まれ変わらせたのに今度は逆恨みで殺されてる!? まだ三歳だぞ……!」
「神様、」
「ううん……どうもこの子運が悪いな。次はもっと……いやあまり個人に干渉し過ぎるのは」
「神様、どうしていつも悲しんでるの?」
「そりゃあこんなにも幼い命が毎回すぐに消えていたら……ん? いつも?」
「僕が死ぬ度にいつも」
「??? ちょっと待ってくれ?」
少年というにも幼い子供がそう言うと、彼は今までずっと憐れみか微笑みしか浮かべて来なかった表情を困惑に変えた。
子供はここで改めて神である彼を観察した。最初の頃は何も分からなかったが、今改めて彼を見てみると見かけは普通の人間のように見える。彼の歴代の父親くらいの若さの外見で、なんなら一つ前の時に近所に住んでいたお爺さんの方が余程貫禄がある。
「君、もしかして今までの記憶がある……? 前に死んだ記憶が残っているのか?」
「生け贄で湖に沈められたのも山に捨てられて死んだのも、酔ったお父さんに殴り殺されたのも女中に井戸に落とされたのも覚えてるよ」
「嘘だろう!? 何で記憶の消去が効いていないんだ!」
今までの死因を列挙すると神は頭を抱えてしまった。そんな仕草も妙に人間らしいなと暢気に考えていると、彼は気を取り直したように顔を上げて子供の頭を掴んだ。
「時々ちょっと前のことを覚えたままの子は居たけど……今までよりも念入りに記憶を消そう。今度はまっさらな状態で生まれてくるんだよ」
神がそう言うと、途端に子供は強い目眩に襲われた。頭の中を掻き乱されているような、しかし不快感はない不思議な感覚を覚えながら、彼はまた何度目かの眠りに着いた。
「神様、久しぶり」
「なんっでだ!! ようやく十歳! おめでとう!」
□ □ □ □ □ □
「君の魂はどうやら相当特殊らしい。どうしてそうなったかは分からないが、過去の記憶は消去せずに蓄積し続けているし、現状それをどうすることも出来ない」
「ふうん」
「……君自身のことなんだけど」
それから何度目かの死を迎えた少年は、最近再会する度に項垂れている神を前にどうでも良さそうに返事をした。今回は享年七歳。また一桁に戻ってしまった。
「記憶が消えないと何か問題なのか」
「大問題だよ。本来人間はまっさらな、何のしがらみもない状態で生まれてくるものだ。前世は前世、今世は今世。そもそもこの場のことをはっきりと覚えていられるのも困るんだ。彼岸と此岸がぐちゃぐちゃになってしまう」
「そうか? 僕は神様に会えるのは楽しみだけど。だって生きててもいいことなんて無いし」
「……あああ、この子が生きてて良かったと言える日が来て欲しい。でもそれを体感する前に大体死ぬんだよね……君、とにかく来世はもう少し頑張って長生きしてみようか。君が大人になれる頃にはきっと、いいことの一つや二つ出来ているよ」
「分かった」
「楽しい土産話を期待してるよ。まあ実際はこんなこと言ったことを忘れてくれているのが一番だけどね」
「……」
困ったように微笑む神を見ながら、少年はまた眠りに着いた。
次に彼の記憶が戻った時、また目の前にあったのはろくでもない現実だった。
「あんた止めて! この子には手を出さないで!」
「うるせえ!」
初めてはっきりと認識した光景は、苛立ちを露わにした父親が子供に向かって拳を振り上げるところだった。咄嗟に間に入った母親は彼を抱きしめるようにして庇い、そしてそのまま殴られて一緒に地面に転がった。
「俺は必死で働いてるってのによお、このガキは手伝いもせずに毎日毎日泣き喚いてはただ飯食らいやがって!」
「この子はまだ二歳だよ!? 働ける訳ないじゃない!」
「二歳だからなんだ、俺が小さい時はなあ――」
目の前で繰り広げられる耳障りな口論。彼はそれを聞きながら「やっぱりあちらの方がいいな」と改めて思ってしまった。
抱きしめられたままの母親を見上げる。この人は近い将来……多分死ぬ。今までもそうだった。彼にとって優しい家族は何故かすぐに死んでしまって、嫌な家族は彼を殺そうとする。何度生まれ変わったって、神様が手を加えたって変わらなかった。
でも彼は神に言われた言葉を思い出して生きようとした。大人になれる頃にはいいことも出来ている。あの人が喜ぶような土産話を見つけなければと。
生きた、殺された。
生きた、殺された。
生きた、――自殺した。
自殺した、自殺した、自殺した。
「ただいま、神様」
「君はもう本当に……」
まだ五歳の姿でそう告げると、神は顔を覆って大きく大きく溜め息を吐いた。
頑張って生きようとした。大人になろうとしたのだ。けれど、無理だった。
家族に、別の誰かに殺される。それを回避しても、理不尽な現実はいつだって幼い彼に襲いかかってくる。それに、自分の所為で優しい人達が死んでいく。
自分が生まれなければこの人は幸せに生きれたんじゃないのか。今回も駄目だ、次に期待しようと彼は殺される前に自殺を繰り返した。
それを神が望んでいないのは分かっている。だが……わざわざ生きなければならない理由はなんだろうか。
「神様。僕、ずっと此処に居たい。生まれ変わりたくない」
「……君が人間である以上、それはできない」
「じゃあ神様が殺してよ。此処で死んだらもう生まれ変わることはできないんじゃないの」
「死を司る存在である僕が人を殺すなんて真似は絶対にできない。……が、そうだね。流石にこのままって訳にもいかないか」
神は少しばかり考えるような仕草をした後、唐突に「いいこと思いついた」と手を打った。
「君、少しこちらにおいで」
少年は神に手招きされるがままに歩き出す。そういえば此処へはもう何度も来ているというのに全く周囲に関心が無かった。周りに見えるのは何もない白い空間だけで、少年は神を見失わないように小走りで彼の後に続いた。
「手を」
「うん」
差し出された手に少年の手を重ねてみれば強く引かれてよろめく。そして次に顔を上げたその時、周囲の景色は一変していた。
「此処は……」
「人間界だ。ちょっと前まで君が居た場所だね」
辺りに広がるのは青々とした木々と、目映い朝日の光。微かな鳥の鳴き声と、遠くの方で畑を耕す人の姿が見えた。
「歩きながら話そう。そもそも、君には今まで僕のことを何も言っていなかったね」
「神様のこと?」
「そう。僕は確かに君達人間が言うところの神だけど、その中でも生物全般の死を司っている死神だ」
「……死神」
「死した生物の魂をあの世へ運び管理して次に転生する器に入れて戻す。これが僕の仕事だよ」
手を引かれるまま歩き続け、どんどん周囲に人が増える。だというのに少年は誰ともぶつからず、それどころか彼らをすり抜けていく。
「今の君は器の無い魂だけの状態だ。人には触れられないよ。さて、実はこの先の家に居る老人がもうすぐ死にそうなんだ。君には僕の力を少し分けて上げるから、魂を回収してみるといい」
「え?」
「君はそもそも生きているうちに学べることが少なすぎる。常識も、倫理も、楽しいことも何もかも。だから次に転生するまでの時間を使ってこの世界を知るといい。ついでに死神の仕事を手伝ってくれ。最近人が増えて僕ひとりじゃ手が回らなくなって来たからね」
「???」
突然告げられた言葉の情報量の多さに少年は混乱した。何も理解出来ないまま呆然と神を見上げていると、彼は徐に少年を振り返ってその額に指で触れる。直後、体中がかっと急激に熱くなり少年は立っていられずに膝を着く。
「あ、ちょっと与えすぎたか!? ……いやいやでも大丈夫、まだ人間ぎり人間」
「……神様、何これ」
「今君は僕と同じ力を手にいれた。じゃあ早速実戦と行こうか」
「え」
すっと熱が引いてようやく立ち上がると、少年は再び死神に手を引かれて一軒の民家の中へと壁をすり抜けて入った。中では布団に横たわる老人と、それを取り囲む老若男女様々な人間がいる。
「おじいちゃん!」
「死なないで!」
小さな女の子が泣きながら老人の手を握る。老人は何も言うことは無かったが、少女を見て酷く穏やかな顔をしていた。
「この老人はもうまもなく死ぬ」
「死ぬ……」
少年は首を傾げた。どうしてこの人は、これから死ぬというのにこんなにも落ち着いていられるのだろうかと。少年にとっての死はいつだって残酷なものでしかないというのに。
「お父さん!」
「!」
「ほら、魂を捕まえてごらん」
女性が叫んだその時、ふわりと老人の胸の辺りから目映い光を放つ球体が浮かび上がった。神に促されるままにそれに手を伸ばすと触れた瞬間暖かな感覚に包まれ、そしていつの間にかその手の中から球体は消失していたのである。
「魂はあちら側へと送られた。これが死神の仕事だ」
「……なんで、死ぬのにあんなに優しい顔が出来るんだ」
「なんでだと思う?」
「分からない」
「そうだね、今の君には分からないだろう。だからこれから学んでいくんだ。生きるとは、死ぬとはどういうことか。君がそれを理解した頃には次の器が準備できているだろう」
死神に手を引かれて外に出る。そしてしばらく歩いて元の場所まで戻ってくると、「そうだ」と死神は一つ手を叩いた。
「しばらくこのまま活動するのなら名前がいるな」
「名前……?」
「そう。別に死ぬ前の名前でもいいんだけど、君は沢山記憶を持っているからややこしいだろう? だから死神としての名を与えようと思ってね。別に名乗りたい名前があるんならそれでいいけど」
「無い。神様が決めてくれ」
「そうだなあ、名付けなんて初めてだからどうしようか」
此処には自分と死神しか居ないのだから名前なんてどうでもいい。そう思って投げやりに返すと、彼は少し楽しそうな顔で名前を考え始めた。
「あまり凝った名前を考えても呼びにくそうだ。それじゃあこの木から取ろうか」
「木?」
「イチイ。今日から君の名前はイチイだ。僕の一番弟子になったことだしちょうどいい」
赤い実のついた木を見上げた死神はそう言って少年を振り返った。イチイ。少年はその名前を一度口に出すと、まじまじとその木を見上げる。
「この木、イチイって言うんだな。初めて知った」
「そうだ。君はもっとこれから色んなことを知ることになる」
「イチイ……」
「気に入ってもらえたかな? それじゃあイチイ、次の魂を回収しに行こうか。もたもたしていると回収し損ねて浮遊霊として辺りに漂ってしまうからね」
「分かった。……師匠」
「!」
弟子だと言ったからだろうか。少し躊躇いながらそう口にした少年、イチイを見て死神は驚いていたものの徐々にその表情を喜びに変化させていった。
「師匠、師匠か……ふふ、いいね。僕は今日から君の師匠だ」
イチイはそれからも何度も生まれ変わりを繰り返した。生きて、殺されて、死神として働いて、また生きて、殺され掛けても何とか生き残って、でも結局殺されて、死神になって。彼は何度も何度もそれを続けた。
誰かに殺されるのは相変わらず変わらない。生きている間の現実は最悪で、でも少しずつ享年が伸びて、ちょっとずつ乏しかったはずの感情が増えて、そして多くのことを知っていった。
「イチイ、行ってらっしゃい」
「師匠、行って来ます」
そうして、次の器に入る為に彼は目を閉じた。
□ □ □ □ □ □
「これで……これで願いが叶う! あいつを蘇らせることが出来る!」
その場は異常過ぎる空間だった。殆ど光の入らない小さな部屋の中で多くの人間が倒れ――死んでいた。誰もが体を切り裂かれて苦悶の表情を浮かべて動かなくなっており、この部屋の中で生きている人間はたった二人だった。
一人は大声を上げて喜ぶ壮年の男、その手には小さな短刀が握りしめられており、そこから赤い血が滴り落ちている。
そうしてもう一人はその男の目の前に居た。死体達と同じように横たわった少年は、剥き出しになった背中には奇妙な丸い文様が描かれている。それはよく見てみれば血で描かれていた。いや正確に言うとその模様通りに体を切り裂かれ、そこに血が滲んでいるのだ。
「……っ、ぁ」
「南蛮の書を読み解くのには苦労したが、これで正しいはず。――さあ、南蛮の物怪よ姿を現せ!」
短刀から落ちた血が文様の上に落ちる。その瞬間、突如暗い空間に光が生まれた。光り出した少年の背中を見て笑みを浮かべた男は腕で目を覆いその光が止むのを待つ。
そして数秒後、その光は消えた。急に光を目に入れて眩む視界の中、男は目を擦ってその薄暗い先を見ようとする。
「――私を呼んだのは貴様か」
男の目の前に現れたのは酷く面妖な女だった。見慣れない南蛮人のような顔、紫の髪と瞳、そして何より蝙蝠のような形をした大きな翼を背に付けた異形だった。
しかし男は彼女を見て歓喜した。本当に現れたのだ。この書物は本物だった。これで自分は愛する人間を生き返らせることができるのだと。
「ああ、そなたを呼んだのは私だ! 願いは――」
「煩い」
男が縋るように女に近付いた。そして願いを口にしようとした正にその瞬間、男は突然倒れ込んだ。何が起きたのか分からない。起き上がろうとしても何故か力が入らず、彼は不思議そうに自分の体を見て――そして絶叫した。
「あ、あああ!! 私の、私のからだが!!」
「更に煩くなったな。騒がしい上に醜い、最悪だ」
男の体はちょうど腹から上下に分かれていたのだ。少し離れた場所に置いていかれた足が視界に入った彼は、途端に言葉にならないほどの激痛を覚え、暫し絶叫した後にやがて動かなくなった。
紫の女は煩わしそうに男を見下ろすと、すぐに興味を失って視線を外した。そして何とか体を起こした少年を見ると、今までの表情を一変させ面白そうに口角を上げる。
「ほう、貴様が召喚主か。悪くない顔だな」
長い爪を持った手で顎を掴まれた少年は上を向かされて女をと視線を合わせた。見たことのない翼をまじまじと見ていた少年はすぐにはっと我に返ると「助けて下さってありがとうございます」と下げられない頭を下げるような仕草を見せる。
「あなたは神様ですか?」
「誰が神だ、冗談じゃない」
「では天女様ですか?」
「悪魔だ、小僧。魔法陣の言語設定に狂いでもあったのか? ……まあ何でもいい。小僧、願いを言え。何でも願いを叶えてやろう」
「本当ですか?」
「ああ、勿論――」
「騙されては駄目ですよ、若」
「!」
少年に向かって酷く楽しげに笑っていた女悪魔が一瞬にしてその表情を消す。そしてすぐさま声のした方へと視線を向けると、そこには今まで居なかった男が立っていた。
闇に紛れるように暗い色の装束を全身に纏い、顔も目以外は見えない謎の男だ。少年よりは年上だが恐らくまだ若いであろうと判断することしか出来ないその男に悪魔が眉を顰めていると、彼女とは裏腹に少年は嬉しそうな声で「父上の忍びですか」と男に話しかけた。
「はい。若、貴方を守れという旦那様の最後の命を叶える為に参りました」
「最後の……」
「ですがあなたと顔を合わせるのはこれで初めてですし、顔が見えない相手を信用出来ないでしょう」
男はそう言うと顔に巻いていた布を取り始める。口布まで取って全ての顔を見せると、やはり彼は十代後半の若者のようだった。
男は少年に向かって一度頭を垂れると、にこりと笑って顔を上げた。
「忍びとしての名は与えられていませんが――櫟と、そうお呼び下さい。萩様」