28 チョコと桜と事件と
「センリ、相談があるの」
イリスはそう言って、酷く深刻そうな顔で千理を見上げた。「センリにしか頼めないの」と言うイリスに一体何があったのだろうかと千理は年下の先輩に向き合う。
何かまずいことでもあったのだろうか。怨霊に好かれてしまっただとか、学校で苛められているとか。悪い予感ばかりが頭を過ぎった千理がイリスに言葉を促すと、彼女は一度周囲を見て誰も居ないことを確認すると「お願い!」と勢いよく手を合わせた。
「私と一緒にバレンタインのチョコ作って!」
「…………ん?」
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「じゃあ準備も出来たことだし早速始めようか」
慌ただしい年末と年明けを終え、気が付けば二月に入っていた。テレビでは連日バレンタイン限定のショップやチョコレートの特集が組まれるようになった頃、千理達は伊野神家のキッチンでエプロンを身に着けて作業を開始しようという所であった。
「それにしても、相談なんて言うからどんなこと言われるかと思ったら」
「すっごく重要なのよ! うちだと絶対にコガネに見られるからやりたくないし」
「コガネさん達に知られたくないの?」
「驚かせたいし、それにコガネは私が一人でキッチン使おうとすると必ず心配して見張ってくるもん」
ふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らしたイリスが「もう小さな子供じゃないのに!」と口を尖らせた。いやコガネからしたら彼女はいつまで経っても小さな子供なのだろうが。
「ふふ、それじゃあ二人をびっくりさせるようなすごいお菓子を作らないとね」
「……うん」
上品に微笑んだ鈴子は「私もいつもより張り切っちゃおうかしら」と口にして千理とイリスを戦慄させた。イリスは彼女らしくない曖昧な笑みを浮かべると、続いて物言いたげに隣の千理をちらりと見上げ、こそっと小さな声呟く。
「なんでスズコも居るの……?」
「いや何かいつの間にか知ってて『せっかくだから私も仲間に入れてくれない?』って」
「……そう」
イリスが諦めたような顔になって遠い目をした。正直鈴子ならば何を知っていてもおかしくないと思ってしまうし、何の悪気もなく頼まれて千理が断れなかった気持ちも分かる。……が、彼女は透坂鈴子である。
以前のようなビュッフェに行くならともかくお菓子作りに加わっていい面子ではない。
「鈴子さんはやっぱり旦那さんに上げるんですよね?」
「それは勿論だけど、他に深瀬君にもお世話になってるし、あとは勿論霊研の皆にも――」
「あああいや、霊研には私が用意しますよ! ほら、一応一番の新米なので! なので鈴子さんはお二人に渡すものに集中して下さい!」
「そう?」
「そうそう!」
「……フカセのおじさま、頑張って」
霊研の分は凌いだが代わりに深瀬に全ての犠牲になってもらうことになってしまった。イリスがこっそり手を合わせて拝んでいるのをちらりと見ながら、千理は逆に一緒に作った方が被害が防ぎやすいのではないかと思い直した。というよりもそう思わなければ生け贄に捧げた彼に申し訳なかった。
「それじゃあ始めるけど、イリスは何作るの?」
「……チョコのマドレーヌ。あんまり甘くないやつ」
「ふーん?」
「にやにやしないでよ!」
微笑ましげに自分を見てくる千理にイリスが怒鳴る。最近少しずつ甘いものを克服する努力を重ねている英二に、以前は渡せなかったマドレーヌを贈りたい。
イリスはさっさとボウルで卵とグラニュー糖を混ぜ始める。その手つきは慣れたもので、ひとまず千理が口を挟まずとも大丈夫そうだ。さて問題の方は……と千理が鈴子を見ると、彼女も全く淀みない動作でチョコレートを刻んでいるところだった。目を閉じているというのに千理よりも器用に見える。
「鈴子さんは何を作るんですか?」
「今年はフォンダンショコラにしようと思ってるの。温かいのも冷たいのも食べられるように多めに作って渡そうと思って」
「……多めに」
「ええ」
今のところちらっと見る限りでは用意された材料に不審なものはない。チョコレートにバターに薄力粉に卵に生クリーム等々……仮にどんな分量でやったとしてもそこまで酷い味になりそうにはないラインナップに千理は少し安心しながら、自身も作業を開始した。
「千理ちゃんは何を作るの?」
「チョコレートのマカロンです」
「マカロン!? センリ作れるの?」
「何度か練習してまあそれなりのは出来るようになって来た」
最初に作ったのは散々だったなあ、と思い出しながら千理はメレンゲを作り始める。レシピと睨めっこしながら作った最初のマカロンはそもそもマカロンと呼べる代物ではなかったが、回数を重ねるごとに徐々に上達しており、今日こそは完璧なものを作るぞと意気込んだ。
広げられたレシピを覗き込んだイリスが「うわあ」と声を上げる。かなり面倒臭そうだ。
「大変だけどやっぱり折角なら好きなもの上げたいからね」
「へー……あいつマカロン好きなんだ。意外」
「あら? でも前に一番好きなのはアップルパイって」
「本当なら手作りよりももっと美味しい市販のものを渡した方がいいんだろうけど、流石に他のお店の物を渡すっていうのも失礼になるし、かと言って自分の店の商品渡されても困るでしょ? だったらいっそ作るしかないなって」
「自分の店……?」
イリスと鈴子が顔を見合わせた。何だか話が噛み合わない。首を傾げている二人に気付かず、千理は自分の記憶力を最大限に利用して以前作った時のことを思い出しながら更に改善を加えていく。
「センリ、一応聞くけど……誰に上げるつもり?」
「勿論お兄様だけど」
「シュウは?」
「愁は今食べられないでしょ。それなのに渡されてももったいないからいらないって言われるよ」
「えええ……」
イリスの顔が困惑に染まる。それを見た千理は、何か自分はまずいことを言っただろうかと首を傾げた。
しばらく考えた千理は「あ」と急に何かに思い至りボウルから手を放した。
「いや勿論ちゃんと針谷さんには許可を取ったよ! そもそもお兄様が最近マカロンに嵌まってるって教えてくれたの針谷さんだし! 渡すのだってバレンタイン当日は避けて会う予定だから大丈夫!!」
「いやいやいやそういうことじゃない」
「え?」
「千理ちゃん。本当にお兄さんのことになるとポン……考え方がふわっとし始めるわね」
「え??」
以前イリスに散々万理が怒られていたので舞の件かと思えば違うのか。イリスどころか鈴子にまで突っ込まれて千理は困惑しながら二人を交互に見る。……見たら、何故か鈴子の手元に醤油が置いてあり思わず二度見した。
「鈴子さんそれ」
「千理ちゃん、確かに愁君は普段食べ物を欲しがらないし実際貰っても食べられないわ。でも千理ちゃんから貰う物は別よ」
「しょう……いやでも、結局今は食べられない訳で」
「でもバレンタインに貰えなかったらあいつ絶対に落ち込みまくるわよ。この前みたいに部屋の隅っこでうじうじし始めるに決まってる」
「この前っていつのこと? というか鈴子さん」
「とにかく! センリはちゃんとシュウにも渡すこと!! いいわね!」
「分かった! 分かりました渡しますから鈴子さん手止めて!!」
「え?」
「あああ……」
千理がイリスに詰め寄られている間に、鈴子は溶かしたチョコレートの中にどぼどぼと醤油を投入し始めた。振り返ったイリスもぎょっとした目で鈴子を見て千理の服から手を放す。
「なんでチョコレートに醤油!?」
「この前テレビでチョコレートの中に味噌を入れてるパティシエがいたのよ。だから醤油も美味しくなると思って。ほら、甘い物としょっぱい物って合うでしょ? ちょっとした隠し味ね」
「いや隠せてない隠せてない」
「大丈夫よ。同じ色でしょ?」
「そういう問題!?」
そうこう言っているうちにも鈴子の手は止まらない。出来上がった(出来上がってない)生地と中に入れるガナッシュを型に流し込むと、いつの間にか余熱が完了していたオーブンへさっさとそれを入れて焼き始めた。
手際が良すぎて止める暇もなかった。
「私も夫は天国にいるけど毎年ちゃんと用意してるわ。たとえチョコレートは食べられなくても愛情は渡すことができるもの。ね、千理ちゃん」
「いや、あの……はい」
今はそれどころじゃない。そう言いたかったものの、千理はオーブンの中のそれを見つめて曖昧に頷いた。
結局、見た目はほどほどなのに食べるのが恐ろしいフォンダンショコラは完成し、鈴子は「ちょっと早いけど今は手が空いてるっていうから、忙しくなる前に渡して来るわね」と意気揚々と伊野神家を出て行った。なお片付けの際に何故かカレー粉や粉末の青汁が出て来たことで千理とイリスの顔は恐怖で染まった。しかも、使用済みである。
「深瀬さん……」
「おじさま……」
千理とイリスが今出来ることは、ただ黙祷するだけだった。
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2月14日、バレンタイン当日。
「今日はバレンタインです。という訳で……Amamiyaの新作チョコレートをご賞味あれ!」
「うわ数多い」
「Amamiyaにとっては今年が初めてのバレンタイン。来年以降の客足も掛かってるから勿論気合い入ってますよ!」
霊研の応接用のテーブルいっぱいにチョコレートを並べた千理は、その光景を上から眺めて壮観だなと満足げに頷いた。
「Amamiyaの看板である生チョコは勿論、軽い口取りで何百枚も食べられるチョコクッキー、ざくざくが美味しいチョコクランチ、口溶けが最高なトリュフ、それにこの桜のデザインのストロベリーチョコレート! 本家が和菓子の老舗だけあって見た目のクオリティが高すぎる!」
「流石にバレンタインと言ったらお前の独壇場だな」
「私、じゃなくてAmamiyaが! ね?」
「そうだな」
きっちり強調して反論して来る千理に愁も特に突っ込まずに肯定する。
「まあ新作には英二さんが食べられる甘さのチョコは無いんですけど……別にいいですよね?」
「ああ。俺にはこっちがあるからな」
にや、と笑った英二が食べかけのマドレーヌを掲げると、イリスはちょっと顔を赤くしながら不機嫌そうな表情を作った。
「べ、別に無理に食べなくてもいいんだからね」
「そうか? 悪いがちっとも無理じゃないなァ。コガネ、お前の分も貰っていいか?」
「駄目に決まってます。これは僕の分ですから、英二だろうが誰だろうが渡しませんよ」
伸ばされた手をぴしゃりと叩き落としたコガネが二つ目のマドレーヌを口に入れる。そんな二人のやりとりを見たイリスは何か言いたげに口を開いたものの、結局ウサギのぬいぐるみに顔を埋めた。
「それじゃあ折角だから貰おうか」
「ええ。千理ちゃん、頂くわね」
「どうぞ! そしてもし気に入ったものがあれば是非お買い求め下さい! 早めに行かないと無くなりますよ!」
「店員かな?」
苦笑しながら櫟が桜のチョコレートを口に運ぶ。確かに身内贔屓はあれどチョコレート狂いの千理が薦めるだけあって美味い。彼が更に別のチョコレートに手を伸ばすのを千理はにっこにこの笑顔で見守っていた。
「桜かー、去年は仕事でばたばたして結局花見が出来なかったんだよ」
「お花見、いいですよね。屋台もいっぱい出て賑やかだし」
「ふふ、千理ちゃんはやっぱり花より団子ね」
「いやいや、相乗効果ですよ。花を見ながら食べるチョコレートがいいんです。という訳でこの桜のチョコレートはこの季節でもお花見が出来るってことで――」
「エイジ、私今年はお花見行きたい」
「あー……コガネに連れってもらえ。俺はあの季節外に出たくない」
「英二は花粉症ですもんね」
「……お父さん、駄目?」
「おま……」
「お父さん?」
「お前まで言うなコガネ。……はあ、あんま長居はしねえからな」
「やった!」
「やりましたね」
「今思ったんだが、俺も今の状態なら花粉を気にせずに春に外を飛び回れるな。折角の機会だから間近で桜でも見るか」
「……」
愁の言葉に千理が小さく溜め息を吐いた。どこまでもプラス思考で暢気な男である。だからこそ救われている所があるのも事実だが。
「すまない。少し遅れた」
「アルマ遅い……って、何それ!?」
と、そこへ一人遅れていた或真が霊研に到着した。ぬいぐるみから顔を上げたイリスは文句を言おうと扉の方を見たのだが、しかし或真本人よりも先に目に入ってきた物を見て思わずそれを指さした。
「なにって、今日はバレンタインだろう。ありがたいことに色んな友人にチョコレートを貰ったんだ」
ずっしりと中身が詰められているであろう大きな紙袋を両手に二つずつ。大学の帰りなのか普通の格好をしている或真を見て、これは大量に貰うだろうなと千理も真顔で頷いた。
彼はテーブルに広げられたチョコレートに目をやると「千理が持ってきたのか」と納得して机の端に紙袋を置いた。
「ちょうどいい。俺も全部は食べきれないからお裾分けに来たんだ。皆、良かったら食べてくれ」
「……食べ切れないなら断ればいいじゃないの」
「でも折角厚意でくれたものだから断るのも悪いなと思って」
「これはホワイトデーに破産しますね……」
或真の両親に会った時のことを思い出して千理がしみじみと呟いた。
「おい或真、チョコもいいがマドレーヌはどうだ? 朽葉家のちびっ子パティシエのお手製だ」
「ちょ」
「イリスの? それは美味しそうだな」
「ちょうどラッピングしているものが一つ余ってますね。ほら、イリス」
「コガネ!!」
はい、としっかりと小箱に包装されたマドレーヌを持たされてイリスが叫ぶ。あれだけ貰っているのだからもういらないだろうと渡す気も失せていたのに、怒ってコガネを振り返るが、彼は優しく微笑んでイリスの背をそっと押した。
「一年に一度なんですから、勇気を出して下さい」
「……うん」
渋々頷いたイリスは何度も躊躇いながら或真の元へ行き、「あげるわよ!」と勢いよく小箱を押しつけた。大事そうにしっかりとそれを受け取った或真は顔を背けているイリスの頭を撫でながら礼を言う。
「ありがとうイリス」
「誰かに押しつけたりなんてしたら許さないんだからね!」
「勿論だよ。大事に食べる」
「……」
イリスは無言でその場から離れると、すたすたと徐々に早足になりながら鈴子の足元に座り込んで再びぬいぐるみに顔を埋めた。代わりに何故か或真の傍に近寄って来たミケが威嚇するように鳴いた。
「千理」
「ん?」
「俺には無いのか」
千理が二人のほのぼのとしたやりとりを見守っていると、同じようにそれを見ていた愁が真顔で催促して来た。それに「お」と目を瞬かせた千理は、イリス達の言うことを聞いておいて良かったと思いながら鞄からリボンの掛かった箱を取り出した。
「はい。愁、ハッピーバレンタイン」
「……用意してあったのか」
「なんで聞いておいて驚くの」
「まだ体が戻らないうちは作らないと思ってたんだ。どうせ今は食べられないし、そのうち戻った時に改めて祝いとしてくれるのかと」
「……愁ってさ、ホントに私のことよく分かってるよね」
まさしく同じ考えでバレンタインをスルーしようとしていた千理は少し驚いた。ちゃんと愁が元に戻ったその時、今まで出来なかったことを全部しようという一種の願掛けのようなものだった。
「でも欲しいものは欲しいから催促した」
「うん、どうぞ」
「ありがとう」
ふわりと箱が宙に浮く。するするとリボンが解かれて箱が開かれると、中には直系12㎝ほどの小さな丸いアップルパイが姿を現した。珍しく口角を上げる愁を見て千理の心も満たされる。
「美味そうだな」
「お兄様のチョコレートには負けるけどね」
「他の誰が何と言おうと俺はこっちの方がいい」
「そう」
「そうだ」
まじまじと楽しげにアップルパイを眺めている愁に千理も少し照れくさくなって来る。毎年渡しているものの、いつも貰った傍から口に入れているのでこういう機会は中々ない。
「……あ、そうだ。もしかして人に憑依すれば味も分かるんじゃ――」
「!」
それだ、と愁と千理が同時に顔を見合わせたその時、思考を遮るように霊研の電話が鳴った。すぐに試してみようと思ったのにタイミングが悪い、と珍しく愁が行儀悪く舌打ちをするのに苦笑しながら、電話に一番近かった千理はすぐに固定電話の受話器を取った。
「はい、こちら霊能事象調査研究所です」
「……若葉だ」
「若葉刑事? 何か事件ですか?」
「もう俺は刑事では……いや、そんなことはいい。非常に……本当に非常に不本意だが、霊研に捜査依頼をする」
電話の向こう側から本当に不満げな声が聞こえてくる。上司に指示されて渋々電話を掛けていることが丸わかりだ。
千理は若葉から軽く事件概要を聞く。脳内できっちりと記憶した彼女は「分かりました。すぐに向かいます」と返事をして電話を切った。
そうして彼女はすぐに皆を見回した後に櫟に視線を向けた。
「事件です。数時間前に火葬場で五人が殺害。犯人は――動く死体だったそうです」




