23-6 生きて帰る
「愁……」
「普通に殴れたな。悪魔か何かか」
いきなり現れてツバキを殴り飛ばした愁に、千理は元々疲れていたこともあって反応が遅れた。
愁は今日テロ現場で救出作業をしていたと聞いていたが、やっと戻って来たと思ったらこれである。痛みに悶絶して蹲っているツバキに更に容赦なく追撃しようと、愁は両手を鳴らす仕草をして能面のような顔のまま彼に近付いていく。
「安心しろ、千理が嫌がるから殺しはしない。特別に100分の99殺しで勘弁してやる。ありがたく思え」
「それの何処が勘弁してるんだよ!?」
腕を振り上げようとした愁を見たツバキは慌ててその場から素早く逃げた。そして助けを求めるように千理の背後に隠れると、それを見た愁はこれ以上下がったのかと思うほど更に視線の温度を下げる。
「誘拐の次は盾代わりか。どうやら手心を加える必要は無さそうだ。潔く死ね」
「待って! 待ってちょっと待て愁!」
「千理、今助ける」
「じゃなくて! はい深呼吸! 落ち着いた落ち着いた!」
必死に肩にしがみついてくるツバキを庇うように両手を広げた千理を見て愁が眉を顰めた。本当はその体にしがみついででも止めたいが、それが出来ないのがとてももどかしい。
「この人はツバキさん。ほら、愁も聞いたでしょ。霊研に協力してくれてる悪魔だよ」
「それがどうしてお前を誘拐することになるんだ」
「それを今聞こうとしてたの。で、ツバキさん……華蓮さんに何がありましたか」
「! 眼鏡、お前なんでそれ」
「もしかして華蓮さんの身を盾に取られて霊研の人間を誘拐して来いって脅されました? 昼間にイリスも狙われたみたいですし」
ツバキが言葉を失って千理を凝視する。その反応に千理は自分の予想が間違って居なかったことを理解した。
鬼頭とツバキは直接顔を会わせた。ならば彼の身元がバレていても不思議ではないのだ。それに彼は一度記憶を失っているからか妙に倫理観も強い。今日もイリスを守ってくれたそんなツバキが「誘拐されてくれ」なんて言う理由など大体限られてくる。
彼女はツバキの手を肩から外すと、体を反転させて彼と向き直った。
「あ……ああそうだよ! さっきうちに帰ったら混乱してたおっさんが華蓮が知らねえ男に連れ去られたって言うし、そいつが残して行った紙には夜明けまでにお前を攫って指定の場所に来い。さもなくば……」
「華蓮さんを殺す、ですか」
言葉にもしたくない様子のツバキの言葉を千理が引き継いだ。悔しそうな顔で頷いたツバキは「ご丁寧に住所まで添えてあった」と苦々しい声で続ける。千理の家など知らないから無理だという反論を封じる為か。
愁は華蓮のことも知らないが、ツバキの大事な人間が人質に取られていることは察してようやく敵意を引っ込めて頷いた。
「成程、お前の事情は分かった。だが駄目だ」
「っなんでだよ!」
「逆になんでいいと思ったんだ。お前がその華蓮というやつが大事なのは分かったが、だから千理に身代わりになれというのか。そもそもそんな要求を飲んだところでテロを起こして大量虐殺するようなやつらが本当に人質を解放するとも思えない」
愁は今日爆破テロが起こった場所をいくつか巡った。沢山の人が傷つき、そして死んでいるのを目撃した。そんな連中のところに千理を渡すなど絶対に許す訳には行かない。
「だからこそ、行かなかったから確実に華蓮さんは殺される。そうでしょ愁」
「……」
「ツバキさん。分かりました、誘拐されてあげます」
「! 千理お前」
しかし愁の思惑とは裏腹に千理はツバキの頼みを了承してしまう。彼が驚愕の表情で千理を見ると、彼女は「仕方が無いよね」と半ば諦めたような顔をしていた。
「ほ、ホントか眼鏡!?」
「何を考えている!? お前が行ったところで人質が増えるだけだ!」
「うん、そうだろうね。けどそもそも、こっちには初めから選択肢は無いんだよ。愁が言うように、シオンは簡単に人間を殺す。あんな人間の塊の怪物だって作っちゃうし、或真さんのように実験体にされるかもしれない。華蓮さんは今、そんな危険と隣り合わせの状態だ」
「それはお前だって同じはずだろう」
「分かってる。けど、華蓮さんは本当に無関係の人間だよ。ツバキさんだって善意で協力してくれただけで、私達霊研の人間とは違う。なのにこのまま無視するなんて絶対に出来ない」
「……手、震えてるぞ」
千理の手を見た愁がぽつりと呟くと、彼女はそれを隠すように後ろに手を回した。
「お前だって怖いんだろ」
「怖いよ、それはもう」
「だったらそんな無理をする必要はない。今すぐそいつを助けに行けばいいだけだろう」
「敵の本拠地だよ? それに時間も迫ってる。他の人を揃えて本部襲撃を早めても間に合わないし、華蓮さんが正確に何処にいるのかも分からないのに敵に勘付かれた時点であの子は殺される。……だから少なくとも今は、従う他無いんだよ」
敵本部の内部については記憶で把握出来ているし霊研でも共有してある。だが華蓮が何処にいるかなんて流石に分からないのだ。まず彼女の身の安全を第一に考えて、勢いに任せた行動を取るべきでは無い。
「……はっきり言う。俺は知らない人間の、いや誰であろうとお前がその犠牲になることは絶対に許せない。例えその子が殺されようと、お前を失うよりましだ」
「お前っふざけるなよ!」
「ふざけてなどいない。お前がその子を守りたいように、俺は何があっても千理を守ると決めている」
ツバキが激昂しても愁は淡々と言葉を続ける。
「千理、考え直せ。俺だって何も見殺しにしたい訳じゃない。今すぐ皆に連絡を取って考えればいい方法が思いつくかもしれない」
「……ごめん、愁。やっぱ駄目だよ」
「何故、」
「私の中には今、シオンの構成員の記憶がある。だから分かる。あの人達はやると言ったらやる。躊躇わない。あと数時間で誰にも見つからずに華蓮さんを救出するなんて無理だ」
「だがお前が身代わりになる必要は」
「向こうは私を指定したんでしょ。それに家まで知られてる。もし私が行かなかったら華蓮さんは殺されて、それで次はきっと……麗美さん達か、もしかしたらお兄様が狙われるかもしれない」
「……」
「愁。私ね、他人の為に命を投げ出せるような自己犠牲精神も無いし、正義感もない。でもこれだけは言える。もし他の人が私の所為で死んだら、この先一生死ぬまで罪悪感でいっぱいなままだ。もし死体なんて見ちゃったら、私は永遠にその顔を記憶の中心から消せない」
血の通わない肌の色も、温度の無い体も、その全てが千理の頭の中から消えずに一生残り続ける。その度に強い罪悪感に襲われて……結局自分も死ぬんじゃないかと思ってしまう。
「だからこれは私の為の決断だよ。それにシオンについて詳しい私の方が、何も知らない華蓮さんよりかは少しは生存率が高い、かもしれない」
だからこれが最善だ。千理が僅かに震えた声でそう告げると、愁は俯いて黙り込んだ。
「……眼鏡、ホントにいいのか」
「はい。もう決めましたから」
恐る恐る訪ねて来るツバキに千理は笑った。華蓮の為に問答無用で連れ去っても良かったはずなのに、土下座までして伺いを立てて来る彼はやはり善良な悪魔だ。だからこそ絶対に、彼らを失う訳にはいかない。
「まあでも、行く前に櫟さんに事情だけは話して」
「――お前の言いたいことはよく分かった」
流石に無断で行くつもりはないとスマホを取り出したその時、不意に黙り込んでいた愁が顔を上げた。咄嗟に千理もツバキもその顔を凝視する。笑みもなく怒りもなくただ凪いでいるその表情は千理ですら読めず、思わず警戒して一歩後ずさった。生憎ここで馬鹿正直に「分かってくれたんだ!」と喜べるようなおめでたい頭はしていない。
「だが俺にも言い分はある。俺は何があっても絶対に千理を守る。分かるか、今此処でそいつがお前を連れ去ろうとしたところで俺はいくらでも邪魔できる」
「……」
「このまま朝になるまで妨害するも可能だ。……だがな、千理。それじゃあ駄目なんだ。それじゃあお前を守れない」
「え、それは」
「生きてるだけじゃ駄目だ。それ以上に、心を守らなくては意味がない」
はっと驚いた表情を浮かべた千理を見て、愁は「じーちゃんの受け売りだがな」と苦笑した。
「お前がこの先笑えなくなるんなら、それは守ることでもなんでもない。だがお前が死んでは元も子もない」
「……じゃあ、どうするっつーんだよ」
「俺にいい考えがある」
え、と千理とツバキは顔を見合わせた。そんなこと千理にだって思いつかない。
……が、愁の突飛な行動はいつも彼女だって読めないのだ。一体何を言い出すのかと若干不安に思っていると、彼はツバキの前までやって来て徐に彼の首を掴み上げた。
「ツバキとか言ったか。俺の言う通りにしろ」
「な、何するつもりだよ」
苦しそうに愁を睨むツバキに、愁は真顔で「難しいことじゃない」とさらりと口にした。
「簡単なことだ。俺も一緒に誘拐しろ」
□ □ □ □ □ □
「伊野神千理を連れて来いと書いたはずだが……どうしてこいつまでいる」
早朝、部下が千理を連れて来るのを本部の入り口付近で待っていた薊は、そこに予定外の存在があることに大いに眉を顰めた。
長い階段を降りてきたのは部下と伊野神千理、それからツバキ。ここまではいい。だが、
「あんた、この前のやつだな」
「……」
薊の目の前に鬱陶しく浮く半透明の男は桑原愁。この幽霊も憎き霊研の一員だ。調べたところによると事故に遭った後身体を盗まれ、現在も所在不明になっているという希有な存在だ。事件から既に半年ほど経っているので、何にせよただの幽霊と認識して間違いない。
薊はぎろりと彼らを連れて来た部下を睨み付けた。
「おい、お前」
「ひ……すみません薊幹部。こいつ勝手に着いて来て、追い払おうとしても触れないし……そ、それに、幽霊ならいいかなって」
「……はあ」
怯えながら辿々しくそう言った部下に薊は大きく溜め息を吐いた。確かにこの組織の中には幽霊……人間を恨む怨霊も存在する。その所為で元人間とはいえ既に幽霊になっているこの男に対する甘さが出てしまったのだろう。
元より人間とのハーフだって受け入れているのだ、元人間だからとむやみに放り出していいものでは無い。
「だが幽霊だろうがこいつは我らと敵対する霊研の人間だ。おまけに戦闘能力もある。今此処で消して――」
「まあまあいいじゃないですか薊さん」
薊が愁に向かって手を伸ばすのを見て千理が息を呑んだその時、奥の扉から鬼頭が現れ愁を庇うように二人の間に立った。
「鬼頭、何のつもりだ」
「俺こいつ気に入ってるんですよ。ね、幽霊一匹ぐらい残しといてもいいじゃないですか。もう死んでるんだし」
「俺は、」
「それより! 華蓮さんは無事なんですか!」
「そうだ! ちゃんとこいつ連れて来たんだから早く華蓮を返せ!」
愁が何か言おうとしたのを遮って千理とツバキが声を上げる。すると今までへらへら笑っていた鬼頭が急に冷めた表情を浮かべ、鬱陶しそうにひらひらと手を振った。
「あーあー人質は静かに黙ってろよ。どうせすぐに喋れなくなるんだからな」
「お前……!」
「全員、大人しくしろ」
薊が低い声で一言そう言った瞬間空気がひりついた。大して大きな声でも無かったのに全員に緊張が走り、鬼頭に攻撃しようとしていた愁もぴたりと止まった。
「桑原愁、お前何故着いて来た。偵察のつもりか?」
「決まっている。千理が敵陣へ赴くというのに黙って見送る訳がないだろう」
「……そうか、分かった。お前を消すのは今は止めにしておこう」
「え? やった! 薊さんサンキュー!」
「その代わり」
薊は一枚の札のようなものを取り出すと、避ける間もなく愁の額にそれを貼り付けた。次の瞬間、突如として愁は自分の身体が岩のように固く、そして動けなくなっていくのを感じ取る。
「ぐ……なんだ」
「貴様はこれから私の命令以外で自由に動けなくなる。ああ、剥がそうとしても無駄だ。これは私にしか触れられない。お前はこれから何も出来ず、無力なままこの世界の行く末を見守るだけだ。誰が死のうとな」
「っ、」
愁が必死に腕を動かそうとするが無駄だ。出来て精々傍を移動することぐらいだろう。
これを使われた霊体は例外なく薊の支配下だ。彼が指示するまで行動を起こすこともできず、そして彼が命じればたとえ――大事な人間でも殺す。
本当なら霊体ごと消し飛ばしてもいいのだが、愁は幽霊でなおかつ強い。この札がある限り薊が好きに操れるというのならむしろ有効活用した方がいいだろう。
「仕方が無い。いざという時は盾になるくらいしかないか。千理、危なくなったら俺の後ろに隠れろ」
「愁が盾になっても普通にすり抜けるんだけど」
「……そうだった。なんてことだ」
「っぶ、はは……俺やっぱお前のこと好きだわ」
「そうか。俺は嫌いだ。友達止めてくれ」
諦めたように言った愁に思わずと千理が突っ込みを入れ、鬼頭がけらけら笑った。躊躇いなく他人の為に犠牲になると言い切った愁を気に入ったのだろう。
事実薊も、少しだけ愁に……そして危険を承知で自らの足で大人しくここまでやって来た千理に興味を持った。人間は嫌いだが完全に殲滅するつもりはなく、こちら側が有利に立てる程度には残しておいても構わないと思っている。そしてどうせ残すのならば当然、身勝手な醜い人間よりも彼らのような者の方がマシだ。
「こいつのことより早く華蓮に会わせろ!」
薊が仕向けたことではあるが、悪魔であっても他人を差し出してでも自分の願いを叶えようとするツバキと果たしてどちらが――考えようとして首を横に振った。人間と悪魔、比べる必要などない。
なお、愁が千理の為に華蓮を切り捨てようとしたのを薊が知れば、今この瞬間に彼を消し去っていたかもしれない。
「落ち着けよツバキ君。君の大事な人間はちゃーんと捕らえてあるぜ。ただまあ……他の幹部達が今回のテロが上手く行ったことに調子に乗ってて、『このまま人間を全てこの世から消せ』なんて騒いでるからぼやぼやしてると危ないかもね」
「……自分が動きもせずに外から騒ぐ老害が」
薊は正直同じ妖怪だと思いたくないと思っているやつらを想像して額に手をやった。しかし彼らのような大妖怪が居ないと個人主義の人外共が纏まらないのもまた事実。
「約束は約束だ、会わせてやる。こちらへ来るがいい」
薊は踵を返して建物の奥へと歩き出す。人質には使ったが、目的を果たした以上彼らがどうなろうがもはやどうでもいい。
……どうせ、あと数日でこの世界は変わるのだから。
□ □ □ □ □ □
「千理を誘拐した。生きて返して欲しければ……僕に死ね、ってね。成程」
まだ日も明けて間もない頃、櫟は霊研に届いていたメッセージを呼んで苦笑した。
「まあ僕としても千理と愁が助かるんならいいかな、と思わないでもないんだけど」
「バカ言うな」
「まあそうだよね。それで千理が守られる保証なんて無いのにあっさり死ぬ訳にはいかない」
こんな時間にも関わらず霊研には数人の職員が集まっていた。これから調査室の信用できる者と共に敵の本拠地に乗り込み、人質を解放してやつらの野望を打ち砕く為だ。
「まさか千理が「これから誘拐されます」なんて言って来るとは思ってなかった訳だけど……まあ、あの子が決めたのなら仕方が無い」
「いやちっとも良くねえよ」
「だが現在千理が捕まっているのはもう揺るがない。だからこそ! 我らは全力で彼女を、そしてもう一人の人質を救い出し、そして悪辣なテロ行為を行う輩に裁きを与えねばなるまい!」
ばさり、と黒コートを翻した或真が大きな声で宣言する。じゃらじゃらと手錠ではない鎖を鳴らし、右目は彼を象徴する眼帯が覆っている。懐かしいほどにいつものスタイルだ。
「……相変わらず朝っぱらからうるせえ。が、調子が戻ったようで何よりだ」
「英二、君もね」
「うるせ」
「さて、今頃次のテロが行われる予定の場所には厳重に警察官を配置してある。狙撃犯の記憶が正しければ今後のテロは全て未然に防げるはずだ。そして僕たちは他の調査室の子達と、それから若葉君と一緒に本部を襲撃。特に警戒するべきはあの薊という男と、そしてシオンの教祖。各自決して油断せず、そして無茶もしないこと。いいね? 千理を助けようとして君達が死んだら意味が無いんだ。――全員、必ず生きて帰る」
「分かってるよ。俺が死んだら多分、イリスの顔が涙で溶けるからな」
イリスと鈴子は此処にはいない。その代わりにイリスが数匹の動物霊を索敵用に貸し出してくれている。娘の為にも英二は死ぬ訳にはいかない。
「時間だ。それじゃあ行こうか」
櫟が立ち上がる。三人を背に外へ出た彼は普段の穏やかな表情を一変させて真剣な顔をした。
「絶対に、一人だって失わせない」




