23-5 どうでもいい
「いいか、お前はその他大勢の人間とは違う。私達と同じ妖怪、特別な存在なんだ」
その言葉を、彼は幼い頃からずっと刷り込みのように聞かされてきた。
彼の父親は猫又、母親は化け狸。容姿は父親に似て二叉の尻尾も生えていたが、母親直伝の化け方で人間社会にも溶け込んでいた。
両親、とりわけ父親はあまり人間を好んではいなかった。母親とは違い上手く化けることも出来なかった彼は表立って生活することが難しく、その所為で生き辛い人生を送って来たのだという。
その息子である彼自身は特に人間に対して恨みなどは持っていなかった。単に自分とは違う存在なのだなと思うだけで、そこに何の感慨も抱いていなかった。――五年前のあの日、父親が人間に殺されたと母親が泣き叫ぶのを聞くあの日までは。
□ □ □ □ □ □
「……」
「千理、大丈夫かい」
「はい。少し“あの人”の記憶を辿っていただけです」
霊研に戻る車の中で、千理は先程鈴子から受け取った狙撃犯の記憶を思い返していた。記憶の受け取りは無事に成功したものの、鈴子はやはり負担が大きく倒れてしまい深瀬の入院する病院に運ばれた。とはいえ命に別状はなく、一日休めば大丈夫だろうとのことだ。
狙撃犯は調査室妖怪部門の職員だった。彼は妖怪だがまだ年若く、記憶も二十年ほどで済んだのは幸いだろう。何百年も生きている妖怪の記憶ならば千理とてきっと堪えられなかった。
当たり前だが他人の記憶を受け取るのは初めてだ。何もかも自分が持つ記憶とは大違いである。生まれ育ちが違うのは当たり前だが、何より。
「他の人ってこんなぼやけた記憶の中で生きてるの……?」
「着いたよ」
「あ、はい」
ぼやぼやと頭の中に靄が広がっているようで非常にもどかしい。よくこれで人の顔や名前が覚えられるなと逆に感心しながら、千理は車から降りて櫟と共に霊研へと入っていった。
「……戻ったか」
「英二、君だけ?」
「あのツバキとかいう悪魔は起きて出て行った。イリスは隣の部屋で寝かせてる」
室内に居たのはソファにもたれかかっていた英二だけだった。愁は何やら昼間のうちに出て行ったようで、当然ながら鈴子は病院。或真は捕まっており、そしてコガネは。
千理は広々と寂しげな室内を見て息を吐いた。いつも全員が揃っている訳ではないのに、あまりにも空いた空間が寒々しく、静かだ。或真の高笑いも、イリスの怒った声も、コガネの宥める声も、鈴子の笑い声も今はない。
「それで、進展はあったのか」
「……色々あって、深瀬さんを狙撃した犯人の記憶を受け取ってきました。彼はやはり、シオンの構成員です」
「なに?」
「疑問はあるだろうが細かい説明は後だ。それで千理、何か分かったことは?」
「彼の生い立ちやシオンに入るまでの経緯……は、ひとまず置いておきますね。今重要そうなのは警察内の裏切り者が誰かと、或真さんを確保する計画の全貌、そして彼が知る限りのシオンという組織について。裏切り者については後で一覧に纏めますので速水さんに確認をお願いして下さい」
「ああ。……んで、或真のことだが」
「シオンは或真さんの力を欲しがっています。自分達に従わせて、あの怪物達の力で人間社会を壊そうとしている。そして、そもそもの話なんですが……或真さんのあの目は、元々シオンが作り出して彼の目に埋め込んだものです」
「!」
「五年前或真さんを誘拐した組織というのは、シオンだったんですよ」
ずっと前から人間社会を壊す為の計画は進められていた。その中で或真は、文字通りシオンに目を付けられたのだ。
「人間を選んだのは、まだ実験の段階だったからです。使い捨てのつもりで或真さんを実験台にして……その結果見事に適合してしまった。突然得た力を使いこなせる訳もなく暴走して、そして周囲のシオンの構成員を全滅させた」
千理の頭の中で、彼の父親が死んだ時の記憶が蘇る。或真の実験に参加していた彼は、五年前のその日に死んだのだ。だからこそこの記憶の持ち主は、人間を、或真を恨むようになった。
全く逆恨みでしかないが、人の感情は正論だけでは成り立たない。
「そうか、或真は……」
「櫟さんが或真さんを見つけていなければ、もっとシオンの行動は早まっていたかもしれません。今回、或真さんを奪還する為にやつらは彼に罪をでっちあげて拘束、その後シオンの本部へ移送する予定だったそうです」
「その前に何としてでも或真を取り戻さなければならないね。考えたくはないが、洗脳か何かであいつが敵に回ったら僕たちに対抗手段はない」
「はい。ですが時間的にもう移送は始まっているはずです。彼が捕まった所為で恐らく予定は狂っているでしょうが……間に合うかどうか」
「大丈夫だ、俺は此処にいる」
「!」
その時、唐突に扉が開かれて外から二人の人間が入って来た。驚いた千理達がすぐさまそちらへ顔を向けると、そこに居たのはたった今話題に上がっていた張本人が疲れた表情で軽く会釈をしているところだった。
「ご心配おかけしました。俺は無事です」
「或真!? お前なんで」
「よかった。でも……後ろにいるのは」
ほっと息を吐いた千理の視線が或真の背後に向く。外の暗闇の中から明るい室内に入ってきた男は、千理にも見覚えがあり過ぎる男だった。
「若葉刑事、どうしてあなたが今此処に」
「それは」
「待った」
男――若葉が一歩霊研に足を踏み入れたところで櫟が或真を庇うように二人の間に立った。その目は疑いの色を持って若葉に向けられている。
「一体何の目的で此処に来たのかな。このタイミングで来たのは偶然じゃないだろう?」
「所長! この刑事さんは俺を助けてくれたんです!」
「助ける? ……つまり君は、今回の件について何かしら把握していたということか?」
シオンの情報がなければ或真が捕まっていることを知るのもそれを助けることもできないはずだ。おまけに若葉は人外の血が入っている。或真を助けたからといって素直に味方だと判断するには弱い。
櫟は鋭い視線で若葉を睨む。しかしそれを向けられた本人は全く怯むことなく、ただ首を横に振った。
「いや、そうじゃない。たまたま偶然だ」
そう。本当に、ただの偶然だったのだ。
□ □ □ □ □ □
突然起こった都内の爆破テロ。その対応に捜査一課の若葉も借り出されあっという間に時間は過ぎていった。もう夜も更けきった頃に一時帰宅を許された若葉は、警視庁で荷物を纏めてさっさと帰ろうと思っていたのだが、ポケットに手を入れた所で指に触れた感触に彼はつい足を止めてしまった。
「……」
そのまま掴んで手のひらに乗せてみれば、それは嫌というほど見飽きた花の形のバッジだ。
危険思想を持った人外達が用いているシンボル。それを持っていて、若葉に託した父親。「お前は俺と同じ」と繰り返し告げた彼の真意。
「……いや、今はそんなことを考えている暇はない」
疲労で頭痛を覚える頭を振る。それよりも問題なのはこのテロ事件だ。犯行声明も要求も何も無いただの破壊工作。これはもしや、霊研の言っていたこの人外達の仕業ではないのだろうか。
そう考えた若葉の足は自然と調査室の方へと向かっていた。以前会った白髪男にでも少し話を聞けないか。もしかしたらこのバッジが何かの手がかりにはならないか。そう思いながら足を進めたものの、運悪く目当ての男には会えなかった。それどころか誰もが随分と慌ただしくろくに相手にすらされない。
彼は立ち止まって壁に寄り掛かった。再び手の中のバッジを見つめ、そして自分の手のひらを見つめた。力加減を間違えればあっという間にこのバッジは粉々になってしまうだろう。
――自分は、一体何なのだろう。
「……?」
そこまで考えたところで誰かが近付いて来るのを感じて顔を上げた。そこに居たのは相変わらず大きな図体の鬼頭だ。彼は若葉を見て、そして彼の手の中にあるものを見てみるみるうちにその顔に満面の笑顔を作った。
「うっそだろ! 代わりのやつってお前だったのかよ若葉!」
「……は? 代わり?」
「いつの間に入ったんだよ。つーか先に俺に言えよな、折角幹部の人とも話付けておいたんだからさあ」
「いや、だから何の話を」
「つー訳でこれ。本部にくれぐれもよろしくな。シオンの名の元に!」
ぺらぺらと早口で喋った鬼頭は手にしていた大きなスーツケースを若葉に押しつけてさっさと去って行った。唖然としながらも何か大きな勘違いをされたと気付いた若葉が彼を呼び止めようとするが「悪い! 忙しいから落ち着いたらな!」と言い残して彼は居なくなった。
残されたのは状況が完全に飲み込めない若葉と、存在感のあるスーツケースだけだ。若葉は困り果てたものの、やけにずっしりと重いスーツケースに少々嫌な予感を覚えた。
そもそもなんで鬼頭がこの調査室のエリアに居る。そして彼が言っていた幹部や本部と言った言葉、そして極め付けに――若葉のバッジを見て笑顔になったこと。
「……あいつ」
若葉はスーツケースを持って素早く警視庁の外に出た。そして人気のない場所まで来ると、一瞬の覚悟を決めた後それを恐る恐る開ける。
そこに入っていたのが人だと理解した途端彼は息を飲んだ。重さから予想はしていた。以前取り扱った事件でスーツケースに死体を入れて運んだ犯人が居たのだ。
だが幸いなことに今回は死体では無かった。手足を縛られて膝を抱えるようにして詰め込まれていた青年に外傷はなく、若葉はそっと安堵しながら彼を丁寧に外に出し、手足を縛っていたビニール紐を解いた。が、まだ手には手錠が残っている。全く状況が読めないまま、若葉はアスファルトに倒れ伏した青年の肩を揺さぶった。
「君、大丈夫か……ってこいつ、まさか外村或真か!?」
「う……」
無事にスーツケースの中から助け出した青年の姿を改めて見た若葉が大声を上げると、その声に反応して意識を失っていた彼が呻きながらゆっくりと目を開けた。
或真はくらくらする頭を押さえながら体を起こす。外気の冷たさに思わず体を抱きしめていると、不意に彼の体に温かい上着が掛けられた。
「若葉刑事……? なんであなたが」
「それを聞きたいのはこちらの方だ。何故君はこんなものの中に入っていた」
「それは……、」
言いかけた或真が言葉を止める。何処からか人の話し声と足音が複数聞こえ来たのだ。
「若葉刑事、助けて下さってありがとうございました。すみません、俺行かないと」
「は? いや待て待て待て、この状況でそのまま放っておくと思うのか!?」
「お願いです。一刻も早く此処を離れて霊研に戻らないと……上着、ありがとうございました」
困惑する若葉をよそに或真は素早く立ち上がった。或真を見ても困惑しかしていない若葉は恐らく何もこの状況について知らない。ならば彼を巻き込むべきではない。そう判断した或真は上着を差し出してその場から立ち去ろうとしたのだが、しかし上着を受け取ってもらえないどころか彼は或真の腕を逃がさぬように掴んだ。
「放して下さい!」
「悪いがそういう訳にはいかない。……霊研まで送ってやるから来い」
「え?」
「此処を離れる判断は正しい。このスーツケースを持っていた鬼頭がいつ戻って来るか分からないからな。だが俺も警察官として君を放置することは出来ない。だからひとまず霊研まで連れて行って、事情を洗いざらい吐いてもらう」
「……」
話し声がもうすぐに近くに聞こえる。若葉は呆けている或真とスーツケースを手に取って素早くその場から離れた。駐車場までやって来て車に乗るように促すと、或真は戸惑いながらも若葉を振り返る。
「若葉刑事、ありがとうございます」
「別に構わん。それよりも着いたらしっかり尋問させてもらうからな。覚悟しておけ」
言いながら、忘れていたとばかりに若葉は或真の手首の手錠に手を伸ばした。鎖の部分ではなく手首を拘束する金属を力任せに引き千切ると、或真はようやく自由になった手を見て驚きと半分呆れのようなものを若葉に向けた。
□ □ □ □ □ □
「……で、何処までが本当の話かな」
「え、櫟さん」
「或真を助け出し此処まで連れてきてくれた。それは分かった。彼の上司として感謝しよう。だがそれは本当に偶然だったのか? 或真を懐柔して何か企んでいる可能性は否定できない」
話を聞き終えた櫟は、しかし或真を庇う素振りを変えなかった。それどころか一瞬の隙も見せないとばかりに若葉を警戒しており、それを見た千理と英二は少々困惑した。
「櫟、何言ってんだ。まさかこの男まで敵だっつってんのか? こいつは俺達を敵視するレベルのオカルト嫌いだぞ」
「だが、人外の血を引いている」
「!」
「ましてや彼は内通者がいた警察で、おまけにシオンのシンボルまで持っている。疑わない方がおかしいと思わないかな」
英二と若葉の目が見開かれた。英二はそれらの事実を知らなかったし、若葉もまた自分で疑ってはいたもののこうも他人からはっきりと人外だと告げられて動揺するしかなかった。
「或真を助けたのだって出来過ぎてる。何かしらの理由があって計画が変更され、ここまで或真を連れてきたとだって考えられる」
「……」
「ねえ若葉刑事。……君は誰の味方かな」
人間か、それとも人外か。若葉は黙って俯いた。スーツケースを持つ手が震え、それだけではなくがたがたと体を震わせる。
「……さっきから、大人しく聞いてりゃあ言いたい放題言いやがって!」
刹那、若葉が苛立ちのままにスーツケースを床に叩き付け、その下にある床にヒビが入った。身構える櫟など知ったことでは無いとばかりに近付いた若葉は「そもそも聞きたいのはこっちの方だ!」と怒鳴る。
「一日訳の分からんままテロ現場を走り回らされて、ようやく帰ろうとしたら人が入ったスーツケースを渡されて、助けたら助けたで此処で疑われ……いい加減にしろ! 俺が誰の味方だって!? そんなものは決まっているだろう! 人間だか人外だか訳の分からんことはどうでもいい、俺は善良な市民の味方だ!」
「…………っふ、」
若葉の言葉に櫟は沈黙した。たっぷりと五秒は黙り込んだ彼は今し方の若葉のように体を震わせ、そして何故か声を立てて笑い始めてしまった。
「な、何を笑っている!? おい伊野神千理! どういうことだ!」
「そんなの私に聞かれても……」
「ふ、ふふ。そうだ。そうだよね。人間も人外もどうでもいいか。……僕もどうやらシオンの連中の思想に染まりかけていたようだ」
ひとしきり笑った櫟が感慨深く頷いた。あっという間に先程まで漂わせていた鋭い雰囲気を霧散させた櫟はその顔に穏やかな笑みを取り戻して「悪かったね」と若葉に軽く頭を下げた。
「僕は所長だから皆を守る義務がある。或真も……本当だったらコガネも」
「櫟、」
「すまない。あの子を守れなかったことを君に八つ当たりしていたみたいだ」
櫟の頼みを引き受けた所為でコガネが消えた。彼は悪魔だから死んでは居ないが、もうずっと会えないのなら――英二とイリスから家族を奪ってしまったという事実は変わらない。
守りたいものが多すぎるとその手からこぼれ落ちてしまう。だから線引きをして、霊研の職員だけは絶対に守ると決めたというのに……それでも手からすり抜ける。
「所長、コガネもってどういうことですか」
「……全て話そう。若葉君への説明もあるしね」
櫟に促されて全員がソファに腰掛ける。そしてシオンという組織から昨日今日で起こった出来事について順々に話し始めた。或真も自分の身に起こったことを説明し、そして彼も自分が逮捕されるに至った理由について話を聞く。
「五年前……そうですか。この目はやつらの仕業で」
「或真さん、大丈夫ですか?」
「ああ。誰がやったことであろうと俺の目がこうなったという事実は変わらないからな。だが……」
或真の脳裏に酷く怯えた顔をして自身を化け物と言った母親の姿が過ぎった。
「いや、俺のことはいい。それよりも……コガネを撃ったあの鬼頭という男を早急にどうにかするべきだろう」
「鬼頭……あいつが妖怪で、テロ組織の連中」
「若葉刑事は知らなかったんで……すよね。そもそもちょっと前まで妖怪とか信じて無かったし」
「ああ、調査室に所属していることも知らなかった。……向こうは俺のことを勘付いていたんだろうな。警察学校で出会い頭からやけに馴れ馴れしい態度をしてくる男だとは思ったが」
「千理、お前確か狙撃犯の記憶を受け取ったとか何とか言ってたよな? 他に何か情報は無いのか」
「あの人は父親の復讐にばかり拘ってあまり他の構成員とは関わり合いが無かったみたいです。鬼頭さんとも仲が悪そうですし、他に接触があったのはあの薊という男ぐらいです。彼はどうやらシオンの幹部みたいですね」
「……は、」
「あのえげつねえ力の野郎か」
「そうです、お兄様達の仇。ですが一番重要な情報が――」
「待ってくれ! 今……薊と言ったか」
千理が記憶を掘り起こしてさらに話そうとしたその声を若葉が遮る。顔色が悪い。信じられないような顔をしている彼に千理が頷いてみせると、若葉は両手を強く握りしめ、歯ぎしりをした。
「ただの同名でなければ、それは恐らく俺の父親だ」
「なんだって?」
「母を何度も殴って、俺達を置いて勝手に出て行った最低最悪な父親だ。……ようやく見つけた」
「……なるほどね」
「市民の安全を脅かすテロ組織など放ってはおけない。そう思っていたがこれでますます無関係では居られなくなったな。俺も貴様らに手を貸す。そして絶対、あいつをぶん殴ってやる」
「それはありがたい。今は一人でも信用できる人が多いと助かるからね。先に聞いておくけど君、戦闘経験は? 刑事だからそれなりに動けはするよね」
「柔道と空手はそれなりに」
「ふうん、ぼちぼちってところか」
「櫟さん、この人父親に負けず劣らず豪腕ですよ」
「ああ。さっき俺が掛けられていた手錠も引き千切った」
「……前言撤回。十分だよ」
櫟が信じられないものを見る目で若葉を見る。彼は細身で如何にもエリートと言った雰囲気だ。人外の血も濃くないだろうによくやる、と半ば感心して頷いた。
「話を戻してもいいですか?」
「ああ、すまない」
「他に何か重要な情報があるんだよな。何だ」
「はい、とびっきり重要な情報です。シオンの組織はいくつかに分かれていて、コガネさん達が潜入したシオンの会、それからテロの準備や怪物の研究をする下部組織、そしてそれら全てを統括する本部。此処にはどうやら彼らの教祖たる人物がいるようです」
「……そういえば、前に鬼頭が教祖がどうのと言っていたな」
「その教祖が誰なのかは狙撃犯の記憶にはありませんでした。ですが彼は元々或真さんを本部に連れて行く任務を受けていた」
「! つまり」
「そうです。――やつらの本拠地が分かりました。これで、こちらから先制攻撃ができる」
□ □ □ □ □ □
「ただいま……」
小さな声でそう言って千理は静かに玄関の扉を開けた。もう夜中なので眠っている人も多いだろうと音を立てないように家の中に入った彼女は、どっと肩に乗る疲労を引き摺りながら自室までのろのろと歩いた。
明日はシオンの本部を襲撃し、一連の事件に終止符を打つ。それまでに調査室の信頼できる人間を選別し少しでも戦力を増やす予定だ。戦えない千理は勿論メンバーから外されていて、明日は霊研で待機して何かあれば頭でサポートするつもりである。
「やっっっと帰って来た!」
「は?」
とにかく寝て頭をリセットしなければと自室の扉を開けようとすると、何故か誰も居ないはずの室内から声が聞こえていて。どっと心臓が跳ねるのを感じて恐る恐る中を覗き込むと、そこに居たのは床に胡座をかいてだらけていたツバキだった。
「え、ツバキさん? は?」
「おっせえよ眼鏡。どんだけ待たせるんだ」
「いやどうして此処に」
「お前に大事な話があるんだよ」
よっこいせ、と居住まいを正してツバキが立ったままの千理を見上げる。彼は「あー」だの「うー」だの何やら言いにくそうに言葉を濁していたが、やがて覚悟を決めたように真剣な表情になり――そして、勢いよく土下座をした。
「ツバキさん!?」
「お願いだ眼鏡! 俺に誘拐されてくれ!!」
いきなりどういうことだ、と千理の疲れた脳がストライキを起こして停止しそうになる。その間にも必死の形相で顔を上げたツバキが「一生のお願いだ!」と立ち上がって彼女の肩を掴んだ。
……徐々に千理の頭が冷静さを取り戻していく。ツバキは誘拐されてくれと言った。そして短い付き合いでも彼がここまで必死になる理由はいくらか分かる。
「頼む! ホントに頼むから俺に誘拐されてく」
華蓮に何かあったのかと聞こうとしたその瞬間、いきなりツバキが千理から引き剥がされた。かと思うと目にも止まらない速さで目の前から吹き飛ぶ。
「させるわけがないだろ」
そして代わりに彼女の視界に現れたのは、凍え死ぬ程の冷たい目でツバキを見下ろす愁の姿だった。