23-1 シオンの会
「シオンの会、というものがあるらしいです」
霊研の会議室では職員全員が集まっていた。先日偶然手に入れた情報について全員に共有する為である。
前方のホワイトボードの前に立った千理は全員の顔を見渡しながら、頭の中で情報を整理して話し始めた。
この情報の出所は勿論先日スイーツビュッフェで遭遇した悪魔、ツバキである。シオンという言葉に反応した彼に驚いて慌てて詰め寄ると、彼は戸惑いながらも己の知っていることを話してくれた。
とはいえツバキ自身はその時のことをはっきり覚えておらず、結局その時に身に着けていた物を鈴子に見てもらうことで情報を得ることになったのだが。
「ツバキさんからの情報によると、そのシオンの会というのは妖怪や怪異、悪魔などの人間以外限定のコミュニティらしいです。彼に話しかけて来た人も天狗だと名乗っていたとか」
「人間以外……そりゃあやっぱりアタリじゃねえか。シオンって名前も一致するし、十中八九“やつら”の仲間だろ」
「まあ勿論勧誘の時点でそんな物騒な思想は言っていないんですけどね」
もしツバキに向かって「人間を減らして殺そう」なんて勧誘をしていたら流石に彼もはっきりと記憶していただろう。何しろ彼は人間である華蓮やその家族と非常に仲が良く、おまけに悪魔だというのに魂を奪うことに対して忌避感を抱いていたのだから。
英二の言葉に頷いた千理は、全員に手元の資料を見るようにと促した。資料を触ることが出来ない愁だけは、千理の隣で彼女が持つ資料を覗き込んでいる。
「シオンの花言葉は『君を忘れない』。シオンの会の目的は、人間とは違い長く生きる妖怪達が、それまでの人生で会えなくなった人達を忘れない為に思い出を共有する場を提供することだそうです」
「ふーん、そんなことの為にみんな集まるの?」
「集まるんでしょうね。誰かに話したくても、自分と同じ境遇じゃないと理解されないこともあるでしょうし」
「だが千理。そういう妖怪達が居たとして、死に別れるのなら大概相手は人間じゃないのか? 同じ妖怪なら一緒に長く生きられるだろうし」
「うん、そういう人もいるみたいだね。実際ツバキさんを勧誘した人も大事な人間と死に別れたって言ってたから」
「なら何故人間を減らそうという思想になるんだ。むしろそれならそのシオンの会のやつらは人間と仲が良い連中ばかりになるんじゃないか?」
愁の疑問は千理も抱いていたことだった。表向き物騒な思想を表していないのだとしても、そこに入る人々が皆人間に好意的ならばそもそもそんな考えは生まれないのではないか。
「予想になるけど、だからこそ良い隠れ蓑になってるんじゃないかな。それにあの事件の黒幕が言っていた通り、人間に殺された妖怪だっているはず。そういう人達が集まって思い出話をして……段々人間に対する恨みが強くなって行ったのかも」
「ま、単純に最初からテロ組織を隠して人外を集める為だけに作った張りぼてかもしれないけどね。シオンって名前だって悪魔の名前を使っているのならどうせ意味も後付けだ」
櫟が肩肘を付きながら煩わしそうな表情を浮かべる。彼は大層シオンという名前が気に食わないらしい。コガネも櫟の言葉に頷いた。
「僕は多分会ったことは無いのですが、調査室にシオンという名前の悪魔の情報はありました」
「多分?」
「いえ、あの……魔界でその悪魔だと気付かないうちに叩き潰されていたかもしれないので」
苦笑いを浮かべるコガネに全員が気まずそうに口を閉ざした。英二に召喚される前は魔界でさんざん他の悪魔に痛めつけられていたコガネはその相手が誰だったかなど殆ど覚えていない。あの場所ではただ弱いという理由だけで、誰にだって攻撃された可能性があったのだから。
「話を戻しますね……。情報があったとはいいますがあまり詳しくは載っていません。大昔にシオンと名乗っていた悪魔がほんの僅かの時間で何千人もの人間を消し飛ばしたということだけ。どんな力を使っていたのか、どんな見た目だったのかまでは判明していません」
「別にいいだろ。俺らが相手にすんのはその悪魔じゃなくてあの妖怪どもだからな」
「ふむ。そのシオンの会というがあるのが分かったということは、次に行うのは勿論……影からの潜入であろう。くく、闇に紛れるのは得意なものでね。もし叶うであれば私が行いたかったものだが……」
「無理ですね。人外限定のコミュニティなので」
「そもそもアルマは人間が大丈夫でも無理でしょ。こんなやつ居たら誰だって見ちゃって潜入どころじゃないわよ」
「その時は致し方ない。封印が破れる危険性はあるものの、この鎖と眼帯を外す他ないだろう」
「いやまあ、それはそれで見ちゃうんですけどね……」
「何故だ?」
千理の言葉に或真が首を傾げた。彼は自分の素顔がどれだけ注目を集めるが自覚していない。厨二病ルックとは別の意味で視線が集まるのは確実だ。
「或真さんの言った通り、ツバキさんの伝手を使って潜入して内部を探ってみるのが妥当だと思います。……で、その人員ですけど」
「僕ですね」
千理の言葉を先回りしてコガネが片手を上げた。このメンバーの中で潜入条件を満たしているのは悪魔であるコガネしか居ない。「怪異がOKなら幽霊は駄目なのか?」と愁が聞いて来るが、彼はあくまで生きている人間だ。下手に博打を打つよりもコガネが行く方が確実である。
「コガネ、やってくれるかな」
「シオンの会の内部に入り込んで内情を探る。はい、やってみます。もし僕に危険があればすぐに英二が察知できるでしょうし、僕自身身を守ることはできる。そういう意味でも適任でしょう」
「決まりだな」
「コガネ大丈夫? ミケかコロに一緒に行ってもらう?」
「いえ、それは止めておきましょう。幽霊が見える方ばかりでしょうし、変に警戒されるかもしれません。念の為、姿を変えて行きます」
悪魔は自分の好きな見た目に変身することが出来る。コガネの姿とて本来の悪魔の姿から翼などを取り除き人のように見せているだけだ。やろうと思えばどんな姿にだってなれる。
「テロ組織を押さえる為の重要な任務だ。コガネ、しくじるなよ」
「勿論です。僕に任せて下さい」
自信を持った表情でコガネが笑った。出会った当初はとんでもなく卑屈だった彼の変わりように千理は多少の驚きを感じると共に、その頼もしさが嬉しくもなった。
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「ツバキさん、もう一度言いますけど絶対に余計なことを言わないで下さいよ」
「おうキンイロ、俺に任せとけ!」
「……ホントに大丈夫ですかね」
シオンの会への潜入初日。協力を頼んだツバキと合流したコガネはいつもと装いを変えてカジュアルな格好に身を包んでいた。
髪はいつもよりも短く、顔も通常の優しい顔立ちから一変、骨の角張ったちょっと強面なものになっている。髪や目の色は同じだが、これはツバキがコガネをキンイロと呼んでしまうので他の色に変えることが出来なかった。
いかにも口が軽そうなこの男と一緒に行くのは正直不安しかなかったが、しかし連絡先を渡されたツバキが居なければどうして場所が分かったのかと追求された時に困る。
「何かアヤシーやつが居たらそいつを問い詰めたらいいんだろ?」
「違います! あなたに頼みたいのは中に入る手引きだけです。後は僕がやりますので」
「えー、つまんねーな。俺にも何かやらせろよ」
不満げに口を尖らせるツバキにコガネは頭痛を覚えた。この男は事の重大さを理解していない。実はそれは当然のことで、シオンの会がテロ組織の温床になっている可能性についてツバキには話していないのだ。彼は敵では無いだろうが、うっかり情報を漏らしてしまう可能性だってある。伝えてあるのはとある事件の捜査でシオンの会へ潜入したいということだけだ。
「……いいですかツバキさん。今回の件は、下手をすると華蓮さん達にまで累が及ぶ可能性があります」
「は? るい?」
「最悪の場合、彼女が死ぬかもしれないと言っているんです」
「!」
「ですからくれぐれも余計な行動は謹んで下さい。あなたの行動で事態が動くこともあるかもしれませんから」
「……おう」
ツバキは神妙な顔で頷いた。彼と華蓮とのやりとりは正直面倒の一言だったが、逆に言えばそれほど彼らは仲が良いのだ。彼だってコガネと同じように、ただ周囲の人間を大切にしたいという気持ちは変わらない。
「それでは行きましょう」
「任せとけ」
先程と同じ言葉でも全く違う響きを感じながら、コガネは教えられたシオンの会の支部に向かった。
都心から車で三十分、住宅街の片隅にある白い小さな建物が目的地だ。少し離れたパーキングに車を停めたのは、悪魔だというのに免許証を持っている特別な立場だということがバレない為である。
「こんちはー、ここがシオンの会ってやつ?」
「……失礼ですが、誰からお聞きになりましたか?」
「天狗の神楽ってやつが道端で話しかけて来たんだけど」
「神楽ですか……確認して来ますので少々お待ち下さい」
入ってすぐの受付らしき場所に居た女性にツバキが話しかけると、彼女は一つ頷いて席を立った。途端に無意識に肩の力を抜いたツバキは、「こんな感じでいいんだよな」と小声でコガネを振り返る。
変に態度を変えてはその神楽という男に怪しまれる可能性があるのでいつも通りに、とは言ったが意識するといつも通りがどんなものか分からなくなるのだ。コガネは大丈夫だと小さく頷き、周囲の人間に怪しまれない程度に辺りを観察した。
此処は玄関ホールのような場所で、前方に大きな扉がありその中は窺い知ることはできない。が、彼らよりも後に入ってきた男がそのまま奥へ入っていく際に扉を開け、そこから微かに中の様子が見えた。ちらりと見えただけでも数人、それも明らかに人間ではない見た目をした妖怪や半透明の怪異の姿が確認出来た。
「ああ、この前の悪魔君ですか。よく来てくれました。この前は興味が無さそうだったので期待はしていなかったのですが、来て下さって嬉しいです」
受付の奥から聞こえてきた声にコガネは素早く視線を戻す。すると先程の女性が一人の大柄な少し鼻長い男を連れて戻って来たところで、彼はツバキを見つけると嬉しそうに表情を綻ばせた。
「んん、まあな。俺も長いこと悪魔やってっと色々あるもんで。あ、こいつは俺のダチな。話したら来たいっていうから連れて来たんだよ」
「キンイロって呼ばれてる。好きに呼べ」
ぶっきらぼうにそう言ったコガネにツバキが一瞬ぎょっと目を見開いた。様子がおかしいとバレるだろうがとコガネが内心苦い顔になる。見た目が変わったのだからいつもの口調ではアンバランスだからと変えているのだ。事前に言ったのに忘れたのかと頭を抱えたくなった。
しかし運良く神楽の視線はコガネの方に向いておりツバキが不審がられることはなかった。
「キンイロ君ね。僕は此処の支部長で天狗の神楽だ。君も悪魔なのかな」
「……そうだ。なんなら翼を出してみてもいいが」
「いや、構わないよ。僕も長いこと生きてるもんだから君が人では無いことは何となく分かる。ようこそ、シオンの会へ」
神楽は受付の外に出ると二人を促して扉の奥へと足を進めた。軋む大きな扉を開けた先には先程ちらりと見えた妖怪や怪異達がおり、そして高い天井近くにはどうにも見覚えのある花のシンボルマークが大きく目立つようにして掲げられていた。
(やはり、例のシオンと此処は繋がっている)
確信を得たコガネはより一層周囲に注意を払った。此処は既に敵陣と言っていい。ボロを出さぬように最大限気を付けなければ。
「話したと思うけど、此処では君達が今まで失って来た人々を忘れないように思い出を共有する場だ。自分以外の誰かの記憶に残し、そして自分の記憶も見つめ直す。そうしなければ我々のように長く生きる物達はすぐに大事な記憶を忘却してしまうからね」
「あんたも誰かを失ったのか」
「何人も失ってるよ。昔一緒に遊んだ人間や、事故や戦争、災害で死んでしまった同胞をね。天狗だと知ってもなお怖がらずに居てくれた子や、寿命で死ぬその時まで連れ添った妻……まあ、私は籍が無いから結婚は出来なかったんだけど。それでも彼女のことは今でもずっと愛しているよ」
「……そうか」
神楽の目が酷く優しく細められる。その目に嘘は見えない。彼は本気で親しかった人間を愛しているように映った。だがそれは、コガネの目が嘘を見破れないだけなのか否か、判別することはできない。
ただ、真実であればいいと思った。
「ツバキ君だったね。君は一体誰を?」
「え、えっと、俺はだな……実は記憶喪失で何にも覚えてないんだよ!」
「記憶喪失?」
「そうだ。だが俺はツバキの過去を知っている。こいつが大事にしていた人間のことも覚えているから、どうしても思い出してほしくてな。ここで色んなやつの話を聞いて少しでも記憶を戻すとっかかりになればと思ったんだ」
事前の打ち合わせ通りだ。下手に作り話をさせるよりも記憶喪失であることを利用した方が真実味が増す。神楽も「だから最初興味が無さそうだったんだな」と納得しているようだ。
「キンイロ君はどうなんだ?」
「俺は……家族のように思っていた大事な人達を助けられなかった。目の前で殺されて、それなのに何もできなくて」
「……」
コガネの脳裏に英二の兄夫婦の姿が過ぎった。兄に初めて会ったのは英二が召喚を成功させてすぐ、騒ぎを聞きつけた彼が英二の部屋に来た時だ。彼は悪魔が見えなかったし英二のように魔法陣も持たなかったから不思議そうに部屋の中をきょろきょろしていて、コガネが急に姿を現すと腰を抜かしていた。
それから二十年ほど経って、英二と同じようにどんどん成長した彼はコガネの外見年齢を通り越し、結婚して子供も生まれて……今度はイリスの成長を皆で見守っていくのだと疑いもせずに思っていた。
だが、あの日はやって来た。
「辛かったね」
神楽が肩に手を置いた瞬間、コガネは一瞬で現実に引き戻された。思わず潜入捜査であることを忘れてしまいそうになるくらい過去に引き込まれてしまっていた。手に痛みを感じて見てみれば強く握りしめた手はくっきりと爪の跡が残り僅かに血も出ている。
「此処には君と同じように辛い思いをした人達が沢山居る。辛かったことも楽しかったことも、全部話して記憶を整理するんだ。そうすれば少しは楽になるよ」
「……ああ」
「それともう一つ、いいことを教えよう」
神楽はちらりと周囲を見回すと「これは秘密の話だが」とコガネだけに囁くような声で話した。
「シオンという悪魔は知っているかな」
「! いや」
「此処だけの話だが、その悪魔は大層強い力を持っているらしくてね……噂によると、死者の蘇生もできたとか」
「っな、」
「此処はシオンの会だ。偶然だろうけど何だか運命的な名前じゃないか? 君は同族だから無理かもしれないが、もし誰かがシオンを召喚できたら……愛する人を取り戻せるかもしれない」
霊研でも調査室でもそんな話は聞かなかった。本当だろうかと神楽を見上げると、彼は真剣な表情で頷いた。
「この話は支部長クラスにしか知らされて居ないんだ。もし皆が知ったら躍起になって悪魔を召喚しようとするだろうからね」
「なら何故俺に? どうせ召喚できないからか?」
「君だって他の人に召喚してもらえばいいだろう? キンイロ君に教えたのはね……君も私と同じくらい失った人のことを大切にしているって分かったからだよ。此処にいる人達も確かに色んな人を失っているけど、大体の人達はだたの同族との寄り合いぐらいにしか思っていないからね」
「……」
「君みたいに真の意味でシオンの会のメンバーになってくれる人が来てくれて本当に嬉しい。心から歓迎するよ」
優しく微笑んだ神楽はツバキにも笑いかけ「君の大事な人の記憶が戻ることを祈っているよ」と告げて離れていった。ツバキは不思議そうな顔で彼の後ろ姿を見送り、首を傾げてコガネを振り返る。
「こそこそ言ってたの何の話だったんだ?」
「……いえ、なんでもありません」
口調が戻ってしまっているのにも気付かず、コガネは神楽が言っていた言葉を頭の中で繰り返した。
もし本当に、死者が生き返るのなら――。
□ □ □ □ □ □
「ありえない」
初日の潜入を終えて霊研で櫟に報告をしていたコガネは、聞いたことの無いほどの冷たい声でぴしゃりと切り捨てた彼に驚いて目を瞠った。
「所長……?」
「死者の蘇生なんて絶対にありえない。そんなの神でも出来ないことを一介の悪魔ができるとでも? コガネ、まさかとは思うが信じたりしてないよね?」
「いえ、一応そういう話があったという報告なんですが」
一瞬でも期待した気持ちを誤魔化すように否定すれば「……ならいいんだけど」と非常に不機嫌な声で返された。
本当に珍しいことだ。コガネは櫟がここまで感情を乱しているのを滅多に見たことがない。
「……いや、ごめん。コガネに八つ当たりした。分かってる、君は何も悪くない」
「所長、機嫌でも悪いんですか?」
「今その話聞いて悪くなったけど……うん、落ち着け。冷静になれ」
「本当にどうしたんですか……?」
とにかく櫟にとって「死者の蘇生」という言葉はタブーらしい。本当に何がそこまで彼に琴線に触れたのかと疑問に思っていると、しばらくして立ち直った櫟が「ホントにごめん」と再度コガネに謝った。
「話は分かった。引き続き調査を頼む……んだけど」
「所長?」
「ごめん、もう一度言わせてもらっていいかな。コガネ、死者を生き返らせるなんて誰にも出来やしない。人間も、悪魔も、神様も。誰にでも、だ」
「……はい」
「そんなこと、絶対に有り得ないんだ」
櫟がここまで念を押す理由を、今のコガネは知る由も無かった。
□ □ □ □ □ □
「コガネ君、今頃どうしてるかしら」
「コガネがどうかしたんですか?」
「いえ、何でも無いわ」
シオンの会へ潜入を始めた翌日、鈴子は数ヶ月に一度の後見人との面談で警視庁を訪れていた。面談とは言うが実のところ名ばかりのようなもので、鈴子にとっては殆ど後見人――深瀬とお茶を楽しんでいるようなものだ。
どこから情報が漏れるか分からないのでコガネの潜入捜査については調査室にも内密に行っている。思わず口に出した言葉を誤魔化すように微笑んでみせれば、深瀬もそれ以上追求することはない。
「何か変わったことや困ったことはありますか? 遠慮せずに言って下さいね」
「いつも言ってるけど大丈夫よ。深瀬君こそまた疲れてるでしょう? 声に気力が無いわ」
「ええ、まあ。どうにも例の件でちっとも休めませんのでね」
「倒れたら大変よ。今度何か差入れでも持ってくるわね。甘い物は平気だったわよね? 最近チーズケーキ作りに嵌まってるんだけどどうかしら」
「……楽しみにしてますね」
深瀬が口元が引き攣ったのを盲目の鈴子が見ることは無かった。
『まさか鈴の厚意を断ったりしないよな?』と柔らかい声なのにとんでもない圧を感じる腐れ縁の男の声が彼の頭を過ぎっている。
形ばかりの面談を終えた深瀬は鈴子を見送りに一緒に警察署の外へと出る。その間もどう工夫すれば鈴子の作ったチーズケーキを無事に完食することができるかという思考が半分ほど頭の中を占有し続けていた。飲み物で流し込むか、それともひたすら心を無にして思考を遮断するか――。
「深瀬君」
「っはい!?」
「びっくりしちゃってどうしたの?」
急に声を掛けられて飛び上がらんばかりのリアクションを取った深瀬を鈴子はくすくすと笑った。我に返って恥ずかしくなった彼は誤魔化すように咳払いをすると、「どうかしましたか」といつものように冷静になって彼女に向き直った。
「さっきも言ったけど、本当に疲れてるみたいだからちゃんと休まないと駄目よ」
「そうしたいのは山々なんですが」
「もう、そうやっと無理してると尚君だってきっと怒るわよ。こら、って」
「世界一恐ろしいこら、ですねそれ」
彼女と話をしているとどうしてもあの男の姿がちらつく。嫌いではない、決して嫌いではなかったのだが……時折大声で叫んで逃げ出したくなるくらいには恐ろしい男だった。超能力も使えない、体術が出来る訳でも無いただの一般人だというのに、深瀬は一生あの男に勝てる気がしない。
若干遠い目になって宙を見上げる。どんよりとした曇り空はもうまもなく雨が降りそうだ。深瀬の心情によく似ている。
「透坂さん、雨が降りそうなので早めに帰った方が――」
深瀬の声が不自然に途切れた。空を見上げ、離れた場所にあるビルが目に入り、その屋上に、微かにそれが見えたからだった。
「深瀬く」
「透坂さん!!」
瞬間、深瀬が鈴子を強く抱きしめた。突然のことに理解が追いつかない鈴子の耳に、たん、と軽い音が響く。
直後彼女は、深瀬に抱きしめられたまま背中から地面に倒れ込んだ。腕の力は緩まない。
何が起こっているのか分からない彼女が深瀬の腕に触れたその時、彼女の手触れたのは体温よりも温かい液体だった。




