21 何者
「冗談じゃない」
大量の資料に囲まれながらそう呟いても当然仕事が減ることもなければ、今受けた報告が嘘になる訳でもない。深瀬は調査室の自分のデスクに座りながら疲労を感じて目頭を押さえた。
妖怪部門に所属する鬼頭と霊研から、例の学生不審死事件の詳細が報告された。原因を特定し犯人に迫ることに成功したのはいい。だが問題はその後だ。
犯人の男から告げられたのは人間社会への反逆、端的に言えばテロ予告である。確かに妖怪等は未だに人間社会に馴染めず隠れて暮らしている者も多く、それゆえに生きづらい思いをしている者だっているだろう。
しかしだからってテロを許容をできるわけがない。調査室に鬼頭のような妖怪の血を引く者も在籍しているように、普通に人間社会で暮らす人外だって沢山居るのだ。人外によるテロが起きれば彼らにだって影響が出ることが分からないのか。……それとも、人に与する同族など切り捨ててもいいと思っているのか。
とにかく、事が起こってからでは遅い。すぐに彼らについての情報を集めなければならない。深瀬は超能力部門の室長だが、同時に調査室全体を取り仕切っているのである。すぐにそれぞれの部門に指示を飛ばし、特に妖怪には彼らについて知っている情報がないか確認しなければ。
「『シオンの名の下に』……か」
犯人の男が言っていたらしい言葉、そしてお守りに使われた花のシンボルマーク。仮名はテロ組織『シオン』とでもしておこうか。
どうやら伝説の悪魔とやらにあやかっているらしいが……深瀬には詳しい知識はない。速水ならば知っているだろうか。悪魔部門に行けば資料があるかもしれない。
「絶対に阻止しなければ」
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「あーもう、どんだけ資料放置すれば気が済むんですか!」
「そう言われても、最近忙しかったからなあ」
所は変わり霊研。学校帰りに霊研に足を運んだ千理は、放置し過ぎて溢れかえっている櫟のデスクを見て堪らず片付けを始めた。現在此処にいるのは櫟と千理だけで他の職員は居ない。そして櫟はというと、目の前で千理が自分の資料を片付けているというのに肘をついてそれを見ているだけだった。
「……ちょっとは自分でもやろうとか思わないんですか」
「んー? 手を出した方が逆に邪魔かな、と」
「また適当なこと言って」
「というか千理、君なんで来たの? ご覧の通り仕事はこの机の片付けぐらいしか無いんだけど」
「……来たら駄目ですか」
「別にいいけどね。僕も居心地がいいから家よりずっと此処にいるし。……でも、何か悩みでもあるのかなって」
仕事も残っておらず、尚且つ学校帰りにわざわざ家とは別方向にある霊研に来てやることが櫟の机の片付けである。不思議に思った櫟が座ったまま千理を見上げると、彼女は物言いたげな表情を浮かべて「悩みというか、悔しくて」と呟いた。
「せっかくお兄様に託されたのに、見つけた犯人には逃げられて。今から探そうにも手がかりはなし。でも何もしてないのに堪えられなくてつい来ちゃっただけですよ」
愁の事件に引き続き万理の事件でもそうだ。おまけに後者はこれから更に大きな事件を起こそうとしているのが確定している。もし本当にあの男によって人間が大量に殺されてしまったら千理は兄に顔向けできない。ただでさえ無事に体に戻ったらしい万理とはまだ会えていないというのに。
千理は脳内で黒幕の男が言っていた言葉を再生した。人間を殺しつくし、数を減らす。かの伝説の悪魔のように、と。
「櫟さん、少し聞きたいことがあるんですけど。あの男が言っていた伝説の悪魔ってなんですか? 櫟さんは知ってるんですよね?」
「どうしてそう思うのかな」
「あの時は必死でよく見てなかったんですけど、今冷静になって思い返すと、櫟さんが随分動揺してたように思えたので」
「……まったく、本当に君の記憶力は計り知れないね」
櫟が苦笑を浮かべる。千理の記憶力の一番の利点は、一度見てしまえば後からいくらでもその光景を再生できるというところだ。リアルタイムで気付かなかった部分も、何度も巻き戻して再生すれば色んな状況が見えてくる。
「とは言っても僕だけが知っているものでもないし、調査室にもきっと資料はあるだろうから英二やコガネも知るところだろう。むしろコガネは直接会ったことだってあるかもしれないね」
「一瞬で何千人を殺した悪魔、ですか」
「今から……三百年くらい前かな。江戸の頃にその悪魔はこの世界に召喚された。そして今君が言った通りほんの一瞬で何千人もの人間の命を奪ったらしい。周辺の土地はえぐれて、一帯は本当に何も無くなってしまったようだよ」
「どうしてそんなことを……その悪魔を召喚した人が命じたんですか?」
「さあね。少なくとも言えるのはその悪魔はそれだけのことができる力を持っていること。存在する悪魔の中でもトップクラスに力が強いだろう。……そして、もし今この悪魔が同じことをすれば被害は何千人では留まらないだろうということだね」
「今の人口を考えれば、もし都市部でそんなことをされたら……」
「下手をすれば東京が丸々無くなるかもね。そうなったら一巻の終わりだ」
あまりの規模の大きな話に千理は途方に暮れそうになった。もしそうなれば本当に日本は大混乱に陥るだろう。
「その悪魔の名前はシオンと呼ばれている」
「シオン……ってあの男が言ってた」
「その名前にあやかろうとしているんだろう。全く不愉快な話だ」
櫟が忌々しげにそう言って舌を打った。普段は飄々としている彼の珍しい姿に千理は少し驚いたものの、そういえばあの時も同じような雰囲気だったなと思い出す。
「櫟さん、もしかしてシオンって名前の知り合いでも……あ」
その時、身を乗り出すように千理が机に手をつくと、資料に紛れて机に置かれていた小さなバッジのようなものが床に転がった。彼女はそれを拾い上げようとするが、手を伸ばしたところで思わず固まってしまった。
「櫟さん、これ」
「ん? 何かあったかな」
「なんで……なんでこれがこんな所にあるんですか!」
千理は堪らずバッジを掴んで櫟の眼前に突きつけた。一体何をすっとぼけているのか。彼女の手にある小さなそれは花を模したシンボルで、随分最近これと同じマークを嫌というほど記憶に焼き付けていた。
「あのお守りと同じマーク! いつ手に入れたんですか!?」
「ん? あー……そういえばそれ、何処で見つけたんだっけ」
「覚えて無いんですか!?」
「そう言われてもね。どっかで拾ったんだと思ったんだけど……あ! そうそう! 確か千理が初めて霊研に来た日に怪異に連れ去られただろう? あの怪異が持ってたんだよ」
「ええ? あの子供が? ……じゃああの怪異も、あの男の仲間だったってことですか。よくよく思い出してみると誰かから力を借りたとか言ってましたし」
可愛らしい容姿の割にとんでもなく残酷なことをしていた子供。彼も確か『人間を減らさなければ』と口にしていた。つまり、彼もやつらの仲間だった可能性が高いのだ。
千理はじっと手に持つバッジを観察した。これはきっと彼らのシンボルマークなのだろう。花びらが細かく多い花の模様……そういえばシオンの花はそんな特徴をしていたと思い出した。
「……」
手の中にあるバッジ、そして例の赤いお守り。どちらもこのマークが刻まれている。しかし千理がこれを初めて見たのはどちらの時でもない。
「櫟さん。私、これと同じものを持っている人を知ってます」
「なんだって? じゃあその人もやつらの……」
「あの人は人間なので違います。それに本人はこれが何なのか分からず調べようとしてました。同じものを見つけたら知らせて欲しいって」
「……その人、誰なのか聞いてもいいかな」
「警視庁捜査一課の若葉刑事です。櫟さんも一度は会ったことがあるはずですよ」
若葉が霊研に来た時は櫟が不在だったが、その前に確実に出会っている。何せ彼は千理達と櫟が初めて顔を合わせたあの殺人事件を担当していたのだから。
そう言ってみたものの、櫟は難しい顔のまま考え込んだ。
「……駄目だ、何も覚えてない。あの時は君達の方ばかり気にしていたから」
「幽体離脱ってそんなレアなんですか?」
「そういう訳じゃないけど……で、その刑事とは連絡取れる?」
「はい。あの、若葉刑事に伝えちゃっても大丈夫ですか?」
「それは実際に見てから判断しよう。彼がそれを持っている理由も知りたいしね。悪いけど会えないか聞いてくれないかな」
「分かりました」
千理はまだ一度も使ったことの無い連絡先を呼び出して電話を掛けた。繋がるかと懸念するよりも早くワンコールで呼び出し音は途切れ「何の用だ伊野神千理!」といつも通りの敵意に満ちた声が聞こえてくる。電話越しだと余計にうるさいなこの人。
□ □ □ □ □ □
「あのバッジと同じ物を見つけたとは本当か!?」
「うわー、元気いいねこの人」
電話から三十分もしないうちに若葉が霊研に飛び込んで来た。そんな彼を櫟は感心するような声で迎えつつ、その目はじっと彼を観察するように細められる。
その視線に気付いた若葉は反射的に櫟を見たが……彼もまたじろじろと櫟のことを観察した。
「この男、何処かで」
「あの、若葉刑事?」
「……思い出した。あんたは確か榧木――」
「僕の名前は櫟だよ。間違えないでくれるかな」
千理は聞き慣れない名前に首を傾げた。若葉は納得したように頷いているものの、櫟は即座に否定していつもよりも冷たい態度で切り捨てている。
あの事件で顔を会わせているという事は、当然身元だって知られているはずだ。つまり榧木という名前は櫟の本名ということに――。
「いやいや千理、僕は櫟だから」
「あんたは何を言っている。俺は伊野神千理を見返す為にあの事件は嫌というほど捜査資料を読み込んだ。あんたはあの事件の時に同じ店に居た男だろう。免許証も確認したし、確かに貴様は榧木という名で」
「あーはいはい分かった分かった! 確かにそんな名前もあったかもしれない。けど今の僕は霊研の所長の櫟だ。他に名前なんて無いよ」
「櫟? どういうことだ伊野神千理?」
「私も初耳なんで聞かれても困るんですけど……」
以前頑なに免許証を見せなかった時点で櫟という名前は本名ではないだろうなと推測していたがやはりそうなのか。しかしどうして本名を隠しているのか千理だって知らない。これが或真なら何か設定でも付けているのかと思うだけだが。
櫟の言葉を待つように彼を窺うと、櫟は非常に面倒臭そうな顔で「よりにもよって厄介な子が来ちゃったなあ」と溜め息を吐いていた。
「いやもう僕の名前の話はどうでもいいんだ。さっさと本題に入ろう。若葉刑事だっけ? このバッジに関してだけど」
「……そうだな。そちらの方が重要だ」
若葉は櫟がもつバッジを食い入るように見つめた。やはり、どう見ても自分が持つものとうり二つに見える。
「これを何処で見つけた」
「その前にこちらが聞きたい。君もこれを持ってるんだってね。どうしてこれを持っているのか。そして何のために調べているのか教えてもらえるかな。それを聞かない以上僕たちから話せることは無いよ」
「……なぜ」
「質問は受け付けない」
有無を言わせない言葉に若葉は迷うように視線を彷徨わせた。内ポケットの中のバッジを取り出し、暫しの間考える。
が、すぐに結論は出た。十年以上答えを探しているのだ、この機会を無碍にすることなんて彼には出来なかった。
「これは、俺の父親が持っていたものだ」
「父親?」
「ああ。幼い頃、あいつはこれだけを残して失踪した。当時父親は何かの宗教だかセミナーか何かに嵌まっていたみたいで、恐らくこれがそのシンボルなんだろうと思っている」
「宗教、ですか。それはどんな」
「分からない。……ただ、昔は優しかったのに、その宗教にのめり込んで行くうちにあいつはどんどん豹変していった。俺は父親の行方を追うことと、そしてやつが変えられた元凶をぶち壊す為にこのバッジについて調べていた」
優しかった人間を変えて、失踪させた宗教。当時の状況が詳しく分からない以上本当にその宗教が父親を変えたかどうかは分からないが、もしそれが事実なら彼の父親はお守りを渡された人間同様に陥れられた可能性がある。
人間を洗脳していいように使う為に。……あの悍ましい人間達の塊だって、その宗教の信者を使ったのではないかと嫌な予想が頭を掠めた。
「質問には答えた。次は貴様らの番だ。一体何を知っている?」
「……」
「櫟さん?」
「これは、とある怪異が持っていたものだよ」
「は? 怪異??」
真剣な顔をしていた若葉が、拍子抜けしたようにぽかんと口を開いた。
「そして今現在、人間を殺し尽くすなどと言った危険思想を持った妖怪……人外達がこのシンボルを用いているようだね」
「ふざけているのか貴様! 怪異? 妖怪? 本当にそんなものがいるとでも――」
怒鳴りかけた若葉の声が中途半端に途切れた。否定したい気持ちが、あのキャンプ場で見た化け物を思い出して急激に萎んでいった。あんなものがこの世に存在するのなら。
「……本当、なのか」
信じたくない気持ちを否定するように、千理が無慈悲に首を縦に振った。
「はい。若葉刑事も最近複数の学生が不審な死に方をしているって話は聞きませんか?」
「知っている。だが何故か捜査本部も立てられず、捜査は別の部署が担当すると」
「あの犯人がそのシンボルを付けたお守りを使って裏から手を引いていたんです。私の兄も殺され掛けました」
「……なんだと」
若葉は愕然とした表情で黙り込んだ。手の中のバッジを見つめ、それを握りしめ……そしてどこか危うい動きでふらりと立ち上がった。
「すまない、用事を思い出した。今日は帰らせてもらう。……情報提供、感謝する」
顔色を悪くしたままそう言って、千里達の言葉も聞かずに霊研を出て行く。あからさまにショックを受けた様子の彼の背中を、千理は心配になって入り口の外まで見送った。
無事に車に乗り込んだのを確認して戻ると、櫟は櫟で考え込むように口元に手をやって俯いている。
「若葉刑事、大丈夫ですかね。かなりショックを受けてましたけど」
「さてね。あれが演技だったら彼は随分な役者だが」
「は?」
「忙しい調査室には悪いが早急に彼の父親について調べてもらわなくてはね。それに彼自身にも監視を付けてもらうよう言って――」
「いやちょっと待って下さい。どういうことですか?」
「勿論彼が、そしてその父親がやつらの仲間か否かって話だけど」
「は??」
至極当然のような顔をしてそう言った櫟に千理は困惑が隠せなかった。何故か今、櫟と千理の思考には大きな食い違いが生じている。
「何言ってるんですか? 若葉刑事が向こうの仲間な訳ないじゃないですか。だってあの人は普通の人間ですよ。人間を減らそうとしているやつらが仲間にする訳がない」
「やっぱり気付いてないなとは思ったけど……千理、少なくとも彼は“普通”の人間ではありえないよ」
「普通の人間じゃ……え、嘘、もしかして」
「100%人外そのものでは無いだろう。しかし何らかの血が混じっているのは確かだ」
千理は櫟の顔を凝視した。勿論冗談を言っている空気は微塵も感じない。だが、しかしそう考えると可笑しなことになる。
「でも若葉刑事、今でこそ幽霊が見えるようになったり或真さんの怪物を見て色々と悟ってますけど、ほんのちょっと前までは霊研を霊感商法の詐欺師扱いしてたんですよ? 妖怪どころか幽霊も信じてなかったのに、そんなことありえるんですか」
「それが演技では無かったとしたら、きっと彼自身にも自覚が無いんだろうね」
「……本当に、確かなんですか?」
「うーん、あまり他人に言っていい話じゃないんだけどね。だって彼――」
「……寿命、あと百五十年あるよ」
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「怪異……妖怪」
少し前ならばバカにするどころか怒っていたはずの数々の言葉も、今の若葉には何も言うことは出来ない。
信号待ちで彼はポケットの中のバッジに触れた。霊研の言うことが本当ならば、このバッジを持ち、それを若葉に託した父親は。
『お前は出来損ないではあるが、それでも俺と同じだ。今はまだ分からずとも、お前にもいずれ分かることだろう』
「……俺は、あいつとは違う」
頭に過ぎった父親の声を掻き消そうと呟いた声は、想像以上に弱々しいものだ。
「違う、違う違う違うっ! 俺は……」
その瞬間、ハンドルを持つ手の中でピシリと音が鳴った。慌てて手を放せば、握りしめていたハンドルの部分が凹んでおりヒビが走っている。
昔から力が強かった。握力計も壊したことがあるし、小学生の頃など苛立つとしょっちゅう鉛筆を折っていた。だが本当にただ力が強いだけだと、そう思っていた。父親ゆずりで、たまたまそうなのだと思い込んでいたのだ。
そう、幼い頃の記憶だがあの男もとんでもなく力があったことを思い出した。
「俺は……」
ぱら、と手の中にあったハンドルの破片が膝に落ちた。
「本当に……人間か?」




